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あの世に聞いた、この世の仕組み
正語
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
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( ̄д ̄ ) 『さて、次の項目に移りましょう。』
( ゜ ー゜) 「次は?」
( ̄д ̄ ) 『では、「正語(しょうご)」にしますか。』
( ゜ ゝ゜) 「これはたしか“正しく語る”でしたよね。」
( ̄д ̄ ) 『はい。そのとおりです。』
( ゜ ∀゜) 「これはわかりやすそうだね。“嘘をつかない”とか、“汚い言葉を使わない”とか、そういう“正しい言葉使い”ということでしょ?」
( ̄д ̄ ) 『まぁ、それもそうなのですが、それだとやっぱり「やり方(Do)」の解釈に近いですよね。この「正語」も、もっと「あり方(Be)」を重視して捉えて欲しいんです。』
( ゜ ω゜) 「正しく語る、という“あり方”…。」
( ̄д ̄ ) 『「正語」の意味は確かに「正しく語る」なのですが、これも、何をもって「正しい」とするかが問題となりますよね。』
(;゜ д゜) 「んー…。“真実”や“正論”を述べるということでしょうか。」
( ̄д ̄ ) 『うん。それもそうなんですけど…。例えそれが事実だとしても、「正論」は、時に相手を傷つけたり、追い込んでしまったりしますよね。』
(;゜ ー゜) 「ええ、ありますね、そういうこと…。」
(;゜ ゝ゜) 「自分が正しいと思っている時ほど、自分の主張をまくし立ててしまうかも…。」
( ̄д ̄ ) 『ですから、「話す内容が事実に沿っていれば良い」というだけでは、必ずしもお互いが幸せになれるとは言えないんです。』
Σ( ゜ ∀゜) 「あ!そこか! “お互いが幸せに…”ということが大事なんだ。」
( ̄д ̄ ) 『そういうことです。』
( ゜ ω゜) 「自分も、周りも、みんなが幸せになれる言葉づかいか。」
( ̄д ̄ ) 『「言葉」は、争うためにも、調和をとるためにも使うこともできます。人を悲しませるためにも、楽しませるためにも使えます。どうせなら、平和や調和のために使う方が良いに決まってるじゃないですか。』
( ゜ д゜) 「言葉はどのようにでも使える。だからこそ、扱う人間の“あり方”次第で、発せられる言葉に違いが表れる。うん。ほんとにその通りだ。」
( ̄д ̄ ) 『怒っている時などは特に、相手を傷つける言葉を次々と発してしまいます。「私が正しいのだ」と、言葉巧みに相手を追い込みます。ズバズバと相手が傷つく言葉を並べ立て、「あー、スッキリした。これで相手も気づいただろう」なんて思うのは勘違いも甚だしい。それだけ汚い言葉が出てくるということは、「自分が汚い」ということを露呈していることと同じです。その言葉の源が自分なのですから。「これで相手も気づいただろう」ではなく、汚い言葉が生まれてくる、自分の心の汚さに気づくべきです。相手を言い負かし、相手が悲しむ姿を見て喜ぶ自分の心の汚さに気づくべきです。』
(;゜ ー゜) 「そう言われると、確かにそうだ…。」
(;゜ ゝ゜) 「正語、思いの外難しいね…。かなり気をつけて話すようにしないと…。」
( ̄д ̄ ) 『というより、みんな気にしな過ぎなんですよ。言葉づかいに対して無頓着過ぎる。』
(;゜ ∀゜) 「うかつにしゃべれないな…。今の話を聞いた後では、何をしゃべっても自分の汚さが見えてきそうだ…。」
(;゜ ω゜) 「もう、いっそ誰とも話さなきゃいいんじゃない?」
( ̄д ̄ ) 『いえ、自分の思いを仕舞い込んで、コミュニケーションを断絶してしまうのはよろしくありません。人とのコミュニケーション、特に「会話」は、「アハ!体験」に重要な関わりがあるんです。』
←「押してください。」「いいから押せよバカ!」「押してみる?」「いつもありがとう。」etc.… 言葉選び一つで、僕への印象が大きく変わります。
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( ̄д ̄ ) 『さて、次の項目に移りましょう。』
( ゜ ー゜) 「次は?」
( ̄д ̄ ) 『では、「正語(しょうご)」にしますか。』
( ゜ ゝ゜) 「これはたしか“正しく語る”でしたよね。」
( ̄д ̄ ) 『はい。そのとおりです。』
( ゜ ∀゜) 「これはわかりやすそうだね。“嘘をつかない”とか、“汚い言葉を使わない”とか、そういう“正しい言葉使い”ということでしょ?」
( ̄д ̄ ) 『まぁ、それもそうなのですが、それだとやっぱり「やり方(Do)」の解釈に近いですよね。この「正語」も、もっと「あり方(Be)」を重視して捉えて欲しいんです。』
( ゜ ω゜) 「正しく語る、という“あり方”…。」
( ̄д ̄ ) 『「正語」の意味は確かに「正しく語る」なのですが、これも、何をもって「正しい」とするかが問題となりますよね。』
(;゜ д゜) 「んー…。“真実”や“正論”を述べるということでしょうか。」
( ̄д ̄ ) 『うん。それもそうなんですけど…。例えそれが事実だとしても、「正論」は、時に相手を傷つけたり、追い込んでしまったりしますよね。』
(;゜ ー゜) 「ええ、ありますね、そういうこと…。」
(;゜ ゝ゜) 「自分が正しいと思っている時ほど、自分の主張をまくし立ててしまうかも…。」
( ̄д ̄ ) 『ですから、「話す内容が事実に沿っていれば良い」というだけでは、必ずしもお互いが幸せになれるとは言えないんです。』
Σ( ゜ ∀゜) 「あ!そこか! “お互いが幸せに…”ということが大事なんだ。」
( ̄д ̄ ) 『そういうことです。』
( ゜ ω゜) 「自分も、周りも、みんなが幸せになれる言葉づかいか。」
( ̄д ̄ ) 『「言葉」は、争うためにも、調和をとるためにも使うこともできます。人を悲しませるためにも、楽しませるためにも使えます。どうせなら、平和や調和のために使う方が良いに決まってるじゃないですか。』
( ゜ д゜) 「言葉はどのようにでも使える。だからこそ、扱う人間の“あり方”次第で、発せられる言葉に違いが表れる。うん。ほんとにその通りだ。」
( ̄д ̄ ) 『怒っている時などは特に、相手を傷つける言葉を次々と発してしまいます。「私が正しいのだ」と、言葉巧みに相手を追い込みます。ズバズバと相手が傷つく言葉を並べ立て、「あー、スッキリした。これで相手も気づいただろう」なんて思うのは勘違いも甚だしい。それだけ汚い言葉が出てくるということは、「自分が汚い」ということを露呈していることと同じです。その言葉の源が自分なのですから。「これで相手も気づいただろう」ではなく、汚い言葉が生まれてくる、自分の心の汚さに気づくべきです。相手を言い負かし、相手が悲しむ姿を見て喜ぶ自分の心の汚さに気づくべきです。』
(;゜ ー゜) 「そう言われると、確かにそうだ…。」
(;゜ ゝ゜) 「正語、思いの外難しいね…。かなり気をつけて話すようにしないと…。」
( ̄д ̄ ) 『というより、みんな気にしな過ぎなんですよ。言葉づかいに対して無頓着過ぎる。』
(;゜ ∀゜) 「うかつにしゃべれないな…。今の話を聞いた後では、何をしゃべっても自分の汚さが見えてきそうだ…。」
(;゜ ω゜) 「もう、いっそ誰とも話さなきゃいいんじゃない?」
( ̄д ̄ ) 『いえ、自分の思いを仕舞い込んで、コミュニケーションを断絶してしまうのはよろしくありません。人とのコミュニケーション、特に「会話」は、「アハ!体験」に重要な関わりがあるんです。』

コメント ( 12 ) | Trackback ( )
« 正思惟 | 編集中 » |
て聞いたことある
言葉一つで
暗い気持の人を救うこともできるし
元気な人を悲しみのどん底に突き落とすことも
外面は結構いいんだけど
家の中では主人や娘を傷つけてるかも。。。
一生懸命だからなんだけど。。。
冷静さに欠けてるからかな。。。
コクサイさん
言葉ゎ強力なエネルギーです
気を付けます!!
言葉に出さなくても心に思っちゃうのもダメですょね…
難しいです(泣)
相手が傷つかないように、不快にならないように気を配るのは至極当然だと思うんですがね。
罵詈雑言は聞くに堪えません。
自分の場合、家族や親戚がとてもまともな人間性をしていた人達ばかりだったので、倫理感や道徳感のおかしな人達には辟易としています。
意外と、そういう人が多くてね(苦笑
「慇懃無礼(いんぎん‐ぶれい)」や「御為ごかし(おためごかし)」ってのもあるから。
良い心でいれば、汚い言葉は出てこないもんですわ。
で、あまり記事とは関係無いけど、こんなんがあったからコピペ。
↓
ブッダているじゃん、ブッダ。仏教の開祖な。
でさ、仏教の開祖だけあって色々な逸話がのこってるじゃん。
その中に少量のゴマだけで何日も断食してすごして悟りをひらいたって話があるんだよ。
中庸っていうやつなんだけどさ。いったいどんな事だと思う?
何事もやりすぎはよくないだってwwwww
ちょwwおまwwwww過激なダイエットでリバウンドくらった女かよwwwwww
それに誰か止めろよ「それはやりすぎです」ってwwwww腹八分目に医者いらずなんて諺もあるだろ?
「そんな食事でよくブッダおれなかったですね」だってやかましいわ!
キツイ表情キツイ言葉キツイ声でね、スパ!!と相手に突き刺しました。
相手の表情は苦痛に歪みました。
血は出ません。
でも涙が出ました。
悲しかったですね。
でもどこにでもある悲しい風景なんです。
「ついイライラして」
「ついムカっとして」
その「つい」が、時として自分の大切な人を刃で刺している事に気がついて欲しいなと思います。
ちょっと切ないコメントになってしまいました
涙と傷付いた心が伝わってきます…
子供の頃に受けた言葉って、大人になってからも人生を左右させる大きな力があります。当時、中学の美術の先生から私の作品を見て「天才」と言われ、三年後…その後の将来の道を決める決め手となりました。
美術の腕前は学校の中では人並み以上ではありましたが、他の勉強が全くダメで、クラスで最下位を争うほどでした。だけど、大げさで表現豊かな美術の先生から言われたたった一度の言葉が今でも私の心のコアにあります。そして自信を貰っています。
私は天才なんだ!
「嘘ついてない。本当のことだから」
そうなんだけど・・・・
と、いつも思っていました。
そうなんだけど、悲しい、傷つく、気持ちが萎える、切ない・・・
義母に反論できない自分が、悔しい・情けないと思っていましたが、よかった!
反論していたら、自分も、自分を貶めていたかも。
他人の不幸の上に、自分の幸福はない~のですよね。
最近(?)のコクサイさん、素晴しい!
有難う御座います。
ずーっと自分が中心でこうありたい自分を目指しているっていうのがあったんだけど、相手にとって自分はどうあるべきか?と考える事が増えてます。
何でも言う事を聞くとかではなく、この事を伝えたいんだけど、その人にとってどう在ればよいだろうと思う。
それでも怒ったり、落ち込んだりと感情に振り回されてもいるんですがねぇ~
知らない間に相手を傷つけてばかりだったように思います。
だからこそ、長いスタンスで取り組んでいくテーマになりそうです。
チャカチャカチャンチャンチャン♪
怒りに燃える人の前ですらあなたが静かにたたえる湖面のような不動の在り方、言葉であるなら、
あなたが怒りの言葉を買わないことを選んだら、
今度は怒れる人が良きお客様になってくれるかもしれません!
商品は豊富に取り揃えておりますです。あなたにオススメするのは…
そこから派生して2chで新ネタが作られたんですよ。
「パンダP」で検索すると、他にも色々出てきますわ。