いまさらながらの原点回帰
あの世に聞いた、この世の仕組み
マトリックス.9
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
********************************************
【chapter.11/ネブカドネザル号のメンバー】
「ようこそ。現実の世界へ。」
ザイオンまでの地底を進む老朽船「ネブカドネザル号」で目を覚ましたネオ。
この「ネブカドネザル号」は、旧約聖書に登場する「ネブカドネザル2世」という人物から名付けられたものだと思います。
ネブカドネザル2世は、エルサレムにあったユダヤ教の寺院を略奪、破壊した新バビロニアの王。
なぜこの船に彼の名が付けられているのか、その理由は僕には紐解けませんでした。
どなたか、旧約聖書に詳しく「ダニエル書」とこの映画との関連性に気付いた方がいらっしゃいましたら、ご教示願います。
…
ベッドの上で目覚めたネオは、自分の身に何が起こったのか、まだよく理解できていません。
「俺は死んだのか?」
「いや、その反対。“新しい誕生”だ。」
アンダーソン改め「ネオ」。まさに「新」を意味する言葉ですよね。^^
これは、一度“目覚め”を体験すると、その意味がハッキリとわかります。
本当に「新たに生まれてきた」というニュアンスがしっくりくるんです。
それゆえ、この前のチャプターは「出産」を想起させる演出で描かれていました。
そして、続くこのセリフ。
ベッドの上で治療を受けているネオ。
「何をしている?」
「退化した筋肉の再生だ。」
「目が痛い。」
「初めて使うからな。」
“目覚め”を経験すると不思議な感覚が訪れます。
自分はこれまで確実に「生きていた」はずなのですが、実は全然「生きていなかった」ということに気付くんです。
僕も、齢30を過ぎて初めて「生きる」という事を実感しました。
視覚だけに留まらず、聴覚、嗅覚、味覚、触覚…そして、それらを超えて広がる壮大な世界との一体感。その全てが研ぎ澄まされ、圧倒的な『生命力』に驚愕するんです。
「生きるとは、こういうことだったのか!! “見る”とは、“触れる”とは、“感じる”とは、こういうことだったのか!!」
見ることも、聞くことも、味わうことも、ずーっと「感じているつもりでいただけ」だったことに気付くんです。
自分の中に秘められていたその機能が100%発揮された状態。それはまさに、自分に備わっている感覚器を「初めて使う」感覚です。
体中を駆けめぐる血流の音がありありと聞こえ、内臓の様子まで手に取るように“見える”という不思議な状態。
自分の中に流れる『生命力』を通して、喜びや安堵が、自分の奥底からあふれ出してきます。
さて、映画のストーリーへと戻りましょう。
目を覚ましたネオの前に見えるのは、先ほどとは全く異なったクルー達の姿。
あれほどスタイリッシュな衣服をまとっていたはずのモーフィアスも、トリニティも、その他のクルー達もみんな、質素で飾り気のない姿になっているのです。
そう。
マトリックス(幻想世界)は、自分を「着飾る」ことで作り上げられる「後付けの個性」が重要視されている世界です。
その世界では、男は男らしく、女は女らしく、子供は子供らしく、老人は老人らしく、社長は社長らしく、学生は学生らしく、賢者は賢者らしく、主婦は主婦らしく…と、その境遇・肩書きに相応しい姿を強く求められます。
アナタもきっとこれまで「お兄ちゃんなんだから、もっと逞しく。」とか、「女の子なんだから、もっと慎ましく。」、「社会人なんだから、もっと常識的に。」、「学生なんだから、もっと真面目に。」…などのように事あるごとに“その役割・肩書きに相応しいイメージ”を要求されてきたことと思います。
その世界にどっぷり嵌り込んでしまうと、今度は「もっと私らしく」と、自らの手で「個性(自我の作り出す自己イメージ)の後付け」をすることになってしまいます。
その人の「ありのまま」に根付いた姿ではなく、「役柄」に対しての佇まいが要求されている世界。
マトリックスに繋がれた者達は、その人の「ありのままの姿(本質)」ではなく、肩書き・役割に見合った「イメージ(幻想)」を見ているんです。
マトリックス(固定概念・先入観など、思考によって作り上げられた価値観)の呪縛から解き放たれた者達は、着飾ることもなく、自分を演じることもなく、何者でもない、ありのままの姿で向かい合うことが可能になります。
ヾ(≧▽≦)ノ あ~。「何者か」を演じずに、「ありのまま」で生きるって、なんて楽なんだろう♪
しかしながら、そんな「何者かを演じない生き方」は、マトリックス内では「奇異」の眼差しを向けられ“エージェント”に狙われる羽目になってしまいます。
ヾ(;▽;)ノ あ~。「何者か」を演じずに、「ありのまま」で生きるって、なんて大変なんだろう♪
←「読者は読者らしく。」なんて押しつけはいたしません。
********************************************
【chapter.11/ネブカドネザル号のメンバー】
「ようこそ。現実の世界へ。」
ザイオンまでの地底を進む老朽船「ネブカドネザル号」で目を覚ましたネオ。
この「ネブカドネザル号」は、旧約聖書に登場する「ネブカドネザル2世」という人物から名付けられたものだと思います。
ネブカドネザル2世は、エルサレムにあったユダヤ教の寺院を略奪、破壊した新バビロニアの王。
なぜこの船に彼の名が付けられているのか、その理由は僕には紐解けませんでした。
どなたか、旧約聖書に詳しく「ダニエル書」とこの映画との関連性に気付いた方がいらっしゃいましたら、ご教示願います。
…
ベッドの上で目覚めたネオは、自分の身に何が起こったのか、まだよく理解できていません。
「俺は死んだのか?」
「いや、その反対。“新しい誕生”だ。」
アンダーソン改め「ネオ」。まさに「新」を意味する言葉ですよね。^^
これは、一度“目覚め”を体験すると、その意味がハッキリとわかります。
本当に「新たに生まれてきた」というニュアンスがしっくりくるんです。
それゆえ、この前のチャプターは「出産」を想起させる演出で描かれていました。
そして、続くこのセリフ。
ベッドの上で治療を受けているネオ。
「何をしている?」
「退化した筋肉の再生だ。」
「目が痛い。」
「初めて使うからな。」
“目覚め”を経験すると不思議な感覚が訪れます。
自分はこれまで確実に「生きていた」はずなのですが、実は全然「生きていなかった」ということに気付くんです。
僕も、齢30を過ぎて初めて「生きる」という事を実感しました。
視覚だけに留まらず、聴覚、嗅覚、味覚、触覚…そして、それらを超えて広がる壮大な世界との一体感。その全てが研ぎ澄まされ、圧倒的な『生命力』に驚愕するんです。
「生きるとは、こういうことだったのか!! “見る”とは、“触れる”とは、“感じる”とは、こういうことだったのか!!」
見ることも、聞くことも、味わうことも、ずーっと「感じているつもりでいただけ」だったことに気付くんです。
自分の中に秘められていたその機能が100%発揮された状態。それはまさに、自分に備わっている感覚器を「初めて使う」感覚です。
体中を駆けめぐる血流の音がありありと聞こえ、内臓の様子まで手に取るように“見える”という不思議な状態。
自分の中に流れる『生命力』を通して、喜びや安堵が、自分の奥底からあふれ出してきます。
さて、映画のストーリーへと戻りましょう。
目を覚ましたネオの前に見えるのは、先ほどとは全く異なったクルー達の姿。
あれほどスタイリッシュな衣服をまとっていたはずのモーフィアスも、トリニティも、その他のクルー達もみんな、質素で飾り気のない姿になっているのです。
そう。
マトリックス(幻想世界)は、自分を「着飾る」ことで作り上げられる「後付けの個性」が重要視されている世界です。
その世界では、男は男らしく、女は女らしく、子供は子供らしく、老人は老人らしく、社長は社長らしく、学生は学生らしく、賢者は賢者らしく、主婦は主婦らしく…と、その境遇・肩書きに相応しい姿を強く求められます。
アナタもきっとこれまで「お兄ちゃんなんだから、もっと逞しく。」とか、「女の子なんだから、もっと慎ましく。」、「社会人なんだから、もっと常識的に。」、「学生なんだから、もっと真面目に。」…などのように事あるごとに“その役割・肩書きに相応しいイメージ”を要求されてきたことと思います。
その世界にどっぷり嵌り込んでしまうと、今度は「もっと私らしく」と、自らの手で「個性(自我の作り出す自己イメージ)の後付け」をすることになってしまいます。
その人の「ありのまま」に根付いた姿ではなく、「役柄」に対しての佇まいが要求されている世界。
マトリックスに繋がれた者達は、その人の「ありのままの姿(本質)」ではなく、肩書き・役割に見合った「イメージ(幻想)」を見ているんです。
マトリックス(固定概念・先入観など、思考によって作り上げられた価値観)の呪縛から解き放たれた者達は、着飾ることもなく、自分を演じることもなく、何者でもない、ありのままの姿で向かい合うことが可能になります。
ヾ(≧▽≦)ノ あ~。「何者か」を演じずに、「ありのまま」で生きるって、なんて楽なんだろう♪
しかしながら、そんな「何者かを演じない生き方」は、マトリックス内では「奇異」の眼差しを向けられ“エージェント”に狙われる羽目になってしまいます。
ヾ(;▽;)ノ あ~。「何者か」を演じずに、「ありのまま」で生きるって、なんて大変なんだろう♪
←「読者は読者らしく。」なんて押しつけはいたしません。
コメント ( 12 ) | Trackback ( )
« イベントのお... | マトリックス.10 » |
久しぶりにまたDVD借りてこようかな(笑)
読むたび覚醒ってすごいなぁ、いいなあ、と思う。
目覚めたい……目覚めたいぞォー!
覚醒してる時は様々なものに反応して、その反応は大人でもなんとなく理解できるものなのだけど、
寝起きと寝入る前のぐずりはなんでぐずるのかさっぱりわからなかったです。
起きてる時の生活と寝ているときの夢の世界と
どちらに自分が属しているのかわからないからぐずるのか、
起きたくない、成長したくないからなのか、
自分が大人のようでないからなのか、
赤ん坊をつぶさに観察したくなったです。
自分が赤ん坊のころの記憶はもうないので。。。
今想うと私が私自身を評価してみて
今やっと生まれ変わって人間に成れたという
感じです。
自分探しを通過する前の自分を
「とても人間だったとは思えません。」
弱肉強食と競争原理に清潔信仰
恐怖支配や真逆さまの損得勘定。
まさに、動物以下の生き物でした。
一度死んだつもりで自他共に全てを
赦し切り、全ての敵に感謝出来る思考を
模索し、偶然などなど無い事を体感し、
それから20年以上経つ今、やっと
そこそこ人間らしい考え方が出来だした
ところです。
「人生を遊び切って迎える死」を目指し
無理をせず笑顔で、ほんのり額に汗する位に
ガンバって生きたいと想ってる今日この頃です。
イオンさん→黒斎さん→阿部さんのブログ巡りが日課になっています♪
瞑想のようなことをしていたら☆ピン!ときたのです
私がブログやオンラインゲーム上にもってる複数のアバターはどれも「私」の分身だけど私ではなくて
暇つぶしに私が望んで作りだしたものだからアバターの性格や服装などの設定は「産まれるときから決まっていた」というか「それを選んだのは私」である
けれど、それは限られた範囲の中だけの自分で「私全て」なわけではない
複数あるアバター全部がこれも私。あれも私。私はあなたで、あなたも私。
恐れ多いけど、この私が神でアバターを私達一人一人って置き換えたら!?
なんだそういう事かも!!
と思ったのですが、体感が伴わないというか、あと一歩な気がするんです
アバターは電源を抜けばなくなるけれど、私がいなくなるわけではない
バーチャルな世界(望まれて生まれてきた世界)にいることに気付いたアバター(umiumi私)はどうしたらいいんだろう
ただ神の思し召すまま、みんなに幸せを与えられるように生きていけばいいのかな…なんて考える余地があるようでは本当に得られたわけではないんだろうな
まとまりのないことを長々とごめんなさい
マトリックスもう一度見直してみます!何か感じられるといいなo(^-^)o
。。。。。
まだ現在形です
「感じているつもりでいただけ」になりたい
圧倒的な生命力
生きるってこういうこと。。。って感覚
死ぬ前に味わえるかな
現在形×
自分であって自分でないもの。
飾ってみたり語ってみたり。
だから逆のほうから見て、飾ったり語ってない自分、て何?と思ったら、
あれ、自分っていないんじゃないの?
個性個性ともてはやされるけど、個性ってある意味「存在の理由付け」じゃないの?
何かあったときに処置するパターンがいくつかあって、それの選択しだいで「個性」が作られていくなら、「個性」って単なる反応の事なのかもなあ…と思えてきた昨今。
ブログの語尾にハートつける、それがその人の個性。
個性はハートか。文面が個性か。
ブログ初期に、別アカウントでいくつか掛け持ったら出てきた疑問です。
もとの自分が宇宙と同じなら、そのアカウントは全てひとつの「我」として動いているんだろうなと思いまいた。
わけわからない&長い書き込みすんません。
そう、マトリックス全編見てて思うのは目覚めた人々が全然楽しそうじゃない…ってことで
え、え、どうなの?気持ち良くないの?と思ってしまうw
というところで黒斎さんの圧倒的な体験談…
さてもう一度ニュー・アースを読んでこよう…