長田家の明石便り

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N.T.ライトによるローマ書における律法理解(第3回)

2018-02-01 19:34:48 | 神学

9.まとめ

ここまで、ライトのローマ書注解書の内容を辿りながら、律法に関するライトのかなり複雑な議論を見てきました。これらについて、要約的なことを語るのは困難なことですが、1~3で見たことも含め、以下のようなことは言えるのではないでしょうか。

(1)基本的に言えること

ライトのローマ書におけるノモス理解において、基本的にまず言えることは以下の二点です。

a.ノモスは一貫してユダヤ人律法、トーラーとして示している。

2.で見たように、ライトはダンと同様、ノモスを一貫してユダヤ人律法、トーラーと理解します。このことは、特に、3:27、7:21、23、8:2等、一般的な「法則」として訳されることも多い箇所についてのライトの注解を見ると、その一貫性が明らかです。

b.全般的にトーラーを「契約」テーマとの関わりで理解しようとする。

これは、1.や3.でも見たことですが、ライトはパウロのトーラー理解を特に「契約」テーマとの関わりの中で理解し、位置づけようとする姿勢が強くあります。但し、トーラーが契約とどう関わるかについては、序論での要約的扱いにおいても5つのポイントが掲げられていますし、以下に見るように、注解本文の中でも様々な論点をもって語られていますので、それほど単純とは言えないようです。

(2)注解書本文に現れるトーラーについての論点

以下、注解書本文において現われるトーラーについての論点を挙げます。論点自体はできるだけ細かい論点も含めるようにしながら、論点の提示はライトの趣旨をゆがめない範囲でできるだけ要約的にするようにしたいと思います。そして、ライトは、同じ論点が繰り返し登場したり、各論点が相互に関連し合っていることを度々示唆していますので、そういった点についてはできるだけ各論点の解説部分で触れるようにしたいと思います。概ね、各論点が現れる聖書個所の順に挙げていきます。

論点1:トーラーの所持が神の判決において優越をもたらさず、ユダヤ人においてはトーラーがむしろ罪を指摘することが指摘される。

この論点は、1:18-3:20、特に、2:12、13、17-24、3:20についての議論に現われる論点です。その後、4:15にも現れます。

論点2:ユダヤ人でないのに律法が要求することをなす人々がいる。(彼らは異邦人クリスチャンである。)

この論点は、2:14-15に現れます。また、この論点は、2:29でも現われ(論点3参照)、論点12、15を先取りするものだと言われます。

論点3:割礼はトーラーが守られていることを想定したものであって、トーラーが守られていないところではバッジが偽りを語っている。(逆に新しい契約の民が新しい心を持ち、トーラーを守るなら、割礼にもかかわらずトーラーを破る者の契約的メンバーシップの非妥当性を明らかにする。)

この論点は、2:25-29に現れます。後半の論点は、3:27-31、8:1-11、10:1-13も参照箇所として示されますので、論点7、12、15との関連性が示唆されていると言えます。

論点4:トーラーの行いは、神の契約の民であることを示すしるしであるという考えに対して、パウロはこれを否定する。

この論点は、3:20及び3:28において現われます。ただ、3:20のトーラーについての議論の中には、上記の論点1も現われており、両方の論点が混じり合っている形です。

論点5:良い知らせの啓示は「トーラーを離れて」起こった。

この論点は、3:21についての議論に現われるものですが、序文でのトーラーについての要約的扱いの中でも、5つのポイントの中の1つとして現われます。そして、この論点には論点1、及び以下の論点6の両方が結び付けられています。

論点6:トーラーは異邦人に対してバリアを立てる。

論点4が、「トーラーの行い」についての論点であったのに対し、この論点は、論点2をトーラー全体に拡大したものと見ることができます。この論点は、3:21で現われ、その後、4:13-15、9:32にも現れます。

論点7:一方では、イスラエルを諸国に対立して定義するものとして見られた律法(行いのトーラー)があり、他方では、真に新しくされた神の民が信仰を通して成就する律法(信仰のトーラー)がある。人は律法の行ないではなく、信仰によって義とされる。しかし、我々は信仰によってトーラーを廃棄するのでなく、トーラーを確立する。

この論点は、3:27-31の中に現れます。トーラーの成就というトピックについては、9:30-10:13が参照箇所として示されます。

論点8:トーラーは罪の問題を悪化させた。(しかし、恵みは更に増し加わった。)今、人がトーラーのもとで生きるなら、罪は人を支配するだろう。(しかし、キリストに属する者は、律法のもとで生きないので、罪に支配されない。)

この論点の前半は5:20に、後半は6:14、7:5-6に現れます。(但し、ライトによれば、5:20はイスラエルの問題を扱い、6:14はキリスト者の問題、7:5-6は再びイスラエルの問題を扱うという違いはあります。)この論点は、論点1から一歩進んだ論点と言えます。

論点9 論点8により、律法は罪と同一かという問いが出されるが、律法は問題の根源でなく、不本意なチャンネルである。問題の根源は罪であって、律法自体は良いものとして肯定される。

この論点は、7:5-6に現れる論点7を起点として、7:7-12に現れます。ライトはここでも、イスラエルの問題としてこれを扱います。

論点10 論点9により、良いものである律法が死の原因となるのかという問いが出されるが、死をもたらすのは律法であるよりもむしろ罪である。

この論点は、7:7-12に現れる論点9を起点として、7:13に現れます。(継続して、イスラエルの問題。)

論点11 それ自体では良いものである律法が、罪に乗っ取られ、その働きの拠点となるとき、「他の律法」と「神の律法」「心の律法」との全面戦争を生み出す。

この論点は、論点9、10との関連で語られる「二重の私」の議論を受け、「二重の律法」の問題として、7:21-25に現れます。

論点12 トーラーは、御霊が与え主となる命の隠れたエージェントである。というのは、トーラーがなし得なかったことを、神は成し遂げられた。神は罪をイエスの肉において罰せられた。その結果、律法の義なる評決、すなわち律法が提示した命は御霊によって導かれるものによって正しく与えられた。

この論点は、論点11との関連で8:2-4に現れます。この論点については、もう少し要約したいところですが、これ以上へたに要約すると、趣旨をゆがめる恐れもあるため、ここではこの程度とします。

論点13 肉の思いは神の律法に従わない。

この論点は、8:7-8の文脈の中で、8:7に現れます。8:7-8は、それ以前の議論の説明とされます。

論点14 イスラエルは義の律法を追い求めて、それに達しなかった。

この論点は、9-11章の文脈の中で、9:31に現われますが、論点11に近いとされます。

論点15 トーラーにおける神の目的は、消極的なものも積極的なものも、メシアにおいてゴールに達し、その結果は、信じるすべての者にとって『義』に接近しうることことである。

この論点は、10:1-13の文脈の中で、10:4において現れます。10:1-13は、メシアにおいて起こった契約の更新をテーマとすることが指摘されます。

論点16 モーセは(レビ18:5によって)『律法を行うこと』と『生きること』とを一緒にした。同時に、モーセは(申命記30章により)そのことが実際には何を意味するか、捕囚と帰還を踏まえての説明を提供した。この約束をメシアにおいて神がついに果たされたという信仰こそ、契約の民であることのバッジである。

この論点は、論点15を受けて、10:5-8において現れます。この論点も、もう少し要約したいところですが、かなり複雑なライトの議論趣旨を損なう恐れもありますので、ここではこの程度とします。

論点17 すべての戒めが愛の戒めに要約されるゆえ、隣人を愛する人々はトーラーを成就する。

この論点は、13:8-10に現れます。この論点には、論点12、15との関わりがあるとされます。

(3)論点群の整理

以上、ローマ書注解においてライトが提示するトーラーに関する論点を、できるだけ細かく挙げてみました。各論点を、注解書本文に戻って確認しようとすれば、そこには、各聖書箇所の釈義的議論や複雑な文脈把握の問題等と絡み合っていることが分かります。ですから、これらの論点を更に簡潔な表現にまとめることは、そう簡単なことではありません。ただ、挙げた各論点については、相互の関係についてライトが示唆するところをできるだけ拾うようにしました。そのような示唆を手掛かりにしながら、これらの論点を、いくつかの大きなグループ(論点群)にまとめることは、ライトの「ローマ書における律法理解」を大きく把握するために有用なことではないかと思います。単純化には、本来の議論趣旨を歪める恐れが常に伴いますが、ここでは多少の単純化を許して頂くとして、以下のような論点群にまとめてみます。

なお、上に挙げた論点はできるだけ細かく挙げたつもりではありますが、各論点の中に更に細かい論点が折り重なっているものがあります。そのような場合、それらの論点においては、その中のある部分が一つの論点群に関わり、別の部分は別の論点群に関わるということが起こり得ます。異なる論点群の中に共通の論点番号が現れるのは、そのためです。

a.トーラーをユダヤ人と異邦人とを区別するものとし、ユダヤ人がトーラーの所有を契約の民のバッジとしようとすることに対して、否定的に扱う論点群(論点4、6。部分的には論点2、7も。)

b.トーラーが罪を指摘し、罪の問題を拡大する機能を持ち、イスラエルを断罪するに至ることについての論点群(論点1、8)

c.良い知らせの啓示は「トーラーを離れて」起こった。(論点5)

d.罪はトーラーを通して問題をもたらすが、トーラー自体が悪いのでなく、むしろ信仰が御霊によってトーラーを成就に至らせる。(論点9~12、15~17。あるいは論点13、14も?論点2、そして部分的には論点3、7もこれらの論点を先取りする。)

なお、論点群c.(論点5)は、論点1及び論点6に結び付けられていますので、論点群a.とb.の両方に関わっていると言えます。

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