長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

ダンによるガラテヤ書の律法理解

2017-09-20 20:16:57 | 神学

NPP(パウロについての新しい視点)をどう評価するのかという課題の中では、パウロの律法理解が中心的な課題の一つとなります。そこで、James.D.G.ダンのローマ書注解におけるノモス(律法)に対する扱いについて、以前まとめましたが、今回は、同じくダンによって、ガラテヤ書における律法をどう理解しているか、まとめてみました。なお、ローマ書では、ノモスを「律法」以外に訳すケースが結構ありますが、ガラテヤ書においては、概ね律法と訳されるようです。

どう評価するかというところまでなかなか行きませんが、どう評価するにしても正確に理解することが必須ですので、評価の土台となる基礎研究というところです。


1.検討した著作物


私の英語力では、ダンが著している関連図書を幅広く当たっていくことができませんので、今回は以下の三点に絞らせて頂きました。

*「パウロ研究の新しい視点」

New Perspective on Paulの呼称の発端となった論文です(注1)。ダンは、1982年に"The New Perspective on Paul"というマンソン記念講演を行い、その内容が翌年発行された大学発行物に収められました。そして、これが'New Perspective on Paul'という呼称の発端となりました。

* "Black's New Testament Commentaries: The Epistle to the Galatinans"

1993年発行されたガラテヤ書の注解書です(注2)。

* 『ガラテヤ書の神学』

上記注解書の姉妹編として、ほぼ同時(直後)に出されました(注3)。これは、ダン自身が総編集者となっている、叢書≪新約聖書神学≫の中の一環として発行されたものです。注解書との関係については、以下のように説明されています。「1988年以後は、ガラテヤ書そのものが、殊に、ブラックス新約聖書注解書シリーズのためにこの手紙の注解を執筆することが、私の主要関心事となった。手紙の本分の詳細な研究を終えた後、一歩さがってこの文書全体の神学的概観を書きうることは、特別な喜びであった。注解書の序においては、紙幅の制約により、手紙の神学については記しえなかったので、注解書と本書には重複は以外(ママ)に少なく、両書は姉妹編と見なしうる。」(注4)

最初に、著作年代から言っても「パウロ研究の新しい視点」を最初に取り上げたいと思いますが、二つ目には、『ガラテヤ書の神学』の中から、律法に関わる諸節に対する釈義的論点に絞って取り上げ、ガラテヤ書における律法理解についてのダンの見方を概観します。注解書は、補足的に取り上げることにします。本来であれば、釈義的議論をするのであれば、注解書をベースにして議論をすべきところかとは思いますが、英語力の不足を補う便法としてご容赦頂ければ幸いです。


2.「パウロ研究の新しい視点」より


この論文自体は、ガラテヤ2:16の釈義を中心として取り扱いながら、パウロ理解に新しい視点を提案するものでした。それは、サンダースが指摘したcovenantal nomismとしてのユダヤ教理解と、パウロの理解との間に、非連続性だけでなく連続性を見い出そうとする視点でした。ダンはそのような視点で「釈義の中心点としてのガラテヤ書二章一六節」(注5)への釈義を試み、その視点の有効性を主張します。その中心的部分で扱われたのが、この節に現われる三箇所の「律法の行い」の解釈と位置付けでした。その後、ダンはこの視点に基づき、関連する研究書と共に、ローマ書の注解書(1983年)(注6)、ガラテヤ書の注解書(1993年)を出しました。ダンにとってもNP(新しい視点)の起点となる論文だったと言えます。

ガラテヤ2:16の中には、「律法の行いによって」という句が三回現れます。これらの「律法の行い」の句について、ダンは以下のように主張します。「『律法の行ない』によって、パウロは割礼や食物規定のような律法の中の特定の項目を守ることを読者が考えることを意図していた」(注7)。そして、これらの行いは、「ユダヤ人にとっては自らのアイデンティティの印として特別に機能し、(略)ユダヤ人が特別な民族であることを示し、他と区別するための特別な儀式であった」と説明します(注8)。本来、トーラーの中で中心的位置を占めていなかったこれらの行為が、重要な役割を果たすようになったのは、マカベヤ時代以後であるとも指摘します(注9)。そして、「パウロが『律法の行ないによって義とされる』という可能性を否定したとき、パウロが攻撃していたのはまさにこのユダヤ教の基本的な自己理解であった」と主張します(注10)

このような自らの主張を裏付けるべく、ダンはガラテヤ2:16の詳細な釈義的検討に進みます。以下、その要約です。(注11)
(1)節の前半「人は、キリスト・イエスを信じる信仰による以外には、律法の行ないによっては義とされることはない」。ここでは、Covenantal Nomismは、キリストを信じる信仰によって制限されてはいるが、否定されていない。
(2)節の後半「律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって、義とされるために、キリスト・イエスを信じたのである」。節の前半でCovenantal Nomismに対する制限としてもちいた命題を、節の後半で一気に反対命題へと推し進めた。キリストを信じる信仰のみが、神が人間を義とするのに求められる必要十分な応答であることを明確にした。
(3)最後の一句「律法の行ないによって、すべての肉が義とされないからです。」は、詩篇143:2に対して、「律法の行ない」という語句が挿入されると同時に、「生ける者はひとりも」を「すべての肉」に置き換えている。「律法の行ない」は人種的なアイデンティティを強調するので、神の前では「肉の行ない」と全く違いはないことを示唆する(ガラテヤ5:19)。

以上の内容を見ると、続いて見るガラテヤ書関係の著作だけでなく、ローマ書の注解書など、ダンのパウロ関係の著作におけるノモス(律法)理解の土台となっていることが伺えます。


3.『ガラテヤ書の神学』より


次に、ガラテヤ書の注解書の姉妹編として、ほぼ同時(直後)に出された『ガラテヤ書の神学』から、ガラテヤ書に見られるパウロの律法理解に関して、主として釈義的論点を中心に拾い出して、まとめてみます。


(1)議論の背景・争点・土台

最初の3章は、ガラテヤ書で展開される議論の背景が何か、論争の争点はどこにあるのか、議論を進めていくうえで土台となる論争相手との一致点はどんなものかが検討されています。

「第1章 序論」は、緒論的な課題を扱う章ですが、特に後の議論と関わる点として、この手紙が「惑わす者たち」「かき乱す者たち」との対峙から生れていることが指摘されます(1:7、5:10、12)。彼らは、キリスト教ユダヤ人たちであり、「他の伝道者たち」とも呼ばれうる人々であって、「自分たちの伝道の課題とは、『この道』への異邦人改宗者は正しく回心したということ、すなわち彼らはこのユダヤ教の信仰の含意するところを十分に弁えたということを保証しうるところにまで回心者たちを至らしめることであると理解」する人々であったと指摘します(注12)。

「第2章 論争の成否を決する争点」では、論争の争点がどこにあったかが取り扱われます。特に、手紙の序文と結論部分に注目しながら、争点がパウロの使徒職と共に(あるいはそれ以上に)、パウロの福音理解に関わっていることが指摘されます。パウロが問題としたのは、「福音はいつ福音でなくなるか」ということであって、ダンは以下のように指摘します。「パウロを激しく憤らせたのは、ユダヤ人の福音理解と同じものをガラテヤでの異教徒に強要するという試みであった。福音の自由にとって不可欠なものとは、異なったコンテクストにおいては異なったところに強調点をおいて、それを別様に言い表すという自由である。」(注13)

「第3章 基本的一致」では、見逃されやすい点として、パウロと論争相手との間には、共有の確信(イスラエルの物語、キリストの物語、黙示的転換)、共有の経験(キリストへの信仰、キリストの霊)があったことを指摘します。


(2)議論の第一の主要テーマ:異邦人たちはアブラハムの相続にどのようにして与りえたか

「第4章 アブラハムの相続」は、ガラテヤ書で展開される議論の第一の主要テーマを扱います。そのテーマについて、ダンは様々な角度から記していますが、ダン自身の表現で最も簡潔に表現するとすれば、「異邦人たちはアブラハムの相続に、どのようにして与りえたか」と表現することができるでしょう(注14)。ガラテヤ書1-4章で展開される部分を扱います。大きく6つの部分に分けて検討を進めています。

(2-1)「パウロの回心の意義」

第一の部分として、「パウロの回心の意義」とのタイトルで、「主要議論の序として」、「彼自身の個人的証言」を記した箇所(1:13-2:21)を検討しています。

1:13-17については、「迫害者から使徒へ」とのタイトルで扱い、「パウロが自分の回心を述べている述べ方」に注目し、「回心それ自体としてではなく、召しとして、(中略)異邦人たちに福音を告げ知らせる任務の委託として述べられている」ことを指摘します(注15)。また、そこでパウロに起こった神学上の問題は、「はっきりと引かれたユダヤ人と異邦人の境界を維持するための熱心によって特徴づけられたユダヤ主義は、異邦人たちの間でメシア・イエスを宣べ伝えるための任務の委託に取って代られなければならなかった。」と指摘します。

続く2:1-10については、「エルサレム会議」とのタイトルで扱い、この会議を通して、「異邦人回心者たちは、(中略)割礼という条件なしに受け入れられるべきである」(注16)という重大な決定がなされたものの、問題の完全な決着には至っていなかったことが指摘されます。

(2-2)「アンティオキアの事件の意義」

第二の部分として、「アンティオキアの事件の意義」とのタイトルで、2:11-14に記されたアンテオケ事件で提起されたのが、続く2:15-21にどう展開されているかを指摘します。

まず、2:11-14で、アンテオケ事件で提起されたのが、ユダヤ人キリスト者と異邦人との交わりの問題であったことに注意を喚起します。「食物規定の維持と『異邦人たちの食物』の忌避は、常に忠実なユダヤ人たちがとくに敏感に反応する重要問題であった」(注17)ことを指摘します。その事件で起こった出来事により明らかになったのは、「エルサレムの協約にもかかわらず、異邦人の福音の受容が、神との特殊な関係についてのユダヤ人の主張に及ぼす影響の重大性は、考え抜かれることも解決されることもなかった」ということだと指摘します(注18)。

続いて、ダンは、2:16の「律法のわざ」という句にパウロの論点が要約されていると指摘します。「伝統的には、この句は、人間の功績、つまり、救いは自分自身の努力によって達成されうる、或いは獲得することができるという確信を指示すると捉えられてきた」ことを指摘しつつ、「しかし、そうした態度はとくにユダヤ教的ではない」、むしろユダヤ教は神による恵みの契約に基づいていることを指摘し、伝統的な捉え方を退けます(注19)。その上で、ダンは、律法が本来ユダヤ教神学においてどのようなものであったのかを指摘します。まず、律法は第一に、「イスラエルの神がその民と結んだ契約の重要部分として与えられた」。第二に、「律法は、その犠牲体系によって罪の贖いの手段を提供するために与えられた」と言います(注20)。これに対して、「律法のわざ」については、「契約内にいるものたちによって律法によって要求された人間の活動」であると同時に、「神に選ばれていない他の諸民族とは異なるイスラエルの特殊性を維持する義務を含んでいた」と言われます(注21)。そして、「この問題が、アンティオキアでの食卓の交わりにおいて争点とならなければならなかった」と指摘します(注22)。従って、2:16は、アンテオケ事件を受けつつ、「もし『キリストへの信仰』が『律法のわざ』と衝突するのであれば、前者が断固、重視されねばならないことを、ペトロを動かして承認させる」ためのものであり(注23)、2:16の「これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした」という目的節は、「ユダヤ人たちと異邦人たちが主イエス・キリストによって受け入れられるためにはキリストへの信仰で十分であったという事実は、ただ信仰のみで十分であるということ、および、キリスト教徒ユダヤ人たちに関しては、律法のわざに引き続いて執着することは不必要であり、かつ執着自体がキリストへの信仰の充足性を脅かす、ということを立証する」ものであると指摘します(注24)。

更に続くパウロの個人的告白の箇所(2:18-21)においても同じ点が強調されていると言います。「律法に対して死んだ」「律法によって」という句の意味について、いくつかの可能性を指摘した上で、結論的に「律法のわざは、(略)信仰に対して二者択一的関係にあり、さらに対立的関係にさえあるものであることを自証した」と言います(注25)。

(2-3)「信仰の充足性」

第三の部分として、「信仰の充足性」というタイトルのもとに、3:1-14でのパウロの議論を扱います。

ダンは、パウロがまず「アブラハムに訴える」という「申し分のない選択」をしたと指摘します。アブラハムが「信仰深いユダヤ人の模範と考えられていた」からです(注26)。そして、ここでの議論を通して、パウロは「決定的な二点を確証した」と言います。「第一に、神の承認は、完全にそしてもっぱら人間の側の信仰の問題である。第二に、アブラハムと彼の子孫に立てられた契約関係にとっては、その祝福のうちに異邦人たちを含むという神の意図が必須の本質である。」(注27)。

続く3:10-14については、「律法の呪い」とのタイトルのもとに扱われ、「理解に最も困難な箇所のひとつ」とも言われますが、いくつかの論点での説明が試みられます(注28)。

冒頭句(3:10)について、「どうしてパウロはそれほど不用意にまた徹底的に、仲間のユダヤ人たちを『呪われている』と告発できるのか」という問題を指摘します。「伝統的には、律法のわざは人間の律法を守る努力を指示するが、しかし、律法は完全には守られえないから、守ろうと努力するものは皆、彼らの失敗ゆえに必然的に律法に呪われるものとなる、と答えられてきた」と指摘しつつ、「ユダヤ教の律法体系は、その犠牲体系によって、まさに、人間の失敗に対処するべく立案されていた」と指摘して、伝統的見解を退けます。その上で、「よりもっともな答え」として、「3:10での主語である『律法の実行に頼る(from)者はだれでも』とは、先行箇所での主な主語である「信仰によって(from)生きる人々」(両句の基本構造は同じである)に対するはっきりとしたアンチテーゼとして提示されている」という理解を提示します(注29)。すなわち、「『律法の実行に頼る者』は信仰の充足性を見失ったということ」であるという点です。更に、「『律法の実行に頼る者』とは、まさに、神ご自身のために神により選ばれ、それゆえに(他の)諸国民から分かたれている唯一の民としてのイスラエルの特殊性を維持するための義務という観点から律法への服従を捉えたものたちであったから」と指摘します(注30)。それゆえ、「律法のわざを主張し続けることは、律法受領の基礎にある契約を実際に破ることであり、そしてまたそれは、申命記の呪いを必然的に伴うあの律法(申命27・26)を破ることである」と結論づけます(注31)。

続く3:11-14も、「律法と信仰が、鋭いアンチテーゼとして対立するということが起こってくる」こととして理解されます。「神の承認(義)の根拠は、人間の側の信仰である(ハバクク書2・4)。対照的に、律法は、契約の民がどう生きるべきであるかということを示すという、異なった機能を持っている」と指摘し、それゆえに、「律法の機能は、義認やいのちを与えることを可能にすることではない」と説明します(注32)。3:13については、次のように説明します。「しかし、パウロが、『律法の実行に頼る者』はその支配下にあると述べている律法の呪いはどうなのか(3・10)。これについてはパウロは、キリストが彼の死においてこの呪いを受けることにより、呪いの支配下にあったものたちを解放したと答えている(3・13)。」「律法の呪いは、異邦人たちを異邦人として契約の民から、また従って、神との契約の恩恵からも遠ざけることにより律法(のわざ)によって生きるものたちに降りかかる、ということである。さらに、キリストがこの律法の呪いを受ける目的は、明らかに、『アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためである』(3・14)。アブラハムの祝福に関する限り、ユダヤ人と異邦人の分離を維持したものたちに呪いが降りかかったという事態は終わらされた」、「パウロが十字架とその呪いの意義を、主に異邦人問題との関連で理解した」(注33)。3:14については、「以前、分離されていたユダヤ人と異邦人は、信仰によって約束の霊を受けた(ユダヤ人たちと異邦人たちの双方を含む)『われわれ』となった」と説明します。

(2-4)「律法の役割」

第四の部分として、「律法の役割」というタイトルのもと、3:15-3:25が取り扱われます。(関連して、一部4:8-10も取り扱われます。)(注34)この部分では、これまでの議論を受けながら、「では、律法とはいったい何か」という問いが取り上げられます(3:19)。ダンは、Covenantal Nomismを前提としながら、この問いをもう少し詳しく「律法の、神の約束の内における役割とは何なのか」という問いとして取り扱います(注35)。

3:15-18については、この問いに答える備えとして「神の約束が最も重要であるという点を強調」していると理解します(注36)。

3:19「それでは、律法はなんであるか」に対するパウロの答えは、「要するに、律法は、キリストの到来とアブラハムに対する約束の終末論的成就以前の期間において、イスラエルの後見人として一時的な役割を果たした、ということであった」と指摘します(注37)。ここでパウロが律法についてかなり強く否定的に語っている側面も認めながら、3:19「違反のために」は、「違反を引き起こすために」という意味でなく、「違反を処置するために」という意味に捉えるべきと主張します。すなわち、「パウロは、おそらくはここでは、イスラエル内における律法の役割を、律法の犠牲体系によって違反を贖い、かつそれによって契約の内側におけるイスラエルの日常生活を容易にする手段として考えていた」と言います(注38)。

また、3:23「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されていました」については、「肯定的な意味においてである」と言います(注39)。

また、3:24「養育係」についても、「ここでのより重要な点は、『養育係』の役割は基本的には肯定的なものであり、彼に預けられた若者を保護するということを含んでいた」と指摘します(注40)。

他方、「同時にパウロの議論は、律法の役割の理解にとってより否定的な含蓄を確かに持っている」と指摘しながら、3:21については、「律法の機能は、いのちを与えること、すなわち『生かすこと』ではまったくなかった。それは、神が直接に神の霊によって実現する神の役割であった。これに対して(中略)律法の役割は、そのようにして受けたいのち、すなわち契約の内側において生きる生活を整えることであった。従って、キリスト教内において、律法に(信仰による生にとって不可欠なものとしての律法という)より重要な役割を与えることは、事実上、律法を霊の地位に高めるというカテゴリーの混乱に陥ることであった」と説明します(注41)。

しかし、この部分におけるパウロの言葉において、「律法の役割の理解にとってより否定的な含蓄」は、単にカテゴリーの混乱だけにとどまらないのも事実です。「律法の役割をイスラエルとの関連においてキリスト以前の時に極めて密接につなぐことによって、実際上、終末論的区分の悪い側にそれを据えていた」と言いつつ、3:23の「律法の下に」と3:22の「罪の下に」が相互に関連させられている点に注意を向けています(注42)。

更には、「律法の役割は、単にキリスト以前の時におけるイスラエルに対する一時的な保護者であったということではなく、むしろ、律法は、保護者としての役割において(罪に似た)霊的勢力の役割に類似した機能を果たした」と言いつつ、「一種霊的な勢力/保護者である天使としての律法の役割」が、4:3で確かに示唆されていると言われます(注43)。これらの点を指摘する中、パウロの叙述の中に不明瞭な点があることを認めつつも、「この点におけるパウロ神学の評価にとって決定的なことは、パウロのより否定的な律法評価は、異邦人たちに対する典型的にユダヤ教的な態度に対するパウロの反発に密接に関係していたということを認めることである」と言います。「律法のわざにおいて要約された律法」、「その第一の機能は他の諸国民と区別してイスラエルを特徴づけることにあると見なされた律法」のもとに異邦人たちが自分たちの身を置くことは、「『あの無力で頼りにならない支配する諸霊』(4・9)の下における体制へと逆戻りすることであった。」と言います(注44)。

(2-5)「信仰者のイスラエルとの関係」

第五の部分として、「信仰者のイスラエルとの関係」というタイトルのもと、3:26-4:11及び4:21-31が取り扱われます。「アブラハムに対する約束から、約束の子孫としてのキリストに、すなわち彼によって諸国民がアブラハムの約束に入るキリストに、直接のつながりがあるということは、パウロの議論にとって不可欠である。(中略)これが、キリストの物語がイスラエルの物語を修正する仕方である。律法がイスラエルの保護者であった時代において、ユダヤ人とギリシヤ人を引き離した時期は、キリストの重要性によって退けられ過去のものとされた。」(注45)このように指摘しながら、上記二つの聖書個所についての解説を始めます。

まず、3:26-4:11及び4:21-31の両方の箇所で、「子と奴隷の身分の対比が著しく目立つ」ことを指摘します(注46)。

3:26については、「はじめに契約の約束を受けた信仰は、今はその約束を成就したお方へと向けられなければならない。今は、キリストへの信仰が、すべてのものの神に対する子としての関係を保証するのに十分である」と言われます。3:28については、キリストに同定されるということは、「民族、社会的身分、及び性による伝統的差別」だけでなく、「律法の下にあるイスラエルの時代の重要な特徴であったユダヤ人とギリシヤ人との間の伝統的差別をも相対化した」と言います。そして、3:29について、「キリストへの信仰は、完全にアブラハムの相続人となり、完全にアブラハムの相続に与ることを保証した」と説明します。(注47)。

4:1-7については、「パウロは続けて、この子の身分を成人した相続人が受け継ぐ相続になぞらえる」と総括的に指摘します。このこと自体は、「大方のキリスト教徒ユダヤ人たちにとって、全体として、問題になる点はなかったであろう」と言いつつ、「議論の的になる点が、しかし、キリスト以前のイスラエルの身分は未成年の相続人のようなものであるということから持ち上がる(4・1-2)。というのは、これには、今はその役割が時代遅れとなった律法に執着し続けるものたちは、未成年の相続人と同じ立場にある、という示唆が伴ったから」と指摘します。加えて、4:3まで含み考えると、この部分において、「パウロは、この関係のより一層否定的特徴を故意に詳述している。未成年者である相続人は奴隷以上のものではなく、律法という保護者の下にあることは、丁度、世の諸力に隷属している状態に似ていた」と指摘されます。また、4:5について、「『律法の下に』あることは、まだ隷属からの解放を必要とする状態にあることであり」ともコメントしています(注48)

4:8-11については、4:1-7での流れを踏まえつつ説明します。「神との関係を(中略)正確に算出された種々の祭日とのかかわりで理解するという(4・10)、そうした奴隷のような状態に戻りたいと欲しえたことに(4・8-9)、それほどまでに驚いた理由」が4・1-7に示されていることを指摘します。(注49)

4:21-31については、「パウロの神学は、この箇所で、アブラハムの二人の息子たちの比喩において最も際立った、また最も異例な表現を受けいれている」と言います。「最も異例な表現」とは、「今のエルサレムは、(中略)イサクには同定されえていないで、イサクによる約束の家系からはっきりと排除されたハガルの息子であるイシュマエル(創世記17・18-21)に同定されえている」という点をさすのでしょう。この表現の異例さについて、「ガラテヤの人々に対してアブラハムの二人の息子たちの比較を持ち出したのは、おそらくは、他の伝道者たちであった。彼らは、言うまでもなく、アブラハムの相続は、イサクの家系、すなわち、イスラエルの子孫を通して後の世代に伝わったという、まるで別の主張を通すためにこの比較を持ち出した。」との見解を示します。また、「パウロが、先では契約を律法と区別して(3・17-18)約束に結びつけようとしていたように見えるのに(3・15-16)、ここでは、この『契約』という根本的なユダヤ教の範疇を両方の系に当てて使っているという事実」(4:24)についても、「彼が、実際に、この比喩から如何に僅かの神学的含蓄しか引きだそうとしていなかったかということをよく示している」と言い、あまり重要なこととして考えることに慎重な姿勢を示しています。また、「ここでの論述は、論争の言葉で記されており、釈義的離れわざであり、大家の芸当であって、冷静な神学的議論ではない」と言いつつ、この箇所全体の議論の過激さを割引して受け止めるように勧めているように見えます。(注50)

(2-6)

第6の部分は、「結論―自由」というタイトルのもと、5:1-12が扱われます。

ここでダンは、5:1、特に「自由」という言葉に注目します。実際、この部分の叙述の約半分は、この用語についての解説となっています。「パウロが、彼の議論の主要部分をまとめるべく選択した自由という言葉は重要である。」こう書き始めつつ、2:4-5と関わり、また、4:22-31の釈義との関わり、「4章全体を支配していた子/奴隷の対照」との関わりを指摘します。同時に、「しかし、これはまた、疑いもなくパウロ自身の経験の本質から引き出された言葉でもある。」と指摘し、その意味を比較的詳しく説明しています。そして、「部分的には経験に基づくもの」であり、「部分的には神学的である」というこの「自由」という言葉に託して、「当惑した苦悶といらだち」が表現されていると言います(注51)。

続いて、この箇所についてごく簡単に釈義的説明が加えられます。5:3について、「割礼を受け入れることは、隷属に逆戻りすること」「ユダヤ人の生活の仕方全体を受け入れること」「律法に支配された昔の生活の時代へと戻ること」と説明します。5:2、4について、割礼を受けようとすることが「恵みの基礎を切り払い(中略)キリストからの切断をもたらす」と説明されます。5:11について、「十字架は、外にいるものたちから恵みと約束の民に属するものを区別するという割礼の昔の重要性を破棄した」と説明します(注52)。

続いて、ダンはここまでの議論を振り返りながら、イスラエルの物語とキリストの物語が連続性を持ちつつも、非連続性をどこで持つのか、要約します。「キリストの到来は、神の救いの計画が律法に護られたイスラエルに集中していた時代が終ったということを指示した。約束の成就である新しい時代への転換は、律法のわざという古い態度と慣習、すなわち他の諸国民とは異なった神の民としての特殊性を維持するというイスラエルの関心の表現は、もはや適切でなくなったということを意味した。そのように生き続けることは、まだ霊の賜物において成就された約束の時代ではなく、古い時代に生き続けることである。イスラエルの物語との連続性はそこになお存在した。しかし、それは、成就された(アブラハムに対する)約束と、与った(アブラハムの)相続との関連においてであって、律法との関連においてではなかった。」(注53)

最後に、6:16の「神のイスラエル」という表現についての説明も興味深いものです。「パウロの議論全体に照らして解すれば、イスラエルとは、神の約束とアブラハムの信仰によって明確に規定されたイスラエル、すなわちユダヤ人の特殊性はもはや維持される必要はなく、異邦人たちは異邦人であるままにその一部分でありうるイスラエルのことであり、それこそが神の意図に適ったイスラエルなのである」。(注54)


(3)議論の第二の主要テーマ:アブラハムの相続人はいかに生きるべきか

続く「第5章 アブラハムの相続人はいかに生きるべきか」では、「パウロの議論の第二の主要テーマ」に移り、その焦点は、「われわれは、それならばどのように生きるべきであるかという問題である」と言われます(注55)。この問題が不可避と考えられた背景として、「古代世界においてどれほど熱心に知恵が求められたか」を指摘すると共に、「そうした知恵が、ユダヤ教の伝統、すなわちトーラーの知恵において、いかに傑出しているかということを忘れてはならない」と指摘しつつ、「従って、われわれは、この問題がガラテヤの人々にとってどれだけ重要であったかということを、充分想像することができる」と言います(注56)。そして、この問題に対する「他の伝道者たち」の解答が「トーラー、すなわち神の律法」であったと言います(注57)。「キリストへの信仰は、律法遵守により補完されかつ証明されなければならない(2・15-16)。これは、結局、律法が、すでに契約に入れられたものたちに、契約内においてどのように生活すべきであるかを示すという、『契約遵法主義』の論理であった。」(注58)それに対して、パウロは、ここまでの箇所で彼らの解答を退けてきたわけですが、「ならばわれわれはどう生活すべきであるか、という問い」が未解決な問いとして残ります(注59)。そこで、この章では、この問題に対するパウロの回答が確認されます。

まず、「霊の導き」という節では、この問題の糸口として、「霊」(3:3)が指摘され、5:16-6:6にも明示されていると指摘されます。特に、5:18「しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません」について、「『律法の下に』あるということは、成文法、或いはユダヤ人たちの民族的伝統、すなわち、慣習や宗規といった外的拘束によって決定された生活を生きることであった(3:23-25、4・1-2)。霊の下にいるということは、内的要求と強制によって取って代わられた外的拘束からの自由を知ることである」と言います(注60)。5:16-25においては、肉と霊のアンチテーゼが明確であると指摘します。また、5:22-23について、「律法のわざのアンチテーゼは、霊の実である」と言います。「わざ」が人間の行動であるのに対して、「神の内在の力によって生みだされる霊の実について語っている」と言います(注61)。

次に、「模範としてのキリスト」という節では、パウロの倫理のもうひとつの側面として、外的模範に与えられた位置が指摘されます。「霊の内的な強制は、キリストという外的な規範に従って表現され、またその基準に照らして評価された」。そして、「その最も際立った特徴は、パウロが『キリストの律法』と称しているもの、および隣人愛において要約されている」と言います(注62)。

5:6については、「律法のわざを見当違いとしたのは、単に信仰の充足性のみではなく、割礼と無割礼、ユダヤ人と異邦人の差別を完全に相対化した愛の行為を伴う信仰であった」と言います。そして、「パウロの倫理全体は、三つの言葉、すなわち信仰、霊、愛をめぐって循環している」と指摘します(注63)。

5:13-14においては、パウロがここで律法に訴えていることに注目を促し、これをどう見なしたらよいのかという課題に対して次のように答えます。「新しい時代への移り変りと共に、イスラエルの特殊性の後見人としての律法の役割は終った。(略)しかし、この点は、今や、信仰、霊、および心から湧きでる愛との関連において一層相応しい仕方で表出された。これに対して、主としてイスラエルの異邦人たちからの分離を維持するために実践された慣習は完全に相対化され、もはや重要なこととは見なされえなくなった」。しかし、パウロがこれまでの律法に対する「拒否的発言にもかかわらず、キリスト教徒の行動に対する外的規範を維持し続けたということ、また彼は、その外的規範をトーラーから引かれた愛の戒めによって要約した」に注意を向けつつ、「イスラエルの物語との確かな連続性を特徴づけた」ものとして、「人間関係の義務を隣人愛の戒めに収斂させたトーラー」を付け加えたことを指摘しています。その上で、「パウロにとって決定的に重要な要因となったのは、ほぼ間違いなく、イエス自身が、人間相互の関係に関してトーラーの義務を同じように要約したという伝承であった(マルコ12・31並行記事)」と指摘します(注64)。

6:2「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」について、「これはおそらくは共通に知られていたイエス伝承である」と言います。特に、「キリストの律法」という句については、「おそらくはパウロが、イエスがどのように生き教え死んだかということを述べたイエス伝承を要約したもの」と説明され、ガラテヤの人々がこの律法を満たすことを期待したのだと言います。「彼はガラテヤの人々が律法を満たすことを期待した。しかし、その律法とは愛に要約され、イエス自身の宣教活動において例証され、かつ先んじて成就された律法であった。イエスの物語が、イスラエルの物語とイスラエルの律法を変換するのはこのような仕方においてである」と言います(注65)。

最後に、ガラテヤ書においては半ば隠されているパウロ倫理の特徴として、「変容」を挙げます。「『キリストにあって』ということが、なんらかキリストに似たものとなることを伴うという点は、以下の四節において一層はっきりと表出されている」として、2:20、3:27、4:6-7、4:19が挙げられています。そして、2:19、5:24、6:14において、「キリストに似たものとなるようにという勧めを、再び十字架に焦点を絞って述べている点」に注目させています。「このようにして、特に霊の倫理は十字架の型に合致される。ガラテヤの人々は霊の導きに従わなければならない。その霊とは、しかし、十字架につけられたお方の霊である」(注66)。


4."Black's New Testament Commentaries: The Epistle to the Galatinans" より


最後に、ガラテヤ書注解を取り上げます(注67)。上記書物とほぼ同時に出されていますので、律法に関する議論のベースとなる釈義的見解は同じであるはずですが、注解書ですので、個々の釈義についての詳細な議論を確認することができます。そういう意味で、ガラテヤ書全体の律法についての議論概要については上記書物に関するコメントに譲るとして、また、2:16については、"New Perspective on Paul"での詳細な扱いに譲るとして、律法に関する議論との関わりで特に注目される部分に限って、いくつかの点をご紹介します。


(1)全体の分析

『ガラテヤ書の神学』は、ガラテヤ書が持つ神学的意味合いに焦点を当てているため、議論を大きく二つに分けて検討していますが、注解書では、釈義的分析が基本になりますので、その方面から大きく4つの部分に分けます。(注68)

A 序(1:1-10)
B パウロの福音についての擁護(1:11-2:21)
C 主要議論―経験と聖書からの考証(3:1-5:12)
D 御霊の自由についての責任(5:13-6:10)

従って、『ガラテヤ書の神学』では第一の議論テーマとして取り上げられた部分を注解書としてはガラテヤ書全体の「主要議論」と見ていることが分かります。第二の議論テーマは、この主要議論から派生したサブテーマといった位置づけでしょうか。


(2)議論の流れ

次に、特に議論の流れを把握するため参考になると思われるいくつかの箇所を3点ほど紹介致します。

(2-1)2:15-21の位置づけ

この箇所は、上記分析で言えば、Bの最後の部分で、OPとの対比という点でもよく取り上げられる箇所です。

以下のように記されます。「ここでパウロは、アンテオケでペテロとの対決で議論した立場を再陳述しているということは一般的に受け入れられている。(中略)手紙の読者は2:15の『わたしたち』をペテロとパウロに対する言及としてよりほかに理解することはほとんどできなかったであろう。2:15b、17で用いられている用語にはその時の対決の明らかな影響があるように見える。2:18はきっとその時パウロによって糾弾された種類の行為について言及しているであろう。同時に、最もあり得ることであるが、もしパウロがアンテオケで勝利せず、ガラテヤでそれ以上でないとしても同様に深刻と見た状況に直面していたとしたら、今回はより効果的であることが分かるであろうと期待して前回使用した議論を再陳述しようとするのは自然なことであろう。」(注69)

2:15-21を、2:11-14(アンテオケ事件に関する記述部分)からの流れを受けての箇所として位置付けています。

(2-2)エルサレム会議、アンテオケ事件、ガラテヤ教会での論争の関係

次に、Cの冒頭部分で、それまでの議論の流れが以下のようにまとめられています。

「これまでのセクションの意味するところは、パウロがアンテオケ事件を重大なエルサレム協約の第一のテストケース、ガラテヤでの危機を第二のテストケースと見、両者において問題は同じだと見たことである。」(注70)

(2-3)主要議論に対する三つの論点

3:1-5は、ガラテヤ教会の人々が最初に信じた時に御霊を受けた経験を土台としての議論です。ガラテヤ書の議論の中では比較的目立たない部分ですが、ダンは次のように指摘しながら、この議論を重要視しています。

「冒頭の諸節の強調点は、続く部分においてしばしば想起されており(3:8、14、27;4:5-7、29;5:1、5、7-8、16-18、21-22、25;6:8)、『ガラテヤ書を通してパウロの議論における御霊の中心的役割』(ロングネッカー101-102)を確立する。」(注71)

これに続いて、3:6-4:31という、かなり長い部分で、聖書からの議論が取り扱われます。そして、これが主要議論についての第三の論点であると指摘します。

「パウロは今や、聖書の精巧な解説に着手し、それは4章の終わりまで続く。これは、実際、ガラテヤにおける福音と回心者に対する脅威を迎え撃つためのパウロの3番目の論点である。一番目は、エルサレムで達成された福音についての合意(2:1-10)。二番目は、御霊についての彼ら自身の経験(3:1-5)。三番目は、聖書からの証明(3:6-4:31)。」(注72)

(2-4)第一の議論から第二の議論への移行

第一の議論(主要テーマ)から第二の議論(サブテーマ)への移行については、D部分の冒頭で、以下のように指摘されます。

「ガラテヤ人たちに対するパウロの訴えの主要部分は今や完了した。しかし、すべての情熱が費やされたわけではなかった。というのは、パウロは自由が激しい混合物であることをよく知っていた。(中略)自由はいかにして免状に陥ることを免れ、放縦の奴隷に陥ることを免れることがいかにして可能なのか。(中略)これが続く部分の課題である(5:13-6:10)。(注73)


(3)2:19a

次に、上記節の中で、特に2:19aの理解です。「彼(パウロ)が復活のキリストと直面するようにした道筋に乗り出したのは、彼がその時理解したように律法の命令に従って、ユダヤ主義を明確にする律法を維持するためである(2:21も参照)。そして、その遭遇は律法と契約的約束についての彼の理解を完全にひっくり返したので、その時以来、律法は彼に対して同じ支配力を振るうことをやめ、彼の行動に対する絶えざる刺激であったものは、彼の内に何の反応をも見い出すことができなくなった。彼は以前自分の主要な動機づけであった者に対して死んだ。思想は明確であるが、「律法を通して」を「信仰の律法」(ローマ3:27)への言及として受け取ることによって簡単にはならないし、ここでの問題を単に儀式的律法対道徳的律法の問題に翻訳するべきでもない。」(注74)すなわち、「律法によって律法に死んだ」について、「律法への熱心によってパウロは復活のキリストに遭遇し、そのことによって彼は律法に対して死んだ、すなわち、律法への熱心に突き動かされる従来のあり方がやんだ」というように理解しているようです。


(4)3:19-22

次に、3:19-22です。この部分は、それまでの議論を受け、「それでは、律法とは何であるか」(3:19)という問題に答える箇所です。3:19では、『ガラテヤ書の神学』でも言及されているように、特に、従来「違反を促すため」(口語訳)等と訳されてきた箇所について、かなりのスペースを割いて検討し、「違反に対処する方法を備えるため」と理解できることを指摘し、律法の役割の肯定的描写としての理解を示しています(注75)。この後の「約束」と「律法」を比較する文脈を受けながら、21節では、「では、律法は神の約束と相いれないものか。」という問いが引き出されますが、この問いに対する答えが「断じてそうではない」という強い否定であることを強調しながら、「その応答は、多くの人が20節より推論するような律法と約束の正反対をパウロが否定しようとしていることを明確に示唆する。逆に、律法の役割は約束の役割と矛盾がなく、統合される。」と言います(注76)。続く「もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義はたしかに律法によって実現されたであろう。」(3:21)については、『ガラテヤ書の神学』でも指摘されていたように、「人を生かすこと」は、「神の律法に対して意図された役割ではない」と説明します。

ここで、3:22については、少し詳しく見たいと思います。「しかし、約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのである。」(3:22)ここで、従来の理解では、「聖書」とここまでの文脈における「律法」をほぼ同一内容と捉えた上で、「罪が看守となっている牢獄において、法違反者を閉じ込める役人」として働き、人々が置かれている状況の望み無きことを教えることによって、人々が自由と命の約束に達するのを助けると考えてきました(注77)。

これに対して、ダンは、この節とローマ人への手紙に見られる表現との近似にまず注目します。まずローマ11:32「神はすべての者に憐みを示すため、すべてのものを不従順に閉じ込めた」。ここでパウロはスンクレオー(閉じ込める)をここ(3:22-23)とローマ11:32だけで使っていることをダンは指摘します。次に、ローマ3:9です。「ユダヤ人もギリシヤ人もすべての者が罪の下にある」。「罪の下に」という表現も、ローマ3:9、7:14とここだけであることが指摘されます。これらの句が、この節の圧縮された思想の流れを見い出すのに役立つとし、(特にローマ11:32からだと思いますが)「悪」としての今の時代に言及する際、読者も二つの時代についての黙示的枠組みに従うと考え得たと言います。そして、その枠組みをパウロはここで、今の人間の状況を「罪の(力の)もとに」あるものとして描くことによって言い直していると言います。

これらを踏まえた上で、ダンは、単数の「聖書」(ヘー・グラフェー)が単一のテキストを言及し得るが、おそらくは一群の聖句を表わすであろうと言います。その場合、「パウロが留意している聖句とは、『すべての者が罪の(力の)もとにある』(ローマ3:9)との主張の証拠としてローマ3:10-18で引用されたもの(「次のように書いてある」)にすくなくとも含まれているであろう」と言います。加えて、「実際、パウロが読者が関連聖句を知っているとみなし得たという事実は、ローマ3:10-18がガラテヤ宣教を含む彼の宣教で長い間使い続けてきた聖句集であったかもしれないということを示唆する」と言います(注78)。

また、ここでも強調点は「すべての者」に置かれていることも指摘されます。すなわち、「ポイントは、ギリシア人だけでなくユダヤ人も、諸国民だけでなくイスラエルも、すべての者、『全世界』(NEB/REB、NIV)が『罪の力ももとに』あるということ」です。「彼らは、実際『律法のもとに』ある(3:23)が、『罪のもとにある』ことから免れていない」と指摘されます。「ここでは再び律法の限定された力が考慮されている。律法は、恵みや御霊、約束や信仰通して得られる嗣業ほどには、究極的な要素でもなければ重要な要素でもない。また、罪ほどに究極的でもなければ重要でもない。(それゆえローマ7:7-25では律法の擁護が可能となっている。)それゆえ、律法それ自体は罪の力に対する真の解答を与えない。「律法から」「律法のわざから」メンタリティは罪の強い力にただ新しいねじれを与えるだけである(ローマ2:1-3:20)。神の約束の力だけが罪の力を打ち破り、今の悪の時代にとらわれた人々を自由にする。」(注79)

この後、ダンは、節の後半を取り上げます。「『約束が信じる者たちにイエス・キリストへの信仰から与えられるために』罪の力の下にすべての者を閉じ込めること、これは実際、神の原理である。「約束」は、もちろん、なおアブラハムに与えられたものであるが(3:18参照)、イサクにおける成就が考慮されており、それはキリストにおける、またキリストを通してのより大きな成就の原型である。パウロの約束の神学は、いくつかの要素と関連している。約束は、それ自体の性格により、またアブラハムの範例によって証明されているように、律法に対する優先権を持っていること。(中略)律法はこのような神の約束の媒介物ではない。その結果、ユダヤ人の「律法から」アイデンティティは約束に対する、また約束の力に対する制限を設ける。パウロは、神が世界歴史の全時代を「罪の力のもとに」閉じ込めたのは、ただ約束の力が「信仰から」だけ人間の現状に影響を与えるという事実を明らかにするためであったと言うことができた。」(注80)


(5)4:21

4:21-31は、二つの契約がアブラハムの二人の妻、ハガルとサラにたとえられている箇所で、それ自体、相応の取り扱いを必要とするテーマですが、ここでは、パウロの律法用法との関わりで、4:21に二回現れる「律法」について、ダンの釈義的理解を確認します。

ダンは、パウロの律法(ノモス)用法について、一貫してトーラーと理解しています。ここでも、その点は変わりませんが、この箇所においては、トーラーの意味合いに幅のあることが指摘されています。

「『律法』に対する二重の言及によって、パウロは『トーラー』の意味の幅(すなわち、諸律法だけでなくナラティブをも含むこと)をよく知っていたことが分かる。」(注81)

(6)5:3、4

5:3は、「割礼」と「律法」の問題を扱い、続く5:4は、「律法によって義とされようとするあなたがた」という表現が現れます。ガラテヤ書における律法理解において重要な箇所と思われますが、『ガラテヤ書の神学』では詳細な釈義的検討が省略されていますので、注解書による説明を見ておきます。

まず、5:3は以下の通りです。「割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う必要がある。」

ここでの混乱した議論の一つとして、ダンは以下のような理解を挙げます。「(1)割礼を受け入れることは(2)すべての律法をする必要を受け入れることであり、(3)全律法が守られうると仮定することであり、(4)全律法を守ることによって神によって受け入れられようとすること=律法主義である。」このような理解について、ダンは、(2)まではよいが、(3)で横にそれ始めていると言い、より正しい理解として次のように説明します。

「考慮されているのは、むしろ典型的なユダヤ人の考え方であって、それによると、『律法を行うこと』は、契約の民の内にある人々の義務、契約の民を選び出す義務、契約の内にとどまって生きる方法として理解される(3:12、レビ18:5)。『全律法を行うこと』は、『それらをするために律法の書に記されたすべてのことによってとどまること』である(3:10、申命記27:26)。すなわち、(少なくともパウロの見方では)ユダヤ人としての生活様式を完全に採用することである。言い換えれば、『ユダヤ人の生活様式』は完全なパッケージである。(これは、マタイ5:18-19、ヤコブ2:10、ミシュナPerqe Abot4:2の真意でもある。)」(注82)

このように、典型的にNPPの論点がここにも表われています。

次に、5:4は、次の通りです。「律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。」

「律法によって」というフレーズについて、ダンは次のように言います。「最後の節(『律法によって』)は、『律法において/の内にあって』と訳され得、律法によって選び出された安全領域、すなわち『律法の領域の内』(Berton276)、律法の境界線内、すなわちユダヤの人々のメンバーシップの内にとどまろうとする意図を示唆している。(参考:ローマ2:12、3:19=『律法の下で』。3:23も見よ。)従って、批判されている仮定は、最後の裁きにおける義認/是認は、神が特別な好意を示し契約を結ばれた民のメンバーシップの結果であるというものだ。(割礼によって)ユダヤ人との完全な同一化によってだけ、イスラエルに約束された最後の救いにあずかる確かな希望が存在する。もう一つの可能性としては、もし3:11の響きが意図的であるなら、『律法において/によって義とされる』」というフレーズは『律法のわざによって義とされる』という、より完全なフレーズの短縮形として意図されていることになる(3:11を見よ)。しかし、後者は特定のユダヤ人の諸儀式を含みユダヤの習慣と調和して生きることが契約の民の内にある立場を維持し、従って、最後の裁きにおける好意ある評決を保証するのであるから、意味はあまり変わらない。」(注83)

ここで、ダンは、「律法によって」のフレーズを「律法の領域の内にあって」と理解するか、「律法によって義とされる」のフレーズを「律法のわざによって義とされる」というより完全な表現の短縮形と理解するか、二つの可能性を指摘しながら、両者が実質的にはほとんど変わらないことを指摘しています。

(7)6:2

最後に、6:2、特に「キリストの律法」について、ダンの理解を確認します。ここでの「キリストの律法」は、従来、5:14で引用された愛の律法との関わりについては指摘されるものの、「惑わす者たち」が受け入れを迫る「律法」とは対照的なものとして受け止められてきたのではないでしょうか。たとえば、ブルースは、この箇所の注解で、以下のように記します。「『キリストの律法』は、(5:14で引用される)隣人愛の命令と本質的に違っておらず、そこにおいて『全律法』が包含される。(中略)パウロはここで、キリストの律法を回心者たちが受け入れるように迫られている律法に対し対照的なものとして語っているのかもしれない。」(注84)。

これに対して、ダンもまた、5:14との関わりについて注目すると同時に、ここでは特に、イスラエル宗教におけるトーラーとの断絶よりも、むしろ連続性を丁寧に見ていこうとする姿勢を示しています。少し長いですが、ダンの律法理解として、大切な点を含むと思いますので、部分的に引用してみます。

(引用開始)
「ほとんど確実にパウロはここで、イエスがご自分の教えと行動において律法をいかに解釈されたかを示すものとして、ごく簡略な仕方でイエス伝承に言及している。(1)イエスの宣教についての共観福音書の記事を作り上げたものの多くは、新しい教会群の基盤的伝統の一部として、それらの教会群に手渡されてきたことはほぼ疑い得ない。(略)(2)少なからぬ共観福音書の言葉の、明らかに見分けられる響きは、イエスの教えの共有知識の一般的蓄積があったことを同様に示している。(略)(3)更に重要でさえあるのは、5:14でパウロがほとんど確実にイエスの最も重要な教え(5:14を見よ)の一つを利用しようとしていることががほぼ確実だという事実、そして、5:13-14が、続く部分で精巧に作られた全セクションの見出しとしての役割を果たしているという事実である。(略)(4)最も驚くべきことは、ローマ13:8-10、15:1-2とガラテヤ5:14、6:2の並行関係である。とりわけ、律法の『成就』という共通テーマがあることに注意せよ。(略)(5)(略)

とりわけ、パウロがキリストの「律法」について語っていることは重要である。(NTにおいては例外的表現である。)上記理由が正しければ、ここでの律法はトーラー、すなわちユダヤ人律法以外の律法ではありえない。その律法はイエス伝承とキリストの出来事の光のもとで愛の命令によって解釈されたものであるということだ。(略)従って、それは、パウロの主要な著述に振りかけられた「律法」に対する一連の積極的言及(特にローマ3:27、31、7:12,14、8:2、4、9:31、13:8-10、第一コリント9:20-21、ガラテヤ5:14)の線上にある。しかし、これらの言及は、(2:19、3:19-21、5:4のような)他の箇所での律法に対する過度に消極的な(と見える)見方のために、全く割引されるか、違ったように理解されるかした。これに対して、パウロが律法の廃棄を求めず、律法をクリスチャンにおける倫理的振る舞いと諸関係の基準として保持(あるいはキリストにあって再解釈)したという事実は、パウロがキリスト教をイスラエル宗教との完全な断絶を構成するものとして見ておらず、その成熟した形態として見ているということを思い出させるものとして重要である(再度、4:1-7を見よ)。そのことは、基本的に福音/律法の対照から来るキリスト教神学は自らの基本原則において、より丁寧な色合いの読み取りを必要とすることをも意味する。」(注85)
(引用終り)


5.要約


以上、ガラテヤ書に関わるダンの三点の著作、論文の中から、ガラテヤ書における「律法」に対するダンの理解を見てきました。本格的な分析、評価は別の機会としますが、これまで見て来たところを簡単に要約しておきます。

(1)手紙の背景

まず、この手紙は「惑わす者たち」「かき乱す者たち」との対峙から生れていることが指摘されます。彼らは、キリスト教ユダヤ人たちであり、「他の伝道者たち」とも呼ばれうる人々であって、異邦人改宗者がユダヤ教の信仰の含意するところを十分に弁えたということを保証しうるところにまで回心者たちを至らしめようとする人々であったと指摘します。

(2)手紙で扱われる主要議論

パウロを激しく憤らせたのは、ユダヤ人の福音理解と同じものをガラテヤでの異教徒に強要するという試みでした。それゆえ、この書における議論の主要な議論のテーマは、「異邦人たちはアブラハムの相続に、どのようにして与りえたか」というものでした。そして、その問いに対する解答は、「キリストへの信仰で十分」、「律法のわざに引き続いて執着することは不必要であり、かつ執着自体がキリストへの信仰の充足性を脅かす」というものでした。

(3)「律法のわざ」

ここで、特にOPとの関わりで言えば、「律法のわざ」という表現の理解が問題となります。伝統的には、この句は、人間の功績によって達成されうるという確信を指示すると捉えられてきました。しかし、ダンは、そうした態度がとくにユダヤ教的ではないことを指摘します。本来ユダヤ教神学において、律法は第一に、イスラエルの神がその民と結んだ契約の重要部分として与えられたものであり、第二に、律法は、その犠牲体系によって罪の贖いの手段を提供するために与えられたとも指摘します。しかし、その中で、「律法のわざ」という表現は、「神に選ばれていない他の諸民族とは異なるイスラエルの特殊性を維持する義務」に焦点が合わされるようになっていたことが指摘され、パウロが否定したのはこのような意味での「律法のわざ」であると言います。

(4)主要議論の流れ

ガラテヤ書の文脈では、このような議論について、エルサレム会議での協約がアンテオケ事件で改めて問われ、更にガラテヤ教会の状況において再度問われたという形でまずは論点が提示されているとダンは見ます(2章)。その上で、ガラテヤ教会の人々の経験に訴える議論(3章前半)、続いて聖書に基づく議論(3章後半‐5章前半)と続きます。

(5)主要議論における律法に対する否定的記述について

ここで特に、3章後半‐5章前半の聖書に基づく議論の中では、律法に関する言及が続きます。この中には、ダンも「理解に最も困難な箇所のひとつ」を含むとしており、律法を巡る議論はかなり複雑と言えます。中には従来、律法に対する否定的記述としてとらえられてきたところが、むしろ積極的な意味合いで理解可能であることを示した箇所もあります(3:19)。しかし、3:19をそう理解した場合でも、これらの箇所において全般的に律法に対して否定的な論調が強くあることをを否定することはできません。ダンはこの部分について、かなり苦心して説明を施しているように見えますが、その主な論点としては次のようなものです。(3:10について)「『律法の実行に頼る者』は信仰の充足性を見失ったということ」、(3:21について)「律法の機能は、いのちを与えることではなかった。律法により重要な役割を与えることは、律法を霊の地位に高めるというカテゴリーの混乱に陥ることであった」、(4:1-3について)「律法に執着し続けるものたちは、未成年の相続人と同じ立場にある」、「未成年者である相続人は奴隷以上のものではなく、律法という保護者の下にあることは、丁度、世の諸力に隷属している状態に似ていた」。

(6)第二の主要議論

他方、続くガラテヤ5章後半-6章では、「自由は放縦の奴隷に陥ることを免れることがいかにして可能なのか」という問いを起点として、「それではアブラハムの相続人はいかに生きるべきか」というテーマが扱われているとします。このテーマへの回答として、二つの点が指摘されます。第一は、「霊の導き」です。霊の下にいるということは、内的要求と強制によって生きることであると指摘されます。第二は、「模範としてのキリスト」です。「霊の導き」が内的な強制であるのに対して、「模範としてのキリスト」は外的な規範として表現されるとします。

(7)第二の主要議論における律法の位置

「アブラハムの相続人はいかに生きるべきか」という第二の議論テーマに対する上記二つの論点において、「律法」が一定の役割を果たしていることに注目することができます。第一の論点、「霊の導き」においては、霊と律法はアンチテーゼとして扱われます(5:18)。他方、第二の論点、「キリストの模範」においては、「キリストという外的な規範」が「パウロが『キリストの律法』と称しているもの、および隣人愛において要約されている」と言います。

(8)「キリストの律法」

6:2の注解における「キリストの律法」への解説には、ダンの律法理解の方向性がよく現われています。ダンはここでの律法がユダヤ人律法(トーラー)であると指摘します。その上で、この表現には、パウロが律法の廃棄を求めず、律法をクリスチャンの倫理的振る舞いの基準として保持し、あるいはキリストにあって再解釈したということが表われており、パウロがキリスト教をイスラエル宗教の成熟した形態として見ていることを示唆すると指摘します。


(注1)J.D.G.ダン著『新約学の新しい視点』(すぐ書房、1986年)に所収。

(注2)James D.G.Dunn "Black's New Testament Commentaries: The Epistle to the Galatinans" Baker Academic, 1993

(注3)J.D.G.ダン著『叢書 新約聖書神学8 ガラテヤ書の神学』(新教出版社、1998年)、原著は"The Theology of Paul's Letter to the Galatians" Cambridge University Press, 1993, reprinted, 1994。

(注4)ダン上掲書まえがき7頁

(注5)ダン『新約学の新しい視点』58頁

(注6)James D.G.Dunn "Word Biblical Commentary Romans" Word,1988

(注7)ダン『新約学の新しい視点』65頁

(注8)ダン上掲書66頁

(注9)ダン上掲書67頁

(注10)ダン上掲書70頁

(注11)ダン上掲書73-83頁

(注12)ダン著『叢書 新約聖書神学8 ガラテヤ書の神学』16頁

(注13)ダン上掲書37頁

(注14)ダン上掲書85頁

(注15)ダン上掲書90頁

(注16)ダン上掲書93頁

(注17)ダン上掲書97頁

(注18)ダン上掲書97頁

(注19)ダン上掲書99頁

(注20)ダン上掲書101頁

(注21)ダン上掲書101-102頁

(注22)ダン上掲書102頁

(注23)ダン上掲書103頁

(注24)ダン上掲書104頁

(注25)ダン上掲書105頁

(注26)ダン上掲書106、107頁

(注27)ダン上掲書109頁

(注28)ダン上掲書109頁

(注29)ダン上掲書110頁

(注30)ダン上掲書111頁

(注31)ダン上掲書111頁

(注32)ダン上掲書112頁

(注33)ダン上掲書112、113頁

(注34)ダン上掲書115-121頁

(注35)ダン上掲書115頁

(注36)ダン上掲書115頁

(注37)ダン上掲書116頁

(注38)ダン上掲書117頁

(注39)ダン上掲書117頁

(注40)ダン上掲書118頁

(注41)ダン上掲書118頁

(注42)ダン上掲書118、119頁

(注43)ダン上掲書119、120頁

(注44)ダン上掲書120頁

(注45)ダン上掲書121頁

(注46)ダン上掲書122頁

(注47)ダン上掲書122頁

(注48)ダン上掲書122-123頁

(注49)ダン上掲書123-124頁

(注50)ダン上掲書124-127頁

(注51)ダン上掲書128-130頁

(注52)ダン上掲書130頁

(注53)ダン上掲書131頁

(注54)ダン上掲書131頁

(注55)ダン上掲書132頁

(注56)ダン上掲書134頁

(注57)ダン上掲書134頁

(注58)ダン上掲書136頁

(注59)ダン上掲書136頁

(注60)ダン上掲書139頁

(注61)ダン上掲書146頁

(注62)ダン上掲書149-150頁

(注63)ダン上掲書150頁

(注64)ダン上掲書151-152頁

(注65)ダン上掲書153-154頁

(注66)ダン上掲書154-157頁

(注67)Dunn "Black's New Testament Commentaries: The Epistle to the Galatinans"

(注68)Dunn上掲書21、22頁

(注69)Dunn上掲書132頁

(注70)Dunn上掲書150頁

(注71)Dunn上掲書151頁

(注72)Dunn上掲書159頁

(注73)Dunn上掲書284-285頁

(注74)Dunn上掲書143頁

(注75)Dunn上掲書189、190頁

(注76)Dunn上掲書192頁

(注77)F.F.Bruce"NIGTC,Galatians"Eerdmans,1982,180-181頁.

(注78)Dunn上掲書194頁

(注79)Dunn上掲書195頁

(注80)Dunn上掲書195頁

(注81)Dunn上掲書245頁

(注82)Dunn上掲書266頁

(注83)Dunn上掲書267、268頁

(注84)F.F.Bruce "NIGTC,Galatians" Eerdmans,1982,261頁

(注85)Dunn上掲書322-324頁

 

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