長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

信仰への招き  3.ご自身を啓示される神

2019-06-29 10:54:43 | 信仰への招き
ここまで話を進めてきたところで、改めて、「神」というお方について考えを巡らしてみたいと思います。
 
世には多くの「神観」があり、神についての「論」があります。大きくは有神論があり、無神論があります。一口に「神」と言っても、唯一神教もあれば多神教もあり、汎神論と呼ばれるものもあります。神についての種々様々な考えがある中で、聖書は神について何と語っているかを見ると、唯一の創造者にして、人格を持ちたもう神が示されています。
 
「はじめに神は天と地とを創造された。」(創世記1:1)
 
聖書はこの一句から始まり、既に見てきたように、神による天地万物の創造のみわざを書き記します。議論はありません。説得もありません。ただ、「はじめに神は天と地とを創造された」と言います。そして、この神が人を創造されたのであり、しかもご自身に似せて、人格的な存在として、愛し、愛される存在として、造られたと言います。
 
聖書は神を人間の議論によって証明されるような存在としてでなく、ご自身を示し、表し、語りかけ、招かれるお方として示しています。ですから、聖書は人間に対する神の語りかけで満ちています。
 
「あなたはどこにいるのか。」(創世記3:9)
「あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。」(創世記12:2)
「恐れてはならない。わたしはあなたの盾である。」(創世記15:1)
「わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう。」(創世記28:15)
「わたしは、有って有る者。」(出エジプト3:14)
etc.
 
人間に語りかけ、言葉を通してご自身を表されるお方であることが分かります。
 
それだけではありません。天地創造のみわざから始まり、数々のみわざを通してもご自身を表しておられます。モーセ率いるイスラエルの民に対しては、海を二つに分けるみわざによって、神はご自身を表されました。エリコの町の人々に対しては、城壁を崩すというみわざによってご自身を表されました。
 
更には、イスラエルの民が罪を犯したときには、敵に敗北させられるようにされたり、神様に立ち返ったときにはリーダーを与えて彼らを救出されたりなさいました(士師記)。神様の前に罪悪を重ねたことにより一旦は捕囚となったイスラエルの人々を、約束の期間が過ぎたのち、バビロン帝国から解放し、パレスチナの地に戻すというみわざによっても、神はご自身を表されました。すなわち、目を見張るような単時間でのみわざによってご自身を表しておられるだけでなく、長期的な歴史の経緯の中にも、静かに(しかし、熱情を込めて)ご自身を表しておられる神の姿が描かれています。
 
ここでは、旧約聖書に限って紹介させて頂きましたが、言葉とみわざを通して、あるいは歴史の進展の中に、ご自身を示しておられる神のお姿は、聖書の至る所に見出すことができます。
 
唯一永遠の神、創造者なる神、全知全能の神・・・これらはいずれも聖書に啓示された神のお姿です。しかし、決して私達人間から遠く離れて立っておられるお方ではありません。人に近づき、語りかけ、招き、導かれるお方です。神がご自身を私たちに表わしてくださるからこそ、すなわち神がご自身を啓示されるお方であるゆえに、私たちは神を見出すことができるのだと言えるでしょう。
 
使徒パウロは、哲学の町であると同時に多神教の町でもあったギリシヤのアテネの人々に対して、神様を次のように紹介しています。
 
「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。」(使徒行伝17:24‐27)
 
神はあなたを求めて呼びかけ、ご自身を示そうとして近づかれます。あなたも、このお方を「熱心に追い求めて捜し」てみませんか。
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JEA国内災害対応フォーラム

2019-06-26 19:48:15 | 事務所便り

昨日、東京御茶ノ水で、JEA援助協力委員会とクラッシュジャパンの共催で、

国内災害対応フォーラムが開催され、教団の危機管理室長として参加。

今回のテーマは初動態勢。

災害被災者支援団体と地域教会の連携、

やれることとやれないことの見分け、

ゴールを決めること、

鍵となる包括的宣教への理解、等々。

教えられることの多い集いでした。

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作品

2019-06-26 19:45:48 | 恵便り

テストも近づく中での恵の作品。

課題でもなんでもないが、こういう時には描きたくなるものらしい。

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信仰への招き  2.存在理由、存在意義

2019-06-22 14:22:49 | 信仰への招き
「人はなぜ生きているのだろう」と、人間はしばしば考えます。動物はそんなことを考えずに生きています。しかし、「人間は考える葦である」と言われるように、人間は自らの存在理由を問い、存在意義を問います。時には、様々な事情の中で行き詰まりを覚え、「自分は何のために生きているのか」を真剣に問うこともあります。しかし、この大変シンプルな質問に対して、必ずしもシンプルな解答が見いだせるとは限りません。色々な本を読んでも、かえって霧に覆われたような状態に落ち込んでいくことさえあります。
 
「人はなぜ生きているのか」、これに対する聖書の答えはシンプルです。「神が人を造り、生かしておられるから」ということです。そうだとすると、次の問いは、「神は何のために人をお造りになったのか」いうことでしょう。
 
これを考えるヒントは、聖書の冒頭に示されています。神様が最初の人、アダムをお造りになったときのことを、次のように記しています。
 
「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」(創世記1:27)
 
「自分のかたちに」、「神のかたちに」というところが注目すべきところです。いわゆる六日間による万物創造の中で(その解釈については、多くの議論が交わされてきましたが、ここでは横に置いておきます)、神様は地球環境の中に種々の植物も動物もお造りになりました。その中には、多少なりとも知恵を働かせることのできる動物もいたことでしょう。しかし、「神のかたちに」創造したと言われるものは、人間以外にはいません。このことは、聖書に基づいて「人」という存在を考えようとする場合、とても大切なポイントになります。
 
「神のかたち」が何を意味するのか、これも多くの神学者たちの議論の的です。総括的なことは、ここで展開する余裕はありませんが、大切なポイントして押さえることのできるのは、人間には神様に似たところがあるという点です。もちろん、聖書が啓示する神様は創造者であり、人間は被造物です。その間には無限の隔たりがあると言ってもよいでしょう。しかし、神様はあえて人間を、ご自身に似せてお造りになったということです。
 
「どこが似ているのか」、これも多くの議論のある所です。しかし、私としては、神様が人格的なお方であるように、人間も人格的な存在として造られたという点に注目したいと思います。
 
もちろん、世界中には種々様々な神観が存在します。唯一神教だけでなく、多神教や汎神論もあります。しかし、聖書が啓示する神様は、人格的なお方です。愛し、理解し、喜び、悲しむ神様です。自らのご意志によって行動され、語られるお方です。読んでいると「人間そっくりだ」と感じられるかもしれません。しかし、それは実は逆なのであって、人間が「神のかたち」に造られたからこそ、人間が神様と似た性質を持ち、人格的な存在として生きている、ということなのです。
 
人格的な存在は、他者との関わりを求めます。愛し、愛される関係を求めます。ですから、神様は人を愛し、人から愛されることを求めます。同様に、人間は他者の愛を求め、他者を愛して生きて行こうとします。「神のかたち」に創造されているからです。
 
「神は自分のかたちに人を創造された」という聖書の言葉が真実であるなら、人間の存在意義はそのあたりにあります。神の愛を知り、神を愛する者となること、また、人との関わりを大切にしながら、周囲の人々を愛して生きていくこと、そういうことを抜きにして、存在意義にかなった生き方をすることができない、ということではないでしょうか。
 
なお、「神のかたち」に関する近年の議論では、人間に与えられた世界管理の務めに注目されることがあります。先ほどの人間創造の記述の直後に、神様はアダムに次のように語られます。
 
「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」(創世記1:28)
 
神を愛し、人を愛する人間は、神が造られた世界を大切にし、人が住むに良い環境を保つために、最善の働きをすることは自然なことですから、この点に「神のかたち」の一面を見ることも的外れとは言えないでしょう。
 
神を愛し、人を愛し、神が造られた世界を大切にしながら生きるとき、私たちは自らの存在意義を確認しながら、幸せに生きていくことができるのではないでしょうか。
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教区牧師会&牧師夫人研修会

2019-06-18 19:06:47 | 教会便り

教区で久しぶりに(私としては初めてですが)、牧師会と牧師夫人研修会が

合同で開催されました。一泊二日、しあわせの村の施設(ひよどり)が会場で、

緑一杯の環境がうれしく、プログラムもゆったり。

テーマとしてはハラスメントという重いテーマでしたが、

充実した講師陣で、内容を深めることができ、感謝。

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信仰への招き  1.人間にとっての幸せ

2019-06-08 21:00:48 | 信仰への招き
人は皆、幸せを求めます。「福音」が「よき知らせ」であるなら、人を幸せに導くものであるはずです。そして、確かに聖書によって示されている「福音」は、人を幸せにするものであると、私は信じます。
 
ただ、本当の人間の幸せがどういうものであるか、すべての人が分かっているわけではありません。むしろ、的外れな所に幸せを求め、さまよっている人々も多いのではないでしょうか。
 
聖書の最初のところに、最初の人々として有名なアダムとエバの物語が記されています(創世記2章)。彼らはエデンの園で生活をしていました。それは、彼らにとって幸せな生活でした。神様は愛をもって彼らを守り、養い、導いておられました。彼らもそのことをよく分かり、神様を愛して生きていました。神様によって造られたアダムとエバは、最初の夫婦として、互いを喜び合い、愛し合って生きていました。食物もふんだんにあり、自然環境も快適でした。
 
このような、いわゆる「楽園での生活」の様子を見ると、人間にとっての幸せがどのあたりにあるのか、見えてくるような気がします。愛し、愛され、喜びと平和に満ちた生活がそこにあります。
 
しかし、聖書の続きを読み進めると、そのような「楽園での生活」は失われてしまったことが分かります。そのことについては、また後程取り上げたいと思いますが、私たちが世界の様子、私たちのすぐ周囲の様子に目を向けますと、そのことはすぐ分かります。愛ではなく、無関心や憎しみ、喜びと平和でなく、悲しみと争いが至る所にあります。
 
しかし、聖書を通して教えられるのは、神様が私たちのために、「回復の道」を備えてくださったことです。これが福音です。それは、今すぐ、世界が楽園の生活に変わるというのではありません。神様の回復の道には、順序というものがあります。しかし、世界は相変わらず悲しみと争いに満ちているとしても、それでも今この世界で、「楽園の生活」を回復することは、ある面、可能です。そんな道を、神様は御子イエス・キリストを通して備えてくださっています。
 
悲しみと争いに満ちたこの世界でも可能な幸せな生き方とはどんなものか、聖書を何度も読みながら、私なりに考えてみますと、「神様の愛のもと、神を愛し、人を愛する生き方」とまとめることができるように思います。これは、多くの人が考える「幸せな生き方」と重なる部分もあるかもしれません。よく聞かれるような、「健康で、経済的にもゆとりがあって、よい家族や友人に囲まれて・・・」といった「幸せな生活」観と重なる部分もありそうですが、焦点がもう少し違うところに置かれています。
健康や経済的状況は、良いこともあれば良くないこともあります。だれしも「よい家族や友人に囲まれて」と願いますが、常にそういう環境に恵まれるばかりとは言えません。それらのものが幸せの基準であれば、私たちは常に幸せになったり、不幸せになったりします。しかし、「神様の愛」は揺れることがありません。
 
「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。
それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。」(エレミヤ31:3)
 
これは聖書に示された神様の言葉です。人間の愛は、大きくなったり小さくなったり、燃え上がったり、消え去ったりします。しかし、神様の愛は変わらず、真実に私たちに向かい続けてくださいます。この神様の愛に気づき、この神様に信頼して生きること、これが私たちの幸せな生き方の土台となります。
 
この神様の愛を知ったなら、次に、この神様に愛をもってお応えしていくこと。そして、周りにいる方々をも愛しておられる神様であることを知って、自分も周りの方々を愛していくこと。これが人間にとっての幸せな生き方であると、聖書は示しているように思います。
 
聖書が示す生き方は、必ずしも世の人々が飛びつくようなものではないかもしれません。しかし、この世界を創造し、人間をお造りになった神様は、人間本来の生き方がどのようなものかご存知です。そして、そのような本来の生き方をしていくとき、私たちは本当の意味で幸せに生きていくことができます。なぜなら、神様が私たちをそのようにお造りになったからです。
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信仰への招き―聖書の福音を現代の日本人に:はじめに

2019-06-01 09:09:40 | 信仰への招き
一人の牧師、一人の伝道者として、聖書が語る「福音」を様々な方にお伝えすることは終生の使命であると自覚しています。神学校を卒業して26年、私なりにこの務めに取り組んできましたが、近年、二つの面から困難を覚えることがあります。
 
一つは、マスメディアだけでなく、ネット情報も入り乱れている中、多くの方は多種多様な価値観に触れながら生きています。牧師としては、「聖書の大切なメッセージ」としてお届けしたいと考え、一生懸命お伝えしたとしても、「数多くの多様な考え方の一つ」として受け取られる傾向は、昔よりも更に増していると感じます。(もちろん、そういう受け取られ方は、使徒パウロの時代から既にあったのですが。)
 
もう一つは、より根源的な課題に関わるものです。それは、保守的なキリスト教会の中で、「福音理解」について問われることが多くなったことです。昔から聞いてきた「福音」、これまで語ってきた「福音」が、本当に聖書の伝える「福音」なのか、という問いです。
 
この課題については、私も真剣に取り組まざるを得ませんでした。「福音」を伝えることが終生の使命であれば、聖書が伝える本当の「福音」がどういうものなのか、ゆるがせにできない問題と思いました。
 
しかし、この課題は、いわゆる「神学」の世界に入り込んでいくことを要求します。最近の神学的文献にも当たる必要も出てきます。神学の学位も持たず、ギリシヤ語、ヘブル語といった聖書原語、あるいは英語などの語学力も低い私にとって、取り組みは遅々としたものにならざるを得ませんでした。
 
それでも、神様の助けを頂きながら、自分なりの目途がつくところにまでは来たような思いがしています。まだまだ道半ばでありながら、そろそろ、「福音」を伝えるという本来の使命に立ち返る必要も感じられてきています。
 
「福音」はよき知らせです。多くの方々にお届けすべきメッセージです。私は、神様からこのメッセージを託され、語り継げるように召されたと思い、牧師として、伝道者として、生きています。
 
近年、このブログでの投稿も、難解な神学的議論に関わる投稿が多くなっています。現在もその作業は継続中ではありますが、事情により一時的に中断中でもあります。その間、教会の現状を踏まえつつ、自分が置かれている状況を神様に問う時間も多くなりました。
 
そのような中、課題への取り組みの中間報告のような意味も込め、現時点の自分の理解の中で、信仰を持たない方を含むブログの読者の方々に向け、もう一度、自分の言葉で「福音」をお伝えしてみたい、という願いが起こされました。
 
聖書にしっかりと根差したものとなるように願います。引用した聖書個所は明示したいと思います(引用は特に断りのない限り口語訳聖書とします。)聖書をお持ちの方は、聖書を開き、確認しながらお読みくだされば幸いです。
 
同時に、できるだけシンプルに、また、できるだけ多くの方々に届くようにと願います。エッセイ風に、今の生身の自分を通して、神様からのメッセージ、聖書の福音をお届けしたいと願います。
 
大まかなテーマの流れは考えていますが、書き進めながら途中で行き詰まるかもしれません。それでも、最後まで完成したものを小出しにしていくよりも、書きながら、祈りながら、時には軌道修正しながら、進んでみたいと思っています。
 
関心を持ってお読みくださる方が一人でもいてくださったら幸いに思います。
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