長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

船田武雄師告別式

2018-05-30 20:34:25 | 栄一便り

本日、京都聖徒教会を会場に、お世話になった船田武雄師の告別式が行われました。

貞美と一緒に参列することができました。

式の間、色々な想い出が駆け巡り、万感胸に迫るものがありました。

信仰が曖昧模糊としていた私に十字架の恵みを打ちこんでくださった船田先生、

神様の愛に応え、献身者として生きる生き方を身を持って示してくださった船田先生。

ひとりの人の中に、厳しさと優しさとが両立しうることを示してくださった先生でもありました。

そんな先生の身をもってのメッセージが、式の間、波のように押し寄せてくるような気がしました。

示された生き方をどこまで生き切れているか、問われた式でもありました。

先生を通して頂いた数々の神の恵みにお応えしながら生きていきたく、

願いを新たにしました。

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N.T.ライト『新約聖書と神の民』

2018-05-15 19:29:26 | 

曲りなりにこの書を読み終えた今、本の内容を詳細に論じたり、ましてやこの本の主張に対する自分自身の見解を明らかにするような能力も気力も私にはありません。ただ、私としては、一通り読み通すのにも相当根気よく取り組まざるを得なかった本ですので、読み放しにするよりも、いくつかの感想を書き留めておくのがよいと考える次第です。

1.構想力

まずは、その壮大な構想力に圧倒されます。新約聖書学者としての緻密な釈義作業をベースにしつつも、ひたすら細分化されがちな現代の学問的傾向に抗して、新約聖書学における総合的、統合的成果を目指しています。

上下二巻、日本語で900頁を越える本書が、ライトの構想の中で、『キリスト教の起源と神の問題』全6巻のうちの第1巻をなすに過ぎないわけですから、目も眩むような壮大な取り組みですが、本書を読み終えた今、その試みに対するライトとしてのベースが明瞭に提示されていることを認めざるを得ません。

ただ一点、この壮大な構想の原点となっている部分を探るとすれば、"The Clomax of the Covenant: Christ and the Law in Pauline Theology"(1991)は外せないと感じました。特に下巻では、この書が何度も引用されていましたし、内容的に言ってもこの書が、ライトの壮大な構想の原型となっているような気がします。まだ部分的にしか読んでいない本ですので、英書ではありますが、いつかチャレンジできたらと思いました。

2.歴史と神学

下巻の最後、結論部で、ライトは課題の焦点として、イエスの問題、新約聖書の問題、神の問題を挙げ、歴史家はイエスの問題を、神学者は神の問題を、文学評論家は新約聖書に直面すると指摘します(849頁)。保守的な神学の傾向が神学的方面から新約聖書を見ようとするとすれば、ライトの取り組み方には、歴史家として、あるいは文学評論家としての側面が強く現われているように思えます。

特に、全6巻のうちの第1巻である本書だけを見ると、ライトは神学者としてよりも歴史学者として新約聖書に近づいているようにさえ見えます。ライトのそのような姿勢は、これまでの私の内には希薄でしたから、今後も自覚的に留意していきたいと思いました。

3.ストーリー

新約聖書の問題を扱うのは、文芸評論家であるとするライトは、特に新約聖書がユダヤ的ストーリーを語りつつ、それらのストーリーを世界のために語ると言います。

『新約聖書と神の民』は、5部構成になっていますが、そのうち、最もページを割くのは、第3部の1世紀ユダヤ教を扱う部分で、約330頁に及びます。第4部の1世紀キリスト教を扱う部分は、220頁ほどですので、1世紀ユダヤ教への掘り下げの比重が相当大きくなっています。もちろん、1世紀キリスト教については続巻において更に詳しく取り上げられることとは思いますが、その序論として見た場合でも、1世紀ユダヤ教への比重の置き方は注目すべきところです。この点もまた、新約聖書をイスラエルのストーリーの語り直しとして見るライトならではの視点から来るものと思われます。

この「ストーリー」に注目しながら、新約聖書を取り巻く歴史的状況を分析したり、新約聖書の分析においても各書の提示するストーリーに注目したりといったライトの手法は、私としては相当のオリジナリティを感じさせられますが、ライト以前の学者たちの中に何らかの手がかりや示唆を与えるものがあったのかどうか、気になるところです。

4.「黙示的」とは何か

本書において新たに気づかされたライトの主張点として、「黙示的」ということへのライトの見方があります。その主張を正確に捉えるためには、もう少し詳しく読み返す必要があると思いますが、原始キリスト教徒たちの理解は、1世紀ユダヤ人たちによる「黙示的」理解をベースにしており、1世紀ユダヤ人たちによる「黙示的」理解によれば、「人の子が雲に乗って来る」という表現が真のイスラエルの正しさの立証予告であるのであって、マルコ13章の「黙示的」テキストによって表明されているのはイエスの再臨への期待ではないと言います(838頁)。これは、新約聖書の中にイエスの再臨への言及がないと言っているのではなく(使徒1章などに再臨への言及があるとされます)、通常「黙示的」と呼ばれるマルコ13章テキストについては、再臨への言及ではないということのようです。

新約学の歴史の中では、近年に至るまで、「黙示的」ということが相当重要視され、議論されてきているようですので、ライトの主張点として今後注目していきたいと思います。

5.敬虔主義的読み方について

本書をはじめとして、ライトの著作に触れると、私自身の聖書の読み方が随分個人主義的であったり、歴史的要素をいつの間にか忘れ去っていたりという傾向性に気づかされます。ライトが時々「敬虔主義的」と表現する読み方が、私自身の内には相当強くあることが自覚させられます。そのことは、ライトの著作に触れる際、最初は違和感ばかりか、反感さえ覚えさせる原因ともなっていたように思いますが、現時点では、私の聖書の読み方の偏りを矯正する役割を果たすものとして、一方では歓迎する思いが生れています。

ただ、他方ではライトの見方全体に、一貫して敬虔主義的読み方に対する反発のようなものを感じるとき、ライトの見方だけで聖書を読むようになったら、自分の信仰は随分変わってしてしまうのでは、という危惧を持つことがあります。このあたりのところは、今後ライトの著作と向き合う中で、自分自身の中で問い続けていくことになりそうですし、当然のことながら、ライトだけでなく、色々な書物を通してバランスを取っていくことも考える必要があると思いました。

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GW

2018-05-06 19:19:45 | 長田家便り

GWは、まず塩屋聖会への参加。

竿代照夫先生を通して、ローマ6章が開かれ、

キリストと共に十字架に付けられた者として、

信仰によって計算し、認めて生きることが語られました。

その後、家族で自然環境豊かなところで一泊してゆっくりしました。

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