長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

N.T.ライトによるローマ書における律法理解(第2回)

2018-02-01 19:22:16 | 神学

6.5:1-8:39におけるノモス

ライトはこの区切りに対して、「真の人間性としてのキリストにある神の民」とのタイトルを付けます。

(1)5:1-8:39全体へのライトの理解

まずライトは、この区切りについて、「ローマ5-8章は、それゆえ、注意深く組み立てられたユニットである」と指摘します。また、「1-4章は『義認』『について』であり、5-8章は、『聖化』『について』である」との見方を紹介した上で、ライトはこの読みが正確でないと言い、8:30での議論の結論を指摘しながら、次のように言います。「もし1-4章が何らかの意味で義認『について』のものであるなら、5-8章は栄化(glorification)『について』のものであると期待してよい。」(注48)同時に、ライトはこれらの背後に、次のようなテーマを見出す見方を提唱します。「パウロは、新しいエクソダスとの関連でメシアの民の物語を語っている。イエスの民は解放された民であり、約束された地に帰る途上である。」(注49)

(2)5:12-21

5-8章で最初にノモスが現れる区切りは、5:12-21です。この区切りの議論の流れについて、ライトは、12、18、21節が議論上の主要な節であり、13-14、15-17節、及び19、20節は、これらに対する説明であると指摘します。また、この区切りのテーマとしては、バシルーオー(王として支配する、統治する、パウロの著作での9回の使用の内、5回がこの箇所に現れる)、罪と死及び関連諸用語、アダムとメシアの対比等があることを指摘します。その後、ライトは、「それでは、イスラエル自体はどうなのか。トーラーはアダムの罪の継承をイスラエルが免れうるために与えられたとイスラエルは言わないだろうか」という問いを立て、以下のように答えます。「パウロは大変異なったラインを考える。2:25-29、3:19-20、そして4:15aといった以前の言明に従い、彼はトーラーが一見悲惨な結末の描写をもたらすのを見る(5:20)。しかし、神はこれをも取り扱う。イエス・キリストを通して、神の真実(それはトーラーを離れて啓示されるのであるが)は恵みが来るべき時代の始まりを告げる手段となった(5:21、また、3:21の遠まわしの響き)。」(注50)

5:13-14は、5:12の議論を途中で遮った形で「アダムとモーセの間」の問題を扱っています。ここで現われるノモスがモーセ律法であることは文脈上明らかであるとしながら、パウロがここで説明しているのは、罪がトーラーへの違反を意味するとするユダヤ人の視点から見て、罪なしであるように見える人々にも罪が広がっていたということについてであるとライトは指摘します。「彼の説明はシンプルである。罪はそこにあったに違いない(5:13a)。なぜなら、死がそこにあり、王のように支配していたから(5:14a)。彼は律法のない所では罪が数えられず、どんな記録機にも記録されないことを知っている(5:13b)。(略)結果的に、死が支配していた人々は、罪人ではあるが、アダムと同じようなタイプの罪人ではなかった。彼らは『アダムの違反(trespass)と同じように』罪を犯したのではなかった。」(注51)ここで、ライトは、"trespass"を「(知っている)戒めに違反すること」と理解しています。

5:20もまた、議論の流れからすると付加的な説明と位置付けられますが、「アダム-キリストの図において律法がどう当てはまるかを示すもの」とされます(注52)。「トーラーは、その所有者をアダムの罪の継承から解放するどころか、実際、彼らにとってそれを悪化させるように見える。このことは多かれ少なかれ、3:19-20でパウロが既に語ったことである。パウロはそれを5:13-14で明らかにしたが、律法のもとで罪を犯すこと―言い換えれば、違反する、知っている戒めを破ること―は問題をより悪くする。罪を小さなカラーの透かし絵と考えよう。律法はその背後に明るい光を置き、その前に大きなスクリーンを置く。それがパウロの言う『違反を増す』ということの意味である。(略)アダムの罪の問題はトーラーによって拡大されたが、神はトーラーがなし得なかったことをされた。罪が増し加わったところ、すなわち、イスラエル自体においては、アダムの罪のトーラーによる拡大の影響が十分感じられたところで、恵みは更に増し加わった。」(注53)

(3)6:1-23

ここでパウロが取り上げている問題について、ライトは以下のように指摘します。「パウロの質問はこうである。クリスチャンは今やアダムの連帯の中に自らを見出すべきか、キリストの連帯の中に自らを見出すべきか。彼らはなお罪と死の支配のもとで生きるのか、恵みと義の支配のもとで生きるのか。(略)」そして、この質問に対するパウロの答えを次のように要約します。「彼は言う。クリスチャンは古い連帯を去ったのであり、新しい連帯に属する。彼らはそのようにふるまわなければならない。その移行はメシアと共に死によみがえることによってもたらされる。そして、この死んでよみがえることが成し遂げられる出来事はバプテスマである。」(注54)

6:12-14は、章の前半と後半の間の橋渡しとして理解されます。すなわち、「2-11節の直接法を実際的現実とする命令法として続いている。しかし、続く奴隷と自由の議論のための用語を設定してもいる。」と言います(注55)。

その中で、6:14に、「というのは、あなたがたは罪と死のもとにでなく恵みと義のもとにあるから」と予想されるところで、「というのは、あなたがたは律法のもとにでなく、恵みのもとにあるから」となっていることに注意を促し、「パウロは議論を少し違った方向、すなわち律法の役割の問題へと向けている」と指摘します。この点については、ローマ書のこの箇所の前後での律法の取り扱いとの関連を指摘しながら、次のように説明しています。「現在の文脈においてパウロのポイントは明瞭である。キリストに属する者、バプテスマにおいて死に、よみがえった者は、アダムの連帯の中に生きず、『それゆえ、律法のもとで生きない』。これは我々がガラテヤ2:19で見出すそのものである。『私は律法を通して律法に死んだ。それは私が神に生きるためである。』示唆は衝撃的である。我々が6:14bの神学的説明を6:14aと共に行うとき、パウロは次のことを言っていることになる。もし人が律法のもとで生きるなら、罪は実際に支配する『だろう』。それを説明するのが7章全体である。」(注56)

続く6:15では、「人が律法のもとにいないなら、それは人が今や罪人であることを意味するか」という質問を扱います。「パウロの答えは今回次のことを示唆している。強調点は立場よりも(それも重要であるが)実際の振る舞いにある。ここでも再び、議論の用語は人間が属することのできる二つの領域であり、要点は神/恵み/義の領域にある人々の、特定のタイプの振る舞いのふさわしさにある。」(注57)

(4)7:1-8:11

ライトはこの区切りに「律法が与えることのできない命」とのタイトルを付けます。ライトはこの部分をローマ書全体の中でもひと際重要な部分として理解しているようで、節ごとの注解に入る前に、この区切り全体についての理解について、9頁にわたってコメントしています。(注58)

まずは、「ローマ7章、そしてそれと密接に関連するローマ8章の最初の節―の表面上の主要なテーマはユダヤ人律法、すなわちトーラーである」と指摘されます。そして、「パウロはここで特定の外観を持ったイスラエルの物語を語っている。これは、イエスの物語でクライマックスに達する物語である(8:3-4)。そして、この物語がクライマックスに達する方法は、キリスト教の基盤を理解するために重要である」と言います。(注59)

ライトは、この部分を「手紙全体の連続した、破られることのない議論の一部」、「5-8章という偉大なセクションの中心に立っている」と評価します。「パウロがここでしていることは、7:5-6と第二コリント3:1-6の並行関係が明らかにするように、『神がキリストにあって、御霊によって、契約をいかに更新したか』を提示することである。すなわち、『トーラーがなし得なかったことを神はなされた』(8:3)」。「この節はそれゆえ、確信についてのパウロの議論の肝要な部分である。」と指摘しつつ、更に、「ここで中心部分に達する5-8章の他の主要なテーマは、新しい出エジプトである。」とも言います。(注60)

このような文脈の中で、「新しい出エジプトの物語は、初めの出エジプトの物語と緊張関係にある」ことが指摘されます。「もともとの出エジプトとの関わりで言えば、イスラエルは自由な神の民である。新しい出エジプト、罪と死からの出エジプトとの関わりで言えば、イスラエルはなお奴隷状態である。もともとの自由について語ったトーラーがまさに継続した隷属状態とその結果をイスラエルに日々思い出させる。」

但し、この箇所でのトーラーの扱いがかなり微妙なものであることもライトは指摘します。「しかしながら、ここでのトーラーについてのパウロの見解はなおより微妙である。他の箇所で議論したように、8:1-11は、他の事柄の中でトーラー自体の擁護を構成している。(略)ことに、この節はトーラーが最も消極的であるように見えるまさにそのところで、トーラーが救済の歴史において果たした積極的役割を示す。」

そして、このような文脈の中で、8:3-4のイエスの死の意味を捉えようとします。「それゆえ、確信についてのパウロの議論、そして、新しい出エジプトについての彼の説明を中心で、我々はイエスの死の意味についての最も明瞭な言述の一つを見出す。(8:3-4)」(注61)

以上のことを踏まえつつ、7:7-25の「わたし」が誰であるかという問題をかなり詳細に扱っています。「このすべてのことから、ローマ7章の問題としてしばしば言及される問題、すなわち、7:7-25を支配する『わたし』とは誰かという問題に私が与える解答が明らかとなる。」ライトはまず、それが「通常のクリスチャン」をさすという見解を退けます。(提唱者としてクランフィールドやダンの名が挙げられます。)その理由としては、「バプテスマを受けたクリスチャンが『罪の内に』いない、『肉の内に』いない、『律法のもとに』いないという、6:1-8-11繰り返されている主張」が挙げられます。ライトは、ここでのノモスがモーセ律法、すなわちトーラーであることを踏まえ、次のように言います。「7:7-25の『わたし』は、いかなる主張においても顕著な修辞的な特徴があり、それゆえパウロの二つの支配的ナラティブの中で接近されうる。(a)アダムとメシアの物語、そして(b)新しい出エジプトである。トーラーは最初のナラティブの中に入って来る(5:20)。シナイは、二番目のナラティブにおいて鍵となる瞬間である。これらの中で、パウロはイスラエルについて語っているように見える。トーラーのもとにあるイスラエルについて、トーラーが来た時のイスラエルについて(7:7-12)、その後、トーラーのもとで生き続けたイスラエルについて(7:13-25)。」(注62)従って、ライトは、7:7-25における「わたし」を、パウロ自身でなく、通常のクリスチャンでもなく、上記二つの支配的ナラティブにおけるイスラエルと理解していることが分かります。

また、この節から御霊についての言及が突然増えていることに注目を促しつつ、次のように指摘しています。「パウロがここで御霊に割り当てている役割は、律法がなし得なかったことをするというものである。」「それゆえ、彼がこの節で御霊に与えている主要な機能は、『命を与える』というものである。その命は、トーラーが約束したが与えられなかったもの(7:10)、究極的には肉体の復活によるものである。しかし、この命は単に将来のものではない。6章にあるように、クリスチャンは既に復活の基盤の上に立っており、6:4-5、8-11で主張される立場はここで実際的な内容で満たされる。なぜなら、『朽ちるからだ』に命を与える御霊は、『キリストにある』者たちが新しい考え方を持ち、ついに事実神の御心に従い、神の律法(!)にさえ従い、自分たちの行いにおいて神を喜ばせることを可能にすることによって、復活を待ち望ませるからである(8:5-8。1:21-22、28、12:2も参照。最後の節は特に重要。)それゆえ、このことは神の新しくされた民の『荒野の彷徨』の解説を与えるものである(8:12-27)。彼らは御霊に導かれており、御霊は彼らが隷属を後ろにし、神の子として生きることを可能にするのである。」(注63)

この節全体の議論の流れとしては、以下のように指摘されます。「この節の議論は、明瞭な節に分かれる。導入(7:1-6)は、律法と罪が同一であるのかという問題(7:7-12)に導く。これは二番目の問題、すなわち、一番目の責めを免れるとしても、良い律法が死という結果をもたらすのかという問題を産む(7:13-20)。次にこのことはパウロの逆説的結論に導く(7:21-25)。パウロはそこで神の解答を明細に述べ(8:1-11)、それは自然に、御霊にある命の更なる解説の基礎として役立つ(8:12-30)。」(注64)

(4-1)7:1-6

7:1-6は、「律法から出て来る」とのタイトルが付けられます。

7:1については、次のように言われます。「彼は6:14-15を振り返っている。『あなたがたは律法のもとにいない。・・・それとも、あなたがたは律法が人を生きている間だけ支配することを知らないのか。』(略)パウロは章の初めの6節で、実際、死がクリスチャンの『もはや律法のもとにはいない』ということをもたらしたということを強調している。」「彼は『律法を知っている者たちに』語っていると彼は言う。彼は彼らを自分の同族と呼び、この議論の中では彼ら自身を彼と同一視してもらいたく思っているように見える。」「彼は律法(law)を知っている人々として彼らを提示している。これはもちろん、一般的なローマの法(law)でもありえる。そこでは、ユダヤ人律法におけると同様、死はすべての借財を支払う。しかし、主題からすれば、ユダヤ人律法を意味するほうがはるかにありえる。」(注65)

7:2-3については、「解説として、パウロは時々例話として受け止められているものを提供する」と言い、少しの説明を加えています。(注66)

7:4については、以下のように記されます。「この節全体は、三つのことを同時に簡略化して言っているように見える。(a)メシア・イエスの肉体の死は、それを通してメシアの民が『彼と共に』死ぬところの代表的出来事である。(b)あなたがたはバプテスマによってメシアの中におり、それゆえその死を共有している。(c)あなたがたのメシアとの連帯は彼の『からだ』におけるメンバーシップの用語で表現されうる。」(注67)

7:5-6については、まず要約的に以下のように指摘されます。「パウロは今や4節を古い命と新しい命の二重の描写で説明する。広く認められているように、これは続く二つの区切り、7:7-25と8:1-11についての二重の見出しとして機能する。」5節の「律法を通しての」(罪の欲情)という言葉は、「大変例外的表現」であるけれども、「パウロはここで自分が意味するところを説明していない」と言いつつ、「6:14-15と、その背後にある5:20と調和している」と指摘します。6節の(律法から)「解放された」という動詞は、2節で使われているものと同じであることが指摘されます。「奴隷であることの古いあり方と新しいあり方の対照は、第二コリント3:6を呼び起こす。そこにおいて、それは明らかに『新しい契約』の用語である。」とも言われます。そして、5-6節は、次の質問を引き起こすことが指摘されます。「もし『罪の欲情』が律法によって引き起こされるなら、律法について何と言ったらよいか。それは実際上罪それ自体と同一なのか。」(注68)

(4-2)7:7-12

7:7-12については、「律法の到来:罪はその機会を捉える」とのタイトルが付けられます。

ここでは、律法に関する最初の質問が取り上げられます。「最初の区切りは『律法は罪か』と尋ね、シナイにおける律法の到来とイスラエルのアダムの罪の反復の物語を語ることによって答えている。これは律法の過失ではない。律法は罪自体の不本意な道具であった。」(注69)

7:7b-8aについては、まず「律法は罪と同一か」という質問に対してパウロの答えはそれを否定するものであることが指摘されます。そして、「律法は弱くとも、問題の根源ではなく、単に不本意なチャンネルである」と言います。また、「7bでの第10戒への言及(出エジプト20:17、申命記5:21)は、律法がシナイ山で最初に与えられた時のことを言及しているように見える。」と言います。(注70)

7:8b-10については、次のようなことが指摘されます。「『しかし、戒めが来たとき』すなわち、シナイにおいて『罪は生き返り、私は死んだ』。ここ、及びこの節全体の中で、出エジプトの物語において、戒めの付与の瞬間、アロンとイスラエルの子らが金の子牛を造ったという事実がほのめかされている。」「結果(10b)は、命を約束した戒めが『わたし』にとっての死となったことである。(略)創世記の命の木へのほのめかしは、レビ18:5(パウロはこれをこの節と密接な関連のある個所、ローマ10:5で引用している)と、トーラーを守る者たちのために命を約束する節、申命記30:15-20における契約的節への、より直接的な言及の下に隠れている。」(注71)

7:11については、次のように言われます。「予備的な描写は完全である。(a)罪と律法は完全に異なる。(b)罪は命を約束した律法を上回った。(c)罪は律法を働きの根拠として用い、律法が約束したものとは反対のものを生み出した。」(注72)

7:12については、次のように指摘されます。「トーラーは罪との同一の疑いを晴らされ、神の律法、聖なる、正しい、良いものとして、再び肯定される。」(注73)

(4-3)7:13-20

7:13-20については、「律法のもとで生きる:罪は死を引き起こす」とのタイトルが付けられます。

この区切りについては以下のように言われます。「13節aは、律法が今や良いものであると証明されたが、にもかかわらず死の原因であるのかという問いを立てる。13節bは、最初の答えを与える。すなわち、死をもたらすのは、律法であるよりもむしろ、罪である。これは、14節(ガル)と続く節によって更に説明される。」「13-20節は、更に区切られる。13-16節は、基本的に、『私』における罪と死にもかかわらず、律法が良いものであることについて。17-20節は、悪いのは実際には『私』ではなく、再度罪であることを示すため、『私』の逆説的振る舞いの思想を展開する。概観で議論したように、ここでの『私』は、一義的にはトーラーのもとでのイスラエルであり、トーラーのもとでさえ、イスラエルはアダムの領域、罪と死の支配の内にあるというポイントが明らかにされる(5:20。6:14、7:5参照)。」(注74)

7:13aについては次のように言われます。「それではトーラーは結果的に起こるもの、すなわち死に対して責任があるのか。再び、パウロは答える。もちろん、違うと。」(注75)

7:13bについては次のように言われます。「すべての責めは、再度罪そのものに向けられる。罪は律法(『良いもの』)を通して『私』の内に働く。律法それ自体でなく、罪のその働きが死をもたらす。これが7:5の濃縮された言述の背後にある基本的説明であって、トーラーを過程における意図的共犯者の容疑を晴らすものである。」加えて、次の点が指摘されます。「13節の二重のヒナは、議論全体から現れる十字架理解を指し示す。」(注76)

7:14については次のように言われます。「トーラーの容疑を晴らすため、パウロは今や更に罪にとらわれ、それゆえ死にとらえられている『私』を分析する。これをするため、彼はトーラーの真の性質と、人間(とまさに『アダム』にある人としてのユダヤ人)の性質とを比較する。彼は言う。トーラーは霊的であるが、『私』は『肉的』であり、罪のもとに売られており、罪の奴隷である。」(注77)

7:15については、次のように言われます。「『私は肉的である』ということのパウロの説明は、『私』の振る舞いの記述である。」「彼は、イスラエル全体について語っている。一民族としてイスラエルは(言わば)形式上、また公式上、トーラーを喜んだが、大抵はトーラーが従われていないことに常に気づいていた。」(注78)

7:16については、次のように言われます。「そこで、13-15節より結論が引き出され、13節aの『断じてそうでない』が補強される。」(注79)

7:17-20については、次のように言われます。「次の4つの節は、トーラーについて何も語らず、『私』と、その罪との関係について、全般的に集中する。」「『私』は欲求不満であったとしても、実際、トーラーのように容疑が晴らされ、責めは(もちろん)罪に行く。」(注80)

(4-4)7:21-25

この区切りに対しては「律法を振り返る:神の律法と罪の律法」とのタイトルが付けられます。

7:21については、まず次のように言われます。「『それゆえ、これが、私が律法について見出したことである。』パウロはここで彼の長い議論の結論を引き出そうとしている。」ここで、まず、ここでの「律法」についての理解が議論されます。「しかし、ここでの真の問題は、これである。彼がここで語っている『law』とは何か。」多くの注解者が一般的な原則、理論として理解していることを踏まえつつも、次のように指摘します。「これはあまり注目されないことであるが、パウロはここで一般的な"a nomos"でなく、"the law"について語っている。ヒューリスコー・アラ・トン・ノモン、『これが、私が律法(the law)について見出したことである』。定冠詞は非常に重要である。(略)"the law"すなわち、これまでずっと主題であったものである。」このようにして、ライトはここでのノモスもまた、モーセ律法、トーラーであると考えます。

そして、続く結論(私が善をしたいとき、私の内に悪が待ち構えている)について、次のように言います。「最初の結論は、15-16節、17-20節における『私』の描写から取られている。それは、そこから、『律法』について結論付けられうることを導き出すためである。」(注81)

7:22-23については、再び、次の問題点が指摘されます。「この地点で多くの注解者は再び、ノモスをトーラーとして読み通すことを躊躇してきた。彼らは言う。22節の『神の律法』は明らかにモーセ律法であるが、彼が23節でヘテロン・ノモン(別の律法)について語るとき、この節自体が確かにパウロが違う律法について語っていることを示している。」

しかし、この点についても、ライトは次のように指摘します。「返答として強調されるべきポイントは、これらの『消極的』定式は、『単にパウロがトーラーについて5:20、7:5、また特に7:8-11、7:13で語ってきたことを拾い上げ、明快に説明している』だけであるということである。」「トーラーは神に与えられたものであって、それ自体、きよく、正しく、良いものである。それはまさに喜ばれるべきものである。トーラーが罪の働きの拠点となる限りにおいて(8、11節)、それは罪によって乗っ取られ、『罪の律法』になった。」「それゆえ、二重のトーラーは、『私』、すなわちトーラーのもとにあるイスラエルの不思議な二重のアイデンティティに適合する。『私』それ自体はパウロが17-20節で議論してきたように、原則的には容疑を晴らされている。しかし、この『私』がアダムにあり、サルキノス(肉的である)(14節)限りにおいて、罪と死はその『肢体』の内に働く(23節(略))。これらの節においてパウロは一方で『心』との関連で、他方で『肢体』との関連で、この二重性を表現しており、前者を更に『内なる人』(略)というフレーズで説明している。」「ここでの問題は(略)、罪である。すなわち、罪はトーラーを乗っ取り、それを働きの拠点とし、今や(略)5:20や7:5で現れるような『他の律法』と、聖なる、正しい、良い神の律法との間の全面戦争を生み出している。」(注82)

7:25bについては、以下のように言われます。「『私』の二重のアイデンティティとトーラーの二重のアイデンティティは、節全体を皮肉にも特徴づける二重の奴隷との関連で述べられる。」「『私』について真実な二つのことの間の対照は、『心』と『肉』とを区別することによってなされる。」(注83)

(4-5)8:1-11

この区切りに対しては、「神は御子と御霊を通して命を与える」とのタイトルが付けられます。

この区切り全体に対しては、概観的に、以下のように言われます。「ローマ8章の最初の11節は、ローマ5-8章全体のまさに中心に位置する。同時に、それらは7:1で始まったセクションの思想を完成させ、8:30に至るまで動く偉大な結論を始める。」「この区切りの形はそれゆえ明確となる。最初の言述(1節)は、パウロの通常のやり方で、まずもう一つの濃縮された短い言述ですぐに説明される(2節。1節とはガルで結ばれる)。次に、(もう一つのガル)3-4節の複雑で力強い言述で説明される。その一文は、彼の全神学と言わずともローマ5-8章でパウロが語っていることのまさに中心を表すと言ってもよいものである。1-4節全体は、律法が与えられなかった命を神が与えたのがいかに正確にであったかを説明する、順序だった議論のプラットフォームを提供するものである。5-8節は、『肉にある』者に対して命に至るいかなる道も排除しているが、御霊がその命の重要な源であると主張する。9-10節は、これを『キリストにある』者たち、それゆえ『御霊にある』者たち、すなわち、御霊を、あるいはキリスト自身を宿している者たちに適用している。そして、11節は結論である。」(注84)

8:1については、「こういうわけで」(アラ)をどう理解したらよいかについて、a+b=cといった、三段論法の通常のパターンでなく、cを先にし、それをbで説明していると言い、次のような趣旨になると言います。「私は心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えている。それゆえ罪に責められることはない。なぜなら、神が肉において罪を扱い、体のための新しい命を備えられたから。」(注85)

8:2については、3:27-31や7:21-25で直面した問題の新しいバージョンがあることが指摘されます。すなわち、「パウロは、ノモスのこれらの使用によって、『律法』、トーラーを意味することができたか。」という問題です。この問題について、それが7:21-25とつながっていることを指摘した上で、次のように言います。「私がそこで議論したように、問題の『律法』は一般的な原則ではなく(略)、一方向から、特に4:15、5:20、7:1-6(7:7-25は言うまでもなく)の角度から見たトーラー自体であるということが不可避であるように思われる。」

しかし、「罪と死の律法」は、7:23、25における「罪の律法」とのつながりを考えるとしても、この文の主語となっている「命の御霊の律法(law)」はどうなのかという問題が提起されます。ライトはこの点について、次のように言います。「2節の説明は、結局のところ、3-4節に見出される。そして、そこでは、章全体の中心として、『律法の義なる評決』(ディカイオーマ・トュー・ノムー)が『御霊によって歩く私たちにおいて』今や成就するということが見出される。(略)それゆえ、パウロが『キリスト・イエスにおける命の御霊の律法(law)』について語る時、彼は実際にトーラーについて言及しているのだということは、奇抜なことではなく、節全体の趣旨に即している。(略)結局、3、4、7節のホ・ノモスは、明らかにトーラーである。」「『というのは、キリスト・イエスにある命の御霊は、あなたがたを自由にした』と書くことは簡単であったことだろう。しかし、パウロはめったに簡単なオプションに甘んじない。彼は見かけにもかかわらず(そして多くの注解者にもかかわらず!)トーラーは神の律法であり、きよく、正しく、良いものであること、それを抱く者たちのもとに来る死の原因ではないことを議論するため、1章全体を費やしてきた。今や彼は更にステップを進める。神がキリストにおいて、そして御霊によって働かれる時、トーラーは同様にともかく含まれ、ともかく生きて働く。」「トーラーは、それゆえ(略)神が成し遂げられたもの、すなわち、御霊が人格的与え主となる命の、隠れたエージェントである。」(注86)

8:3-4については、まず関連する二つの問題が提起されます。「律法が『なし得なかった』のは何か」(3節)。もう一つは、「4節のト・ディカイオーマ・トュー・ノムーの理解」です。

ライトはまず、後者の問題から扱います。ディカイオーマを「要求」と理解し、ト・ディカイオーマ・トュー・ノムーを「従われるべき道徳的命令」と理解する読みに対して、次のように指摘します。「この読みに対しては、二つの顕著な反対がある。第一には、ディカイオーマがこの意味で使われる時、それは通常複数形である(例えば、2:26。NTの他の箇所としてはルカ1:6、へブル9:1、10、黙示録15:4、19:8。)第二には、この節が振り返っている節において、ディカイオーマはここでと同様、カタクリマと対照されており(5:16、18)、ディカイオーマは間違いなく神の民に求められる振る舞いではなく、神の義なる判決あるいは評決である。(略)従って、ここでのト・ディカイオーマ・トュー・ノムーは、律法が求める振る舞いよりもむしろ、律法が宣言する評決に言及している可能性が高い。」5:16、18との比較により、ここでの評決は積極的な評決であり、「これを行え。そうすればあなたがたは生きる」というものだと言われます(10:5)。このような読みを支持する三つの事実として以下の点が指摘されます。「7:10で律法のこのような意図に焦点が当てられていること。8:1-10の議論全体の趣旨(背景における5:21と共に)。そして、10:5-11における命を与える律法についてのポイント。」

こうして、ト・ディカイオーマ・トュー・ノムーを「律法の義なる評決」=「命」とする理解により、「律法が『なし得なかった』のは何か」という問題についても以下のように答えます。「律法に不可能なことは何か。命を与えることである。律法は命を提示したが、手渡すことはできなかった。」(注87)

以上の理解に基づき、この箇所は以下のように理解されると言います。「神は罪をイエスの肉において罰せられた。その結果、律法が提示した命は御霊によって導かれるものによって正しく与えられた。」この後、ライトは、この言述の前半について、詳細な議論をします(約3頁分)。その上で、後半の言述について、次のように言います。「従って、4節はぴったり収まる。導入の『so that』(ヒナは、5:20、7:13のように、神の目的を明確に表現している。)は神の意図を述べている。すなわち、律法の義なる評決は『私たち』において満たされる。トーラーが神の民に与えようとし、実際そのように切望してきた命は今や御霊によって与えられる。」「既に議論したように、ディカイオーマは、律法が宣言する評決よりもむしろ律法が命じる振る舞いを言っているとも考えられうる。パウロは、罪の有罪判決の意図的結果は神の新しくされた民がついに律法の求めたことをなすことができるようになることであったと言った可能性もある。(略)しかし、単数形(略)、及び節全体のより大きな趣旨とは、命という、律法の『義なる評決』への言及を強く示唆している。」「既に指摘したように、このことは現在の信仰義認を損なうものでは決してない。ここで語られていることは将来の評決であって、最後の日、パウロが2:1-16で描いた日の評決である。その評決は現在の評決に一致し、パウロが今語っている御霊に導かれる命に続くものである。」(注88)

8:5-6については、次のように言われます。「続く二節は、御霊によって歩く者がなぜ命を継ぐのかについての二段階の説明である。」(注89)

8:7-8については、次のように言われます。「続く節は、以前の節の更なる説明として自らを提供している。(略)パウロが言おうとしていることは次のようなことに思われる。(a)肉の思いは死であり、御霊の思いは命と平和である。(b)『なぜなら』肉の思いは、神に敵対する。(c)しかし、御霊の思いは神との平和である。(こうして『平和』を説明する)(d)『そして』御霊は復活の命の源である(こうして『命』を説明する)(e)そして、それゆえ、あなたがたには現在御霊が内住しており、将来の復活の命が保証されている。しかし、パウロがしたことは、思想の流れを縮めて、(a)(6節)、(b)(7-8節)、そして(d)と(e)との組み合わせである(9-11節)。彼が思想の明らかなリンク(ここでは(c))を省略することは初めてのことでもなければ、最後のことでもない。」「パウロは少なくともステージ(b)を十分に説明している。(略)彼は肉の思いが神に敵対するという。興味深いことに、このことについての彼の更なる説明は(略)肉の思いが神の律法に従わないというものであり、そのポイントは肉の思いがそうできないことに基づいて更に説明される。」(注90)


7.9:1-11:36におけるノモス

ライトは、この区切りに対して、「神の約束と神の真実」とのタイトルを付けます。

(1)9:1-11:36全体に対するライトの理解

この区切りに対する様々な見方を概観した後、「これらの三章を支配する二つの質問」があることを指摘します。「信じないイスラエルの問題と、神の真実の問題である。もちろん、この二つは密接に関連している。後者は前者によって引き起こされる。」「この二重のテーマは、神の契約的真実、ディカイオシュネー・セウーの問題として焦点が合わせられる。」

この問題に、パウロがどのように答えているかについて、次のように言われます。「この手紙のバックボーンは、『アブラハムから(パウロの)今日までのイスラエルの物語の語り直し』であるということを理解することが、ローマ書を読む際に最も重要である。」「この手紙において、このすべての主要な趣旨は堅固な土台に両足をつけた状態で、11:1と11:11の質問に行き着く。」

ローマ教会の歴史のこの段階で、パウロはなぜこのようなことをこの教会に対して言う必要があったのか、という問題については、三つの歴史的解答を指摘します。「まず、ローマが反ユダヤ人の志向の長い伝統を持っていること。」「第二に、西暦54年のクラウディウス帝の死後、かなりの人数のユダヤ人がローマに帰ってきたこと。」「第三に、50年代後半までに、ユダヤとガリラヤとの間に緊張が高まっていたこと。」

ローマ5-8章の主題と9-11章との主題の間に、見かけ上の分離があるように見えるという問題については、以下のように言われます。「ローマ5-8章は、神がイエス・キリストにおいて成し遂げられたことについての定型的な、ほとんど様式化された段階的提示である。しかし、この提示の下には、これまで見てきたように、イスラエルの物語がある。」「9-11章には、多かれ少なかれ逆のことが起こっている。(略)表面上の物語は、アブラハムから彼の時代までの神の民の物語である。しかし、より深い次元は、肉におけるメシアの民の物語である(9:5)。」

以上のようなことを踏まえつつ、トーラーについて以下のように言われます。「こうして、5-8章と9-11章、及び両者の関係についての解釈において決定的なことは、7:1-8:11におけるトーラーについての複雑な議論が、9:30-10:13の同様に複雑な節のための基盤を据えたことがわかる、ということである。」「この新しい文脈では我々は神が与えたトーラーに対してイスラエルが躓いたということに再度直面し、また、トーラーが常に意図してきたこと、言い換えればディカイオシュネー・セウーの成就を神がメシアを通して再びされたことに直面する(10:3-4)。」(注91)

(2)9:1-5

この区切りに対しては、「イスラエルが約束の担い手であるにもかかわらず信じないことへのパウロの嘆き」とのタイトルが付けられます。

まず、「ローマ9章の最初の5節について奇妙なことは、パウロが問題が実際何なのか、述べていないことだ」と指摘します。嘆きと祈りが記され、問題自体は舞台裏で舞っていると言います。((1)参照。)

この中で、ノモスへの言及があるのは、9:4-5です。「パウロは彼の同族の特権について列挙する。彼はあるレベルでは、直接的修辞的力、同情への訴えを高める。これらは、こんなにも多くを与えられた民であると。別のレベルでは、このリストは高い皮肉としても機能する。これらの特権の多くは(どんな民族にしろ)今や『メシアにある』者たちに属すると、これまでの章で議論してきたものである。(略)7:1-8:11は、律法付与と御霊にあるその不思議な成就についての複雑な物語を語っている。」(注92)

(3)9:6-29

この区切りには、「アブラハムから捕囚までのイスラエルの物語は裁きと憐みにおける神の正義を示す」とのタイトルが付けられます。

(4)9:30-33

この区切りには、「信仰、行いと躓きの石」とのタイトルが付けられます。この箇所では、これまでに描かれてきたことを踏まえながら、「パウロは議論に新しく、極めて重要な要素を加えている。律法と信仰の相克である。」と言います。

9:30については次のように言われます。「ポイントは、神の契約に属することに関心のなく、当然ながら彼らの異教の信仰と行いに満足していた異邦人たちが契約のメンバーシップ、メシヤによって成し遂げられた『権利を与えられた』立場を今や得たということである。しかし、このメンバーシップは、もちろん、ユダヤ人のトーラーを守ることによってではなく(略)、信仰によってである。」(注93)

9:31については、次のように言われます。「けれども、イスラエル自体は逆の状況にあることを見出す。」「我々は、パウロが次のように言うのを期待する。『イスラエルは、義を追い求めて、それに達しなかった。』しかし、パウロは滅多に我々が期待するようには言わない。」そして、実際にパウロが語ったのは、「『イスラエルは律法を追い求めて、律法に達しなかった』」ということだと指摘し、「実際、その思想は7:21-25から遠くない」と言います。そして、「パウロは、『律法』への最初の言及に『義の』を加えることによってこれをさらに複雑にする」と言います。そして、「再び7章におけるように、彼は律法が神の律法でなく、きよくなく、正しくなく、良いものでないことを意図しようとしていない」と説明します。(注94)

9:32aについては、次のように言われます。「パウロの説明はほとんど同様に逆説的である。イスラエルがトーラー、契約の証書に達しなかった理由は、彼らが信仰によってでなく、『あたかも行いによって』追い求めたからだ―その含意は、『決してそうでなかった』あるいは少なくとも『それは不可能な道筋だった』ということである。パウロのユダヤ人律法についての見解には、しばしば見過ごされていることであるが、微妙さがある。パウロは、ユダヤ人律法、トーラーが悪く、取るに足らないとは考えず、他の何かを好んで道を譲るべき二流のものであるとさえ考えない。唯一の疑問は、『それに達する』をどう考えるかということである。これに対する十分な解答は、10:6-9で、申命記30章での『新しい契約』の節を用いることによって、明瞭に与えられている。しかし、パウロが8:1-11、特に8:4-8、またその背後に再び2:24-29と3:27-31で語ったことを思い出す者は、既に手がかりを持っているかもしれない。奇妙に見えるかもしれないが、すべての者、ユダヤ人にも異邦人にも同様に開かれている『律法を守ること』が存在する。これは、パウロが既に示唆し、間もなく議論するであろうことであるが、言わば、トーラーが事実ずっと欲していたことである。戒めの完全なリストの意味であっても、ユダヤ人を異教の隣人たちと区別する(より一般的な)意味であっても、単に『律法の行い』によってそれが達せられる、あるいは契約のメンバーシップがずっと保証されると考えることは、パウロの見解と衝突する。律法の行いによってはどんな人(肉)も義とされない(3:20。ガラテヤ2:16参照)。節の文脈では、視界を支配しているのは二番目の意味の『行い』である。イスラエルが求め、9:6-29が痛みをもって否定したのは、神の民と、トーラーを所有する人々すなわち民族的イスラエル全体とを、全く同一視することである。パウロはこれまでの全議論を踏まえ、このことがトーラーの適切な成就では決してなく、トーラーに達することでも決してないと主張する。トーラーを与えた神は、アブラハムに約束を与えた神であり、全世界の家族について約束された神である。トーラーが神によって後に見捨てられた悪い考えだと考えない限り(パウロは決してそうしていない)(10:4の注解を見よ)、我々は神が常に一種のトーラー遵守、一種の律法成就を提示したと結論しなければならない。それは、初期のパウロ自身を含み、パウロの時代の熱心なユダヤ人たちが熱心に追求した順序とは違うのであるが(ガラテヤ1:14、ピリピ3:4-6)。」(注95)

(5)10:1-21

この区切りに対しては、「神の義と世界宣教」とのタイトルが付けられます。

(5-1)概観

まず、「ローマ10:1-13は、その各部分を適切に理解しようとするなら、全体として見られなければならない」と指摘されます。(各文は多くのガルで結ばれている。)続いて、この区切り全体に対して、次のように言われます。「この節の主要なテーマは、メシアにおいて起こった契約の更新、そして契約の再定義である。神は常に約束されたことをなさった。神が重要な申命記30章で約束されたことは捕囚という裁きの後、イスラエルを回復し、律法を新しい方法で守ることができるようにすることだった。パウロの時代のイスラエル(略)はこれを理解しなかった。言い換えれば、彼らはディカイオシュネー・セウー、神の義を理解しなかった。彼らは、神がいかにずっと契約に真実であられたか、あるいは、神が約束されたことを、その契約を更新し、異邦人を信仰によって信じるユダヤ人と共にメンバーシップに入れることにより、いかに正確になしておられるのかを理解しなかった。」(注96)

(5-2)10:3

10:3については、次のように言われます。「要約すると、パウロは同胞ユダヤ人が神の義、すなわち、ご自分の言葉と約束に対して(略)真実にずっとなしてこられたことに対して、無知であった。替わりに、彼らはユダヤ人のため、またユダヤ人だけのためにものである契約のメンバーシップを打ち立てようとしてきた。結果として、彼らは神の契約的真実、すなわち、約束の成就におけるメシア・イエスに対する神の決定的行為に対して従わなかった。」(注97)

(5-3)10:4

10:4については、「3.」で既にみたように、テロスという言葉の理解を巡っての議論があることを指摘します。「この言葉は、通常『end』と訳され、英語の『end』それ自体のように、『停止、終了』と、『ゴール、達成』の両方を意味し得る。」ライトは、テロスを「終わり」と理解する見方が、ルター派を中心に行われてきたことを指摘しながら、ギリシヤ語翻訳のレベルで3つの問題点、またローマ書全体における文脈におけるパウロ思想のレベルでのより大きな問題点を指摘します。そして、次のように言います。「私は以下のように結論づける。すなわち、10:4において、パウロは違う『システム』を好んで律法の廃棄を主張しようとしたわけではなく、メシアが神とイスラエルの長いストーリーのクライマックスであること、そのストーリーはトーラーが語るものであり、トーラーがそのストーリーの中で戸惑わせるけれども重要な役割を果たすのであることをむしろ告げている。トーラーにおける神の目的は、消極的なものも積極的なものも、メシアにおいてゴールに達し、その結果は、信じるすべての者にとって『義』に接近しうること、『義』を入手しうることである。」(注98)

(5-4)10:5-11

10:5-11については、次の問題点を指摘します。「ここでは、モーセは人々がトーラーを守るように語っており、また、彼らにただ信じるようにと語る『信仰の義』と呼ばれる何かがある!」というように見えるという問題です。これに対して、ライトは10:5で引用されるレビ18:5だけでなく、10:6-8で引用する申命記30章も、モーセによるものであることに注意を促します。「より重要なことは、申命記30章の文脈と、それが第二神殿期ユダヤ教における機能の仕方である。」

申命記30章の文脈については、申命記28:1-14でトーラーに従う者の祝福が、申命記28:15-68でトーラーに従わない者へののろいが記され、最終的なのろいが捕囚であるとされ、実際にこのことが起こることが予告されます。しかし、そのすべてが起こった後、申命記30章では、捕囚からの帰還が予告されます。この中で、パウロが10:6-8で引用する申命記30:11-14が現れます。「戒めは難しすぎるものではない。遠くにあるのでもない。誰かが天に上ってそれを持っておりる必要もなければ、海を渡ってそれを持ってくる必要もない。あなたはそれを聞き、行うことができる。」「言い換えれば、この章はイスラエルが捕囚に送られ、心からヤーウェに立ち返り、律法を『行い』、そうして『生きる』ということが実際に何を意味するかを説明するようになる。」「このことは、パウロが10:5でレビ18:5を引用したのは、申命記30章に反対するものとしてではないということもまた明らかになる。」「レビ18:5は、二つのもの、『律法を行うこと』と『生きること』とを一緒にした。」「それ(申命記30章)は、『律法を行え。そうすれば生きる』ということが実際には何を意味するかについて、捕囚と帰還を踏まえての新鮮な説明を提供すると、パウロは主張する。」

(4QMMTと、バルク3章での申命記30章の引用については省略)

加えて、ライトは、5-9節がガルで始まっていることを指摘し、更に5節と6節の関係について以下のように言います。「5-6節を結ぶ『デ』は、直接的な対照あるいは矛盾でなく、変形、再定義である。『その通り、モーセはレビ18:5を書いた。「しかし」その主要な用語は、更に申命記30章で説明される。』」

最後に、「信仰による義」について、以下のように言います。「それでは、パウロはなぜ申命記30章を『信仰からの義』(ヘー・エク・ピステオース・ディカイオシュネー)と呼んだのだろうか。手紙についてのこれまでの議論全体、そしてとくに3:21-4:25からすると、これは、アブラハムに約束されたこと、そして、ここでのように申命記30章で約束されたことを、メシアにおいて神がついになさったという彼の信仰の要約として働く。神はそれゆえ更新された契約、すなわち、人々がその契約の中で喜び、メンバーシップを示す『義』を確立された。そして、メンバーシップのバッジは信仰である。」(注99)


8.13:8-10におけるノモス

12章以降では、この節にだけノモスが現れます。12:3-13との比較等の後、この節とトーラーとの関わりについては、次のように言われます。「3:27-31、8:1-8、10:5-11を背景としながら、観察している世界から、非難よりもむしろ尊敬をもたらす隣人愛において、トーラーがいかにして成就されるのかについて、パウロは簡単であるけれども多くを語る絵を描いている(2:16-17参照)。言い換えればここに、世に神の光と愛をもたらす『真のユダヤ人たち』がいる(2:28-29を見よ)。これは、ガラテヤ5:14の文脈とよく一致しており、この節はパウロがほとんど正確に同じことを言っているもう一つの節である。」(注100)

13:8については、次のように言われます。「この節の後半の説明は誤解されるべきでない。パウロは当然、次のようなことを言っているわけではない。『愛はトーラーを成就する。それゆえ、愛は神との義を獲得する方法である』。彼はこういったことがトーラーの目的であったとは考えていない。むしろ、トーラーの目的は、イスラエルが世に対する神の光であることであった。イスラエルは神の言葉を委託されたが、不真実であることを証明した。『トーラーの行いを離れて』信仰によって義とされた者たちは、今や、トーラーそれ自体がなし得なかったことが果たされるべき人々として生きるよう、完全に論理的に教えられている(8:3-8、10:1-11)。隣人を愛する人々は、こうして、彼らは決してトーラーが禁じることをしないという直接的な意味においても、彼らを通して神の命の道がよく見られるという、より広い意味においても、『トーラーを成就する』。」(注101)

13:9-10については、次のように言われます。「パウロは、愛が律法を成就すると言うことによって、何を意味しているのか説明する(ガル)。まず、彼はすべての戒めが事実愛の戒めに要約されると述べる(9節)。そして、彼は、このことの結果を愛がどんな悪もなさないという結果に要約し、愛は実際トーラーの成就であるという結論を引きだす(10節)。隣人を愛すること自体、もちろん、十戒の一部ではないものの、トーラーの中の戒めである(レビ19:18がここで引用されている)。パウロはそれを律法全体の要約と見る最初の者ではない。これは、ローマ12-13章でイエス自身の教えの響きを推測してよいいくつかの節の一つである(マタイ22:37-39(略))。」(注102)



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