長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

「聖書が告げるよい知らせ」第1回 創造者なる神

2021-12-26 15:52:21 | 聖書が告げるよい知らせ

(序)

お一人の方と聖書の学びをすることになりました。

以前、奉仕していた教会(神戸聖泉教会)で、「聖書が告げるよい知らせ」というシリーズの説教をしましたが、その時の説教要旨をアレンジして、ご一緒に学ぶことにしました。一般の方々向けに、聖書を旧約聖書のはじめから新約聖書の終りまで、最も基本的な個所を選びながら、ご一緒に学んでいただける内容になります。拙い内容ではありますが、お読みいただければうれしいです。また、聖書を学ばれる方が信仰へのよい導きを得られますように、お祈りくだされば幸いです。

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第一回 創造者なる神 創世記一・一‐二七

 聖書には、私たちに対する「よい知らせ」が満ちています。冒頭の創世記一章には神様による天と地、万物の創造のみわざが記されていますが、ここにも「よい知らせ」があります。「万物を創造されたすばらしい神様がおられますよ」という知らせです。

一、創造者なる神

はじめに神が天と地を創造された。(創世記一・一)

この一句から始まる聖書の言葉は、驚くべき知らせです。この世界を創造された神様がおられる。何もないところから天と地、その中にあるすべてのものを造られた方がいらっしゃる。壮大な宇宙、地球上の多種多様な動植物、そして私たち人間。その精巧さ、その神秘。単なる偶然の産物でなく、これらのものをこのようにあらしめた方がおられる。聖書はそのように告げています。

同志社大学の創立者となった新島襄は、幕末、国禁を犯してひそかに渡米します。外国に対する憧れもありましたが、特に聖書の神について知りたいという思いが強かったようです。彼は国内にいる間に、漢訳聖書からの抜粋に触れていました。彼はその本を通して、万物の創造者がおられることを知ります。彼はその本を読んだ後、本を置き、あたりを見回して言ったそうです。「誰が私を創ったのか。両親か。いや、神だ。私の机を作ったのは誰か。大工か。いや、神は地上に木を育てられた。神は大工に私の机を作らせられたが、その机は現実にどこかの木からできたものだ。そうであるなら私は神に感謝し、神を信じ、神に対して正直にならなくてはならない」と。(『現代語で読む新島襄』丸善出版、五四頁)

「この世界はなぜ存在しているのか」。知識豊富な人に問うてもなかなか答えは返ってきません。しかし、聖書は静かに語り始めます。「はじめに神が天と地を創造された」と。このメッセージをしっかりと受け止めるところからすべては始まります。

二、秩序をもたらす神

 天と地の創造の後、神様は順番にいろいろなものを創造されます。

神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。神は仰せられた。「大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ。」神は大空を造り、大空の下にある水と大空の上にある水を分けられた。すると、そのようになった。神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。神は仰せられた。「天の下の水は一つの所に集まれ。乾いた所が現れよ。」すると、そのようになった。神は乾いた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。(創世記一・三‐一〇)

 これらの創造のみわざをどのように理解するか、諸説ありますが、私の眼には一つのイメージが浮かんできます。地球は厚い水蒸気の雲で覆われています。地上までは太陽の光線も届かないほどです。神が「光、あれ」と言われたとき、水蒸気の雲はやや薄れて、地上にまで光が届きます。ぼんやりとですが、地上に昼と夜の区別が生まれます。それでも地上は水蒸気の雲が覆っています。「大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ。」神様がそう言われると、水蒸気の雲は地上の海と天上の雲とに分かれます。その間に大空が広がります。当初地上は海が覆っています。神は地表を隆起させなさいます。すると、海の中から陸が現れます。海は限られた部分だけにとどまることになります。

 このように考えると、続いて記される「神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼を治めさせ、小さいほうの光る物には夜を治めさせた。また星も造られた。」とは、天上を覆っていた雲がすっかり取り除かれて、太陽や月、星が顔をのぞかせ、それらの光が地上に注がれるようになったと理解できます(創世記一・一六)。

 このように理解することが当たっているのかどうかは分かりませんが、一つのことは言えるでしょう。神様はやみの中に光をもたらし、地球環境に区分を与え、徐々に秩序をもたらされたということです。

 これは、私たちの生活にも当てはまることではないでしょうか。神が語ってくださる言葉により、何が神に喜ばれることであるのかが分かります。人間として正しいこと、間違っていることは何であるのか、明確にされます。私たちの生き方の中に秩序が設けられます。やみの中に光がもたらされるようです。このような神様がいてくださることも、聖書が告げるよい知らせの一部です。

三、豊かさをもたらす神

神は仰せられた。「地は植物を、種のできる草や、種の入った実を結ぶ果樹を、種類ごとに地の上に芽生えさせよ。」すると、そのようになった。(創世記一・一一)

神は仰せられた。「地は生き物を種類ごとに、家畜や、這うもの、地の獣を種類ごとに生じよ。」すると、そのようになった。(創世記一・二四)

 地球上の地や海、空に、神様は種々様々の動植物を造られます。ここで繰り返されている言葉は、「種類にしたがって」という言葉です。無秩序にではなく、きちんとした種類の区別があります。しかし、その種類は限りない程で、そこには豊かさがあります。

 私たちが動物園に行けば、面白いふるまいをする動物が沢山います。水族館に行けば、変な形をした魚や水中の生物を沢山見ることができるでしょう。「神様は、どうしてこんな生き物を造られたのだろう」とびっくりすることがあります。神の知恵は多種多様で、その豊かさは無限であると実感させられます。

神様はこの世界に豊かさを備えられました。私たちにも、様々な経験、色々な方々との出会いを与え、私たちの生涯に豊かな彩を備えてくださいます。

四、必要を備えてくださる神

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。(創世記一・二七)

 いわゆる六日間の創造で、神は天と地、その中にあるすべての物を造られましたが、その最後に人を創造されました。この順序は大切です。

神様は私たちに空気や水、太陽の光や熱、食物となるあらゆる動植物が必要なことをごぞんじで、それらのものをあらかじめ備えてくださいました。人間にとって必要なすべての物が備えられた後、「さあ、これですべては揃ったよ」と言わんばかりに、人間を創造してくださいました。「天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、これを堅く立てた方、これを茫漠としたものとして創造せず、住む所として形造った方」とある通りです(イザヤ四五・一八)。

 私たちには食物も水も必要です。住まいや着るものが必要です。温かい人との交流も必要であることを、神はごぞんじです。私たちに必要な地球環境の一切を備えてくださった神様は、今私たちに必要なものが何であるか、ごぞんじないわけではありません。この神様に信頼を置き、私たちの将来を愛なる神の御手にお委ねしながら、安心した心で生きていくことができれば、なんと幸いなことでしょうか。

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キャンドルライトサービスと学生会クリスマス会

2021-12-26 15:03:24 | 教会便り

クリスマスイブには、キャンドルライトサービス。

沢山の方々と共に、ひとり子をお与えくださった神様のご愛に思いを巡らせました。

ライブ配信も実施、30名ほどの方が視聴くださいました。

音声が小さめでしたが、「ボリュームを目いっぱい上げて聴きました」という声も。

アーカイブはこちら。

https://youtu.be/55SUJ1aNzCY

 

そして、昨日は学生会クリスマス会。

最初にある教会で作られたクリスマスストーリーの動画を視聴。

視聴させていただいた動画はこちら。

https://www.youtube.com/watch?v=2hW1zxZtT-0&t=465s

そのあとは、イスラエルで作られたというラミーキューブと言うテーブルゲーム。

学生の中には経験者もいるようで、見応えのある戦いぶりでした。

ラミーキューブ - Wikipedia

 

子どもクリスマス会、クリスマス礼拝、キャンドルライトサービス、学生会クリスマス会と

続いてきましたが、神様の恵みの内に無事終わりました。

集われた皆さんお一人ひとりに、神様の恵みと導きが続いてありますように。

 

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旧約聖書におけるイスラエルの民族的回復の約束について

2021-12-20 16:34:10 | 神学

 近年、個人的に、旧約聖書と新約聖書のつながり具合について考えることが多くなりました。今回、きっかけをいただきましたので、現時点で考えていることをまとめてみました。あまりこのあたりのことを問題意識として考える人は少ないのかもしれませんが、ご参考にしてくださる方があれば感謝です。

(最初の投稿の後、「7.イスラエルの民族的回復の約束は将来どうなるのか」において、指摘しておくべき大切な点が抜けていることに気づきました。追加部分(2か所)を明示した上で、追加しておきます。)

1.課題

(1)きっかけ

 旧約聖書と新約聖書のつながりについては、神学的に色々な考え方があります。その中でしばしばディスペンセーション主義と契約神学が対照的なものとして取り上げられます。今回、その違いについて、「旧約聖書の契約における物理的・民族的約束をどれほど字義的に読んだら良いのか」という点に現れるとの説明を見かけました。(注1)
 また、ディスペンセーション主義においては、イスラエルと教会の関係、新しい契約についての理解において、異なる理解を包含しているという説明も見ました。(注2)
 そこで、特に、旧約聖書における民族的約束をどう理解するのかという点について、私自身の理解をまとめておきたく思いました。大雑把なものとなると思いますが、これによって自分自身の立ち位置が現在、どのあたりにあるのかを確認したいという思いからのことです。

(2)個人的問題意識

 実は、旧約聖書の中に見られる民族的約束をどう理解すべきか、この点への関心が近年自分の中で広がってきていました。これは、ディスペンセーション主義への関心からではなく、N.T.ライトの著作に触れてきたことがきっかけでした。
 ライトは、パウロその他、新約の神学を正しく理解するために、一世紀ユダヤ人が期待していたものが何だったのかを踏まえる必要があると言います(注3)。もちろん、当時のユダヤ人の間でも幅広い多様性があったわけですが、その中でも共通して見られるのは、イスラエル復興の希望とでも表現できるものでした。そして、このような希望を培ってきた最大のものは、当然のことながら旧約聖書でした(注4)。
 このような指摘を受け、旧約聖書を読み返してみたときに、そこには確かに民族的回復の約束が大きく表現されていることを確認することができました。
 私自身は、これまで、これらの約束を見たとき、いわゆる「霊的な解釈」を施し、イエス・キリストによる救いの恵みに結びつけて理解してきたように思います。しかし、旧約聖書をその歴史的文脈の中でしっかりと捉え直し、また各文書の中における文脈にも十分注意しながら読みなおすとき、そこには民族的イスラエル復興の約束が至る所に表現されていることを認めざるを得ませんでした。否、旧約聖書が提示する将来の希望は、ほとんど常に、イスラエルの民族的復興のテーマのもとで展開されていると言ってもよいことに気づかされました。
 そこで、このような民族的約束を新約聖書を通して示されるイエス・キリストによる恵みとどのように関わらせて理解すべきかということが、当面の課題となりました。ライト自身は、1世紀ユダヤ人が抱いていた共通の期待を背景として踏まえつつ、イエス及び使徒たちのメッセージを理解しようとしていますが、旧約聖書に記されるイスラエルの民族的復興への期待に対しては、イエスが「再定義」を与えたという説明をしているように思われます(注5)。私は、この「再定義」ということが安易に使われると、旧約聖書と新約聖書の連続性が薄められるのではないかという気がしており、もう少し別の道がないかと考えました。

2.連続性

 問題は、旧約聖書に記されたイスラエルの民族的復興の約束と、新約聖書に記されたイエス・キリストによる神の民の形成とが、見方によっては無関係で全く別のものに見えるという点にあります。しかし、子細に見るとき、両者は決して別のものではなく、むしろ連続しており、直結しているとさえ言えることが分かってきます。

(1)旧約聖書

 まずは、旧約聖書に示されているイスラエルの民族的回復の約束について、新約聖書のメッセージにつながるいくつかのポイントを確認することができます。
(1-1)イスラエルの民族的祝福の約束には本来、異邦人が視野に含まれている
 まず、イスラエルの民族的回復の約束の土台とされるアブラハムへの約束(創世記12:1-3)について言えば、「地のすべての部族はあなたによって祝福される」(創世記12:3)と、異邦人すべてが視野に含まれていたことに留意する必要があります。
(1‐2)イスラエルの民族的課題の中心に神に対する背きの罪がある
 そもそもイスラエルに民族的回復が必要となるに至ったのは、彼らが神に背いて罪を犯したからです。このことは繰り返し指摘されており(列王第二17:7、8、24:19、20等)、このことから、イスラエルの民族的回復において神への背きの罪の課題が扱われなければならないことが予想されます。
(1‐3)イスラエルの民族的回復の約束はその中心に罪の赦しと内的変革による神の民の回復がある(特に新しい契約)
 旧約聖書に記されたイスラエル回復の約束は、確かに民族的な回復をもたらすものとされますが、同時に、常に罪の赦し(イザヤ40:1、2等)と内的変革(エゼキエル36:24-28等)によって神の民として新しくされることがその中心に置かれています。特に、エレミヤ書に記された新しい契約は、この点を凝縮した内容になっています(エレミヤ31:31-34)。
(1‐4)イスラエルの民族的回復はメシアと聖霊によって与えられる
 旧約聖書において、民族的回復の約束は、メシア(イザヤ9:6、7等)と聖霊(イザヤ32:15等)によってもたらされるとされています。この点は預言者たちの言葉の中に幅広く見出すことができます。イザヤにおいては、メシアがダビデの子孫として現れることと共に(イザヤ11:1)、苦難のしもべとしても表現されています(イザヤ52:13-53:12)。

(2)新約聖書

 次に、新約聖書の側から、イエス・キリストによる神の民形成について、旧約聖書におけるイスラエルの民族的復興の約束につながる以下のような点を確認することができます。
(2-1)イエス・キリストの誕生はイスラエルの民族的回復の約束の成就として示される
 キリストの誕生を記した福音書の記事を見れば、その出来事がイスラエルの民族的回復の約束を成就することとして示されていることが分かります(ルカ1:31-33、54、55、68-75)。
(2-2)イエス・キリストの出現はイスラエルの民族的回復の約束を告げる旧約聖書の言葉を成就するものとして示される
 マタイの福音書は、キリストの宣教活動の開始について触れながら、それがイザヤ9:1、2を成就するものとして示します(4:15、16)。また、ルカの福音書において、キリストの宣教活動記録の冒頭に記すのは、ご自分が現われたことによりイザヤ61:1-2が実現したと宣言される主イエスの言葉でした(4:18)。これらの言葉をイザヤ書中の文脈に照らして確認すれば、いずれもイスラエルの民族的回復の約束を告げるものであることが分かります。
(2-3)12使徒たちは将来イスラエルの十二部族を治めることが予告される(マタイ19:28)
(2-4)イエス・キリストがエルサレムに入城されたこともまたイスラエルの民族的回復の約束を告げる旧約聖書の言葉を成就するものとして示される
 主イエスのエルサレム入城について記すマタイ福音書において、ゼカリヤ9:9が引用されるますが(マタイ21:5)、この箇所もまたゼカリヤ書の文脈においては、イスラエルの民族的回復の約束を告げるものです(ゼカリヤ9:8-13)。
(2-5)イエス・キリストが最後の晩餐において弟子たちとの間に立てたとされる「新しい契約」は、エレミヤ書においてイスラエルの民族的回復の約束の中で言及されるものである(ルカ22:20、エレミヤ31:31)
(2-6)イエス・キリストが復活後、弟子たちに聖霊が降ったことについてペテロは、ヨエル2:28-32を引用し、聖霊降臨によりこの言葉が実現したと語ったが、ヨエル2:28-32もまた、ヨエル書の文脈においては、イスラエルの民族的回復を約束するものである(使徒2:16-21)
(2-7)使徒パウロは、キリストへの信仰により恵みを受ける(義とされ御霊を受ける)者(異邦人を含む)をアブラハムへの神の約束の成就として示す(ローマ4:16、ガラテヤ3:14、29)
(2-8)使徒ペテロは(異邦人を含む)信仰者が神の民とされていることについて、イザヤ28:16を引用するが、この箇所もまたイザヤ書の文脈ではイスラエルの民族的回復を約束するものである(第一ペテロ2:6)
(2-9)使徒ヨハネは黙示録において新しいエルサレムの情景を描くが、十二の土台石には十二使徒の名が記されると同時に(黙示録21:14)、十二の門にはイスラエルの子らの十二部族の名前が刻まれる(黙示録21:12)

3.非連続性をもたらしたもの

 このように見てきますと、旧約聖書におけるイスラエルの民族的回復の約束は、新約聖書で示されるイエス・キリストによる神の民の形成と連続しており、直結しているとさえ言えることが分かります。しかし、同時に、両者の間には非連続性が認められることも事実です。
 旧約聖書において、イスラエルの民族的回復の約束が告げられる場合、あくまでも民族としてのイスラエルが中心的に扱われます。これに対して、新約聖書において、キリストへの信仰によって形成される神の民について語られる場合、ユダヤ人も異邦人も差異がないことが強調されます(ガラテヤ3:28)。両者の間に確実に連続性が認められ、両者は直結しているとさえ言えるとしたら、同時に認められるこのような非連続性をどのように説明することができるでしょうか。
 実は、新約聖書を見れば、この課題についての回答がかなり詳細に示されていることが分かります。

(1)イエス・キリストによる予告

 イエス・キリストの宣教活動は主としてユダヤ人に向けられていたイエス・キリストは、宣教活動を進めるに際して、ご自分の働きの中心がユダヤ人に対してのものであることを明らかにされました(マタイ10:5、6、15:24)。異邦人と関わられることがあったとしても、それは例外としてであったと見ることができます(15:21-28)。
 イエス・キリストは、その宣教活動の過程において、イスラエル民族を中心に進められてきた神の救済の計画に変化が生じることが予告された
 ガリラヤ宣教の初期において、異邦人である百卒長のしもべの癒しの出来事が起こります。その際、主イエスは「イスラエルのうちにのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません」と、百卒長の信仰をほめなさると同時に、次のように語られます。「あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ8:11、12)
 ルカによる福音書では、ガリラヤ宣教の記録の冒頭、故郷ナザレにおいて、会堂で教えられる様子が描かれます。この時、主イエスは、「預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません」と仰りつつ、エリヤの時代に、イスラエルに多くのやもめがいたにも関わらず、エリヤがつかわされたのは異邦人のやもめのところだったこと、エリシャの時代に、イスラエルにツァラアトに冒された人が多くいたにもかかわらず、きよめられたのは異邦人ナアマンだけであったことを指摘されます。この結果、ナザレの人々は憤り、主イエスを崖から突き落とそうとさえします。
 宣教活動の進展において、ある者たちはイエスを信じ、従いますが、多くのユダヤ人はイエスを信じようとしません。そのことは四つの福音書で何度も確認され、記録されます(マタイ11:20-24、13:10-15、ヨハネ6:66,8:58、10:31、39、11:57)。
 このような中、主イエスは椅子られる民族を中心に進められてきた神の救済の計画に変化が現われ、異邦の民が神の救済にあずかり、神の民に加えられるようになることを予告されます。
 「救われる人は少ないのですか」との問いに対して「狭い門から入るよう努めなさい」と言われた主イエスは、続いて次のように語られます。「あなたがたは、アブラハムやイサクやヤコブ、またすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分たちは外に放り出されているのを知って、そこで泣いて歯ぎしりするのです。人々が東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。いいですか、後にいる者が先になり、先にいる者が後になるのです。」(ルカ13:28-30)
 エルサレム入城の前に、主イエスはエルサレムの都をご覧になりながら、この都のために泣いて言われます。「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら―。しかし今、それはおまえの目から隠されている。やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」(ルカ19:42-44)
 エルサレムでの最後の一週間において、主イエスはユダヤ人指導者たちにぶどう園の主人の譬えを語り、次のように結ばれます。「あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。」(マタイ21:42、43)

(2)使徒たちの宣教における確認

 イエス・キリストにより予告された神の救済計画におけるイスラエル民族の位置づけの変化は、ペンテコステ後の弟子たちによる宣教においても、決して当たり前のこととされたわけでなく、繰り返し確認されることになります。
 ペンテコステの日の聖霊降臨後、多くの者が信仰に導かれますが、彼らは皆ユダヤ人たちだったようです。エルサレム教会への迫害が起こり、弟子たちがユダヤとサマリヤの諸地方に散らされます。ここでピリポがサマリアの町で人々にキリストを宣べ伝えます。その結果、多くのサマリア人がキリストを信じます。このことを聞いた使徒たちがサマリアに来て、彼らのために聖霊を受けるよう祈ったところ彼らも聖霊を受けます。これをきっかけに、使徒たちもサマリアの村々で福音を宣べ伝え始めます(使徒8:1-25)。
 次に、聖霊の導きを受け、使徒ペテロがカイサリアにいたコルネリウスというローマの百人隊長たちに福音を伝えます。するとその途中で聖霊が下ったのを見て、ペテロは彼らにもバプテスマを受けさせます。ペテロがエルサレムに帰ってきたとき、彼が異邦人に福音を宣べ伝え、彼らと一緒に食事をした点が問題とされますが、彼らにも聖霊がくだったことが証しされると、異邦人にも福音が提供されているとの共通理解が広がります。(使徒10、11章)
 使徒の働き13章以降は、主にパウロによる宣教活動が描かれます。パウロの宣教方針は、行った先の町でまずユダヤ人の会堂に入り、そこで福音を伝えることであったようです。彼らが福音を受け入れる限りはそれを続け、ユダヤ人たちからの反対が大きくなってきたときに、その町の異邦人たちに福音を伝える…これがパウロの宣教方針だったように思われます(使徒13:14-49、17:1-14、18:1-11、19:8-10)。この間には、割礼問題もクローズアップされ、異邦人の信仰者も割礼を受ける必要があるかどうか、エルサレムで議論が起こり、不要であるとの結論に達します(使徒15:1-29)。

(3)非連続をもたらしたもの

 以上のように、神の救済計画におけるイスラエル民族の位置づけの変化は、イエス・キリストによって予告され、使徒たちの宣教においても事ある毎に確認されました。その中で、この変化は、主にユダヤ人たちがメシアとして遣わされた主イエスを拒んだことによって引き起こされたと理解することができます。しかし、同時に、このことは旧約聖書で既に(かなり微妙な形においてではありますが)「予告」されていたことであって、この時初めて神の計画に(予想外の)変更がもたらされたというわけではないことも確認する必要があります。以下、この点を確認します。

4.旧約聖書における「予告」

 既に見てきたように、使徒たちは最初からこの変化を当たり前のこととして受け止めていたわけではなく、むしろ事ある毎にこの点を確認しながら、ユダヤ人だけではなく異邦人を含めた宣教へと進んでいきました。この時、このような「変化」が旧約聖書によって支持されるものなのかどうか、その度に確認されることになります。そこでは、概ね旧約聖書において既に「予告」されていたとの指摘、確認がなされます。しかし、引用される旧約聖書の箇所をもとの文脈に即して読むならば、「予告」の意味合いは当初考えられるよりもかなり微妙な色合いを持っていることにも気づかされます。

(1)使徒の働き

 たとえば、既に見たように、使徒15章には、異邦人クリスチャンの割礼問題がエルサレム教会において協議されます。この時、ペテロが異邦人に聖霊がくだったことを証言したのに対し、(主の兄弟)ヤコブはアモス9:11、12を引用します。「その後、わたしは倒れているダビデの仮庵を再び建て直す。その廃墟を建て直し、それを堅く立てる。それは、人々のうちの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、主を求めるようになるためだ。―昔から知らされていたこと、それを行う主のことば。」(使徒15:16、17)「わたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、主を求めるようになる」との表現は明瞭ですから、一見、旧約聖書での明らかな「予告」と見えます。しかし、引用はマソラ本文からの引用ではなく、70人訳聖書からの引用です(注6)。当時のユダヤ人たちの間に70人訳聖書は広く用いられていたようですので、こちらから引用されたのでしょう。
 なお、マソラ本文をもとに訳されたアモス書の箇所(新改訳2017)は次の通りです。「その日、わたしは倒れているダビデの仮庵を起こす。その破れを繕い、その廃墟を起こし、昔の日のようにこれを立て直す。これは、エドムの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての国々を、彼らが所有するためだ。―これを行う主のことば。」(アモス9:11、12)こちらの表現では、「わたしの名で呼ばれるすべての国々」は、「主を求めるようになる」というよりも、復興されたイスラエルの民に所有されるというように読めます。マソラ本文においては、イスラエルの民族的復興がメインで、そこに異邦人の国々が何らかの形でその過程に加えられていくところまでは読み取れたとしても、異邦人が主体的に主を呼び求めるようになるとまで読み取ることは難しいかもしれません。しかし、それを否定するものでもないことには留意する必要があります。

(2)パウロの手紙

 また、パウロは同様の問題が再燃していたガラテヤ諸教会に向けて手紙を書きました(ガラテヤ人への手紙)。その中で、次のような指摘をしています。「聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、『すべての異邦人が、あなたによって祝福される』と、前もって福音を告げました。」(3:8)ここでパウロは、アブラハムに対する約束が既に異邦人を含むものであったことを指摘すると共に、「聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていた」という重大な指摘をしています。
 また、パウロはまだ見ぬローマ教会に宛てて手紙を書き、自分の福音理解を提示しています(ローマ人への手紙)。特にローマ教会がユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの両方を含んでいましたので、「ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力」としての福音を提示しました(1:16)。その中で、特に神の救いのご計画の中には最初からユダヤ人と異邦人の両方が含まれていることを指摘しています。「ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。『主の御名を呼び求める者はみな救われる』のです。」(10:12、13、ヨエル2:32の引用)おそらく、ヨエル書の文脈だけを見て、「主の御名を呼び求める者はみな救われる」ということが異邦人も含まれると受け取ることは難しいかもしれませんが、パウロはそのように指摘します。この他にもパウロは、旧約聖書の言葉をいくつも引用しながら、異邦人が神の民に加えられることについて旧約聖書が予告していると指摘します。(9:25、26で引用されるホセア1:10、10:19で引用される申命記32:21、10:20で引用されるイザヤ65:1。)これらはいずれも、旧約聖書の文脈だけを見てはそこまで明確に受け取ることは困難なので、一見、パウロが自説のために旧約聖書を無理に解釈しているようにも見えます。しかし、より丁寧に見ていくと、それらの箇所は、神の民とされたはずのイスラエルの民が神に背き、神からの裁きを受けること、その中でも神の回復のみわざがなされることにより、神の民とはとても言えなくなった者たちが神の民として回復されていくことが予告されている箇所であることに気づかされます。それは、旧約聖書では「残りの民」として描かれている人々ですが、パウロはこの「残りの民」に異邦人も加えられると読み取っています(ローマ9:27も参照)。そこには、イスラエルの民が神の民と呼ばれえなくなったところからの回復に、もともと神の民の外にあった異邦人も加えられるというパウロの理解が示されています。これらに比べると、15:12で引用されるイザヤ11:1、10は、イスラエル回復の神のご計画の中に異邦人も組み込まれていることが比較的明確に表れている箇所と言えます。
 パウロはさらに、彼にとっては晩年の書となるエペソ人への手紙でこの問題を再び取り上げます。この書で彼は、異邦人がキリストの十字架の死を通してイスラエルの民と一つとされ、神に近づく道が開かれたと指摘します(2:11-19)。これを受け、されに彼は、異邦人がユダヤ人と共にキリストにある相続の恵みにあずかるようになることについて、「奥義」と表現しつつ、次のように書きます。「先に短く書いたとおり、奥義が啓示によって私に知らされました。それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよく分かるはずです。この奥義は、前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでしたが、今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています。それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人となり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。」(3:3-6)すぐ後の箇所には、「万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義」という表現も見られます(3:9)。
 これらパウロの手紙での論述を総合すれば、異邦人が神の民に加えられることについて、旧約聖書からのつながりをパウロがどう理解していたか、パウロの表現には二つの方向性が示唆されているように思えます。ガラテヤ人への手紙、ローマ人への手紙でのパウロの指摘からすれば、旧約聖書においてこの点が既に示唆されているように思えます。逆にエペソ人への手紙では隠されていたが、キリストのみわざと聖霊の啓示を通してパウロの時代に明らかにされたことのように思えます。しかし、ガラテヤ人への手紙、ローマ人への手紙でこの点との関わりで引用されている旧約聖書の箇所をもともとの文脈によって見るならば、異邦人が神の民に加えられることを示唆するものもいくつかありますが(ガラテヤ3:8で引用される創世記12:3、ローマ15:12で引用されるイザヤ11:1、10)、多くの場合、むしろ元の文脈ではイスラエルの民族的回復を示唆しているものであることが分かります。ですから、異邦人に対する神のご計画は、あからさまな形で予告されていたというよりは、さりげなく示唆されているか、または当初の文脈ではむしろ隠されていたと理解するのが妥当でしょう。

(3)ペテロの手紙

 パウロ程詳細な議論を展開するわけではありませんが、ペテロもまたその手紙の中でこの点について触れています。彼は「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち」に向けて書いた手紙の中で(ペテロ第一1:1)、「あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。」と書いています(2:10)。この箇所に至るまでに、彼は旧約聖書との関わりについて若干触れています。
 まず彼は、「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。」と勧めます(2:4)。ここから彼は、神の民(教会)を「霊の家」と表現します。そして、「あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ」ることになると言います(2:5)。このような比喩的表現の由来となるのは、「主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石」であるという指摘にありますが(2:4)、改めてその表現のもとになる旧約聖書が引用されます。「聖書にこう書いてあるからです。『見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。』したがってこの石は、信じているあなたがたには尊いものですが、信じていない人々にとっては、『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった』のであり、それは『つまづきの石、妨げの岩』なのです。」(2:6-8)最初の引用はイザヤ28:16から、2番目の引用は詩篇118:22、最後の短い引用はイザヤ8:14からです。このうち、二番目に引用される詩篇118:22は、既に見てきたように、神の救済計画における異邦人の位置の変化について主イエスご自身が予告された箇所で引用されています。このことを踏まえると、ペテロがここで同じ旧約聖書の箇所を引用していることは注目すべきことです。この直後に、ペテロは読者に向かって「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民」だと言い(2:9)、さらに最初に見たように、「あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。」と書き進めています(2:10)。
 従って、ペテロによる旧約聖書の引用は、異邦人が神の民に加えられることになることを直接的に予告するものとして引用されているわけではありませんが、その変化をもたらすことになる要因(ユダヤ人指導者によってメシアが拒絶されること)に触れる箇所を引用している形となります。

5.神の救済のご計画におけるユダヤ人と異邦人の位置の変化(まとめ)

 これまでに確認してきたところを総合すると、神の救済のご計画におけるユダヤ人と異邦人の位置の変化について、以下のように素描することができます。
 まず、旧約聖書において描かれた神の救済のご計画は主としてユダヤ人の民族的回復として表現されていました(旧約聖書の多数の箇所)。そのご計画の視野には、決して異邦人が除外されているわけではありませんが(アモス9:11、12[70人訳]、イザヤ11:10等)、旧約聖書を見る限り、その中心にあるのはあくまでもイスラエルの民でした。彼らは神に背き続ける罪のゆえに、滅び、大国の支配下に置かれ、捕囚の憂き目に遭います。しかし、そのよう中で神は預言者たちを通して彼らに対する回復のメッセージを語り続けます。それは、少なくとも旧約聖書の文脈においては、イスラエルの民を中心とした回復として語られていました。メシアと聖霊による働きが予告される際にも、それはイスラエルの民族的回復の約束として語られました(イザヤ9:6、7、イザヤ32:15等)。但し、異邦人がその過程に何らかの形で加えられていくとの示唆は、所々でなされていました(創世記12:3、アモス9:11、12[マソラ本文])。
 旧約聖書において示唆されていたメシアの到来は、イエス・キリストにおいて成就したと新約聖書は告げます(新約聖書の多数の箇所)。しかし、当初、それはまさにイスラエルの民の民族的回復の文脈で受け止められていました(ルカ1:31-33、54、55、68-75)。また主イエスが旧約聖書の預言を成就する方であることを示す新約聖書の多くの箇所について、もとの文脈を確認すれば、それらがイスラエルの民族的回復を約束するものであることが分かります(マタイ4:15、16、21:5、ルカ4:18等)。
 しかし、主イエスの宣教活動の進展の中で、ご自分に対するユダヤ人たちの拒絶の姿勢が明確になるに連れ、神のご計画におけるユダヤ人と異邦人の位置づけの変化が徐々に告げられるようになります。すなわち、神の国に異邦人が入れられるようになる一方、ユダヤ人たちが外に出されることになるとの予告が告げられます(マタイ8:11、12、ルカ13:28-30)。さらに主イエスは、十字架の死を前にして、神のご計画におけるユダヤ人と異邦人の位置づけに変化が起こる理由として、ユダヤ人たちによるご自分への拒絶を挙げられます(マタイ21:42、43)。
 イエスの十字架上の死、復活、昇天に続き、聖霊降臨を受けて弟子たちによる宣教が進む中でも、この転換は当たり前のこととされたわけではなく、むしろ、事ある毎に確認されながら、次第に異邦人への宣教が拡大することになります(使徒13:14-49、17:1-14、18:1-11、19:8-10)。
 このような過程の中で、教会協議の場で、あるいは使徒たちの手紙の中で、異邦人が神の民として加えられていくことについて、旧約聖書が示唆を与えていたことが何度も確認されます(使徒15:16、17→アモス9:11、12、ガラテヤ3:8→創世記12:3、ローマ15:12→イザヤ11:1、10)。しかし、旧約聖書の示唆は多くの場合、もともとの文脈からすればイスラエルの民族的回復を約束するものであり、そこに異邦人も加えられるとの理解が加えられてもいます(ローマ10:12、13→ヨエル2:32、ローマ9:25、26→ホセア1:10、ローマ10:19→申命記32:21、ローマ10:20→イザヤ65:1)。従って、他方では異邦人が神の民として加えられていくことは長い間隠されていて、この時になって聖霊によって啓示された奥義なのだという理解も示されます(エペソ3:3-6、9)。また、ユダヤ人指導者による主イエスに対する拒絶によって、このような転換がもたらされたのだという理解も示されます(第一ペテロ2:4-10)。

6.後にいる者が先になり、先にいる者が後になる

 さて、神の民に対する神のご計画の焦点がユダヤ人から異邦人に移ったとすれば、そのことは今後、世の終わりに至るまでの神のご計画においても、変わりがないことなのでしょうか。この問題は、ディスペンセーション主義者とそうでない者との間で大きく議論されてきた点です。この点について、私としては以下のように考えるのがよいのではないかと考えます。

(1)神の民の一体性

 まず、イエス・キリストへの信仰により異邦人が神の民に加えられるようになったことは、ユダヤ人が神の民とされたことと全く別のことであったのではないという点の確認が大切と思います。すなわち、神の民についての神のご計画の焦点がユダヤ人から異邦人に移ったとしても、それは全く別個のものが始まったのではなく、連続性を有するものであったという確認が必要です。特に、神の民としての一体性が確認されなければなりません。
 たとえば、パウロがユダヤ人と異邦人の問題を論じる中で、異邦人が神の民の祝福にあずかることは、アブラハムへの神の約束に基づくとの論点を明確にしています(ガラテヤ3:6-29、特に3:14、29)。
 神の民の一体性については、ユダヤ人と異邦人の問題について、ローマ人への手紙の中で3章にわたって論じたパウロは、その最後のところで、この点に触れています。ここでパウロは、ユダヤ人が神の民の中心であったのが、異邦人に焦点が置かれるようになったことについて、オリーブの接ぎ木にたとえています。「枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けているのなら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」(ローマ10:17、18)この接ぎ木のたとえは、神の民に対する神のご計画において、非連続性と連続性の両方があることをうまく表現しています。焦点はユダヤ人から異邦人に移ったのですから、そこには非連続性があります。しかし、同じオリーブの木として、命の連続性があります。アブラハムへの約束を通してユダヤ人に焦点を置いて形成されてきた神の民は、焦点を異邦人に移しつつも、根からの命の供給を受けていることが指摘されます。
 同じく、ユダヤ人と異邦人の問題を扱ったエペソ人への手紙の箇所でも、パウロはこの点を明確に表現しています。「しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血で近い者となりました。実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において一人の人に作り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」(エペソ2:13-16)ここでは、神の民の一体性が、「一人の人」、「一つのからだ」として表現されています。
 この神の民の一体性は、キリストの再臨により世の終わりを迎える際にも変わることはないと考えるべきでしょう。

(2)ユダヤ人に対するご計画

 他方、パウロによれば、民族としてのユダヤ人に対して、将来にわたり特別なご計画は一切ないと考えるべきではないということになりそうです。先ほども紹介したローマ11章で、パウロはこう書いています。「それでは尋ねますが、神はご自分の民を退けられたのでしょうか。」この問いに対する答えは「決してそんなことはありません」でした(11:1)しかし、それは「恵みの選びによって残された者」としてだと言います(11:5)。そして、次のように書きます。「それでは尋ねますが、彼らがつまずいたのは倒れるためでしょうか。決してそんなことはありません。かえって、彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせました。彼らの背きが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らがみな救われることは、どんなにすばたしいものをもたらすことでしょう。」(11:11、12)そして、先ほどのオリーブの木のたとえを示しながら、異邦人クリスチャンがユダヤ人から恩恵を受けていることを謙虚に受け止めるべきことを示し、異邦人クリスチャンに対する警告と共に、ユダヤ人に対する神のご計画のあることを示唆します。「ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。あの人たちも、もし不信仰の中に居続けないなら、接ぎ木されます。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。あなたが、本来野生であるオリーブから切り取られ、元の性質に反して、栽培されたオリーブに接ぎ木されたのであれば、本来栽培された枝であった彼らは、もっとたやすく自分の元のオリーブに接ぎ木されるはずです。」(11:22、23)続いて、パウロはより明確に語ります。「兄弟たち。あなたがたが自分を知恵ある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、こうしてイスラエルはみな救われるのです。『救い出す者がシオンから現れ、ヤコブから不敬虔を除き去る。これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である』と書いてあるとおりです。」(11:25-27)こうしたパウロの言葉は、将来においてユダヤ人がキリストへの不信仰が取り除かれ、信仰へ導かれる時が来ることを示唆しているように思われます。
 ここで、最後にご紹介した言葉において、イザヤ59:20、21、27:9が(かなり自由な形でですが)引用されていることに目を留めることも有益です。これらは、神の民に対する神のご計画の中に異邦人が含まれることを示唆するものとしてパウロが挙げてきたイザヤ書の預言同様、イスラエルの民族的回復を示唆する文脈の中に置かれていることにも留意したいと思います。

(3)先にいる者が後になる

 ここでもう一度、主イエスの言葉に戻りたいと思います。「救われる人は少ないのですか」との問いに対して「狭い門から入るよう努めなさい」と言われた主イエスは、続いて次のように語られます。「あなたがたは、アブラハムやイサクやヤコブ、またすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分たちは外に放り出されているのを知って、そこで泣いて歯ぎしりするのです。人々が東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。いいですか、後にいる者が先になり、先にいる者が後になるのです。」(ルカ13:28-30)
 ここでの文脈においては、「後にいる者」とは異邦人です。「先にいる者」とはユダヤ人です。ここで「後にいる者」、すなわち異邦人が先に神の国に入るようになること、逆に「先にいる者」、すなわちユダヤ人が後で神の国に入るようになることが告げられています。「後で」ということは、パウロの先程の言葉に照らせば、「異邦人の満ちる時が来る」その後ということになりそうです。

7.イスラエルの民族的回復の約束は将来どうなるのか

 ここまでの考察を踏まえた上で、最初の問題に戻ります。旧約聖書に記されたイスラエルの民族的回復の約束はどうなるのか、という問題です。この点について、新約聖書で明確に記された箇所はほぼないと言ってよいと思います。ユダヤ人に対する将来についての言及として最も明確なのは、先ほど紹介したローマ11章におけるパウロの言葉になると思われます。
 しかし、「ほぼない」というのは、「全くない」というわけではありません。明瞭な形ではないにしろ、考えるヒントになるものは示されているように思われます。たとえば、主イエスは、12使徒たちが将来イスラエルの十二部族を治めることを予告しておられます(マタイ19:28)。また、ヨハネは黙示録の中に、新しいエルサレムの情景を描きますが、十二の土台石には十二使徒の名が記されると同時に(黙示録21:14)、十二の門にはイスラエルの子らの十二部族の名前が刻まれると言います(黙示録21:12)。
 [(改訂追加)この点についての最も重大な参照箇所は、以下の箇所でしょう。「そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。『主よ。イスラエルのために国を復興してくださるのは、この時なのですか。』イエスは彼らに言われた。『いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。』」(使徒1:6、7)主イエスが復活された後、聖霊を注ぐことについての予告をされた際、弟子たちはそれをイスラエルの民族的復興の約束と結び付けて理解しようとしました。この時、主はそういう時があることについては否定されず、ただそれは父なる神がご自分の権威によって定めておられることであって、弟子たちが知らなくてよいことだと言われました。これは、父なる神が将来的にイスラエルの民族的復興の時を備えておられることを示唆する重要な箇所となります。]

 これらのことをつなぎ合わせると、一つの可能性が見えてくるように思われます。すなわち、将来のいずれかの時点でユダヤ人たちの多くがイエスをメシアとして信じるようになり、神の民に加えられるようになる。これにより、神の民においてユダヤ人たちが何らかの形で重要な役割を担うようになる。こうして、ユダヤ人と異邦人が一体となって神の民を形成するのであるが、その中でイスラエルの民族的回復の約束がある程度文字通り果たされていく…という可能性です。
 新約聖書に明確に示されているわけではない以上、確固とした教理として打ち立てることには慎重であるべきと思います。しかし、私には不可能な筋書きではないように思えます。むしろ、旧約聖書でメシアと聖霊による働きの多くがイスラエルの民族的回復の約束という文脈の中で啓示されてきたことに留意するとき、このような可能性に心を開いておくことは有意義なことではないかと思われます。[(改訂追加)但し、「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。」と言われている以上、あまり詳細な筋書きを作って、それを固定的に考える事には慎重であるべきでしょう。]

8.結び

 この問題についての現時点での私の考えをまとめてみました。このような考え方が、神学的な流れの中でどのような所に位置しているのか、私には定かでない部分があります。神の民の一体性については明確な意見を持っていますので、少なくとも、古典的なディスペンセーション主義とはその点で意見が異なっていると思います。もしかしたら、「漸進的ディスペンセーション主義」と言われるものに近いのかもしれません(注7)。ただ、ここにまとめたのは、現時点での暫定的な私の見解ですので、強固に主張しようとしているわけではありません。あくまでも、私自身の理解の整理のためにまとめたものです。この課題について、良いご提案や資料を紹介いただける方がありましたら幸いです。

(注1)https://balien.hatenablog.com/entry/2018/11/10/152158?fbclid=IwAR1nQjVYYBknaoIRH5LDCn7o_NTZ1Ns-9cKHLsjRfxGOnDgw5pHQYFhr98U#fn-654256e4
Michael J. Vlach, Dispensationalism: Essential Beliefs and Common Myths, rev. ed. (Los Angeles: Theological Studies Press, 2017), 88–89.
(注2)https://balien.hatenablog.com/entry/2018/10/14/223959?fbclid=IwAR0NIVAqmSNDt_0IwvrghfY3ndPmhjxf4u7vyllArLwKFWp6oHE8SH0sW-A
(注3)N.T.ライト『イエスの挑戦』(いのちのことば社、2018年、47頁、N.T.ライト『新約聖書と神の民 上巻』(新教出版社、2015年、266頁等)
(注4)N.T.ライト『新約聖書と神の民 上巻』(新教出版社、2015年、386-393頁)
(注5)N.T.ライト『シンプリー・ジーザス』(あめんどう、2017年、212頁)
(注6)F.F.ブルース『使徒行伝』(聖書図書刊行会、1958年、337頁)
(注7)(再掲)https://balien.hatenablog.com/entry/2018/10/14/223959?fbclid=IwAR0NIVAqmSNDt_0IwvrghfY3ndPmhjxf4u7vyllArLwKFWp6oHE8SH0sW-A

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クリスマス礼拝

2021-12-19 13:37:17 | 教会便り

本日はクリスマス礼拝。

お久しぶりの方、地域の方も加え、ご一緒に御子イエス様を礼拝しました。

コロナ前であれば、昼食を共にし、お祝いの時を持ちますが、今年は中止。

その代わり、礼拝後、記念撮影をしました。

また、ささやかなプレゼント(袋は大きいですが)、来年のカレンダーをお持ち帰りいただきました。

インマヌエル(神が私たちと共におられる)の恵みが、

集われたお一人びとりの上にありますように。

  

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子どもクリスマス会

2021-12-12 15:42:11 | 教会便り

昨日は、教会で子どもクリスマス会。

教会として、地域の子どもたちに対する働きとしては久しぶりのことでした。

沢山の子たちが参加、親御さんがたも参加くださり、

用意したプレゼントが足らず、CS教師の先生が近くのスーパーに走りました。

ゲームはじゃんけんゲーム5点、大きな子どもたちから小さなお子さんまで元気に参加。

そのあとのイエス様についてのお話も、しずかに聞いてくれました。

1時間足らずのプログラムでしたが、皆さん、笑顔で帰ってくれたのが感謝。

サンタをしながらのメッセージは初めてで、おじいさん言葉を練習していたものの、

すっかり普通の言葉で話してしまっていました。

参加してくれた皆さんの祝福をお祈りします。

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キリスト教美術展in関学

2021-12-06 20:08:05 | 長田家便り

貞美と一緒に関西学院大学で開催されているキリスト教美術展を見に行きました。

  

ポスターに乗っている20数枚の絵以外には、展示されておらず、少々びっくりしましたが、

無料ですから文句は言えません。

   

堀江優さんの絵「お前は、神の子、メシアなのか。」や、

小磯良平、渡辺禎雄の絵、その他何枚かの絵が印象に残りました。

 

関西学院大学には初めて訪れましたが、芝生広場を取り囲んで、

ヴォーリズの設計によるいくつもの建物が並び、

とても素敵なキャンパスでした。

よく晴れて、良い休日となりました。

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クリスマスの作業

2021-12-04 12:42:57 | 貞美便り

 

クリスマス案内を折って、封筒に入れる作業中。(夕方撮影)

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キムチ作り

2021-12-03 12:46:40 | 貞美便り

少し前のキムチ作りの様子。

キムチ工場のようになりました。

  

  

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