長田家の明石便り

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N.T.ライトによるローマ書における律法理解(第1回)

2018-02-01 19:11:29 | 神学

先に、N.T.ライトによるガラテヤ書における律法理解についてまとめました。今回は、ライトのローマ書の注解書から、パウロの律法理解についてのライトの見方をまとめます(注1)。

私なりの評価、見解を早くまとめたいという、焦りのような思いもありますが、正しく評価するためには、まず正しく理解する必要があるかと思います。焦る思いを抑えながら、ライトの注解書に取り組みました。今回も、自分の非力さと向き合うことにはなりましたが、何とかまとまったものができましたので、ご紹介したいと思います。

順序としては、まず注解書の序論より、パウロのトーラー理解について要約した部分をご紹介し、ライトの理解の特色をつかむようにします。次に、もう少し詳しく、ダンの理解との共通点、及び相違点を、それぞれ目立つ点だけですが二点ずつ挙げます。その後、ローマ書において律法(ノモス)について触れている各節の注解に当たっていきます。ライトの議論はかなり複雑ですが、釈義的論点が理解できるよう、直接、間接に関連する議論をできるだけ取り上げるようにします。最後に、簡単にまとめをします。

できるだけライトの理解をゆがめることなくご紹介できるよう、部分引用を中心にご紹介していきたいと思います。


1.パウロのトーラー理解:序文より

注解書の序文の中に、トーラーについて、簡潔ではありますが、濃縮された形で、要約的に説明している部分がありますので、まずはこれをご紹介します。

「この観念(イスラエルの神は、契約と約束に対してずっと真実であられたという考え)は、トーラー、ユダヤ人律法についてのパウロの見解によく表れている。これについては、注解の中でかなりの量、触れられるであろう。ここでのパウロの根本的洞察は、当時から現代までのユダヤ人同族から多くの批判を受けてきたのであるが、次のようなものである。
(1)モーセ律法をアブラハムの契約から分離すること。
(2)アブラハム契約を『律法を離れて』成就したと考えること(3:21)。
(3)トーラーをユダヤ人のみに当てはまると見、それゆえ、異邦人が神の民に入って来る終末論的時代には関わらないと見ること。
(4)トーラーを『トーラーのもとにある』人々にとってアダムの罪の問題を増強するものと見、従って、その信奉者が離れなければならないものと見ること。
(5)にもかかわらず、トーラーは神から与えられたものであり、自らに割り当てられた逆説的任務を達成し、キリストにおける、御霊による、神の新しい民の創造において、今や不思議に成就されつつあると主張すること。
ローマ書はこの複雑で首尾一貫した絵に対する本質的貢献をなしている。」(注2)

まず、ローマ書におけるノモスについて、ライトは、ダンと同様、一貫してトーラーとして理解する基本姿勢を持っています。この点については、上に紹介しましたように、序文では特に触れられておらず、それを前提として、もっぱらトーラーについての説明となっています。(この点は、2でご説明します。)

次に、ライトはトーラーを契約との関わりで理解しようとする方向性が明確です。後でご紹介するように、この序文でライトは「神の義(ディカイオシュネー・セウー)」をこの手紙の主要テーマとして提示し、序文のほぼ全体にわたって、このテーマを解説しています。ライトはローマ書における「神の義」を神ご自身の義、神の契約的真実として理解します。上記トーラーについての要約においても、イスラエルの神がなされた契約との関わりでトーラーを理解すべきとの主張が明瞭です。

さて、ローマ書において、トーラーについてのパウロの言及は消極的言及、積極的言及が混在しています。ライトはここで、トーラーを一貫して契約との関わりの中で考えながら、消極的言及を(1)~(4)にまとめ、積極的言及を(5)で表現していると言えます。なお、序文の文章の文脈からすると、パウロのトーラー理解についてのこの要約は、ローマ書に限らるものとは言えないようですので、(1)~(5)のすべての論点がローマ書に明瞭に表わされているとは限りません。しかし、要約の最後に付加されている一文からすると、これらのポイントを見い出すために、ローマ書が本質的な貢献をしていることになります。

(1)~(5)の論点の内、特に(5)には、ライトの特色が表われているように思います。ダンもパウロのトーラー理解の中に積極的側面を見い出そうとする姿勢は明確ですが、ライトは特に契約の成就に至る過程の中にトーラーの逆説的役割を見ようとする点に特色があるように思われます。


2.ノモス理解におけるダンとの方向性の一致

次に、ダンとの比較をしながら、ライトの理解の大枠を理解して頂くことにします。おおまかな見方をすれば、ライトによるローマ書内のノモス理解は、ダンによる理解の方向性に一致していると言えます。一致点として、とりあえず以下の二点を挙げさせて頂きます。

(1)トーラーとしてのノモス理解

まず、ローマ書で最初に登場するノモス(2:12)について、ライトは以下のように説明しています。「『律法』はここにおいて、また多かれ少なかれローマ書全体において、『ユダヤ人律法』、すなわち、シナイ山においてモーセに与えられたトーラー、イスラエルを定義づけ、教え、彼らが(おそらく)神の民であることを可能にする律法を意味する。」(注3)

これは、ダンが、多様な訳し方が可能なノモスについて、パウロ書簡においては一貫してユダヤ人律法、トーラーとして理解したのと同一の方向性を示しているものと言えます。このような方向性は、口語訳聖書で(一般的な)「法則」と訳されている箇所(3:27、7:21、23、8:2)でも同様で、ダンが示している理解とほぼ一致しています。

たとえば、3:27「なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである」と訳される三箇所のノモスをいずれもトーラーと理解します。「行いによって特徴づけられるトーラー」と「信仰によって特徴づけられるトーラー」を比較しているのだと言います(注4)。

また、7:21は口語訳で「そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る」と訳されており、多くの注解者もノモスを一般的な原理と理解しています。ライトはそのことを認めつつ、パウロがこの部分で言葉遊びを始めているのではなく、一貫してトーラーについて語っていることを主張しています。すなわち、この一節が意味するのは以下のようなことであると言います。「これが私が律法について見出したことである。私が善をしようと欲する時、私に悪が手近なところに接近するということである。」(注5)

更に、7:23、25では、口語訳聖書で「神の律法」「別の律法」「心の法則」「罪の法則」(23節)「神の律法」「罪の律法」(25節)と色々に訳されていますが、いずれもノモスが用いられています。ライトは、これらの箇所すべてをトーラーとして理解するべきであると言います。そして、「トーラーが神によって与えられ、それ自体きよく、正しく、善いものである限りにおいては、まさに喜ばしいものである。トーラーが罪の働きの拠点となる限りにおいては(8、11節)、罪によって乗っ取られきたし、『罪の律法』となったのである。」と説明します(注6)。

続く8:2でも、口語訳聖書では、「いのちの御霊の法則」「罪と死との法則」と訳されています。「『いのちの御霊の律法』が更にトーラーに言及しているのであり、7章で見られなかったトーラーの新しい相を導入しているのだということが本当に可能だろうか」と問いつつ、それを可能だとライトは考え、次のように説明します。「2節の説明は結局3-4節において見出される。そこでは、ある程度までこの章の中心部分として、以下のことが見出される。すなわち、『律法の義なる評決』(ディカイオーマ・トュー・ノムー)は今や『御霊によって歩く私たちにおいて』満たされる。」(注7)3、4、7節のノモスがトーラーを指す以上、2節のノモスもトーラーをさすと言います。

以上のようなノモス理解は、いずれもダンの理解とほぼ重なるものと見てよいでしょう。

(2)ユダヤ人を異邦人から区別するものとしての「律法の行い」

また、3:20「エクス・エルゴーン・ノムー」(口語訳で「律法を行うことによっては」と訳されている部分)について、「パウロ研究の最近の四半世紀の大きな収穫の一つによって、次のことが認められてきた。パウロの同時代人たち―そして回心前のパウロ自身―は、『律法主義者』ではない」としながら、ライトは次のように書きます。「パウロの時代、殊に契約メンバーを表わすものと考えられた『行い』は、もちろん、ユダヤ人をとりわけディアスポラにおいて異邦人たちから区別した行い、すなわち、安息日規定、食物律法、割礼である。従って、ローマ書とガラテヤ書における『律法の行い』を特にこれらの要素を強調するものとして見る強い論拠がある」。そして、この部分への脚注として、以下のように記されています。「このことは、殊にダンの様々な研究において議論されている。ダンRomans1-8、153-60及びそこに記された参考文献を見よ」(注8)。

「律法の行い」についてのこのような理解は、3:28でも同様です。


3.ダンとの違い

ノモス理解における基本的な方向性においては、ダンと同一のものを示しているライトですが、ダンとの違いもいくらか見出すことができます。細かい部分ではもっといろいろと挙げることができると思いますが、とりあえず、目立つところとして、以下二点を挙げておきます。

(1)「契約」テーマとの関わりの重視

まずは、1.でも見たように、「契約」テーマとの関わりでトーラーを位置づけようとする点です。ローマ書においてライトはパウロの主要テーマとして「神の義=神の契約的真実」を見ます。そして、パウロのトーラー理解も、契約との関わりの中に位置づけようとします。これは、ダンと比較してのライトのトーラー理解の特色と言えるかと思います。このことは、ダンとライト、両者の注解書の序文における「ノモス」問題の扱い方の中にも、ある程度表われているように思われます。

ダンにおいては、彼の注解書の序文の最期に、"The New Perspective on Paul: Paul and the Law"というタイトルの節があります。ここには、パウロの律法理解についてのNP(新しい視点)に基づいてローマ書全体を読み解こうとする意図が伺えます(注9)。

これに対して、ライトの注解書の序文で中心的に扱われているのは、「神の義」です。11ページある序文の中で、6ページを割いて扱っているところから、ライトの意図は明確です。「この手紙の主要テーマを見つけることは難しくない。『神の福音は神の義を啓示する』。事実、それは1:16-17におけるパウロ自身の要約であり、この手紙は実際この凝縮された言述を解き明かしている。」(注10)ライトは、「神の義」を法廷的用語であると共に、契約的用語であり、黙示的用語でもあると言います。詳細な議論は省略しますが、従来、ローマ1:17その他の「神の義」(ディカイオシュネー・セウー)が、ピリピ3:9に見られる「神からの義」(ヘー・エク・セウー・ディカイノシュネー)と同義であると見られてきたことを指摘しながら、ライトは、それとは違った「神の義」理解を提示します。「もしわれわれが1:17におけるこのテーマの言述を、単に『義認』についてのものというよりも、神と、神の契約的真実と正義についてのものとして理解するならば、殊に、手紙全体の思想の流れははるかに意味がよく通る。」(注11)「神の義」を一貫して「神の契約的真実」として理解する見方を提示しています。

そして、先にご紹介したように、そのような「神の義」理解の説明の中で、パウロのトーラー理解の問題が、ごく簡潔に紹介されます。これは、ライトがパウロの律法理解を重視していないということを意味するわけではないでしょう。後にご紹介するように、ノモスが現れる各節の注解を見て頂くと分かりますが、各箇所でのトーラーに関する解説は、相当力の入ったもので、パウロのトーラー理解の問題については、ライトも大変重要視していることが分かります。ただ、ライトにおいては、トーラー理解の問題を、先に見たような「神の義」理解、つまり、「神の契約的真実」との関わりで見ようとする姿勢があります。

ダンのトーラー理解と重なる点も多い中で、もし違いが現れる基本的要因があるとすれば、ライトが「契約」テーマとの関わりでトーラーを位置づけようとする方向性を挙げることができるのではないでしょうか。

(2)テロス・ノムー(10:4)の理解

ローマ書本文の中に現われるノモスについて、ダンとの釈義上の違いは小さな点を含め、様々な点に現われているようですが、中でも目立つものとしては、10:4、5の理解でしょう。特に、10:4のテロス・ノムーをどう理解するかで、両者の間に違いが生じています。そして、実はこのようなところにも、(1)で見たような、「契約」テーマ重視のライトの姿勢が表われているように思われます。

10:4のテロスを「終わり」と理解するか、「ゴール」と理解するかについては、これまでも議論がありました。一方のダンは、この言葉が英語の"end"同様、両義性を持つと考えます。「たとえここで『ゴール』あるいは『目標』が考えられているとしても、"end"=『完成、結末、停止』の思想を排除することはできない」(注12)と言います。また、ここでの律法は、義を定義するものとしてでなく、「『行い』との関係で誤解された律法(9:32)、イスラエルの特権としての義を確立し固定する手段として誤解された律法」とされます(注13)。「『キリストは律法の終わり』とはキリストの生涯、死と復活によって果たされた神の救済の目的においける一度限りの移行について語っている」(注14)、「イスラエルの排除的特権の時代が終わった。すなわち、選びのバッジとしての律法の役割が終わった」(注15)と言います。すなわち、テロスの両義性を認めつつも、「停止、終わり」としての意味合いを中心に理解しようとしています。

これに対して、ライトは、テロスを「終わり」と理解する見方が、ルター派を中心に行われてきたことを指摘しながら、ギリシヤ語翻訳のレベルで3つの問題点、またローマ書全体における文脈におけるパウロ思想のレベルでのより大きな問題点を指摘します。そして、次のように言います。「私は以下のように結論づける。すなわち、10:4において、パウロは違う『システム』を好んで律法の廃棄を主張しようとしたわけではなく、メシアが神とイスラエルの長いストーリーのクライマックスであること、そのストーリーはトーラーが語るものであり、トーラーがそのストーリーの中で戸惑わせるけれども重要な役割を果たすのであることをむしろ告げている。トーラーにおける神の目的は、消極的なものも積極的なものも、メシアにおいてゴールに達し、その結果は、信じるすべての者にとって『義』に接近しうること、『義』を入手しうることである。」(注16)ライトもまた、「テロス」がここで「終わり、終了」をも意味することを認めながら、旅の途中での停止を意味するのでなく、旅の目的地に着いたことを意味すると言います。

10:4のテロス・ノムーへの理解の違いは、当然のことながら、10:5のノモスへの理解に違いとして引き継がれます。ダンが「律法による義」を限定的なフレーズとして理解し、「律法を守る人々、すなわち契約の民に限定されている」と理解するのに対し(注17)、ライトは違った理解を提示しています。すなわち、5節の「律法による義」と6節の「信仰による義」を対置させるのでなく、同一線上にあるものとして捉えようとします。すなわち、「10:5におけるレビ18:5のパウロの引用は、(10:6~8において引用される)申命記30(:12~14)と対置されているのではない」と指摘します(注18)。ライトは特に、申命記30章が契約的祝福とのろいについて提示する諸章に続くものであることを指摘し、そこに記されたのろいが民の上に起こり、特に捕囚において最悪のかたちで起こった後、申命記30章が捕囚後の帰還を予告するものとして注目されたこと、その中で、ローマ10:6~8に引用される申命記30:12~14は、本来、戒めが難しすぎるものでないことを言うものであることを指摘します。レビ18:5は、「律法を行うこと」と「生きる」を一緒にしたものであり、「律法を行い、生きる」ということが実際意味することを申命記が新鮮に説明しているとパウロが主張している・・・そのように、ライトは言います。

対比的に言うならば、ダンはここで律法を「選びのバッジとしての機能」に関連付けて理解した上で、律法とキリストとの間には不連続性を、律法と信仰との間には対照性を見い出そうとするのに対して、ライトは律法が神とイスラエルのストーリーをクライマックスに至らせるための役割に注目し、律法とキリスト、律法と信仰の間に相互関係性を見い出そうとしているように思われます。

このようなダンとの違いは、(1)で取り上げたように、ライトの「契約」テーマの重視姿勢に関わっているように思われます。すなわち、神の契約的真実によってイスラエルのストーリーは、メシアにおいてクライマックスに至ります。そのために、トーラーが消極的な役割と共に、逆説的にですが、むしろ積極的で重要な役割を果たす点を、ライトは重視していると言えます。

以上により、ある程度、ライトのトーラー理解の概要をつかんで頂けるかと思いますが、注解本文を見ていきますと、聖書各本文の文脈をライトの視点からとらえ直しながら、パウロのトーラー理解に迫ろうとしていることが分かって頂けるかと思います。


4.1:18-3:20におけるノモス

ライトは、1:1-4:25を大きな一区切りとしたうえで、「神の真実」とのタイトルをつけ、
A.1:1-1:17「最初のテーマ陳述:神の福音と神の真実」
B.1:18-3:20「神の真実への挑戦:異邦人もユダヤ人も同様に神の怒り、偶像礼拝の罪悪、邪悪のもとにある」
C:3:21-4:25「契約に対する神の真実」
とサブタイトルをつけます。

この内、ノモスが登場するのは、Bからですので、まず、1:18-3:20におけるノモスの用法について、ライトの理解を調べます。

(1)1:18-32

この区切りにはノモスは現われませんが、ライトの文脈把握を確認する意味で、ごく簡単に触れます。「偶像礼拝と非人間的振る舞いが神の怒りをもたらす」とのタイトルがつけられ、「それゆえ、悲しい全体の絵の上をくくる陳述がある。神の怒りが啓示されている(1:18)。彼らはそのようなことを行う者が死ぬに値するという神の定めを知っている。(1:32)」(注19)

(2)2:1-16

この区切りには「神の公平な裁きは道徳的優越の余地を残さない」とのタイトルが付けられます。この箇所は全体として「場面は最後の裁きのために設定されている」、「パウロはここや他の場所でディアトリベとして知られる散文スタイルを採用している。(略)このスタイルにおいては筆者は想像上の反対者と議論をする」、(注20)「ローマ書のこの区切りを理解するためには、ローマにいるクリスチャンの聴衆が彼自身と想像上のユダヤ人の対話者との会話に耳を傾けるようにとパウロが意図しており、しかもその想像上のユダヤ人対話者が当面、まるで異邦人の道徳主義者であるかのようにとパウロが話しかけているということが示されなければならない」と言われます(注21)。

この中で、2:12-16の間に、初めてノモスが登場します。この小区切りについて次のように言われます。「12-16節の全体は7-11節に含まれることを更に説明する。神はユダヤ人とギリシア人を完全な公平さで同様に裁くであろう。『というのは』律法の外の者たちと律法の内の者たちは正当に裁かれるであろう。」(注22)

ここで既にご紹介したように、この箇所(及び、概ねローマ書全体)においてノモスはモーセ律法、すなわち、トーラーを意味するというライトの見解が述べられます。従って、「律法なしの者」とは異邦人を、「律法のもとにある者」とはユダヤ人を意味すると指摘します。

12-13節については、次のように説明されます。「それゆえ12節全体のポイントは、再度、判決において考慮されるべき公正さである。神は異邦人の罪人を有罪とするのにユダヤ人律法を用いず、ユダヤ人の罪人を有罪とするのにそれを用いる。13節の効果は更に神の公平さを支えることである。すなわち、トーラーを単に所有していること、会堂でそれが読まれるのを聞くことは神に対して効力をもたらさない。トーラーは従われるよう意図されているのであって、ただ聞かれることではない。」(注23)

14-15節では、「ユダヤ人でないのに律法が要求することをなす人々」のことが語られます。ライトはこの人々についての理解の仕方が三つあることを示唆しながら、彼らを異邦人クリスチャンと考える理解を支持します。ライトはこの箇所を2:29、8:1-11、10:5-11を先取りした箇所と理解しています。(注24)

(3)2:17-29

ライトはこの区切りを「『ユダヤ人』への直接的挑戦」とのタイトルを付けます。ライトはこの箇所が単に個人主義的に理解されることを避けるべきであって、「ここでパウロの『あなたがた』は、ユダヤ人全体について行われていることについて焦点を当て、劇的なものとする」と言います(注25)。また、「ここでのポイントはイスラエルが世界の問題に対する神の解答であるはずだった―そのように召されてきた―が、その代わりに自分自身がまさに同じ問題に対して決定的に妥協しているということだ」と言います(注26)。

17節「律法に安んじ」(口語訳)については、「"rest on"という意味である」と言い、「よきわざの梯子としてトーラーを用いるということでない」、「パウロが描写している態度はこういうものだ。『神はイスラエルにトーラーを与えた。我々がそれを持っていることは我々がその上に立っている岩である。それは我々ユダヤ人を神の特別な民としている』」と言います(注27)。

18-20節については、次のように要約します。「トーラーの所有は、『ユダヤ人』が神の御心を知り、『異なるものを見分ける』ことを可能にするはずである(18節)」「結果としてイスラエルは理論上諸国の光、世界の道徳的教師となった。なぜなら、トーラーにおいてイスラエルは事実『知識と真理の体言』を所有した(19-20節)。」(注28)

21-22節はユダヤ人たちに対する告発を描く箇所ですが、「この告発は再度次のことを示す。(a)ここでの彼の関心はイスラエル内のすべての個人よりもイスラエル全体にある。(b)イスラエル全体についての彼のポイントは単にユダヤ人の罪にあるのでなく(それは重要であるが)、この罪の結果、イスラエルが異邦人世界に対する神の光であることに失敗したということである。」(注29)

23-24節については、「真の問題はイスラエルが神に世界的誉れをもたらすことに失敗したことである」と言われます。(注30)

25-29節については、「彼はトーラーについてのポイントと並行して、割礼の問題を導入することによりこの後者のポイント(前節まででほのめかされているとされる契約の更新と御霊の賜物)に至る」と言われます。そして、「割礼はユダヤ人のアイデンティティを示す鍵となるバッジとして見られている。」ことを指摘した上で、「割礼とトーラーを一緒にしながら、パウロは前者が意味するのはトーラーが守られているところで想定されていることに過ぎず、ここでも再びトーラーは破られた。それゆえバッジは偽りを語っている」と言います。逆に、「もし契約の更新についてのエゼキエルその他の預言が他の場所で真実となるなら―もし新しい心、新しい霊を持ち、トーラーの戒めを守る者たちがあるなら―彼らが割礼を受けていようといまいと、彼らはまさにその存在によって、割礼にもかかわらずトーラーを破る人々の契約的メンバーシップの破れ、非妥当性を明らかにする」と言います。新しい契約についてのこのテーマについては、3:27-31、8:1-11、10:1-13も参照箇所として示されます(注31)。

(4)3:1-8

この区切りには、「イスラエルの不真実と神の真実」とタイトルが付けられます。この中に直接ノモスは現われませんので、ライトの文脈理解だけご紹介します。「このセクションの要点は二つの事柄が評価されて初めて理解される。一つは手紙の『交響楽的』構造(Introductionを見よ)であって、そこにおいては、諸テーマが十分な陳述の前にあらかじめほのめかされている。もう一つは契約に対する神の真実と、世界に対する神の目的が完遂されるためのイスラエルの応答的真実への召しである。パウロはここで、ユダヤ人全体の罪深さよりもむしろ(それは重要であるが)、世界の救いの手段となるようにという神の委託をイスラエルが果たしていないことに関心を寄せている。」(注32)

(5)3:9-20

この区切りには、「トーラーは異邦人と共にユダヤ人をも裁く」とタイトルが付けられます。この区切りについては以下のように言われます。「『すべてトーラーの言うところは、律法のもとにある(文字通りには『律法内の』)者に対してかたりかける。』(3:19)これは、一連の聖書引用と共に今の節への鍵である。異邦人の罪と罪悪の普遍性は既に議論されてきたが、パウロは今やユダヤ人が異教徒と共に裁かれなければならないことを強調する必要がある。(略)パウロはどんな人もトーラーによっては義とされないということとの関連で問題を要約する。というのは、トーラーができることは罪を指摘する事だけであるからである。このことによって彼はすぐに次のことを示すことができるようにされる。すなわち、福音の中での神の真実の啓示がいかにこの問題を正確に取り扱うかを。」(注33)

この区切りの中では、最後の二節にノモスが登場します。

3:19には二回、ノモスが使われますが、いずれもトーラーと理解するものの、一方は広い意味であることが指摘されます。その上で、この節の要点が以下のように指摘されます。「事を結論づけるため、パウロは法廷イメージに戻る。トーラー(ここでは単に最初の五書でなく、ユダヤ人聖書全体として理解される)は『律法の内にある』者たちに向けて語られ、その結果、すべての口は止められ、全世界は神に対して弁明責任がある。」(注34)

3:20は、長い区切り(B)全体の最後を締めくくる節ですが、ライトはこの節のために丸3頁以上を費やしています。ただ、ライトのノモス理解だけでなく、義認理解も表われており、ライトのパウロ理解の基本的な部分が凝縮されているような箇所で、冗長さを感じさせません。全文を訳出したいくらいですが、部分的に訳してみます。

「この節は3:19の論理的根拠を提供しており、逆ではない。パウロは言う。トーラーはトーラーの下にある者たちに対して語っており、その結果、すべての口は止められる。なぜなら(20節a)、誰もトーラーの行いによって義とされない。なぜなら(20節b)、トーラーを通しては罪の知識が来る。」

「まず文の主語であるが、"No human being"(NRSV)や"no one"(NIV)は、パウロのフレーズのニュアンスを捉えていない。詩篇143:3(七十人訳では143:2)をほのめかしながら、文字通り『すべての肉は(パーサ・サルクル)は義とされない』と言っていることは驚くべきことである。」

「パウロは詩篇を一語一語引用していないが、明らかにそれに言及する意図がある。ふたたび、より広い霊的文脈に留意しているように思われる。詩篇143編は、ヤーウェの真実と義を嘆願する祈りであり(1節)、いかなる功績にもよらず(2節が言うように、生ける者はだれも神の前に正しくないので)、ただ神の御名と神の義によって(11節)解放を求めている。」

「この節において、義認は明らかに法廷用語である。(略)イントロダクションで述べたように、パウロがこの用語を用いるとき、三つの組み合う言及領域がある。この用語は最も自然に法廷に属する。また、パウロの中で包括的な概念は、イスラエルとの神の契約、(あたかも宇宙の法廷内のように)世界がそれによって正しくされるところの契約である。そして議論の重要な考え方は終末論的であって、パウロは最後の審判の光景が現在にもたらされ、神の『義』が既にメシア・イエスにおいて現されたことを主張する。」

「要するに、ここでのパウロのポイントは、法廷、すなわち神の宣告は、自分たちの証拠として『トーラーの行い』を持つ者たちが『義』という宣告を受けるということではありえないということである。再度我々が思い出さなければならないことは、彼はここで異邦人について語っているのではなく、ユダヤ人について語っていることである。」

「それでは、これらの『トーラーの行い』とは何か。」

「『トーラーの行い』というフレーズを用いるキリスト教前のユダヤ教文書として、我々が所有する唯一のものは、以前から良く知られており、最近発行された死海写本、4QMMTである。著者は読者に言う。『我々はあなたの幸福とあなたの民の幸福のため、我々の決断に従って、トーラーの行いのこのセレクションを実際にあなたに送った。』しかし、これはこのフレーズについてのパウロの意味自体の型として用いられることはできない。なぜなら、そこで語られている『行い』は、(a)神殿のきよめに関する聖書後のルールであり、(b)ユダヤ人の一つのグループを他から区別して定義することを目的としているからである。ローマ書とガラテヤ書からは、これから見るように、パウロが『律法の行い』について語るとき、彼はむしろ次のように考えていることが明らかである。すなわち、(a)聖書的ルールであって、(b)ユダヤ人(とユダヤ教改宗者)を異教徒から区別するものであると。」

「けれども、このクムラン・テキストが現在の議論への主要な積極的貢献は、『トーラーの行い』が義認用語の中でどのように機能するかの理解を助けることである。MMTの三番目と最後の節は、申命記の約束と警告から筆者自身の時代に至るイスラエルの物語を語っている。申命記30章は、歴史的経緯を約束した。すなわち、契約的祝福、のろい、そして再び祝福。初めの祝福とのろいは君主制の時代にイスラエルにやってきた。この内、のろいは、多少なりとも捕囚であった。しかし、今や同じテキストによって約束された二番目の祝福がイスラエルにやってきた。それは、まさにセクト、密かに始められ、しかし最後には公けに正当化される新しい契約の民の生活において、やってきたのである。セクトのメンバーたちは、彼らが正当化される時に先立ち、既に終末論的イスラエルとして区別されている。現在、彼らを区別するものは、まさに特別な『トーラーの行い』であって、それらをテキストは読者に強いている。すなわち、セクトによって必要だと考えられている聖書後の諸規則である。従って、これらの『トーラーの行い』は、将来の評決(セクトに対する神の正当化)が現在期待されることのしるしである。セクトは、今や、更新された契約、新しい祝福の共同体、申命記30章で言われている『捕囚から回復した』民のメンバーであることを確信できる。我々が巻物に言われるセクト的『行い』からパウロが意図するより基本的な聖書の『行い』に視点を広げると、彼が反対している立場は以下のように陳述されうる。『トーラーの行い』は、イスラエル、待望された『神の真実』がついに実行をもって明らかにされる将来には、正当化されるであろう神の契約の民のメンバーであることのしるしである、と。」

「パウロ研究における最近の四半世紀の大きな成果の一つは、パウロの同時代人たち―そして、回心前のパウロ自身―は、『律法主義者』ではなかったということを認めたことである。(略)パウロの批判は、トーラーが悪いものであるというものではなかった。(略)むしろ、彼のポイントは、トーラーの所有をアピールすることによって自分たちの契約的立場を正当化しようとするすべての者が、トーラー自身が彼らを罪に定めるのを見出すだろう、ということである。もし、『ユダヤ人たち』がトーラーをアピールして、『これがわたしの異邦人と違うことを示してくれる』と言うなら、トーラー自身が『ノー』と言うだろうとパウロは言う。『ノー。そうではない。それはあなたがたが異邦人と同じだということを示す。』と。」

「パウロの時代、特に契約の民であることを示すものとして言及された『行い』は、もちろん、とりわけディアスポラにおいてユダヤ人を異邦人の隣人たちから区別するもの、すなわち、安息日、食事規定、割礼であった。それゆえ、ローマ書やガラテヤ書における『トーラーの行い』を特にこのような要素を強調するものとして見ることに対しては強い立証が与えられうる。」

最後の一文には以下のような脚注が付けられています。「このことは特にダンによって様々な著作において議論されている。ダン、Romans 1-8,p153-160、またそこでのその他の参考文献を見よ。」(注35)


5.3:21-4:25におけるノモス

ライトは、1:1-4:25の大きな一区切りの中で、C:3:21-4:25に対しては、「契約に対する神の真実」とサブタイトルをつけます。この区切りの中にも、多数のノモス用法が見いだされます。

(1)ローマ3:21-4:25についてのライトの文脈理解

この区切りについてのライトの文脈理解は、"Overview"(概観)に示されています。詳細は省略しますが、ノモス理解にも深く関わりますので、ポイントとなる3つの事項だけ以下に挙げます。

・「契約」神学
「それゆえ、パウロは、用語を使うことなしに、契約について語っている。(略)私や他の者たちが時々してきたように、この点で『契約』神学について言及することは、以下のことを意味する。パウロは神がメシア・イエスにおいてなしたことはアブラハムに対する約束の成就であるということを主張しようとしている。」(注36)

・「神の義」
「このフレーズ(神の義)は、NIVのように『神からの義』を意味することは全くありえない。(略)それ(神からの義)は、その義(神自身の義)の、すなわち神の救済の契約的真実の啓示の結果である。」(注37)

・「義認」
「パウロの文脈において『義認』は、通常以下の両方を含む。罪人の罪からの救い、そして、ゆるされた罪人による世界大の家族の創造である。」(注38)
「パウロにおいて義認は、人がクリスチャンになったり、クリスチャンとして成長するプロセスや出来事ではない。それは、誰かが現在、神の民のメンバーであるということの宣言である。(略)我々は、パウロの『義』用語における三層の意味を思い起こすことができる。それは契約的宣言であり、比喩的及び決定的な法廷のレンズから見られたものであり、終末論的に働きだすものである。」(注39)

(2)3:21-26

ライトはこの区切りに対して「イエスの真実を通して啓示された神の義」とのタイトルを付けます。

ノモスは、3:21で2回現れます。

ライトは、まず次のように指摘します。「最初の言及はトーラーについて注意深くバランスを取られた言及によって側面を固められている」。

「トーラーは、19-20節の主要テーマであった。今パウロがしなければならない最初のことは、良い知らせの新しさを強調することであり、この啓示が『トーラーを離れて』起こったことを強調することである。これは二つの機能を果たす。最も明らかなことは、ユダヤ人が有罪であると宣告するのはトーラーであるということである。(略)直截的に明らかではないが、パウロの議論展開にとって決定的なのは、異邦人に対してバリアを立てたのはトーラーであるということである。」

「しかしながら、啓示は、『トーラーと預言者によって証しされて』いる。」(ここでのトーラーは、ヘブル語聖書の区分をさしていることが指摘されます。)「新しい啓示が『トーラーを離れて』起こることはパウロにとって重要であるが、同様に重要なのは、それは新しい啓示であったとしても、神があらかじめ約束されたそのものであるということである。」(注40)

なお、この区切りでは、「ピスティス・イエスー・クリストゥー」についての興味深い議論が取り上げられます。ライトは、このフレーズがイエス自身の真実について言及していると考えています。

(3)3:27-31

ライトはこの区切りに対して、「一人の神、一つの信仰、一つの民」とのタイトルを付けます。

3:27については、ここで取り上げられる「誇り」が道徳的律法主義者の一般的「誇り」でなく、ユダヤ人の民族的「誇り」であることを指摘した上で、「誇りは排除されている」と言います。続いて現れる二回のノモスについて、既に見ましたように、ライトはトーラーを意味していると考えます。すなわち、文脈としては以下のようであると考えます。「それゆえ誇りの排除の手段は、簡潔に述べられる。イスラエルの立場は、トーラーの賜物と実行にかかっていた。新しい整理はいかにして支持されるのであろうか。どんな種類のトーラーがそれを支えるのか。『行い』によって特徴づけられるトーラーか。否、『信仰』によって特徴づけられるトーラーである。」(注41)聖書本文の文脈はいくらか飛んでいるように見受けられますが、ライトは、上記文脈の内、「イスラエルの立場は、トーラーの賜物と実行にかかっていた。新しい整理はいかにして支持されるのであろうか。」といった意味合いの問いかけが省略されていると見ていることになります。

その上で、ライトは、「パウロがこうして二種類の異なった方法で見られるトーラーを区別している」とします。「一方では、『行いのトーラー』がある。これは、イスラエルを諸国に対立して定義するものとして見られたトーラーであり、安息日、食物規定、割礼だけでなく(これらは社会学的に言えば、神学的に規定された区別を実体化する明白な事柄ではあるが)、トーラーが描く行為の実行によって証しされるものである。他方では、パウロがここで案出している新しいカテゴリーがある。『信仰のトーラー』は、(3章の多くのものと同様)未説明の意味を持ち、真の新しくされた神の民がどこで見いだされるかを示唆するものである。彼は神の与えたトーラーが神の民を定義づけるという信仰を諦めたくないように見える。彼がしていることは、『トーラーの行い』すなわち、イスラエルを民族的に定義づける事柄をなすことを否定することであって、トーラーの適切な使用方式である。むしろ、トーラーは信仰を通して成就される。言い換えれば、誰かが福音を信じるとき、たとえ驚くべき方法ではあっても、トーラーは実際に成就されつつある。(このトピック全体については9:30-10:13の注解を見よ。」(注42)

続く3:28でも、ライトは、3:27での「行いのトーラー」と「信仰のトーラー」の対比を受けての理解を示唆します。「パウロは今や『行いのトーラー』と『信仰のトーラー』の対比を、人は『律法の行いでなく信仰によって義とされる』と宣言することによって説明する。」ライトはこの後、「義とされる」という言葉が人の回心を意味する言葉ではないとの理解を再度説明しています。その上で、以下のように記します。「ともかく、この節でのパウロのポイントは、ただ次のことである。イエスにおける神の真実の啓示の光においては、神の契約的民を今区別するものは、民族的イスラエルの境界を確定するトーラーの行いでなく、『信仰の律法』であって、逆説的ではあっても事実トーラーを真に成就する信仰である。」(注43)

3:31では、それまでの文脈を受け、「ここでの当然の疑問は以下のことである。我々は3:20までで語られてきたトーラー肯定を放棄するのか。我々は信仰によってトーラーを廃棄し、それを無価値、無効とするのか。」この問いに対して、「我々はトーラーを確立する("establish"NASB)」と答えることにより、パウロはここで次の二つのことをしているとライトは言います。「一つ目は、シェマ自体を持つことの重要性を新しい家族(そして、その心に御霊が働いている人々に言及する、2:25-29で言われる逆説的『トーラーの成就』)の〈ユダヤ人+異邦人〉という性質への指標として描こうとしている。二つ目は、手紙のこの段階では当然のことであるが、暗く深い、未達の議論をあらかじめ示唆しようとしている。その議論においては、キリストにおける、御霊による、神の全ご目的の成就によって、トーラーさえもが、その消極的側面を十分認めたとしても、その不思議な召しを達成したとみられるであろう。」(注44)

(4)4:1-25

ライトはこの区切りに対して、「アブラハムの契約的子孫」とのタイトルを付けます。ライトはこの箇所を、次のように理解します。「本章は実際、創世記15章で神がアブラハムと結んだ契約の十分な講解であり、神がいかに常にアブラハムの契約的子孫がユダヤ人同様異邦人も含むことを意図し、約束されたかをすべての点で示すものである。」そして、次のように指摘します。「議論の主要な三つのポイントは、行い(2-8節)、割礼(9-12節)、律法(13-15節)に関わる。二つ目、三つ目の場合は明らかに、また一つ目の場合は議論あるところであるが、議論は通常考えられているような、人はいかにクリスチャンになるか(略)という質問に関わるのではなく、アブラハムの子孫はただユダヤ人だけか、あるいは異邦人も含むのかという質問に関わっている。」(注45)

三つ目のポイント「律法」を扱うとされる4:13-15について、ライトはまず、「これらの節は新しいトピックを導入しているのではない」と指摘します。その上で、「彼は今や3:21でのコーリス・ノムー以来、留意してきた点に達した」と言います。この箇所についての文脈を以下のように説明します。「トーラー自体は契約の子孫の区分の印ではありえない。(略)彼はここでこのことを、なぜ割礼がこの子孫におけるメンバーシップに必要でもなければ十分でもないかということの更なる説明として提供している。それは、トーラーをメンバーシップのバッジとして絶対化するであろう。しかし、パウロはトーラーがそれを所有する人々の罪を指摘するだけであることを既に示してきた。トーラーは怒りをもたらす。(4:15a、それは3:19-20、またその背後に2:12bに言及する。)」(注46)

4:16では、「『律法からの者』は、ここでは単に『ユダヤ人』の簡略表記法である」と言い、「パウロは既に4:12で次のことを指摘した。割礼によって特徴づけられるユダヤの家系は、もし当該の人がアブラハムの信仰の歩みに続かないなら、何の益もない。」と指摘します。(注47)

(続く)


(注1)N.T.Wright 'Romans' "The New Interpreter's Bible Commentary Vol.9" Abingdon Press, 2000。
この注解書は、当然ながら、以下のような著作の内容が踏まえられている。
N.T.Wright "What St. Paul Really Said" Lion Books, 1997(邦訳:『使徒パウロは何を語ったのか』岩上敬人訳、いのちのことば社、2017年)
N.T.Wright "The Climax of the Covenant : Christ and the Law in Paul Theology" Fortress Press, 1992

(注2)Wright'Romans'p324

(注3)Wright上掲書p356

(注4)Wright上掲書p394

(注5)Wright上掲書p479

(注6)Wright上掲書p480

(注7)Wright上掲書p485

(注8)Wright上掲書p375

(注9)James D.G.Dunn "Word Biblical Commentary Romans(1-8)" Word,1988、 Intro.p63‐72.

(注10)Wright上掲書p321

(注11)Wright上掲書p325

(注12)James D.G.Dunn "Word Biblical Commentary Romans(9-16)p589

(注13)Dunn上掲書p596

(注14)Dunn上掲書p597

(注15)Dunn上掲書p598

(注16)Wright上掲書p562

(注17)Dumm上掲書p600

(注18)Wright上掲書p564

(注19)Wright上掲書p347

(注20)Wright上掲書p353

(注21)Wright上掲書p354

(注22)Wright上掲書p356

(注23)Wright上掲書p356

(注24)Wright上掲書p357

(注25)Wright上掲書p360

(注26)Wright上掲書p361

(注27)Wright上掲書p361、362

(注28)Wright上掲書p362

(注29)Wright上掲書p363

(注30)Wright上掲書p363

(注31)Wright上掲書p363

(注32)Wright上掲書p367-368

(注33)Wright上掲書p371

(注34)Wright上掲書p372

(注35)Wright上掲書p373-376

(注36)Wright上掲書p379

(注37)Wright上掲書p380

(注38)Wright上掲書p382

(注39)Wright上掲書p383

(注40)Wright上掲書p383

(注41)Wright上掲書p394

(注42)Wright上掲書p395

(注43)Wright上掲書p395-396

(注44)Wright上掲書p398

(注45)Wright上掲書p401

(注46)Wright上掲書p408

(注47)Wright上掲書p411

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