日本語は主題の提示とその説明の繰り返しである。以下のような形をしている
主題1 は 説明文1、
説明文2、
説明文3
主題2 は 説明文5、
説明文6
主題3 は 説明文7
主題4 は 説明文8、
説明文9
説明文1は主題1の説明である。説明が必要なら説明文2や説明文3を続ける。次の主題2については説明文5と説明文6で説明する。主題3については説明文7で説明し終わる。主題4については説明文8と説明文9が必要である。例をあげよう。
吾輩 は 猫である
名前はまだない
どこで生まれたか とんと見当がつかぬ
何でも薄暗いジメジメしたところでニャーニャー
泣いていたことだけは記憶している
吾輩 は ここで初めて人間というものを見た
これが典型的な日本語の文である。ここには5個の文章が並んでいる。全ての文章は吾輩に関する説明である。主題の吾輩は時間が経つと忘れがちになるので吾輩という主題を再録して記憶を喚起することが行われる。この吾輩はについて「は」は主語を示す助詞とする説明をするのが橋本文法で、現在学校で教えられている。次の文章まで主語が続くのはおかしいし、省略できるというのもおかしい。「は」については主題を表す助詞で主題だから複数の文章で持続することもあるし、省略もできる。初めてこれを明らかにしたのが三上章である。彼は日本語の文章には主語がないのが普通ということも明らかにしている。「日本語は主語と述語がはっきりしていないから曖昧な言語であり、論理的な思考ができない欠陥言語である」と誤った主張する者もいた。さらに「主語と述語のはっきりした明確な文章を書きなさい」という無理な作文指導が行われたりした。これらの誤りは三上文法が受け入れられないことに起因する。これは最初に英語の文法を勉強し、次に日本語の文法を考えたからである。英語は主語と動詞と目的語が必要という先入観で英語文法に似た日本語文法を考えるから思いつかないのである。文章は名詞文、動詞文、形容詞文からなる。