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女川原発もメルトダウンしたら、日本はなかった

2016-08-14 00:02:31 | Weblog
福島第一原子力発電所のメルトダウンのほかに、
女川原子力発電所メルトダウンしたら、
日本はなかった。

女川(おながわ)に行こう、と思ったのは、2011年3月11日の東日本大震災で、
東京電力の福島第一原子力発電所は、メルトダウンしたが、
東北電力の女川原子力発電所は、メルトダウンしなかった。

女川原発の方が、福島第一原発よりも、
東日本大震災の震源地に、はるかに近いから、
女川原発がメルトダウンし、福島第一原発が助かったならば、
わかるが、反対だった。どうしてだろう? と思った。
だれもが、抱く疑問である。

原子力発電所と震源地

USA TODAYから。

震源地のすぐ左のが女川原子力発電所。
その下の2つのは、原子力緊急事態宣言が出た、
福島第一原子力発電所と福島第二原子力発電所。
下のは東京。

福島第一原発の、事故前と事故後の写真がある。
New York Times、2011年3月18日から。
事故前

左の港の近くに⇒2つの白いタンクが見える。
非常用ディ-ゼル発電機の軽油が入っている。

事故後

港から原子力発電所の周囲まで、
津波による泥、ガレキで茶色になってしまった。
3号機から、水蒸気が上がっている。

港の近くにあった⇒2つの白いタンクは、津波で流された。
そして、非常用ディ-ゼル発電機ほかの、
非常用の電源供給系の設備が機能しなくなった。
このために、非常用の炉心を冷却する装置ECCS、
(Emergency Core Cooling System)
が動かなくなって、最悪となった。
電力の供給、注水がスムーズにできなくて、
水素爆発、放射線漏れになった。

日本のメディアから、いい写真がなかった。
東京電力の広告費、電機メーカーや商社の広告費で、
メディアは成り立っているから、広告主の意に反することは書けなかった。
それに、メディアの経営のトップは、
原子力を振興する財団などの役員をしているから、
原子力発電に不利なことは書けなかった。しかし、
しがらみのない海外メディアは、いち早く報じた。
ワシントン・ポスト2011年3月22日は、
「東京電力は津波のリスクを軽視した」
「非常用のディ-ゼル発電機は低い場所にあったから、
津波に弱いし、内部の浸水にもぜい弱であった」

福島第一原発の津波対策は、5.7メートルだった。
襲来した津波の高さは、14メートルだった。
外部電源は、6系統が全て喪失した。
非常用の電源系は、軽油タンクが流されて、使えなかった。
それで、非常用の電源系が機能しなかった。メルトダウンした。

女川原発の津波対策は、
869年の貞観地震(じょうがんじしん)を考慮して、14.8メートルだった。
襲来した津波の高さは、13メートルだった。
地盤沈下が1メートルあったが、津波を凌ぐことができた。
外部電源は、2系統の内、1系統が生き残った。
地震で安全に自動停止して、冷温停止になった。

女川原発も、福島第一原発のように、
メルトダウンしていたら、日本はなかった。

10数メートルの大津波がくれば、そのときは、
女川原発は大丈夫でも、女川町がなくなる、
といわれた女川原発の津波対策だった。

女川原発は、地震で被災した付近の住民の、
避難所になっているという。その女川原発まで、
足を伸ばすことはできないが、女川町を見たくなった。

女川町は、東日本大震災で壊滅的な打撃を受けている。
それに、女川町は「陸の孤島」となった。
JR石巻線は、石巻の先、女川までは不通。
国道は、ガレキでおおわれ、冠水し、
鉄橋も一部が落ちて、陸路は遮断された。

女川町を訪れたのは、
東日本大震災から3か月後の2011年6月28日。
仙台まで、東北新幹線で行く。
東北新幹線の車内の放射線量は?
米国エネルギー省が測定している。2011年5月3日。

仙台、0.063マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]、
福島、0.44マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]
郡山、0.52マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]
新白河、0.40マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]
那須塩原、0.46マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]
宇都宮、0.047マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]、
大宮、0.069マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]、
東京、0.07マイクロ・シーベルト毎時[μSv/h]。
日本には、東北新幹線の車内の放射線量について、
公表されているデータがなかった。

石巻から女川まで、バスで行くことになる、が、
ダイヤを見ても、停車駅に「女川駅」がない。
終点は「女川総合運動公園」になっている。
初めての女川、どこで降りたらいいの?

石巻駅にある、ミヤコーバスの案内所で聞いた。
「女川駅に行きたいが、女川総合運動公園から近いですか?」
すると、女性のスタッフは、
「女川は、低いところは街が流されて、なにもありません。
終点は、高台にある女川総合運動公園になります」
と言われた。

数人の乗客の、バスの一番前に座った。
国道は、ガレキでおおわれ、地盤が沈下して、
一部冠水したが、なんとか仮の修復がしてあった。

女川の街に入ると、バスはストップした。
ここは、女川駅があった中心街。左は保険センター、右は郵便局。

重機が、砂利を固めている。その間、バスは、作業を見ている。
作業が終わって、重機と、前の作業者が道を開けてから、
バスは砂利の上を、ゆるりと進んで行った。
「被災地に来たんだ!」、強烈な印象だった。

バスは、保健センターの先を左折して、
高台にある女川総合運動公園へと上がって行く。
街は流されて、駅も商店も家もなかった。
押し流された漁船が、ポツンとあった。
がんばろう! 女川」、ゆきあい丸。あとで、行ってみる。

中央奥の⇒は女川町立病院で、高台にある。それでも、1階が浸水した。
左は生涯教育センター、右は町役場で、ともに、水につかった。
町役場の屋上に上がって、難を逃れた人がいた。JR女川駅は、
流されて、ない。「ゆきあい丸」と、生涯教育センターの間にあったが。

女川の街

高台にある女川第二小学校の下から撮影。

だれもいない!
街は流された。車が、高台まで、流されてきた。
「女川は、低いところは街が流されて、なにもありません」
は、その通りだった。それに、これまで築いてきた、
生活も、文化も、想い出も、なくなってしまった。

→ゆきあい丸は、左奥の女川湾から流されてきた。
⇒町立病院。その左は生涯教育センター、その右は町役場。
JR女川駅は、→ゆきあい丸の奥にあった。

バスの終点、女川総合運動公園

バス停の標識は、左のJRは「女川駅」、
右のミヤコーバスは、「女川総合運動公園」とある。

左の大きな看板には、
明日のエネルギーを担う
原子の灯りのふるさと女川町
「陸上競技場は昭和63~平成元年に、
電源立地促進対策交付金で整備された施設です。」
とある。

陸上競技場のトラックには、バスが停車していた。
トラックの奥には、立派な観客のスタンドが見える。
陸上競技場に隣接して、飛行機の格納庫のようにデカイ総合体育館、
照明付きのテニスコートと野球場、多目的運動場、第二多目的運動場…。
女川町で、国体が開催できそうな立派な女川総合運動公園だ。

陸上競技場の隣にあった、総合体育館は、

避難所になって、多くの人が住まわれていた。

高台近くの、良好な住宅地、清水、伊勢地区は、
ガレキ置き場になっていた。

ドラえもんと、プーさんは、主を待っていた。

2回目の女川は、5年後の2016年6月29日。
東日本大震災で、壊滅的な打撃を受け、「陸の孤島」となって、
「低いところは街が流されて、なにもありません」の女川は、
どのように、変わっているのだろう?

JR石巻線は、女川まで開通していた。
新しいJR女川駅ができていた。

JR女川駅は、山側に移動していた。
高台の⇒は女川中学校。その左に、女川総合運動公園と、
女川小学校がある。あとで行ってみる。

JR女川駅の前には、商業エリアができていた。

レストランや、商店が並ぶ中を、プロムナードが、
JR女川駅から、女川湾に向かって延びる。

商業エリアの先、女川湾までの観光交流エリアは、工事中。

高台にある地域医療センター(町立病院)から撮影。

右は女川湾、⇒の先は、駅前商業エリアを経て、JR女川駅に至る。
5年前、女川の街に入った時に、バスがストップして、
砂利を固めるのを待った旧女川駅は、⇒の辺り。
そのときの保険センターも、郵便局もない。

JR女川駅を山側から見る。

電車が停止している。右が石巻方面。
⇒地域医療センター(町立病院)。→の高台は、町役場の建設地。

高台にある女川総合運動公園の陸上競技場は、
運動公園住宅になっていた。

総合体育館で避難生活をされていた人たちは、運動公園住宅に住まわれた。
5年前にあった大きな看板、
「原子の灯りのふるさと女川町」は、なかった。

総合運動公園のすぐ南の女川第二小学校は、
被災した女川第一小学校ほかと統合されて、
女川小学校になっていた。

女川小学校のすぐ右には、仮設の女川町役場が、5年前と同じにあった。
2011年に、女川の街を眺めたが、この女川小学校の校庭の下から撮影した。

高台にある女川中学校へ上がると、
女川いのちの石碑があった。

大震災の悲劇を、千年後の人々にも伝承して、命を守ろうとする石碑。

「2011・3・11 ここは、東日本大震災津波到達点より高い」
「千年後の命を守るために」
「夢だけは壊せなかった大震災」
「2014年3月 女川中卒業生一同」

女川は流されたのではない
新しい女川に生まれ変わるんだ。」

地域医療センター(町立病院)で。
女川の希望と、力強い意気込みが伝わってくる。

鎮魂の花壇

女川の街を望む、地域医療センターで。
「七十七銀行女川支店 被災者家族会」
被災した行員12名に捧げる。

もし、女川原発もメルトダウンしていたら、
7キロメートル離れた女川町は、帰還困難区域になっている。
立ち入り禁止。それどころか、日本がなかった。

女川については、これまでに、
つぎを記載してきたので参照してください。
「福島原発は放射線漏れ、女川原発では放射線漏れなし」、2011年3月16日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/19a904018d555728962c5dd8aa5a7509

「福島第一原発は廃炉」、2011年3月30日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/279bb9c1bf487133169f7e08fe25ef22

「がんばろう女川」、2011年7月24日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/aa8eef4c8f34cab01d69dcefb12033ab

「福島市の放射線量」、2011年9月11日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/f6427ef824f387fce8ed19399f00f7cf

「東北新幹線の放射線量」、2011年9月18日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/c3d0691423740012734ab8dd94e63286

「大災害から5年」、2016年3月13日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/c13c7b623b9638e1e0d1029ef90b55bd
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