“世界の表彰・評価”から、“指標”を定めて、“数値”で、
“日本の通知表”をみたが、同じ指標で、
“ウルグアイの通知表”は、どうなるだろうか?
ウルグアイは、北はブラジル、西はアルゼンチンに接し、
南はラ・プラタ河をはさんでアルゼンチンと向かい合っている。
スペインからの移民が50パーセント、イタリア移民が30パーセントである。
スペインがアルゼンチンを植民地とし、
ポルトガルがブラジルを植民地としていた。
ウルグアイは、アルゼンチンのスペインと、
ブラジルのポルトガルと独立戦争をした歴史がある。
アルゼンチンを植民地としたスペインは、モンテビデオをつくり、植民地にした。
ホゼ・アルティガス将軍はスペインからの独立運動をおこし、
スペインの要塞(セーロ)を攻略して、独立をした(1811年)。
建国の父、ホゼ・アルティガス将軍の像。
首都モンテビデオの独立広場。
モンテビデオの市街から、モンテビデオ港を隔てて、小高い丘にセーロ要塞がある。
こんどはブラジルのポルトガル軍が、ウルグアイに侵攻して、
ブラジルの領土とした。ホゼ・アルティガス将軍はパラグアイに逃れた。
その後、アルゼンチンはスペインから独立し(1816年)、
ブラジルはポルトガルから独立した(1822年)。
ホゼ・アルティガス将軍の副官(アントニオ・ラバジェハ将軍)が、
ブラジルと戦って、モンテビデオを奪回した(1825年)が、
ブラジルは反撃して全面戦争になり(1827年)、
アルゼンチンの援助で、ウルグアイはブラジルに勝った。
ウルグアイは、アルゼンチン、ブラジルから、
独立を承認され(1828年)、1830年7月18日に共和国憲法を制定した。
これを記念した“7月18日通り”が、独立広場のホゼ・アルティガス将軍の像の、
前から北東に延びている。
左端にある白い建物はエステベス・パレス。かっての大統領府で、今は歴史博物館。
ウルグアイの人口は336万人に対して、
ブラジルの人口は1億9,000万人、アルゼンチンの人口は4,000万人。
ウルグアイの面積に対して、ブラジルは48倍、アルゼンチンは16倍。
ブラジル、アルゼンチン両大国と独立戦争をした歴史をもつ、
“ウルグアイの通知表”をみたい。
ランク…AA=3位以内 A=10位以内 B=20位以内 C=30位以内 D=40位以内。
1)創造力: ノーベル賞の受賞者はなし→ランクF。
2)芸術力: カンヌ映画祭でパルム・ドール受賞作品はなし→ランクF。
3)学力: PISA2006の15歳の知識と技能は42位→ランクE。
4)文化力: 文化遺産と複合遺産1は51位以下→ランクF。
5)運動力: サッカーのワールド・カップで2度の優勝は4位→ランクA。
陸上競技世界記録はない→ランクF。
6)経済力: 国民総生産は80位→ランクF。
7)援助力: 政府開発援助はなし→ランクF。
8)総合力: ランクE。
ウルグアイのレーダーチャート(2009年9月)。
[総合評価]
“運動力”が突出したレーダーチャートになっている。
ウルグアイの誇りは、サッカーのワールド・カップで、2回の優勝である。
それに、ワールド・カップの第1回大会はウルグアイで開催された。
ワールド・カップの優勝国と優勝回数 1930年~2006年、
それに、優勝国の人口を比較してみた。
ウルグアイは2回の優勝で、アルゼンチンとともに4位である。
ブラジルが5回の優勝で1位、イタリアが4回、ドイツが3回と続く。
サッカー発祥の地、イギリスは、フランスとともに優勝1回である。
優勝国の地域は、南アメリカとヨーロッパである。
青い侍、日本が優勝してほしい。
優勝国の地域×優勝回数をみると、南アメリカ9、ヨーロッパ9で同じ。
ウルグアイの面積は日本の半分で、
ウルグアイの人口336万人は、静岡県379万人に近い。
サッカーが盛んな静岡県から結成されたチームが、
独立戦争をしたブラジル、アルゼンチン両大国に立ち向かって、
ワールド・カップで優勝したことになる。しかも2回も。大したもんだ。
ブラジル、アルゼンチン両大国に比べて、面積、人口が少ないウルグアイは、
サッカーに有利な条件はないと思うのだが? ウルグアイが強い秘訣を知りたい。
サッカーは独立戦争の再現で、両大国から植民地にされた、うらみを晴らすため?
「いいものを見せてあげよう」
と、スペイン移民のウルグアイ人が連れて行ってくれた先は、
サッカーのスタジアムだった。
“7月18日通り”は、1830年7月18日に憲法の制定を記念した大通りで、
独立広場のホゼ・アルティガス将軍の像の前から北東に延びている。
この大通りを4キロメートルほど行くと、セントラル・パークにぶつかる。
その中に、サッカーのスタジアムがあった。
左の高い壁には、
ゴール・キーパーがゴール右隅のボールをキャッチしている図があり、
右の壁には、
“ESTADIO CENTENARIO”(エスタディオ・センテナリオ、100周年スタジアム)
“MONUMENTO AL FUTBOL MUNDIAL”(世界のフットボールの記念碑)
とある。
第1回のワールド・カップが開催された“100周年スタジアム”だ。
“サッカーの記念碑”で、世界のサッカー・ファンのあこがれの地である。
「これが、100周年スタジアムか! 外観を見ることができただけでも、ありがたい。
ウルグアイ人の仕事を援助し、進展させたごほうびだ」
と、感激していた。
ウルグアイ人は、車を降りて、フェンスに近づき、中に見えたスタッフに声をかけた。
スタッフが寄ってきて、フェンス越しに話を始めた。時折こちらを振り返っている。
やがて、笑みを浮かべて車にもどってきた。
「はるばる日本から、100周年スタジアムを視察に来たお客さんだ、と伝えた。
きょうはクローズだが、スタジアムを見せてもらえることになった。
スタッフが特別に案内してくれるそうだ」
フェンスのロックが外されて、中に入った。
そして、“訪問者”の券を渡された。
“ESTADIO CENTENARIO”(エスタディオ・センテナリオ、100周年スタジアム)
“MONUMENTO AL FUTBOL MUNDIAL”(世界のフットボールの記念碑)
とある。
スタジアムを案内してくれる若い女性スタッフの後について、階段を上がると、
正面にピッチが開けた!
芝生がきれいだ。緑が青い空に映えている。
芝生もスタンドも準備を整えて、戦う選手と熱狂する観客を待っていた。
「1930年は、ウルグアイがアルゼンチンとブラジルから独立して100周年になります。
その年に建てられたこのスタジアムは、独立100周年を記念して、
“100周年スタジアムEstadio Centenario”と名づけられました」
と、女性スタッフが説明してくれる。
スペイン語を、同行のウルグアイ人が英訳してくれた。
「この100周年スタジアムは、今でも使用されていて、7万3千人を収容できます。
かってはブラジルのマラカナンが、建設当時、世界最大の20万人の収容でしたが、
立ち席だったために、きわめて危険でした」
「100周年スタジアムはいす席で、世界で一番安全なスタジアムです。
何かあっても観客はたった15分で、スタジアム周囲の広場に避難できます」
と、100周年スタジアムは、安全に配慮された設計であることを強調した。それに、
独立戦争の因縁をもつブラジルには、ことのほかライバル意識が強いようである。
「ピッチに最も近いところに並ぶコンクリート製のいすは、オープン当時のものです。
そのうしろは、長いすからプラスチックのシートに換えられています。
一番うしろのガラスで囲われたロイヤル・ボックスは、追加されたものです」
ロイヤル・ボックスはタワーとは反対側にあって、写真に写っていない。
コンクリート製のいすに座ってみた。ひじ掛けがあって、ゆったりしている。
前の人の頭が邪魔にならないように、前の席とは半分ずらしてあるから、
観やすくなっていた。
「中央のタワーは、優勝したウルグアイのチームが船で帰国したときに、
選手がタラップにならんで、声援に応える様子をシンボル化したものです。
“栄誉の塔Torre de los homenajes”と名づけています」
栄誉の塔Torre de los homenajesが左に見える。
スタジアムの周りは広場。
「スタンドのブロック分けは、東西南北ではなくて、タワーから右まわりに、
オリンピック席、アムステルダム席、アメリカ席、コロンブス席になっています。
これは、ウルグアイがオリンピックのサッカーで優勝したときの開催地などを、
記念してつけたものです」
栄誉の塔Torre de los homenajesがある正面はオリンピック席、
右はアムステルダム席、手前はアメリカ席。
左はコロンブス席、手前はアメリカ席。
アメリカ席のピッチの最前列は、オープン当時のコンクリート製のいす。
ワールド・カップ第1回大会が、なぜウルグアイで開催されたのだろうか?
サッカーはもともとヨーロッパのもの、イングランドが発祥の地である。
それに、同じ南アメリカでも、ブラジルやアルゼンチンの開催ならわかる。
ブラジルは、のちに王様ペレ、アルゼンチンは神様マラドーナの、
国民的英雄を生むサッカー大国である。
ブラジル、アルゼンチンの両大国と比べると、人口も国土も小さいウルグアイで、
なぜ第1回ワールド・カップが、開催されたのだろうか?
サッカーに興味が薄い人でも抱く疑問だ。
「ウルグアイはオリンピックのサッカーで、1924年と1928年に連続優勝しました。
ヨーロッパの強豪やアルゼンチンを破り、世界にウルグアイの実力を示しました」
と、女性スタッフは言う。
「1924年パリ大会でウルグアイは、アメリカ、開催国であるフランス、
オランダをつぎつぎと破って、決勝戦はスイスに勝ちました」
「1928年アムステルダム大会では、開催国オランダ、ドイツ、イタリアに勝ち、
決勝戦はアルゼンチンでした。
1対1で引き分け、3日後の再試合で、2対1で勝ちました」
「国際フットボール連盟FIFAのジュール・リメ会長は、プロが参加できる国際試合を、
開催したいと企画して、サッカーのワールド・カップ開催が実現しました。
1930年の第1回大会は、オリンピックで連続優勝したウルグアイで開催されましたが、
これにはウルグアイの実力のほかに、ウルグアイの独立100周年を祝福する意味も、
あったのです」
そうだったのか!
これで、第1回のワールド・カップが、ウルグアイで開催されたわけがわかった。
「ウルグアイで開催された1930年の第1回ワールド・カップは、
ウルグアイが優勝しました。ウルグアイ人ならば、だれもが知っています」
と、誇らしげである。
「ウルグアイの決勝の相手はアルゼンチンでした。
2年前の1928年のオリンピック、アムステルダム大会決勝戦の再現になりました。
オリンピックでは引き分け、再試合でアルゼンチンに勝っています。
アルゼンチンは、オリンピックの雪辱に燃えていました」
「激しい決勝戦になり、前半アルゼンチンが2対1でリードしていましたが、
ウルグアイは後半に3点を入れて、4対2で逆転勝ちしました。この試合は、
審判の判定をめぐって紛糾し、その後アルゼンチンとは国交を断絶しました」
「ウルグアイから始まったワールド・カップは、
世界最大のスポーツの祭典になりました」
ワールド・カップとオリンピックの人気度を、
テレビの放映権料とテレビの視聴者数で比較してみる。
テレビの放映権料は、ワールド・カップ2006年ドイツ大会は1,350億円、
オリンピック2000年シドニー大会は1,460億円で、ほぼ同じだ。
テレビの視聴者数は、ワールド・カップ1998年フランス大会が370億人で、
オリンピックの300億人を超えている。
ワールド・カップはオリンピックとならぶ、世界最大のスポーツの祭典だ。
若い女性スタッフ、自信に満ちた説明、
「ありがとうございました」
仕事中のところを、わざわざ手を休めて案内していただきました。
“訪問者”の券は、宝物として大事にします。
モンテビデオ空港へ向かう車の中でも、空港でもサッカーの話になった。
ウルグアイ人に2回目の優勝を聞いた。
「2回目の優勝は、第4回のブラジル大会です。第2回大会と第3回は参加しなかった」
「第2回イタリア大会(1934年)は、イタリアが強化のために、アルゼンチン人選手を、
大勢帰化させたから、これに抗議してウルグアイは参加を見合わせた」
「第3回のフランス大会(1938年)は、連続してヨーロッパでの開催となったため、
南アメリカとの交互の開催を要求して、アルゼンチンとともに参加を取りやめた」
「それから、第2次世界大戦で中断した。
1950年に第4回ブラジル大会が開催され、
ウルグアイは再び参加して、2回目の優勝をした」
「当時の決勝はリーグ戦で、ウルグアイ、開催国ブラジル、スウェーデン、
スペインが勝ち進んだ。
ブラジルはスウェーデンに7対1、スペインに6対1と圧勝したが、
ウルグアイはスウェーデンに3対2で勝ったが、スペインには2対2で引き分けた」
「最終戦は2勝のブラジルと、1勝1分けのウルグアイ戦で、
ブラジルの初優勝を見ようと、マラカナンには20万人のブラジル人が詰めかけた」
マラカナンはワールド・カップに合わせて、リオデジャネイロに造られた、
世界最大のスタジアム。20万人とは、松本市の人口である。
「当時のマラカナンは立ち席だった」
と言うが、それにしても、スタジアムに小都市が1つ、すっぽりと入っている。
「前半は0対0で終わった。これまで2勝のブラジルは、
1勝1分けのウルグアイに、引き分けても優勝だった。ところが、
ウルグアイが優勝するためには、ブラジルに勝たなければならなかった」
「ウルグアイのキャプテン、ファン・スキアフィーノはイレブンに言い聞かせた。
相手は20万人ではない、われわれと同じ11人だ。われわれの作戦が、
どこまで通用するか、試してみようじゃないか、と檄(げき)を飛ばした」
「ところが後半そうそう、ブラジルが得点して1対0となったから、
マラカナンもラジオを聞くブラジル人も、ブラジルの優勝を疑わなかった。
マラカナンでは、ブラジル大統領から優勝トロフィーを授与する準備をしていた」
「しかし、ウルグアイはその後、ファン・スキアフィーノが得点した。
さらに1点を加えて、2対1で逆転勝ちした」
「ブラジル人は天国から奈落の底に突き落とされた。
マラカナンには自殺者とショック死による4つの遺体があった。
ラジオの実況放送を聞いていたブラジル人とウルグアイ人からも、
悲嘆と歓喜による心臓発作で犠牲者が多数出た」
「これが“マラカナンの悲劇”です。
マラカナンはその後、安全性の見直しをして、
立ち席からいす席に換え、収容を半分の10万人に縮小した」
ウルグアイ人は、このマラカナンの逆転勝ちを永遠に語り継ぎたいだろう。
しかし、ブラジル人は早く忘れたいだろう。
ブラジルがマラカナンの悲劇から立ち直るには、
サッカーの王様ペレの出現まで、8年待たなければならなかった。
この第4回ブラジル大会から、イングランドが参加するようになった。
国際フットボール連盟FIFAとの悶着が解決したからだが、
イングランドは予選リーグで敗退した。
ワールド・カップのレベルは上がっていた。
イングランドが優勝するのは、1966年のイギリス大会まで、
16年待たなければならなかった。
「ウルグアイの2回の優勝は、イングランドの優勝1回を上回っている。
ウルグアイが、組織力から個人技のサッカーを発展させ、
さらに、ワールド・カップをこんにちのように隆盛させたのです」
「どうして、ウルグアイはサッカーが強いのだろう?」
という私の問いかけに、間をおいてからウルグアイ人は答えた。
「サッカーが強いのは、“我慢”することだ。“メンタリティ”が強いことだ」
と、力強く答えた。
なるほど。我慢して守りきる、そして、攻撃につなげる、ということか。
それに、あきらめない、勝つんだ、という強い信念か。
マラカナンの悲劇にみられるように、ウルグアイの2回の優勝は、
絶体絶命からのが逆転勝ちだった。
アルゼンチンとは1対2から、4対2と逆転し、
ブラジルとは0対1から、2対1と逆転した。
「それに、指導力、伝統、施設、組織力がある。
日本をはじめとするアジア諸国が、伝統的に野球や柔道が強いようなものだ」
と、ウルグアイ人はつけ加えた。
イングランド発祥のサッカーを、ウルグアイはワールド・カップに発展させ、
しかも、2回の優勝と、輝かしい実績を残している。
“100周年スタジアム”という記念碑も遺した。そして、
ワールド・カップを、オリンピックとならぶスポーツの祭典に仕立て上げた。
独立広場のエステベス・パレス。歴史博物館。
襲撃されて血ぬられた大統領のコートと、その銃が印象に残っている。
“日本の通知表”をみたが、同じ指標で、
“ウルグアイの通知表”は、どうなるだろうか?
ウルグアイは、北はブラジル、西はアルゼンチンに接し、
南はラ・プラタ河をはさんでアルゼンチンと向かい合っている。
スペインからの移民が50パーセント、イタリア移民が30パーセントである。
スペインがアルゼンチンを植民地とし、
ポルトガルがブラジルを植民地としていた。
ウルグアイは、アルゼンチンのスペインと、
ブラジルのポルトガルと独立戦争をした歴史がある。
アルゼンチンを植民地としたスペインは、モンテビデオをつくり、植民地にした。
ホゼ・アルティガス将軍はスペインからの独立運動をおこし、
スペインの要塞(セーロ)を攻略して、独立をした(1811年)。
建国の父、ホゼ・アルティガス将軍の像。
首都モンテビデオの独立広場。
モンテビデオの市街から、モンテビデオ港を隔てて、小高い丘にセーロ要塞がある。
こんどはブラジルのポルトガル軍が、ウルグアイに侵攻して、
ブラジルの領土とした。ホゼ・アルティガス将軍はパラグアイに逃れた。
その後、アルゼンチンはスペインから独立し(1816年)、
ブラジルはポルトガルから独立した(1822年)。
ホゼ・アルティガス将軍の副官(アントニオ・ラバジェハ将軍)が、
ブラジルと戦って、モンテビデオを奪回した(1825年)が、
ブラジルは反撃して全面戦争になり(1827年)、
アルゼンチンの援助で、ウルグアイはブラジルに勝った。
ウルグアイは、アルゼンチン、ブラジルから、
独立を承認され(1828年)、1830年7月18日に共和国憲法を制定した。
これを記念した“7月18日通り”が、独立広場のホゼ・アルティガス将軍の像の、
前から北東に延びている。
左端にある白い建物はエステベス・パレス。かっての大統領府で、今は歴史博物館。
ウルグアイの人口は336万人に対して、
ブラジルの人口は1億9,000万人、アルゼンチンの人口は4,000万人。
ウルグアイの面積に対して、ブラジルは48倍、アルゼンチンは16倍。
ブラジル、アルゼンチン両大国と独立戦争をした歴史をもつ、
“ウルグアイの通知表”をみたい。
ランク…AA=3位以内 A=10位以内 B=20位以内 C=30位以内 D=40位以内。
1)創造力: ノーベル賞の受賞者はなし→ランクF。
2)芸術力: カンヌ映画祭でパルム・ドール受賞作品はなし→ランクF。
3)学力: PISA2006の15歳の知識と技能は42位→ランクE。
4)文化力: 文化遺産と複合遺産1は51位以下→ランクF。
5)運動力: サッカーのワールド・カップで2度の優勝は4位→ランクA。
陸上競技世界記録はない→ランクF。
6)経済力: 国民総生産は80位→ランクF。
7)援助力: 政府開発援助はなし→ランクF。
8)総合力: ランクE。
ウルグアイのレーダーチャート(2009年9月)。
[総合評価]
“運動力”が突出したレーダーチャートになっている。
ウルグアイの誇りは、サッカーのワールド・カップで、2回の優勝である。
それに、ワールド・カップの第1回大会はウルグアイで開催された。
ワールド・カップの優勝国と優勝回数 1930年~2006年、
それに、優勝国の人口を比較してみた。
ウルグアイは2回の優勝で、アルゼンチンとともに4位である。
ブラジルが5回の優勝で1位、イタリアが4回、ドイツが3回と続く。
サッカー発祥の地、イギリスは、フランスとともに優勝1回である。
優勝国の地域は、南アメリカとヨーロッパである。
青い侍、日本が優勝してほしい。
優勝国の地域×優勝回数をみると、南アメリカ9、ヨーロッパ9で同じ。
ウルグアイの面積は日本の半分で、
ウルグアイの人口336万人は、静岡県379万人に近い。
サッカーが盛んな静岡県から結成されたチームが、
独立戦争をしたブラジル、アルゼンチン両大国に立ち向かって、
ワールド・カップで優勝したことになる。しかも2回も。大したもんだ。
ブラジル、アルゼンチン両大国に比べて、面積、人口が少ないウルグアイは、
サッカーに有利な条件はないと思うのだが? ウルグアイが強い秘訣を知りたい。
サッカーは独立戦争の再現で、両大国から植民地にされた、うらみを晴らすため?
「いいものを見せてあげよう」
と、スペイン移民のウルグアイ人が連れて行ってくれた先は、
サッカーのスタジアムだった。
“7月18日通り”は、1830年7月18日に憲法の制定を記念した大通りで、
独立広場のホゼ・アルティガス将軍の像の前から北東に延びている。
この大通りを4キロメートルほど行くと、セントラル・パークにぶつかる。
その中に、サッカーのスタジアムがあった。
左の高い壁には、
ゴール・キーパーがゴール右隅のボールをキャッチしている図があり、
右の壁には、
“ESTADIO CENTENARIO”(エスタディオ・センテナリオ、100周年スタジアム)
“MONUMENTO AL FUTBOL MUNDIAL”(世界のフットボールの記念碑)
とある。
第1回のワールド・カップが開催された“100周年スタジアム”だ。
“サッカーの記念碑”で、世界のサッカー・ファンのあこがれの地である。
「これが、100周年スタジアムか! 外観を見ることができただけでも、ありがたい。
ウルグアイ人の仕事を援助し、進展させたごほうびだ」
と、感激していた。
ウルグアイ人は、車を降りて、フェンスに近づき、中に見えたスタッフに声をかけた。
スタッフが寄ってきて、フェンス越しに話を始めた。時折こちらを振り返っている。
やがて、笑みを浮かべて車にもどってきた。
「はるばる日本から、100周年スタジアムを視察に来たお客さんだ、と伝えた。
きょうはクローズだが、スタジアムを見せてもらえることになった。
スタッフが特別に案内してくれるそうだ」
フェンスのロックが外されて、中に入った。
そして、“訪問者”の券を渡された。
“ESTADIO CENTENARIO”(エスタディオ・センテナリオ、100周年スタジアム)
“MONUMENTO AL FUTBOL MUNDIAL”(世界のフットボールの記念碑)
とある。
スタジアムを案内してくれる若い女性スタッフの後について、階段を上がると、
正面にピッチが開けた!
芝生がきれいだ。緑が青い空に映えている。
芝生もスタンドも準備を整えて、戦う選手と熱狂する観客を待っていた。
「1930年は、ウルグアイがアルゼンチンとブラジルから独立して100周年になります。
その年に建てられたこのスタジアムは、独立100周年を記念して、
“100周年スタジアムEstadio Centenario”と名づけられました」
と、女性スタッフが説明してくれる。
スペイン語を、同行のウルグアイ人が英訳してくれた。
「この100周年スタジアムは、今でも使用されていて、7万3千人を収容できます。
かってはブラジルのマラカナンが、建設当時、世界最大の20万人の収容でしたが、
立ち席だったために、きわめて危険でした」
「100周年スタジアムはいす席で、世界で一番安全なスタジアムです。
何かあっても観客はたった15分で、スタジアム周囲の広場に避難できます」
と、100周年スタジアムは、安全に配慮された設計であることを強調した。それに、
独立戦争の因縁をもつブラジルには、ことのほかライバル意識が強いようである。
「ピッチに最も近いところに並ぶコンクリート製のいすは、オープン当時のものです。
そのうしろは、長いすからプラスチックのシートに換えられています。
一番うしろのガラスで囲われたロイヤル・ボックスは、追加されたものです」
ロイヤル・ボックスはタワーとは反対側にあって、写真に写っていない。
コンクリート製のいすに座ってみた。ひじ掛けがあって、ゆったりしている。
前の人の頭が邪魔にならないように、前の席とは半分ずらしてあるから、
観やすくなっていた。
「中央のタワーは、優勝したウルグアイのチームが船で帰国したときに、
選手がタラップにならんで、声援に応える様子をシンボル化したものです。
“栄誉の塔Torre de los homenajes”と名づけています」
栄誉の塔Torre de los homenajesが左に見える。
スタジアムの周りは広場。
「スタンドのブロック分けは、東西南北ではなくて、タワーから右まわりに、
オリンピック席、アムステルダム席、アメリカ席、コロンブス席になっています。
これは、ウルグアイがオリンピックのサッカーで優勝したときの開催地などを、
記念してつけたものです」
栄誉の塔Torre de los homenajesがある正面はオリンピック席、
右はアムステルダム席、手前はアメリカ席。
左はコロンブス席、手前はアメリカ席。
アメリカ席のピッチの最前列は、オープン当時のコンクリート製のいす。
ワールド・カップ第1回大会が、なぜウルグアイで開催されたのだろうか?
サッカーはもともとヨーロッパのもの、イングランドが発祥の地である。
それに、同じ南アメリカでも、ブラジルやアルゼンチンの開催ならわかる。
ブラジルは、のちに王様ペレ、アルゼンチンは神様マラドーナの、
国民的英雄を生むサッカー大国である。
ブラジル、アルゼンチンの両大国と比べると、人口も国土も小さいウルグアイで、
なぜ第1回ワールド・カップが、開催されたのだろうか?
サッカーに興味が薄い人でも抱く疑問だ。
「ウルグアイはオリンピックのサッカーで、1924年と1928年に連続優勝しました。
ヨーロッパの強豪やアルゼンチンを破り、世界にウルグアイの実力を示しました」
と、女性スタッフは言う。
「1924年パリ大会でウルグアイは、アメリカ、開催国であるフランス、
オランダをつぎつぎと破って、決勝戦はスイスに勝ちました」
「1928年アムステルダム大会では、開催国オランダ、ドイツ、イタリアに勝ち、
決勝戦はアルゼンチンでした。
1対1で引き分け、3日後の再試合で、2対1で勝ちました」
「国際フットボール連盟FIFAのジュール・リメ会長は、プロが参加できる国際試合を、
開催したいと企画して、サッカーのワールド・カップ開催が実現しました。
1930年の第1回大会は、オリンピックで連続優勝したウルグアイで開催されましたが、
これにはウルグアイの実力のほかに、ウルグアイの独立100周年を祝福する意味も、
あったのです」
そうだったのか!
これで、第1回のワールド・カップが、ウルグアイで開催されたわけがわかった。
「ウルグアイで開催された1930年の第1回ワールド・カップは、
ウルグアイが優勝しました。ウルグアイ人ならば、だれもが知っています」
と、誇らしげである。
「ウルグアイの決勝の相手はアルゼンチンでした。
2年前の1928年のオリンピック、アムステルダム大会決勝戦の再現になりました。
オリンピックでは引き分け、再試合でアルゼンチンに勝っています。
アルゼンチンは、オリンピックの雪辱に燃えていました」
「激しい決勝戦になり、前半アルゼンチンが2対1でリードしていましたが、
ウルグアイは後半に3点を入れて、4対2で逆転勝ちしました。この試合は、
審判の判定をめぐって紛糾し、その後アルゼンチンとは国交を断絶しました」
「ウルグアイから始まったワールド・カップは、
世界最大のスポーツの祭典になりました」
ワールド・カップとオリンピックの人気度を、
テレビの放映権料とテレビの視聴者数で比較してみる。
テレビの放映権料は、ワールド・カップ2006年ドイツ大会は1,350億円、
オリンピック2000年シドニー大会は1,460億円で、ほぼ同じだ。
テレビの視聴者数は、ワールド・カップ1998年フランス大会が370億人で、
オリンピックの300億人を超えている。
ワールド・カップはオリンピックとならぶ、世界最大のスポーツの祭典だ。
若い女性スタッフ、自信に満ちた説明、
「ありがとうございました」
仕事中のところを、わざわざ手を休めて案内していただきました。
“訪問者”の券は、宝物として大事にします。
モンテビデオ空港へ向かう車の中でも、空港でもサッカーの話になった。
ウルグアイ人に2回目の優勝を聞いた。
「2回目の優勝は、第4回のブラジル大会です。第2回大会と第3回は参加しなかった」
「第2回イタリア大会(1934年)は、イタリアが強化のために、アルゼンチン人選手を、
大勢帰化させたから、これに抗議してウルグアイは参加を見合わせた」
「第3回のフランス大会(1938年)は、連続してヨーロッパでの開催となったため、
南アメリカとの交互の開催を要求して、アルゼンチンとともに参加を取りやめた」
「それから、第2次世界大戦で中断した。
1950年に第4回ブラジル大会が開催され、
ウルグアイは再び参加して、2回目の優勝をした」
「当時の決勝はリーグ戦で、ウルグアイ、開催国ブラジル、スウェーデン、
スペインが勝ち進んだ。
ブラジルはスウェーデンに7対1、スペインに6対1と圧勝したが、
ウルグアイはスウェーデンに3対2で勝ったが、スペインには2対2で引き分けた」
「最終戦は2勝のブラジルと、1勝1分けのウルグアイ戦で、
ブラジルの初優勝を見ようと、マラカナンには20万人のブラジル人が詰めかけた」
マラカナンはワールド・カップに合わせて、リオデジャネイロに造られた、
世界最大のスタジアム。20万人とは、松本市の人口である。
「当時のマラカナンは立ち席だった」
と言うが、それにしても、スタジアムに小都市が1つ、すっぽりと入っている。
「前半は0対0で終わった。これまで2勝のブラジルは、
1勝1分けのウルグアイに、引き分けても優勝だった。ところが、
ウルグアイが優勝するためには、ブラジルに勝たなければならなかった」
「ウルグアイのキャプテン、ファン・スキアフィーノはイレブンに言い聞かせた。
相手は20万人ではない、われわれと同じ11人だ。われわれの作戦が、
どこまで通用するか、試してみようじゃないか、と檄(げき)を飛ばした」
「ところが後半そうそう、ブラジルが得点して1対0となったから、
マラカナンもラジオを聞くブラジル人も、ブラジルの優勝を疑わなかった。
マラカナンでは、ブラジル大統領から優勝トロフィーを授与する準備をしていた」
「しかし、ウルグアイはその後、ファン・スキアフィーノが得点した。
さらに1点を加えて、2対1で逆転勝ちした」
「ブラジル人は天国から奈落の底に突き落とされた。
マラカナンには自殺者とショック死による4つの遺体があった。
ラジオの実況放送を聞いていたブラジル人とウルグアイ人からも、
悲嘆と歓喜による心臓発作で犠牲者が多数出た」
「これが“マラカナンの悲劇”です。
マラカナンはその後、安全性の見直しをして、
立ち席からいす席に換え、収容を半分の10万人に縮小した」
ウルグアイ人は、このマラカナンの逆転勝ちを永遠に語り継ぎたいだろう。
しかし、ブラジル人は早く忘れたいだろう。
ブラジルがマラカナンの悲劇から立ち直るには、
サッカーの王様ペレの出現まで、8年待たなければならなかった。
この第4回ブラジル大会から、イングランドが参加するようになった。
国際フットボール連盟FIFAとの悶着が解決したからだが、
イングランドは予選リーグで敗退した。
ワールド・カップのレベルは上がっていた。
イングランドが優勝するのは、1966年のイギリス大会まで、
16年待たなければならなかった。
「ウルグアイの2回の優勝は、イングランドの優勝1回を上回っている。
ウルグアイが、組織力から個人技のサッカーを発展させ、
さらに、ワールド・カップをこんにちのように隆盛させたのです」
「どうして、ウルグアイはサッカーが強いのだろう?」
という私の問いかけに、間をおいてからウルグアイ人は答えた。
「サッカーが強いのは、“我慢”することだ。“メンタリティ”が強いことだ」
と、力強く答えた。
なるほど。我慢して守りきる、そして、攻撃につなげる、ということか。
それに、あきらめない、勝つんだ、という強い信念か。
マラカナンの悲劇にみられるように、ウルグアイの2回の優勝は、
絶体絶命からのが逆転勝ちだった。
アルゼンチンとは1対2から、4対2と逆転し、
ブラジルとは0対1から、2対1と逆転した。
「それに、指導力、伝統、施設、組織力がある。
日本をはじめとするアジア諸国が、伝統的に野球や柔道が強いようなものだ」
と、ウルグアイ人はつけ加えた。
イングランド発祥のサッカーを、ウルグアイはワールド・カップに発展させ、
しかも、2回の優勝と、輝かしい実績を残している。
“100周年スタジアム”という記念碑も遺した。そして、
ワールド・カップを、オリンピックとならぶスポーツの祭典に仕立て上げた。
独立広場のエステベス・パレス。歴史博物館。
襲撃されて血ぬられた大統領のコートと、その銃が印象に残っている。