「函館の景観をみる」(2011年1月23日)で、
函館のランドマークは函館山と書いた。
その、函館のランドマークは函館山について。
「函館に来る観光客は、みんな函館山へ行きます」
「函館山のつぎに人気は、五稜郭と元町です」
と、ホテルの人は言う。そして、
「台湾、韓国、中国からのお客さんが増えています」
国際観光都市の函館で、
「函館山」は、世界からの観光客にも人気である。
「韓国のソウルから函館空港へは、直行便があります。
台湾からはチャーター便が、2日に1度はあります。
それと、札幌(新千歳空港)経由で来ます」
その函館空港は、右奥の白い平、津軽海峡の先にある。
函館山から。2011年1月。右下は函館山ロープウェイのゴンドラ。
函館駅は、中央左の函館湾の近くで、茶色の建物の奥。
函館空港から函館駅へのアクセスは、バスで20分である。
近くの温泉街のホテル、湯の川温泉までは、バスで5分。
函館空港と函館市街が、函館山から1枚の写真におさまる。
アクセスがいい空港は、函館空港のほかに、福岡空港がある。
博多駅まで、地下鉄で5分である。
それに、函館空港も、福岡空港も、国際線、国内線があるから、
アジアの玄関口、世界の玄関口として大いに期待できる。
ところが、成田国際空港の東京へのアクセスは最悪である。
距離が79キロと世界一長い。成田エクスプレスは、
けんめいな努力で1時間を切っているが、
バスやタクシーは2時間の予定になっている。
でも、道路は都心に近づくにつれて渋滞になり、
到着時間のめどが立たなくなる。そして、バスに乗ったことを後悔する。
それに、国際線は成田国際空港、国内線は羽田空港と分けたことで、
国内線に乗るためには、空港間を乗り換えなければならない。
わざわざ羽田空港まで地上を移動するが、3時間がムダになっている。
成田や東京で1泊することもある。
こんな不便な空港は、成田国際空港だけだ。
アクセスが悪いこと、乗り継ぎが悪いことが、
アジアの「ハブ空港の座」を遠くしている。
函館空港から韓国のソウルへの飛行を考えると、
直通便があるから、3時間で行ける。
もし、直通便がなかったなら、羽田空港を経由して、
それから、成田国際空港からソウルへ、7時間30分かかる。
幸いにも、ソウルへは羽田空港から行けるから5時間20分ですむ。
これまで、多くの国内空港は、いったん国内線の羽田空港へ飛んでから、
成田国際空港へ地上を移動して、それから海外へ飛ぶから、不便だった。
成田国際空港よりも、ソウルのインチョン(仁川)空港に飛び、
ヨーロッパ便やアメリカ便へ乗り継いだほうが早い。
それに、安い。
インチョン空港はアジアのハブ空港の座を獲得できる。
羽田空港は、国際線を持つようになったから、空港の本来の姿になった。
アジアのハブ空港の座については、
「シンガポールのチャンギ空港とアジアのハブ空港の座」
(2009年11月15日)を参照してください。
函館の街から、ランドマーク「函館山」を眺めた5枚の写真がある。
赤レンガ倉庫街から見た函館山。
函館山は、軍事要塞だった(1900年代)。
日露戦争に備え、第二次世界大戦が終わるまで。
函館山のアンテナが建つあたりは、砲台であり、弾薬庫で、
この要塞から、造船所がある函館港を守り、津軽海峡を監視していた。
「北方領土返還」の看板。アンテナが建つあたり、函館山。
半世紀以上たつが、早く取り戻したい。
錆びた看板が、長い懸案であることを示している。
八幡坂(はちまんざか)から見た函館山。
八幡坂はロード・ヒーティングしているから、自動車道の雪は融けている。
市民が、さらに雪かきをして、道路幅を広げていた。
左の歩道にも、ロード・ヒーティングをしているから、雪は融けている。
右の歩道は、雪の陰で見えないが、ロード・ヒーティングで雪は融けていた。
ロード・ヒーティングの標識、二十間坂。
ロード・ヒーティングは、電熱線を地中に埋めている。
車が、雪でスリップして登れなくなるのを防ぐために、
函館山に向かう坂道では、ロード・ヒーティングをしている。
元町公園から見た函館山。
函館山の手前は、旧函館区公会堂(重要文化財)。
旧イギリス領事館から見た函館山。
雪のイギリス庭園から撮った。足から膝まで覆うスパッツが役立った。
左の手前は、雪が積もったベンチ、奥はバラのアーチ。
この旧イギリス領事館も、上の写真の旧函館区公会堂(重要文化財)も、
基坂(もといざか)にある。
元町公園から、石畳の基坂(もといざか)、函館港を見る。
ロード・ヒーティングは坂の部分に設置し、雪を融かして、
車を登れるようにしているが、港に近い平地では、
ロード・ヒーティングはない。
函館港から函館山に向かう基坂の周囲は、
北海道開拓時代から、明治時代にかけて、官庁街であった。
旧イギリス領事館は、この写真の基坂の右にあり、
旧函館区公会堂や、旧北海道庁函館支庁舎は、基坂の上にある。
旧イギリス領事館では、当時の領事館内部を再現してあるほかに、
「開拓記念館」になっていて、「函館開港歴史室」では、
ペリー提督の函館の来航を説明している。
日本が鎖国を終わらせて、日米和親条約を結び、
下田と函館を開港する(1854年3月)。
ペリー提督は、
「日本が開港するという函館とは、どんなところか?」
と、検分に来航している(1854年5月)。
ペリー提督は「日本遠征記」で、函館の街について書いている。
「函館は、互いに直角に走る街路があって、整然と建設されている。
街路の幅も広く、排水をよくするために砕石が敷かれている」
「街路の両側には広い排水溝があって、家の排水や街路の掃除水が流し込まれる」
函館は、整然としていて、清潔で健康にいい状態に保たれた街であるとしている。
そして、日本人についてペリー提督は、
「日本人が一度、文明世界の過去及び現在の技能を獲得したならば、
強力なライバルとして、将来の機械工業の成功を目指す競争に加わるだろう」
と、予想している。
基坂の上の元町公園にある旧北海道庁函館支庁舎は、
「写真歴史館」になっていて、ペリー提督に随行した写真家ブラウンが函館滞在中に、
サムライ姿の役人を撮った「日本最古の写真」がある(1854年)。
基坂は、函館の歴史の起点であり、日本開国の歴史の起点でもある。
「写真歴史館」では、うれしいことに写真撮影を許可してくれた。
「写真は左右が反転して、刀が右側になってしまったために、
着物を右前に着直し、刀も右に差し替えて、撮り直した」
という説明が、おもしろい。
写真の上では、松前藩士、遠藤又左衛門の刀は右腰にある。
撮り直した下の写真では、刀が左になっている。
うしろの従者の刀は、右のままだが。
ハリストス正教会から見た函館山。
スパッツが役立って、雪深い庭から撮ることができた。
最後に、函館山から見た教会群とお寺。
左の手前、白い壁がハリストス正教会、
その奥、雪がずり落ちた赤い屋根がカトリック元町教会、
その右が天主公教會、
その右、道路をへだてて、大きな屋根が東本願寺函館別院、
その手前が、聖ヨハネ教会である(ハリストス正教会の右)。
そして、近くには函館護国神社や船魂神社がある。
宗教や、宗派を超えて、共存する自然体を、函館でみることができる。
「日本人のアイデンティティを生む、日本の5つの特徴」
(2009年4月22日)で、日本の5つの特徴の1つとして、
排他的な宗教ではないし、偏狭ではない、ことを書いた。
要約すると、
世界の市民は、日本人の“アイデンティティ”を、
“日本人は、優れた創造力とテクノロジーがあり、
国を発展させた高い能力がある”。それに、
“独自の文化を育て、文化財を保護している”と、みていた。
この日本人のアイデンティティが生まれたのは、
日本の5つの特徴からである。
1)改善や発明をする遺伝子DNAが宿っている、
2)子どもの教育に力を入れている、
3)排他的な宗教ではないし、偏狭ではない、
4)街の治安がいい、美しい自然がある、
5)第2次世界大戦後は民主主義陣営に属した。
3)排他的な宗教ではないし、偏狭ではない、では、
ほかを否定したり、拒絶する宗教ではない。だから宗教戦争はない。
偏狭ではなく、異質なものや風習に興味を持ち、日本風に融合、
調和する才があって、改良や発展、文化の創出につながっている。
「排他的な宗教ではない」
という日本の特徴を写真で現すと、
「函館山」から撮ることができる。
「函館山」は、日本の近代化を見守ってきた。
日本が鎖国を終わらせて開国したときには、函館港の開港を見て、
日露戦争から第二次世界大戦までは、軍事要塞の役目をしてきた。
そして、今は世界からの観光客を魅せる国際観光都市、函館のシンボルである。
函館のランドマークは函館山と書いた。
その、函館のランドマークは函館山について。
「函館に来る観光客は、みんな函館山へ行きます」
「函館山のつぎに人気は、五稜郭と元町です」
と、ホテルの人は言う。そして、
「台湾、韓国、中国からのお客さんが増えています」
国際観光都市の函館で、
「函館山」は、世界からの観光客にも人気である。
「韓国のソウルから函館空港へは、直行便があります。
台湾からはチャーター便が、2日に1度はあります。
それと、札幌(新千歳空港)経由で来ます」
その函館空港は、右奥の白い平、津軽海峡の先にある。
函館山から。2011年1月。右下は函館山ロープウェイのゴンドラ。
函館駅は、中央左の函館湾の近くで、茶色の建物の奥。
函館空港から函館駅へのアクセスは、バスで20分である。
近くの温泉街のホテル、湯の川温泉までは、バスで5分。
函館空港と函館市街が、函館山から1枚の写真におさまる。
アクセスがいい空港は、函館空港のほかに、福岡空港がある。
博多駅まで、地下鉄で5分である。
それに、函館空港も、福岡空港も、国際線、国内線があるから、
アジアの玄関口、世界の玄関口として大いに期待できる。
ところが、成田国際空港の東京へのアクセスは最悪である。
距離が79キロと世界一長い。成田エクスプレスは、
けんめいな努力で1時間を切っているが、
バスやタクシーは2時間の予定になっている。
でも、道路は都心に近づくにつれて渋滞になり、
到着時間のめどが立たなくなる。そして、バスに乗ったことを後悔する。
それに、国際線は成田国際空港、国内線は羽田空港と分けたことで、
国内線に乗るためには、空港間を乗り換えなければならない。
わざわざ羽田空港まで地上を移動するが、3時間がムダになっている。
成田や東京で1泊することもある。
こんな不便な空港は、成田国際空港だけだ。
アクセスが悪いこと、乗り継ぎが悪いことが、
アジアの「ハブ空港の座」を遠くしている。
函館空港から韓国のソウルへの飛行を考えると、
直通便があるから、3時間で行ける。
もし、直通便がなかったなら、羽田空港を経由して、
それから、成田国際空港からソウルへ、7時間30分かかる。
幸いにも、ソウルへは羽田空港から行けるから5時間20分ですむ。
これまで、多くの国内空港は、いったん国内線の羽田空港へ飛んでから、
成田国際空港へ地上を移動して、それから海外へ飛ぶから、不便だった。
成田国際空港よりも、ソウルのインチョン(仁川)空港に飛び、
ヨーロッパ便やアメリカ便へ乗り継いだほうが早い。
それに、安い。
インチョン空港はアジアのハブ空港の座を獲得できる。
羽田空港は、国際線を持つようになったから、空港の本来の姿になった。
アジアのハブ空港の座については、
「シンガポールのチャンギ空港とアジアのハブ空港の座」
(2009年11月15日)を参照してください。
函館の街から、ランドマーク「函館山」を眺めた5枚の写真がある。
赤レンガ倉庫街から見た函館山。
函館山は、軍事要塞だった(1900年代)。
日露戦争に備え、第二次世界大戦が終わるまで。
函館山のアンテナが建つあたりは、砲台であり、弾薬庫で、
この要塞から、造船所がある函館港を守り、津軽海峡を監視していた。
「北方領土返還」の看板。アンテナが建つあたり、函館山。
半世紀以上たつが、早く取り戻したい。
錆びた看板が、長い懸案であることを示している。
八幡坂(はちまんざか)から見た函館山。
八幡坂はロード・ヒーティングしているから、自動車道の雪は融けている。
市民が、さらに雪かきをして、道路幅を広げていた。
左の歩道にも、ロード・ヒーティングをしているから、雪は融けている。
右の歩道は、雪の陰で見えないが、ロード・ヒーティングで雪は融けていた。
ロード・ヒーティングの標識、二十間坂。
ロード・ヒーティングは、電熱線を地中に埋めている。
車が、雪でスリップして登れなくなるのを防ぐために、
函館山に向かう坂道では、ロード・ヒーティングをしている。
元町公園から見た函館山。
函館山の手前は、旧函館区公会堂(重要文化財)。
旧イギリス領事館から見た函館山。
雪のイギリス庭園から撮った。足から膝まで覆うスパッツが役立った。
左の手前は、雪が積もったベンチ、奥はバラのアーチ。
この旧イギリス領事館も、上の写真の旧函館区公会堂(重要文化財)も、
基坂(もといざか)にある。
元町公園から、石畳の基坂(もといざか)、函館港を見る。
ロード・ヒーティングは坂の部分に設置し、雪を融かして、
車を登れるようにしているが、港に近い平地では、
ロード・ヒーティングはない。
函館港から函館山に向かう基坂の周囲は、
北海道開拓時代から、明治時代にかけて、官庁街であった。
旧イギリス領事館は、この写真の基坂の右にあり、
旧函館区公会堂や、旧北海道庁函館支庁舎は、基坂の上にある。
旧イギリス領事館では、当時の領事館内部を再現してあるほかに、
「開拓記念館」になっていて、「函館開港歴史室」では、
ペリー提督の函館の来航を説明している。
日本が鎖国を終わらせて、日米和親条約を結び、
下田と函館を開港する(1854年3月)。
ペリー提督は、
「日本が開港するという函館とは、どんなところか?」
と、検分に来航している(1854年5月)。
ペリー提督は「日本遠征記」で、函館の街について書いている。
「函館は、互いに直角に走る街路があって、整然と建設されている。
街路の幅も広く、排水をよくするために砕石が敷かれている」
「街路の両側には広い排水溝があって、家の排水や街路の掃除水が流し込まれる」
函館は、整然としていて、清潔で健康にいい状態に保たれた街であるとしている。
そして、日本人についてペリー提督は、
「日本人が一度、文明世界の過去及び現在の技能を獲得したならば、
強力なライバルとして、将来の機械工業の成功を目指す競争に加わるだろう」
と、予想している。
基坂の上の元町公園にある旧北海道庁函館支庁舎は、
「写真歴史館」になっていて、ペリー提督に随行した写真家ブラウンが函館滞在中に、
サムライ姿の役人を撮った「日本最古の写真」がある(1854年)。
基坂は、函館の歴史の起点であり、日本開国の歴史の起点でもある。
「写真歴史館」では、うれしいことに写真撮影を許可してくれた。
「写真は左右が反転して、刀が右側になってしまったために、
着物を右前に着直し、刀も右に差し替えて、撮り直した」
という説明が、おもしろい。
写真の上では、松前藩士、遠藤又左衛門の刀は右腰にある。
撮り直した下の写真では、刀が左になっている。
うしろの従者の刀は、右のままだが。
ハリストス正教会から見た函館山。
スパッツが役立って、雪深い庭から撮ることができた。
最後に、函館山から見た教会群とお寺。
左の手前、白い壁がハリストス正教会、
その奥、雪がずり落ちた赤い屋根がカトリック元町教会、
その右が天主公教會、
その右、道路をへだてて、大きな屋根が東本願寺函館別院、
その手前が、聖ヨハネ教会である(ハリストス正教会の右)。
そして、近くには函館護国神社や船魂神社がある。
宗教や、宗派を超えて、共存する自然体を、函館でみることができる。
「日本人のアイデンティティを生む、日本の5つの特徴」
(2009年4月22日)で、日本の5つの特徴の1つとして、
排他的な宗教ではないし、偏狭ではない、ことを書いた。
要約すると、
世界の市民は、日本人の“アイデンティティ”を、
“日本人は、優れた創造力とテクノロジーがあり、
国を発展させた高い能力がある”。それに、
“独自の文化を育て、文化財を保護している”と、みていた。
この日本人のアイデンティティが生まれたのは、
日本の5つの特徴からである。
1)改善や発明をする遺伝子DNAが宿っている、
2)子どもの教育に力を入れている、
3)排他的な宗教ではないし、偏狭ではない、
4)街の治安がいい、美しい自然がある、
5)第2次世界大戦後は民主主義陣営に属した。
3)排他的な宗教ではないし、偏狭ではない、では、
ほかを否定したり、拒絶する宗教ではない。だから宗教戦争はない。
偏狭ではなく、異質なものや風習に興味を持ち、日本風に融合、
調和する才があって、改良や発展、文化の創出につながっている。
「排他的な宗教ではない」
という日本の特徴を写真で現すと、
「函館山」から撮ることができる。
「函館山」は、日本の近代化を見守ってきた。
日本が鎖国を終わらせて開国したときには、函館港の開港を見て、
日露戦争から第二次世界大戦までは、軍事要塞の役目をしてきた。
そして、今は世界からの観光客を魅せる国際観光都市、函館のシンボルである。