季節の変化

活動の状況

100年前に発掘された世界遺産ドゥッガ

2009-01-28 07:37:08 | Weblog
チュニジアには、世界遺産7つある。
都市国家カルタゴの遺跡が、チュニスにあり、
ローマ帝国時代の遺跡が、チュニジア全土にある。

日本は11(自然遺産は除いた文化遺産)。
チュニジアは、日本の国土の4割だ。
そのチュニジアに、世界遺産が7つもあるのはリッパだ。

劇場。世界遺産、ドゥッガ。

700年続いた都市国家カルタゴは、
ローマ帝国によって滅ぼされた。
ローマ帝国との戦い、ポエニ戦争では、
ハンニバルが象でスペインからフランス、
アルプスを越えて、北からローマを奇襲する活躍は、
歴史で習った。が、最後は、カルタゴは敗れて、
ローマ帝国の属州になった。

ローマ帝国の遺跡として、
ドゥッガDougga”がある。
ドゥッガは、4世紀に最も栄えた。
しかし、ローマ帝国が衰亡し、
ビザンツ帝国に滅ぼされて、
歴史から忘れ去られてしまう。

100年前に、そのドゥッガの遺跡が発掘されて、
古代都市”がそっくり現れた。
劇場、キャピトルや神殿、公共広場、凱旋門、
貯水場、倉庫、奴隷市場、金持ちの住居、公共浴場、
娼婦の館、アテバンの霊廟、水洗トイレット……が現れた、
というから、見たくなる。
(実際に、この順番に見ることになるが)
2回に分けて、世界遺産“ドゥッガDougga”の話。

問題は、首都チュニスからは、遠いことだ。
チュニスの南西、100キロメートルにあって、
電車がない。バスかタクシーで片道2時間かかる。
タクシー・ドライバーのアリと値段交渉をして、
ドゥッガ往復に、見学の2時間で、定額とした。

ドゥッガまでは、土漠(どばく)の中に、
畑や果樹園が広がる。平らなところは小麦
起伏のあるところはオリーブやアーモンドの果樹園
ぶどう畑はなかった、ぶどうは、地中海沿岸部で生育。
――この太陽だ、小麦は何回も、とれるのだろうか?
「年1回の収穫です」
と、アリは言う。

時おり店がある……カフェやレストラン、
露店は、衣服や頭がついたままの羊の皮の販売。
それに、草を食む羊と、動かない羊飼い
羊飼いは、布をすっぽりかむって、日を除けている。
そして、長い棒をもって、立ったまま動かない。
平山郁夫画伯の“牧童”を見ているようだ。

あせっても、作物は大きくならないし、
羊も太らない……時間が、のんびりしている。
――ここは、ローマ時代のようだ。

が、アリは時間を気にして、猛スピードで飛ばす。
――急がなくてもいいよ、時間はあるから。
それで、アリはスピードを落とした。

ドゥッガに着いた。さて、ガイドを雇うが、
アリは、英語を話せるベテランを引き合わせた。
チュニジアの帽子、黒いシャシーヤをのせている。
――1時間のガイド料としては高いが、
限られた時間だ、ドゥッガを効率よく回りたい。

劇場は、円柱がニョキ、ニョキとそびえている。
――円柱を見ただけで、ぞくぞくしてくる。

半円の観客席の、段は高くて急だが、駆け上がった。
上から、舞台を見下ろすと、登場人物は小さい。
ドイツからの観光客が見えるが、写真の大きさになる。
遺跡の先には、小麦とオリーブ畑の起伏するが拡がる。

「ドゥッガは、ローマの穀倉地帯だった」
と、ガイドは言うが、
――穀物はもうかるんだ?
穀物のもうけで造った、文化都市か。
それも、1600年たっても、
見ごたえのある造形美の都市だ。

神殿も劇場も公共広場も公共浴場も、
モザイクも水洗トイレットもある、
この世の“天国”だ。

ユノ・カエレスティス神殿、ドゥッガ。
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チュニスのアメリカ大使館は埋立地へ

2009-01-25 07:10:56 | Weblog
チュニスのアメリカ大使館は、
これまでの中心街から、海辺の埋立地へ移転した。

リアドは、郊外を走ると、
それまでのスピードをゆるめる。
警察官が、街の入口で目を光らせていたり、
パトロール・カーが走っているときだ。

「不法な入国の取り締まりをしている。
テロリストが街に入ることを、警戒している」
と、リアドは言う。

ケニアの首都、ナイロビのアメリカ大使館が、
自爆テロリストによって爆破された。
1998年8月7日である。

ナイロビのアメリカ大使館の跡地は、
8月7日記念公園”になっている。
芝生の盛り土は、犠牲者を悼(いた)む墓のようだ。

爆薬を満載したトラックが、
アメリカ大使館に突っ込んで、
建物は破壊され、多くの死傷者がでた。
大使館のこれまでの安全対策では、
大型テロの前では無力であることを示した。

このナイロビのアメリカ大使館の爆破は、
世界のどこもがテロの舞台なり得る
国際テロ”のはじまりとなった。

3年後の、2001年9月11日、アメリカ本土で、
同時多発テロ”が発生して、ニューヨークの
国際貿易センターが崩れ落ちた。

その翌年の2002年、ケニアでは、第2の都市、
モンバサのイスラエル系のホテルが爆破されて、
多くの死傷者がでた。
同じ日に、モンバサから飛び立った、
イスラエルの民間機が、ミサイル攻撃を受けた。
こちらは、機長の機転で、フレアを発射して、
赤外線を追尾するミサイルの攻撃をかわした。

ナイロビのアメリカ大使館が爆破されてから、
アメリカは、在外大使館の“安全性”を見直した。
建物は、道路から30メートル以上、
離れなければならない。

それで、ナイロビのアメリカ大使館は、
これまでの中心街から、郊外に移転した。

「チュニジアのチュニスのアメリカ大使館も、
これまでの中心街から外れた海辺の埋立地に、
新大使館を建設している」
――それは、みたい。

フランスのスーパー・マーケット、
カルフールが、チュニスに進出した。
旧市街地(メディナ)のにぎやかな通りを、
歩きながら買い物をするという、これまでから、
中心街から外れた広い敷地に、駐車場を用意して、
車で行ってショッピングできるようにしてある。

リアドは、新大使館の建設現場に、
連れて行ってくれたが、
そのカルフールへ行く途中にある。

海辺の埋立地の敷地は広い。
それに、周りに雑踏はない。
厚いでぐるりと囲んで、
その中で、建設を進めていた。

建築資材は、全部アメリカから輸入して、
厳重な警戒のもとで建設している。
照明や家具のインテリアまで、
アメリカからの輸入です」
と、リアドは言う。
――ケニアとまったく同じだ。

歩哨が塀の周囲に、警戒の目を光らせている。
車から降りて、カメラを向ける雰囲気ではない。

アメリカの、在外大使館の安全性の見直しは、
チュニスのアメリカ大使館にも実行された。
建物は、道路から30メートル以上、
離れなければならない、
という安全基準を、十分に守っている。


ローマ時代のモザイク。カルタゴ博物館、チュニス。
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フェニキア人はアルファベットの原型を発明

2009-01-21 07:14:34 | Weblog
「フェニキア人が発明した“フェニキア文字”が、
アルファベット”の原型になった」
と、リアドは言う。

チュニスのシディ・ブ・サイドは、
白い壁にチュニジアン・ブルーの、
窓や扉が映える、美しい街並みの保存地区。

つきあたりは、カフェ・デ・ナット

夜、リアドとミント・ティーを飲みに出た。
リアドはシディ・ブ・サイドに車を停めて、
向かった先は、カフェ・デ・ナットだった。

正面の階段を上がって、カフェの中に入ると、
高さが60センチ、2メートル四方の高床が、
通路に区切られるように、いくつかある。

高床の四隅には、天井までの円柱があって、
のラセンの縞模様に彩色されている。
天井も赤と緑だ。まるで、クリスマスの配色。

高床には“ござ”が敷いてあって、を脱いで上がる。
「カフェ・デ・ナットのナットnatteは、ござのこと」
と、リアドは説明する。
――“カフェござ”か。

カフェござのお客は、男性ばかり。
片足を横に曲げ、片足を縦に曲げた、
半あぐら? 状態で、くつろいでいる。
――女性客がいない。ウェイトレスもいない。
「女性は、家でこどもの世話や、仕事をしている」
と、リアドは言う。

小さなグラスに注がれたミント・ティーはやや緑色。
砂糖を入れて甘くする。

「紅茶は、インドから輸入している。
コーヒーは、ブラジルから輸入している」
――アフリカからではなかった。
チュニジアからは近いケニアには、
紅茶もあるし、コーヒーもあるのだが。
「昔からブラジルとは交流があるが、
中部のアフリカとは交流がない」

リアドはフェニキア人の功績に触れた。
「フェニキア人が発明した“フェニキア文字”が、
アルファベット”の原型になった」

「ギリシャ人は、フェニキア文字の22文字に、
α(アルファ)やβ(ベータ)などを加えてギリシャ文字とした」

「フェニキア人は広範囲な交易をしたから、
エジプトから北アフリカ、ヨーロッパまで、
フェニキア文字が広まることになった」

「ローマ人もアルファベットを使ったし、
ヨーロッパの全民族の文字になっている」
と、リアドは誇らしげである。

「日本語は、何文字ですか?」
――およそ2,000字漢字には、読みがあり、
意味があり、書き順が決まっている。
「2,000字! それで“文盲”がいないのが不思議だ」

2,000字の表意文字は、
「漢字を覚え、意味を覚えるのは大変だ」
と、リアドの想像を超えた世界である。
アルファベットは表音文字で、意味をもたない。

「それまでの楔 (くさび) 形文字象形文字は複雑で、
記録を残すには、書記という専門家がいた」

「26文字の組み合わせで、
意味をもつアルファベットは、
学習するのが簡単だから、
一般の人が文を書けるようになって、
商用の手紙や記録、文章や詩を残せるようになった」

PCのキーボードは、アルファベットだ。
2,000字分のキーがあるわけではない。
日本文は、ローマ字で入力して、漢字変換している。
フェニキア人の発明の恩恵を、毎日、受けている。

フェニキア人が、“アルファベット”の原型である
フェニキア文字”を発明した偉業を、
リアドから、より知ることになったが、
チュニジア人は、この祖先の偉業を、
もっと、宣伝していい。

生活が格段に便利になり、
文化が発達しているのだから。
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チュニジア人の4代はアラビア語⇒フランス語⇒英語

2009-01-18 05:40:25 | Weblog
アフリカのチュニジアは、地中海に面している。
対岸はフランスやイタリアで、直行便があって、
地理的にヨーロッパとの結びつきが強い。

同じアフリカであるケニアとの直行便はない。
ケニアはイギリスの植民地だったが、
チュニジアはフランスの植民地だった、
という歴史的な結びつきがある。

首都チュニスで、チュニジア人のリアドとの昼飯は、
地中海を望む高台のレストラン。

思わず、テラスに出た。
――地中海が溶け合っている。
そのと、テラスのとのコントラストがいい。
そよ風までが吹いて、ぜいたくな気分にさせる。
リアド自慢のレストランである。

昼飯は魚料理にワイン。
「魚は、“ハリサ”で味つけをしてグリルする。
ワインは小麦、オリーブとともにチュニジアの主産業です」
と、リアドは言う。
――魚もワインもうまい。
この景色で、フランスの植民地だ。まずいわけがない。

「ハリサは、唐辛子(とうがらし)に、
オリーブ・オイルと塩を混ぜたペースト。
ハリサは、あらゆる料理に使う。パンにもつける」
パンはフランスパンだった。それで、
リアドの真似をして、小鉢の赤いハリサを、
スプーンですくって、フランスパンにぬって食べてみた。
――辛さとしょっぱさで、フランスパンがしまる。

「“ワイン”を飲み始めたのは“フェニキア人”です。
当時のギリシャ人は、ビールしか知らなかった。
ワインを飲むフェニキア人を奇妙な目で見ていた」
と、リアドは祖先のフェニキア人を誇りにしている。

レバノンの海上都市テュロスを本拠地に、
していたフェニキア人は、“交易”と“航海術
に長けていて、“地中海貿易”で繁栄した」

「フェニキア人の女王エリッサが、
北アフリカの土着の民族、ベルベル人の国に、
都市国家“カルタゴ”を建設してから(紀元前814年)、
チュニジアは歴史の表舞台に上がった」

――都市国家カルタゴは、歴史で習ったことがある。
それに、フェニキア人が交易したレバノン杉を、
イギリスで見たことがある。
大英博物館にある、エジプトのミイラの棺おけ
フェニキア人は、エジプトとも交易していた。

「ヨーロッパの歴史の初期は、地中海でした。
イギリスもフランスもまだ登場しないころ、
カルタゴは、地中海貿易で栄華を極め、
地中海沿岸を領土とした」

「でも、カルタゴは、ギリシャ、ローマと衝突し、
ローマ帝国とのポエニ戦争で敗れた。
そのあとは、アラブ⇒トルコ⇒フランスに支配された」

700年続いたカルタゴは、
ローマ帝国に600年間支配され、
トルコ帝国に350年間支配され、
最後のフランスには、75年間植民地とされて、
チュニジアは、1956年にフランスからやっと独立した。

支配される民族の常として、“言葉”も支配された。
リアドの家族4代には、言葉の支配の影響がある。
「“祖父”は、アラビア語だけで、
フランス語はほとんど話せない。
”の世代は、フランスの政策で、
途中からフランス語を強制された。
”は、小学校入学からアラビア語と、
フランス語で教育された。
フランスから独立した“”の世代は、
アラビア語を見直すようになって、
小学校はアラビア語だけになった。
中学校で、フランス語か、
10数年前から取り入れた英語かを選択するが、
娘は、ビジネスの重要性から、英語を選択している」

リアドは、ビジネスの世界ではフランス語を話し、
アメリカに滞在したことがあって、英語も話す。

家族4代は、家では母国語のアラビア語で話し、
ビジネスや外とは、
祖父は、アラビア語、
父が、フランス語、
リアドが、フランス語と英語、
そして、娘は、英語となる。

支配の歴史は、
アラビア語⇒フランス語⇒フランス語と英語⇒英語
と、家族4代の言葉の歴史として残っている。


白い家のチュニス市街。
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オーストラリアのカンガルー・ジャーキー

2009-01-14 16:02:30 | Weblog
受験生に、コアラが人気だ。
コアラは眠っていても、落ちない。受験生、がんばれ!

タロンガ動物園、シドニー。

さて、オーストラリアのゲーム・ミート
カンガルーの肉、“ルー・ミートRoo meat”を見に、
シドニーのスーパー・マーケットへ行ってみた。

ポテト・チップスが棚に、いっぱい並んでいた。
塩味、ガーリック味、チーズ味、BBQ味、タコス味……。
――ポテト・チップスって、こんなに種類があるのか?
しかも、そのポテト・チップスの袋のでかいこと、
抱えるほどだ。ピクニックの団体用かと、思うほどで、
日本でみる、かわいい、おやつの袋ではない。

――この袋を抱えて、
カウチ・ポテトCouch potato”ならば、
バリーが太るはずだ。

ルー・ミートが売っていた。しかし、
――格段に安いわけではなかった。
ルー・ミートの値段は、ビーフと同じだった。
カンガルーは、内陸部に、わさわさいるのだが。

「カンガルーを、むやみに捕獲するわけではない。
動物愛護や環境への配慮から、
増え過ぎた頭数を捕獲するように、
捕獲量を制限している」
と、バリーは言う。

「カンガルーは野生動物で、
家畜と違って、飼料を与えるわけではないから、
抗生物質や成長ホルモン剤投与の心配がない安全な肉だ」

「ヨーロッパで1986年に、狂牛病や、
口蹄疫(こうていえき)が流行したときに、
ビーフやマトンに代わる肉として、
ルー・ミートをドイツやイギリス、
フランスなどに輸出して、需要は伸びている」

この狂牛病騒ぎのときに、イギリスにいたが、
我が家の食卓から、ピタリとビーフがなくなった。
羊は口蹄疫(こうていえき)にかかる、というわけで、
マトンもなくなった。チキンになった。
イギリスの畜産農家は、大打撃を受けて、
いつ回復するともわからず、多くの畜産農家が破産した。

ルー・ミートは健康食でも、生肉を、
日本におみやげにすることはできない。
それで、シドニーのみやげもの店で、
カンガルー・ジャーキー”を買った。

カンガルー・ジャーキーは、味付けが濃いから、
やわらかくて、さっぱりした、
カンガルーの自然の味を、
味わえるわけではない。

ここで、カンガルー・ジャーキー以外のジャーキー。
ビーフ・ジャーキー”、“鹿ジャーキー”がある。

ビーフ・ジャーキー。

オーストラリア・ニュージーランド産牛肉を
使用とある。日本で購入。

信州の鹿ジャーキー。

信州夢街道フェスタで、諏訪のブースで購入。

信州の鹿ジャーキーの中身。


ジャーキーは味付けが濃いから、
カンガルー・ジャーキー、
ビーフ・ジャーキー、
鹿ジャーキー、
の違いは、わかりにくい……が、どれも、うまい。
ビールのつまみに、ピッタリだ。
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オーストラリアのゲーム・ミートはカンガルー

2009-01-11 07:10:02 | Weblog
オーストラリアのゲーム・ミートは、
カンガルーの肉、“ルー・ミートRoo meat”だった。

カンガルー。タロンガ動物園、シドニー。

物悲しそうな、このカンガルーを食べたわけではない。

オーストラリア人のバリーに、久し振りに会うと、
ボテッと、せり出ていた腹がへこんでいた。
それに、ほほがほっそりしていた。

――いったい、どうしたんだ?
「牛肉はやめて、“ルー・ミート”にしたよ。
それに、野菜を多く摂るようにした。
それに、“カウチ・ポテト”は止めて、
ジョギングをするようにした」

――ルー・ミート?  それに、カウチ・ポテト?
いったい、なんだろう?
「ルーとはカンガルーKangarooのルーである。
ルー・ミートRoo meat”とは、カンガルーの肉だ」

「“カウチ・ポテトCouch potato”は、
カウチはソファーで、ポテトはチップスで、
ソファーに座って、ポテト・チップスをつまみながら、
ぼんやりしていることをいう」

「摂取のカロリーが増えて、運動不足になる。
糖尿病の予備軍になったよ」
それで、医者から注意された。
「血糖値がやや高くて、肥満気味だ。
今は糖尿病になる手前のグレイ・ゾーン(境界型)だが、
この糖尿病の予備軍は、放っておくと糖尿病になる。
合併症が出て失明したり、心筋梗塞で死ぬことがある」
豊かになったオーストラリア人に忍び寄る現象だ。

「親族に糖尿病はいないので、
遺伝的なものではないから、
これまでの生活習慣を変えることによって、
グレイ・ゾーンにいる人の内の60パーセントは、
糖尿病になるのを防ぐことできるそうだ。
妻はビーフを止めて、“ルー・ミート”に代えたよ。
それに、“野菜”を多く摂るようにした。
カウチ・ポテトは止めた。“ジョギング”をしている」

「ルー・ミートは、脂肪が少なくて、
たんぱく質が多いから体にいい。健康食なんだ」

アボリジニという先住民族がいる。
都市部に住むアボリジニに比べて、
内陸部で狩猟生活をして、
ルー・ミートを食べているアボリジニには、
糖尿病や心臓病、高血圧がない。
国立心臓病財団(National Heart Foundation)は、
調査の結果を踏まえた上で、
ルー・ミートを“健康食”として認定した」

――ルー・ミートRoo meatを食べたい。
バリーは、シドニーのタウン・センターにある
レストランに連れていってくれた。

レアで頼んだルー・ミートのステーキは赤身だ。
マヨネーズがかかっていた。

――軟らかい。
カンガルーのイメージから、
ゴワゴワした硬い肉を予想したのだが。
うまみは、たしかにビーフよりも落ちるが、
脂身(あぶらみ)がなく、さっぱりしている。

ところが、バリーがオーダーしたのは、
オーストラリアの健康食、ルー・ミート、
ではなかった。

なんと、エビフライだった。
海苔(のり)つきの、あんかけエビフライ。

――糖尿病になっても、知らんぞ?
でも、毎日、毎日、
ルー・ミート、野菜、ジョギング、
ルー・ミート、野菜、ジョギング、
ばかりのストイックな生活では、
イヤになっちゃうヨ。

たまには、エビでも食わなくちゃ!
奥さんに内緒で、コレステロールだ。
バリーは、うまそうに食べていたな。
日本人と、こういうことも、なくちゃ。
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日本をベンチマーキングしたアメリカ

2009-01-07 02:17:50 | Weblog
企業が業績を回復したり、再生したり、
経営を革新するときに、“ベンチマーキング”をする。
このベンチマーキングは、企業の再生のほかにも、
病院の経営や公共団体、サービス産業の効率的な運営、
それに、国の再生にも使われる。

アメリカの商務省長官、マルコム・ボルドリッジは、
日本企業”をベンチマーキングして、
マルコム・ボルドリッジ国家品質賞(MBNQA)”を制定した。

If Japan can, why can't we?
日本にできて、なぜアメリカにできない?」
これは1980年、アメリカのNBC放送が、
全米にテレビ放映したタイトルである。

経済大国に成長した日本を特集したもので、
このときアメリカは、不況の真っただ中だった。

日本の脅威”、“日本の繁栄”の実態、
モノづくり”に目を向けざるを得ない状況になった。
日本の産業がアメリカの産業をしのぎ、
ついには衰退させたからである。

日本は、安くコンパクトだから、
最初は2台目の車、セカンド・カーとして使用されたが、
燃費がよくて、故障もなかったから、顧客は満足して、
1台目もアメリカの車から日本の車に、買い換えはじめた。

テレビ、冷蔵庫、洗濯機の家電品日本製に置き換わり、
“If Japan can, why can't we?”は、
日本製のテレビで見ることになった。

デトロイトでは、日本車をハンマーでたたき壊す、
見せしめが連日のように起こった。
このとき、ロス・アンジェルスにいたが、
デトロイトほどではないにしても、
ダウン・タウンには怖くて近づけない。
失業者やその日暮らしの人、ホームレスであふれ、
交差点で車を停めると寄って来る。ドアをロックし、
窓を閉めて、信号が変わるやダッシュした。

フリー・ウェイには、故障した車が、あちこちに乗り捨ててあった。
タクシーは、修理ができなくて、でこぼこのまま走っていた。

シティ・キャブ。サンフランシスコ。

道路は穴ぼこだらけで、市には補修するお金がなかった。
貿易赤字財政赤字の“双子の赤字”で、
病める巨象”には先が見えないでいた。

アメリカの繁栄を取りもどそうと、
時の商務省長官マルコム・ボルドリッジは、
日本に調査団を派遣して、自動車や電機メーカーなどを、
徹底的に調査した。アメリカと比較し、
優れたところを採り入れて、目標を設定する、
ベンチマーキング”を行ったのである。

そして、結果はつぎである。
日本企業は、品質の確保顧客満足CS
(Customer Satisfaction)という基本理念があって、
社員1人1人まで徹底されている。
★アメリカ企業は、目先の利益優先で、
品質確保や顧客満足CSをおろそかにした。
☆日本企業は、商品をチームプレイで設計・製造し、
コストの低減意識や改善意識が浸透している。
★アメリカ企業は、情報を共有するチームプレイや、
コストの低減意識が薄かった。
☆日本企業は、従業員を資産として教育し、
能力を向上させ、新しい知識を身につけさせている。
★アメリカ企業は、従業員教育や人材育成の意識は薄く、
不況になると簡単に首を切った
☆日本企業とアメリカ企業に共通しているのは、
企業倫理である。地域社会と共存し、国際基準を遵守し、
環境保護への取り組みがなければ、生き延びることができない。
NBC放送はこれらを報じ、マルコム・ボルドリッジは1987年、
マルコム・ボルドリッジ国家品質賞”を制定した。
The Malcolm Baldrige National Quality Award(MBNQA)

品質を重視し、顧客満足CSを得る“日本的経営”を採り入れて、
アメリカ企業の経営を革新し、競争力を向上させるための
国家戦略”である。

自費出版した『世界がみる日本の魅力と通知表』に、
マルコム・ボルドリッジ国家品質賞(MBNQA)の、
指標、評価について書いてあるので、ご参考に。

マルコム・ボルドリッジ国家品質賞は、
モトローラ、ゼロックス、IBM、キャディラック、
AT&T、TI、ボーイングなどの大手企業をはじめ、
中小企業やホテル、病院、学校、
地方公共団体などが受賞している。

この“マルコム・ボルドリッジ国家品質賞”が、
アメリカ企業の再生に大いに寄与して、
1990年代、アメリカは繁栄に転じた。
この繁栄は、2001年9月11日の
同時多発テロ”まで続いた。


消息を求め、犠牲者を悼(いた)みに、グラウンド・ゼロへ来た。

「同時多発テロで、アメリカの繁栄は終わったかな?」
と、アメリカ人がしみじみと言っていた。
ソ連の崩壊によって東西の冷戦が終わり、
ロシアの脅威はなくなってから、この10年、
アメリカは好景気に浮かれて、油断しすぎたようだ」

しかし、アメリカには旺盛な起業家意識があった。
産業を金融情報通信にシフトし、
石油と食料で世界経済をコントロールした。
2006年、ニューヨーク市場の株価が元にもどり、
景気は回復し、再び世界経済の中枢にいた。

しかし、2008年、不動産ブームが終わり、
バブルがはじけて金融危機に陥り、
不況のどん底にいる……世界までも。
かって“マルコム・ボルドリッジ国家品質賞”
という国家戦略で、活力を見出したアメリカ、
つぎの手は?

ベンチマーキングされた国、日本、
品質を重視し、顧客満足CSを得て、
従業員を資産とした“日本的経営”を、
お手本にされ、いいとこ取りをされた国、日本。
その日本の活力は、どうして見出すか?
日本的経営にヒントがある。
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航空会社は自動車レースをベンチマーキング

2009-01-04 06:49:47 | Weblog
企業が業績を回復したり、再生したり、
経営を革新するときに、“ベンチマーキング”をする。
このベンチマーキングは、企業の再生のほかにも、
病院の経営や公共団体、サービス産業の効率的な運営、
それに、国の再生にも使われる。

アメリカの航空会社、サウス・ウエスト航空は、
異業種の自動車レースインディ500”を、
ベンチマーキングして、“15分ターン”を確立した。

日本テレビの「特命リサーチ」で、
サウス・ウエスト航空の安くて、早くて、
安全な運行と顧客満足を得る経営が放映された。
そのサウス・ウエスト航空に搭乗したのとあわせて、
サウス・ウエスト航空のベンチマーキングをみる。

サウス・ウエスト航空の15分ターンとは、
飛行機がゲートに到着してから、
再び、ゲートを離れるまでの時間である。

燃料の注入、貨物の降ろし、乗客が降りる、ゴミのかたづけ、
機内食の積み込み、次の貨物の積み込み、次の乗客の搭乗、
……これらを順序よく、ときには同時に行い、
飛行機がゲートに到着してから、ゲートを離れて、
滑走路へ移動を開始するまでが、15分である。

この15分ターンは、自動車レース“インディ500”を、
ベンチマーキングした。自動車がピットに入り、
点検・整備、燃料補給やタイヤ交換をする。
このときの手法、スピードをベンチマーキングしたのである。


これはF1。サン・マリノ、イタリア。
各車、点検・整備をほぼ終えて、これからスタート。

飛行機は、空を飛んで、はじめて収入になるので、
ゲートに停止している時間は、短いほうがいい。
自動車レース、インディ500も、F1も、
ピットでモタモタしてはいられない、勝負を決めるから。
航空会社は、1機の飛行機が、
1日に飛ぶ回数が多くなるほど収入が増え、
少ない飛行機で、数多く飛ぶことができて、コストも低下する。


ダラスのホテル。

テキサス州、ダラスでサウス・ウエスト航空に乗ったが、
機種はボーイング737であった。
ゲートでの点検・整備のほかにも、
15分ターンを可能にしていることがあった。
搭乗券”がないのである。
搭乗カウンターで、手続きを済ませると、
プラスチック製の“番号札”が渡される。

時間になると、若い順番から30人ごとに搭乗して、
好きな席を選んで着席する……全席が自由席である。
これまでのように、搭乗券の番号と見比べながら、
座席をさがすことがないから、搭乗時間の大幅な短縮だ。

アメリカの航空会社は、2つの危機にあった。
航空の規制緩和”と“石油危機”である。

“航空の規制緩和”(1978年)で、運賃は自由競争となった。
テキサス州ダラスからヒューストンまで、
これまでの片道普通運賃 167ドルを、
サウス・ウエスト航空は39ドルで運行した。

この航空の規制緩和で、
多くの航空会社が経営破綻をして、
イースタン航空、パンアメリカン航空が倒産した。
コンチネンタル航空とトランスワールド航空は、
会社更生法の適用で、国の援助を受けた。

もう1つの危機、“石油危機”は、
イラクがクウェートに侵攻した湾岸戦争(1990年)によって、
石油の供給が制限されて、ジェット燃料が急騰した。
航空会社の経営は一気に苦しくなり、業績が悪化した。

しかし、サウス・ウエスト航空は、
15分ターンのほかにも、経営の革新をはかっていた。
全機種がボーイング737と、1機種にした。
補修費やメインテナンス部品を削減するほかに、
パイロットや整備士の熟達を上げ、安全性を確保した。

機内食は、ピーナッツとソフト・ドリンクだった。
1時間のフライトに、せわしく機内食をとることを、
顧客は要望していなかった。それよりも安く、早くであった。

サウス・ウエスト航空は、
自動車レースベンチマーキングして、
経営を革新し、航空業界を襲った2つの危機、
航空の規制緩和、石油危機を、乗り切った。
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異業種をベンチマーキング

2009-01-01 00:26:14 | Weblog
企業の再生や革新に、“ベンチマーキング”が使われる。
このベンチマーキングは、企業の再生や革新のほかにも、
病院や公共団体、サービス産業の効率的な経営、
それに、の再生、革新にも使われる。

“ベンチマーキング”は、ほかを徹底的に調査して、
優れたところを採り入れたり、目標を設定するもので、
平たくいえば“お手本”、“いいとこ取り”である。

“ベンチマーキング”をする対象は、
競争相手コンペティター”も候補だが、
同業種”は秘密をオープンにしないから、
異業種”をベンチマーキングすることが多い。
このベンチマーキングの対象に、
日本企業”がなったことがある。

アメリカの商務省長官、マルコム・ボルドリッジは、
日本企業”をベンチマーキングして、
マルコム・ボルドリッジ国家品質賞(MBNQA)”を制定した。

アメリカの航空会社、サウス・ウエスト航空は、
異業種の“スピードレース”をベンチマーキングして、
15分ターン”を確立した。

アメリカのPCメーカー、デルは、
異業種の“トヨタ”をベンチマーキングして、
デル独自の受注・製造方式を開発した。

デルは世界シェア1位のPCメーカーで、
テキサス州のダラスに工場がある。


デルは、異業種である自動車産業の、
トヨタをベンチマーキングした。
かんばん方式”を徹底的に研究して、
デル独自の受注・製造方式を開発した。

顧客は、デルのホームページで対話しながら、
PCの仕様やシステムを決めて、発注する。
するとデルは、部品業者に2時間毎に納入日程を連絡する。

工場では納入された部品がベルトにぶら下げられて、
工場内を縦横に走って、顧客仕様のPCが組み立てられ、
届けられる。顧客は、要望する製品が安く、しかも、
早く納入されるので、大満足である。

部品業者とは、定期的に値下げ交渉をするほかに、
新製品では、初期から部品業者を組み入れて開発する。
必要があるならば、デルは部品業者に開発投資をして、
一体となった開発、スムーズな量産を進める。

デルの工場の壁には、額に入れられた“特許証”が、
飾ってあった。工場内は撮影禁止であるから、
特許証を数えてみると、150枚ほどあった。
知的財産”として誇らしげである。

デルは、国家品質賞である、
“マルコム・ボルドリッジ国家品質賞(MBNQA)”
の地域版であるテキサス賞を受賞している。

マルコム・ボルドリッジ国家品質賞(MBNQA)は、
品質を重視し、顧客満足を得る“日本的経営”を採り入れて、
アメリカ企業の経営を革新し、競争力を向上させる国家戦略である。
1987年に制定された。

2001年9月11日の“同時多発テロ”のときには、
被害に遭った顧客に、デルはPCを寄贈した。
「納入したシステムの記録があるから、
寄贈したPCはすぐに使えました。
このために、顧客からは大いに喜ばれました」
と、デルは説明した。

ボードを見る。グラウンド・ゼロで。

同時多発テロの災害に遭った会社には、
多くの会社は、お悔やみの手紙を出したり、
挨拶回りをしているときに、
デルはPCを贈ったのである。
これまでと寸分と違わないシステムが届けられたから、
顧客はすぐにPCを使えて、デルは“信頼”と、
大きな“顧客満足”を得たのである。
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