“世界の表彰・評価”から、“指標”を定めて、“数値”で、
“日本の通知表”をみたが、同じ指標で、
“チュニジアの通知表”は、どうなるだろうか?
チュニジアは地中海に面した北アフリカの国である。
首都チュニスの高台にあるレストランのテラスから眺めた地中海。
地中海の群青と空の青が溶け合う、その先はイタリアとフランス。
そのイタリア、フランスとは、直行便があって、
地理的に、ヨーロッパとの結びつきが強い。
ケニアは同じアフリカでも、直行便はない。
歴史的にも、イタリア、フランスとのかかわりが強い。
ケニアはイギリスの植民地で、チュニジアはフランスの植民地だった。
「季節の変化」では、チュニジアについて、いくつか書いてきた。
「フェニキア人が都市国家“カルタゴ”を築いてから、
チュニジアは歴史の表舞台に上がった」
「カルタゴは地中海貿易を支配して栄華を極め、700年続いた。
しかし、ローマとのポエニ戦争に敗れて、600年間支配された。
カルタゴは、ローマの属州アフリカの首都としてよみがえり、
ローマ、アレクサンドリアにつぐ3番目の都となった」
「そのローマ帝国は、オスマン・トルコに滅ばされて、
チュニジアは350年間支配されてイスラム国家となり、
最後は、フランスに75年間植民地にされた」
チュニジア人が言うチュニジアの歴史である。
「フェニキア人が都市国家“カルタゴ”を築いてから、
チュニジアは歴史の表舞台に上がった」
チュニジア人はロマンあふれ話をする。
「“交易”と“航海”に長(た)けたフェニキア人は、
レバノンの海上都市テュロスを本拠地にして、
“地中海貿易”で繁栄していた。
女王“エリッサ”が、現在のチュニジアに到着して、
都市国家カルタゴを建設した(紀元前814年)」
「カルタゴの建設に、女王エリッサはアフリカの先住民ベルベル人に、
牛の皮1枚分の土地の購入を求めた。エリッサは牛の皮を細いひもに裂いて、
その皮ひもで土地を囲んだ。それがビュルサで、ビュルサとは“皮”のことです」
カルタゴの中心地、ビュルサの丘。住居跡がある。
その先の海辺には、カルタゴの丸い軍港と長方形の商港の跡があった。
「カルタゴは、地中海貿易で栄華を極め、地中海を支配していた。
ヨーロッパの歴史の初期は、地中海で、イギリスもフランスも、
歴史に登場する前のことです」
と、歴史の古さを誇る。
カルタゴの地中海支配は、日本の縄文時代である。
「地中海貿易を支配して栄華を極めて、700年続いたカルタゴは、
ローマに滅ぼされた。ローマとのポエニ戦争に敗れて600年間支配された」
「カルタゴによる地中海貿易は、イタリアを制圧したローマと、
衝突するようになり、ついにポエニ戦争(BC264~BC146)になった」
「1世紀にわたるポエニ戦争では、カルタゴの英雄ハンニバルが、
ローマに勝利した。ハンニバルは、カルタゴの領土であったスペインから、
象でピレネー山脈を越え、さらに、アルプスを越えて、
北からイタリアに入り、ローマ軍を破った(紀元前216年)」
「最後は、カルタゴは破れた(紀元前146年)。
カルタゴの復興を恐れたローマ軍は、カルタゴを徹底的に破戒し、
焼き尽くした。最後は塩をまいて、草木も生えないようにした。
しかし、100年後には、ローマの属州アフリカの首都としてよみがえって、
ローマ、アレクサンドリアにつぐ3番目の都として繁栄した。
ローマの属州のときの遺跡が、カルタゴやドゥッガなどにある」
ドゥッガDouggaのキャピトル。ローマ帝国時代の遺跡。
手前の公共広場フォーラムには、円柱の土台“柱基”が並んでいる。
この円柱が建っていた公共広場は、さぞかし、リッパだったに違いない。
ドゥッガは、4世紀に最盛期を迎える。
しかし、ローマ帝国はオスマン・トルコに滅ばされた。
カルタゴはオスマン・トルコに350年間支配されて、
イスラム国家となり、最後は、フランスに75年間植民地にされた。
チュニジアがフランスから独立するのは、1956年である。
支配される民族の常として、言葉も支配された。
チュニジア人の家族4代には、言葉の歴史が刻まれている。
「祖父は、アラビア語だけで、フランス語はほとんど話せない」
「父の世代は、フランスの政策で、途中からフランス語を強制された」
「私は、小学校入学からアラビア語とフランス語で教育された」
「娘は、フランスから独立していたから、アラビア語を見直すようになって、
小学校はアラビア語だけになった。
中学校で、フランス語か英語を選択するが、
ビジネスの重要性から、英語を選択している」
家族4代は、家ではアラビア語、ビジネスや外とは、
祖父はアラビア語、父はフランス語、本人はフランス語と学んだ英語、
娘は、英語となった。民族の支配の歴史は、言葉の変遷になって、
アラビア語→フランス語→フランス語と英語→英語、
と、家族4代の言葉に刻まれている。
モザイク。ローマ時代で日本の弥生時代のころ。
ビュルサの丘にあるカルタゴ博物館。
フェニキア人が築いた“カルタゴ”(紀元前814年)で、
チュニジアは歴史の表舞台に上がり、
“地中海貿易”で栄華を極めて、地中海を支配し、文化を発達させ、
ローマ帝国、オスマン・トルコ、フランスに支配された歴史をもつ、
“チュニジアの通知表”をみたい。
ランク…AA=3位以内 A=10位以内 B=20位以内 C=30位以内 D=40位以内。
1)創造力: ノーベル賞の受賞者はなし→ランクF。
2)芸術力: カンヌ映画祭でパルム・ドール受賞作品はなし→ランクF。
3)学力: PISA2006の15歳の知識と技能は54位→ランクF。
4)文化力: 文化遺産7は24位→ランクC。
5)運動力: サッカーのランキングは54位→ランクF。
陸上競技世界記録はない→ランクF。
6)経済力: 国民総生産は76位→ランクF。
7)援助力: 政府開発援助はなし→ランクF。
8)総合力: ランクE。
チュニジアのレーダーチャート(2009年10月)。
[総合評価]
“文化力”の文化遺産7は24位だけが突出したレーダーチャートで、
面積にならなかった。
チュニジアの国土は日本の5分の2で、人口1,020万人を考えると、
文化遺産7は、りっぱである。日本の文化遺産は11で9位。
チュニジアの文化や遺産に触れる。
ドゥッガの劇場。ローマ帝国時代の遺跡で世界遺産。
こんなに大きな劇場は、ローマにも残っていない。
舞台を見下ろすと、ドイツからの観光客が小さく見える。
この劇場のほかに、キャピトル、公共広場、神殿、凱旋門、貯水場、
倉庫、奴隷市場、金持ちの住居、公共浴場、娼婦の館、アテバンの霊廟、
水洗トイレット……と、古代都市がそっくりそのままある。
カルタゴにも、劇場、公共浴場、競技場、軍港、墓があるが、飛びとびだ。
ドゥッガのように壮大な都市が、まとまって残っている遺跡は珍しい。
首都チュニスの南西100キロメートルにあるドゥッガまで、
車で2時間かけて来たかいがあった。
ドゥッガまでは、土漠(どばく)の中に、畑や果樹園がある。
平らなところは小麦、起伏のあるところはオリーブやアーモンドの果樹園で、
ローマの穀倉地帯であったことがうなずける。
ぶどう畑は見なかった。ぶどうは、北寄りの地中海沿岸部で生育する。
オリーブ・オイル。
オリーブ・オイルは、“ハリサ”に使われていた。
チュニスの昼飯は魚料理にワインだが、うまかった。
「ワインは小麦、オリーブとともにチュニジアの主産業です。
地中海でとれた魚に、ハリサで味つけをしてグリルする」
と、チュニジア人は言う。
「ハリサは、唐辛子(とうがらし)に、オリーブ・オイルと塩を混ぜたペースト。
ハリサは、チュニジアでは、あらゆる料理に使う。パンにもつける」
パンはフランスパンだった。チュニジア人の真似をして、
小鉢の赤いハリサを、スプーンですくって、フランスパンにぬって食べてみた。
辛さとしょっぱさで、フランスパンがしまる。
「ワインを飲み始めたのはフェニキア人です。
当時のギリシャ人はビールしか知らなかったから、
ワインを飲むフェニキア人を奇妙な目で見ていた」
と、文化の高さが自慢である。
ドゥッガでは、限られた時間だ。効率よく見たい。ガイドを雇った。
ベテランで、チュニジアの帽子、黒いシャシーヤをのせている。
キャピトルの三角形の屋根の下、ペディメントを指した。
「中央に鳥のレリーフが見えるでしょう?
わしが皇帝を乗せて、不死の世界へ飛んでいく」
と言われると、皇帝が乗っているように見える。
皇帝の究極の願いは、不死だった?
キャピトルの円柱には、縦の“溝(フルーティング)”が走る。
“柱頭”には、“アカンサスの葉”がデザインされている。
“コリント式の円柱”を、見ているだけで、うれしくなる。
「アカンサスとはハアザミです」
と言うが、ぶどうの葉のようだ、と見ていた。
アカンサスを偶然、見ることができた。東京、三鷹市の中近東文化センター。
「ヘレニズムの華 ペルガモンとシルクロード」展。2009年3月。
「栽培している人が持ち寄ってくれました」
と、スタッフが説明してくれた。
ぶどうの葉よりも大きく、つやがあった。
アカンサスはギリシャの国花になっている。
「ドゥッガは4世紀に最も栄えたが、ローマ帝国が東西に分割して衰亡し、
やがて、オスマン・トルコに滅ぼされて、ドゥッガも衰退した。
フランス人によって発掘されたのは100年前で(1899年)ある」
と、ガイドは言うから、ドゥッガは1,600年も忘れ去られた。
水洗トイレット、ドゥッガ。
穴の上に座って用をたすと、水が洗い流す。
手は、足元にあるU字溝の水で洗う。
ドゥッガには、水洗トイレットもあり、劇場もキャピトルも公共広場も、
公共浴場も、金持ちの家にはモザイクもある文化の高い都市だった。
「ドゥッガは、ローマの穀倉地帯だった」
と、ガイドは言う。
穀物のもうけで造ったこの世の“天国”は、日本の弥生時代になる。
白い家のチュニス市街。
チュニジア人は郊外を走ると、車のスピードをゆるめた。
警察官が、街の入口で目を光らせていたり、
パトロール・カーが走っているときだ。
「不法な入国の取り締まりをしている。
テロリストが街に入ることを、警戒している」
と言う。
ケニアの首都、ナイロビのアメリカ大使館が、自爆テロリストによって爆破された。
世界のどこもがテロの舞台なり得る“国際テロ”のはじまりである(1998年8月7日)。
2001年9月11日、アメリカ本土で発生した“同時多発テロ”の3年前である。
ナイロビのアメリカ大使館が爆破されてから、アメリカは、在外大使館の、
“安全性”を見直した。建物は道路から30メートル以上、離れなければならない。
「チュニスのアメリカ大使館も、これまでの中心街から外れた海辺の埋立地に、
新大使館を建設している」
見に連れて行ってもらった。
フランスのスーパー・マーケット、カルフールがチュニスに進出した。
これまでは、旧市街地(メディナ)のにぎやかな通りを、歩きながら買い物を、
していたが、中心街から外れた広い敷地に車で行って、ショッピングする。
そのカルフールへ行く途中に、アメリカの新大使館の建設現場があった。
海辺の埋立地の敷地は広い。それに、周りに雑踏はない。
厚い塀でぐるりと囲んで、その中で、建設を進めていた。
「建築資材は、全部アメリカから輸入して、厳重な警戒のもとで建設している。
照明や家具のインテリアまで、アメリカからの輸入です」
と言うのは、ケニアとまったく同じだ。
歩哨が塀の周囲に、警戒の目を光らせている。
車から降りて、カメラを向ける雰囲気ではなかった。
シディ・ブ・サイドのカフェ・デ・ナット。チュニス。
シディ・ブ・サイドは、白い壁にチュニジアン・ブルーの窓や扉が映える、
美しい街並みの保存地区。
つきあたりのカフェ・デ・ナットに、
チュニジア人と夜、ミント・ティーを飲みに出かけた。
高さが60センチメートル、2メートル四方の高床が、
通路に区切られるように、いくつかある。高床の四隅には、
天井までの円柱があって、赤と緑のラセンの縞模様に彩色されている。
天井も赤と緑の縞模様だ。まるで、クリスマスの配色。
高床には“ござ”が敷いてあって、靴を脱いで上がる。
「カフェ・デ・ナットのナットnatteは、ござのこと」
と言うから、“カフェござ”である。
小さなグラスに注がれたミント・ティーはやや緑色。砂糖を入れて甘くする。
カフェござのお客は、男性ばかり。
片足を横に曲げ、片足を縦に曲げた半あぐら状態でくつろいでいる。
女性客がいない。ウェイトレスもいない。女王エリッサの子孫はどこへ行った?
「女性は、家でこどもの世話や、仕事をしている」
「フェニキア人が発明した“フェニキア文字”が、
“アルファベット”の原型になった」
「ギリシャ人は、フェニキア文字の22文字に、
α(アルファ)やβ(ベータ)などを加えてギリシャ文字とした」
と、チュニジア人は言う。
「フェニキア人の交易は、エジプトから北アフリカ、ヨーロッパまで、
広範囲だったから、フェニキア文字は広まった」
「ローマ人もアルファベットを使ったし、
ヨーロッパの全民族の文字になっている」
と、チュニジア人は誇らしげである。
「日本語は、何文字ですか?」
「およそ2,000字です」と答えると、
「2,000字! それで“文盲”がいないのが不思議だ」
と、感心していた。
「漢字は表意文字で、意味があり、読みがあり、書き順が決まっている」
ことは、チュニジア人の想像を超えた世界のようだ。
アルファベットは表音文字で、意味をもたない。
「アルファベット26文字の組み合わせで意味をもつ言葉は、
学習するのが簡単だから、一般の人が文を書けるようになった。
そして、商用の手紙や記録、文章や詩を残せるようになった。
それまでの楔(くさび)形文字や象形文字は複雑で、
記録を残すには、書記という専門家がいた」
フェニキア人の発明アルファベットの恩恵を、いま受けている。
PCの日本語入力である。キーボードは、2,000字分のキーではなく、
アルファベットで、日本語はローマ字で入れて漢字変換している。
生活が格段に便利になり、文化の発達に大いに寄与しているから、
アルファベットの原型であるフェニキア文字の発明という、
祖先の偉業を、チュニジア人はもっと宣伝していい。
アルファベットの原型である“フェニキア文字”をつくり、
古くから文明を発展させ、降りそそぐ太陽と地中海、
砂漠があるチュニジアには、休暇を過ごしに、研究に、
映画の撮影に、ヨーロッパや世界から人が集まってくる。
ユノ・カエレスティス神殿、ドゥッガ。
“日本の通知表”をみたが、同じ指標で、
“チュニジアの通知表”は、どうなるだろうか?
チュニジアは地中海に面した北アフリカの国である。
首都チュニスの高台にあるレストランのテラスから眺めた地中海。
地中海の群青と空の青が溶け合う、その先はイタリアとフランス。
そのイタリア、フランスとは、直行便があって、
地理的に、ヨーロッパとの結びつきが強い。
ケニアは同じアフリカでも、直行便はない。
歴史的にも、イタリア、フランスとのかかわりが強い。
ケニアはイギリスの植民地で、チュニジアはフランスの植民地だった。
「季節の変化」では、チュニジアについて、いくつか書いてきた。
「フェニキア人が都市国家“カルタゴ”を築いてから、
チュニジアは歴史の表舞台に上がった」
「カルタゴは地中海貿易を支配して栄華を極め、700年続いた。
しかし、ローマとのポエニ戦争に敗れて、600年間支配された。
カルタゴは、ローマの属州アフリカの首都としてよみがえり、
ローマ、アレクサンドリアにつぐ3番目の都となった」
「そのローマ帝国は、オスマン・トルコに滅ばされて、
チュニジアは350年間支配されてイスラム国家となり、
最後は、フランスに75年間植民地にされた」
チュニジア人が言うチュニジアの歴史である。
「フェニキア人が都市国家“カルタゴ”を築いてから、
チュニジアは歴史の表舞台に上がった」
チュニジア人はロマンあふれ話をする。
「“交易”と“航海”に長(た)けたフェニキア人は、
レバノンの海上都市テュロスを本拠地にして、
“地中海貿易”で繁栄していた。
女王“エリッサ”が、現在のチュニジアに到着して、
都市国家カルタゴを建設した(紀元前814年)」
「カルタゴの建設に、女王エリッサはアフリカの先住民ベルベル人に、
牛の皮1枚分の土地の購入を求めた。エリッサは牛の皮を細いひもに裂いて、
その皮ひもで土地を囲んだ。それがビュルサで、ビュルサとは“皮”のことです」
カルタゴの中心地、ビュルサの丘。住居跡がある。
その先の海辺には、カルタゴの丸い軍港と長方形の商港の跡があった。
「カルタゴは、地中海貿易で栄華を極め、地中海を支配していた。
ヨーロッパの歴史の初期は、地中海で、イギリスもフランスも、
歴史に登場する前のことです」
と、歴史の古さを誇る。
カルタゴの地中海支配は、日本の縄文時代である。
「地中海貿易を支配して栄華を極めて、700年続いたカルタゴは、
ローマに滅ぼされた。ローマとのポエニ戦争に敗れて600年間支配された」
「カルタゴによる地中海貿易は、イタリアを制圧したローマと、
衝突するようになり、ついにポエニ戦争(BC264~BC146)になった」
「1世紀にわたるポエニ戦争では、カルタゴの英雄ハンニバルが、
ローマに勝利した。ハンニバルは、カルタゴの領土であったスペインから、
象でピレネー山脈を越え、さらに、アルプスを越えて、
北からイタリアに入り、ローマ軍を破った(紀元前216年)」
「最後は、カルタゴは破れた(紀元前146年)。
カルタゴの復興を恐れたローマ軍は、カルタゴを徹底的に破戒し、
焼き尽くした。最後は塩をまいて、草木も生えないようにした。
しかし、100年後には、ローマの属州アフリカの首都としてよみがえって、
ローマ、アレクサンドリアにつぐ3番目の都として繁栄した。
ローマの属州のときの遺跡が、カルタゴやドゥッガなどにある」
ドゥッガDouggaのキャピトル。ローマ帝国時代の遺跡。
手前の公共広場フォーラムには、円柱の土台“柱基”が並んでいる。
この円柱が建っていた公共広場は、さぞかし、リッパだったに違いない。
ドゥッガは、4世紀に最盛期を迎える。
しかし、ローマ帝国はオスマン・トルコに滅ばされた。
カルタゴはオスマン・トルコに350年間支配されて、
イスラム国家となり、最後は、フランスに75年間植民地にされた。
チュニジアがフランスから独立するのは、1956年である。
支配される民族の常として、言葉も支配された。
チュニジア人の家族4代には、言葉の歴史が刻まれている。
「祖父は、アラビア語だけで、フランス語はほとんど話せない」
「父の世代は、フランスの政策で、途中からフランス語を強制された」
「私は、小学校入学からアラビア語とフランス語で教育された」
「娘は、フランスから独立していたから、アラビア語を見直すようになって、
小学校はアラビア語だけになった。
中学校で、フランス語か英語を選択するが、
ビジネスの重要性から、英語を選択している」
家族4代は、家ではアラビア語、ビジネスや外とは、
祖父はアラビア語、父はフランス語、本人はフランス語と学んだ英語、
娘は、英語となった。民族の支配の歴史は、言葉の変遷になって、
アラビア語→フランス語→フランス語と英語→英語、
と、家族4代の言葉に刻まれている。
モザイク。ローマ時代で日本の弥生時代のころ。
ビュルサの丘にあるカルタゴ博物館。
フェニキア人が築いた“カルタゴ”(紀元前814年)で、
チュニジアは歴史の表舞台に上がり、
“地中海貿易”で栄華を極めて、地中海を支配し、文化を発達させ、
ローマ帝国、オスマン・トルコ、フランスに支配された歴史をもつ、
“チュニジアの通知表”をみたい。
ランク…AA=3位以内 A=10位以内 B=20位以内 C=30位以内 D=40位以内。
1)創造力: ノーベル賞の受賞者はなし→ランクF。
2)芸術力: カンヌ映画祭でパルム・ドール受賞作品はなし→ランクF。
3)学力: PISA2006の15歳の知識と技能は54位→ランクF。
4)文化力: 文化遺産7は24位→ランクC。
5)運動力: サッカーのランキングは54位→ランクF。
陸上競技世界記録はない→ランクF。
6)経済力: 国民総生産は76位→ランクF。
7)援助力: 政府開発援助はなし→ランクF。
8)総合力: ランクE。
チュニジアのレーダーチャート(2009年10月)。
[総合評価]
“文化力”の文化遺産7は24位だけが突出したレーダーチャートで、
面積にならなかった。
チュニジアの国土は日本の5分の2で、人口1,020万人を考えると、
文化遺産7は、りっぱである。日本の文化遺産は11で9位。
チュニジアの文化や遺産に触れる。
ドゥッガの劇場。ローマ帝国時代の遺跡で世界遺産。
こんなに大きな劇場は、ローマにも残っていない。
舞台を見下ろすと、ドイツからの観光客が小さく見える。
この劇場のほかに、キャピトル、公共広場、神殿、凱旋門、貯水場、
倉庫、奴隷市場、金持ちの住居、公共浴場、娼婦の館、アテバンの霊廟、
水洗トイレット……と、古代都市がそっくりそのままある。
カルタゴにも、劇場、公共浴場、競技場、軍港、墓があるが、飛びとびだ。
ドゥッガのように壮大な都市が、まとまって残っている遺跡は珍しい。
首都チュニスの南西100キロメートルにあるドゥッガまで、
車で2時間かけて来たかいがあった。
ドゥッガまでは、土漠(どばく)の中に、畑や果樹園がある。
平らなところは小麦、起伏のあるところはオリーブやアーモンドの果樹園で、
ローマの穀倉地帯であったことがうなずける。
ぶどう畑は見なかった。ぶどうは、北寄りの地中海沿岸部で生育する。
オリーブ・オイル。
オリーブ・オイルは、“ハリサ”に使われていた。
チュニスの昼飯は魚料理にワインだが、うまかった。
「ワインは小麦、オリーブとともにチュニジアの主産業です。
地中海でとれた魚に、ハリサで味つけをしてグリルする」
と、チュニジア人は言う。
「ハリサは、唐辛子(とうがらし)に、オリーブ・オイルと塩を混ぜたペースト。
ハリサは、チュニジアでは、あらゆる料理に使う。パンにもつける」
パンはフランスパンだった。チュニジア人の真似をして、
小鉢の赤いハリサを、スプーンですくって、フランスパンにぬって食べてみた。
辛さとしょっぱさで、フランスパンがしまる。
「ワインを飲み始めたのはフェニキア人です。
当時のギリシャ人はビールしか知らなかったから、
ワインを飲むフェニキア人を奇妙な目で見ていた」
と、文化の高さが自慢である。
ドゥッガでは、限られた時間だ。効率よく見たい。ガイドを雇った。
ベテランで、チュニジアの帽子、黒いシャシーヤをのせている。
キャピトルの三角形の屋根の下、ペディメントを指した。
「中央に鳥のレリーフが見えるでしょう?
わしが皇帝を乗せて、不死の世界へ飛んでいく」
と言われると、皇帝が乗っているように見える。
皇帝の究極の願いは、不死だった?
キャピトルの円柱には、縦の“溝(フルーティング)”が走る。
“柱頭”には、“アカンサスの葉”がデザインされている。
“コリント式の円柱”を、見ているだけで、うれしくなる。
「アカンサスとはハアザミです」
と言うが、ぶどうの葉のようだ、と見ていた。
アカンサスを偶然、見ることができた。東京、三鷹市の中近東文化センター。
「ヘレニズムの華 ペルガモンとシルクロード」展。2009年3月。
「栽培している人が持ち寄ってくれました」
と、スタッフが説明してくれた。
ぶどうの葉よりも大きく、つやがあった。
アカンサスはギリシャの国花になっている。
「ドゥッガは4世紀に最も栄えたが、ローマ帝国が東西に分割して衰亡し、
やがて、オスマン・トルコに滅ぼされて、ドゥッガも衰退した。
フランス人によって発掘されたのは100年前で(1899年)ある」
と、ガイドは言うから、ドゥッガは1,600年も忘れ去られた。
水洗トイレット、ドゥッガ。
穴の上に座って用をたすと、水が洗い流す。
手は、足元にあるU字溝の水で洗う。
ドゥッガには、水洗トイレットもあり、劇場もキャピトルも公共広場も、
公共浴場も、金持ちの家にはモザイクもある文化の高い都市だった。
「ドゥッガは、ローマの穀倉地帯だった」
と、ガイドは言う。
穀物のもうけで造ったこの世の“天国”は、日本の弥生時代になる。
白い家のチュニス市街。
チュニジア人は郊外を走ると、車のスピードをゆるめた。
警察官が、街の入口で目を光らせていたり、
パトロール・カーが走っているときだ。
「不法な入国の取り締まりをしている。
テロリストが街に入ることを、警戒している」
と言う。
ケニアの首都、ナイロビのアメリカ大使館が、自爆テロリストによって爆破された。
世界のどこもがテロの舞台なり得る“国際テロ”のはじまりである(1998年8月7日)。
2001年9月11日、アメリカ本土で発生した“同時多発テロ”の3年前である。
ナイロビのアメリカ大使館が爆破されてから、アメリカは、在外大使館の、
“安全性”を見直した。建物は道路から30メートル以上、離れなければならない。
「チュニスのアメリカ大使館も、これまでの中心街から外れた海辺の埋立地に、
新大使館を建設している」
見に連れて行ってもらった。
フランスのスーパー・マーケット、カルフールがチュニスに進出した。
これまでは、旧市街地(メディナ)のにぎやかな通りを、歩きながら買い物を、
していたが、中心街から外れた広い敷地に車で行って、ショッピングする。
そのカルフールへ行く途中に、アメリカの新大使館の建設現場があった。
海辺の埋立地の敷地は広い。それに、周りに雑踏はない。
厚い塀でぐるりと囲んで、その中で、建設を進めていた。
「建築資材は、全部アメリカから輸入して、厳重な警戒のもとで建設している。
照明や家具のインテリアまで、アメリカからの輸入です」
と言うのは、ケニアとまったく同じだ。
歩哨が塀の周囲に、警戒の目を光らせている。
車から降りて、カメラを向ける雰囲気ではなかった。
シディ・ブ・サイドのカフェ・デ・ナット。チュニス。
シディ・ブ・サイドは、白い壁にチュニジアン・ブルーの窓や扉が映える、
美しい街並みの保存地区。
つきあたりのカフェ・デ・ナットに、
チュニジア人と夜、ミント・ティーを飲みに出かけた。
高さが60センチメートル、2メートル四方の高床が、
通路に区切られるように、いくつかある。高床の四隅には、
天井までの円柱があって、赤と緑のラセンの縞模様に彩色されている。
天井も赤と緑の縞模様だ。まるで、クリスマスの配色。
高床には“ござ”が敷いてあって、靴を脱いで上がる。
「カフェ・デ・ナットのナットnatteは、ござのこと」
と言うから、“カフェござ”である。
小さなグラスに注がれたミント・ティーはやや緑色。砂糖を入れて甘くする。
カフェござのお客は、男性ばかり。
片足を横に曲げ、片足を縦に曲げた半あぐら状態でくつろいでいる。
女性客がいない。ウェイトレスもいない。女王エリッサの子孫はどこへ行った?
「女性は、家でこどもの世話や、仕事をしている」
「フェニキア人が発明した“フェニキア文字”が、
“アルファベット”の原型になった」
「ギリシャ人は、フェニキア文字の22文字に、
α(アルファ)やβ(ベータ)などを加えてギリシャ文字とした」
と、チュニジア人は言う。
「フェニキア人の交易は、エジプトから北アフリカ、ヨーロッパまで、
広範囲だったから、フェニキア文字は広まった」
「ローマ人もアルファベットを使ったし、
ヨーロッパの全民族の文字になっている」
と、チュニジア人は誇らしげである。
「日本語は、何文字ですか?」
「およそ2,000字です」と答えると、
「2,000字! それで“文盲”がいないのが不思議だ」
と、感心していた。
「漢字は表意文字で、意味があり、読みがあり、書き順が決まっている」
ことは、チュニジア人の想像を超えた世界のようだ。
アルファベットは表音文字で、意味をもたない。
「アルファベット26文字の組み合わせで意味をもつ言葉は、
学習するのが簡単だから、一般の人が文を書けるようになった。
そして、商用の手紙や記録、文章や詩を残せるようになった。
それまでの楔(くさび)形文字や象形文字は複雑で、
記録を残すには、書記という専門家がいた」
フェニキア人の発明アルファベットの恩恵を、いま受けている。
PCの日本語入力である。キーボードは、2,000字分のキーではなく、
アルファベットで、日本語はローマ字で入れて漢字変換している。
生活が格段に便利になり、文化の発達に大いに寄与しているから、
アルファベットの原型であるフェニキア文字の発明という、
祖先の偉業を、チュニジア人はもっと宣伝していい。
アルファベットの原型である“フェニキア文字”をつくり、
古くから文明を発展させ、降りそそぐ太陽と地中海、
砂漠があるチュニジアには、休暇を過ごしに、研究に、
映画の撮影に、ヨーロッパや世界から人が集まってくる。
ユノ・カエレスティス神殿、ドゥッガ。