
(干上がったボリビアのウユニ塩湖。
この下には世界の埋蔵量の半分を占めるリチウムがある…という。)

「自分で読んでみる」という、私たちの側からの積極的な行為を、
書物はだまって待っている。
現代社会に暮らす私たちは、本についての情報に接する機会には
あきれるほどめぐまれていて、だれにも「あの本のことなら知って
いる」と思う本が何冊かあるだろう。
ところが、ある本「についての」知識を、いつのまにか「じっさいに
読んだ」経験とすりかえて、私たちは、その本を読むことよりも、
「それについての知識」をてっとり早く入手することで、お茶を
濁(にご)しすぎているのではないか。ときには、部分の抜粋だけを
読んで、全体を読んだ気になってしまうこともあって、「本」は、
ないがしろにされたままだ。
相手を直接知らないことには、恋がはじまらないように、
本はまず、そのもの自体を読まなければ、なにもはじまらない。
(須賀敦子『塩一トンの読書』から抜粋)
<前の記事>
・『塩一トンの読書』 弐
<後の記事>
・『塩一トンの読書』 四
この下には世界の埋蔵量の半分を占めるリチウムがある…という。)

「自分で読んでみる」という、私たちの側からの積極的な行為を、
書物はだまって待っている。
現代社会に暮らす私たちは、本についての情報に接する機会には
あきれるほどめぐまれていて、だれにも「あの本のことなら知って
いる」と思う本が何冊かあるだろう。
ところが、ある本「についての」知識を、いつのまにか「じっさいに
読んだ」経験とすりかえて、私たちは、その本を読むことよりも、
「それについての知識」をてっとり早く入手することで、お茶を
濁(にご)しすぎているのではないか。ときには、部分の抜粋だけを
読んで、全体を読んだ気になってしまうこともあって、「本」は、
ないがしろにされたままだ。
相手を直接知らないことには、恋がはじまらないように、
本はまず、そのもの自体を読まなければ、なにもはじまらない。
(須賀敦子『塩一トンの読書』から抜粋)

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