テニスとランとデジカメと

私の趣味3点+その他の紹介です。
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雨の吉原散策

2012年03月02日 | 散歩
 卯月の会、今日は奥浅草に位置している吉原を訪ねます。
鷲神社からスタートし、吉原の裏側から吉原弁財天、吉原神社を参拝し、吉原中心街を歩き、
吉原大門の表側に出るコース。
出るとき曇り空だったが、あいにく歩き始めたら雨が降ってきて、冷たい雨に濡れながらの散策だった。

北千住からバスで竜泉下車、国際通りの近くに鷲(おおとり)神社が見える。10時30分。


鷲神社
 酉の市で知られる鷲神社は寿老人をお祀っている。江戸下町を代表する神社で、開運、商売繁昌、家運隆昌、子育て、出世の神徳が深いとされ、「おとりさま」と称されて古くから江戸下町の民衆に篤く尊信されてきた。
祭神のもう一柱である日本武尊(やまとたけるのみこと)は後に東征の帰途、当社の松に熊手をかけて勝ち戦のお礼参りをされた日が、ちょうど11月の酉の日であったことからその日に神様をおなぐさめする祭が行われるようになり、それが酉の市のはじまりだそうだ。


鷲神社御社殿


絵馬


叶鷲
願い事を書いて叶鷲のおなかに納めシールで封をして納めるというもの。


樋口一葉文学碑
一葉はここ竜泉寺町に住んでいて、『たけくらべ』は明治26年から10か月間に見聞きした事を書いた小説である。 
『たけくらべ』の一節に、お酉様の様子が記されている
 ”此年三の酉まで有りて中一日はつぶれしかど前後の上天氣に大鳥神社の賑ひすさまじく此處をかこつけに檢査場の門より乱れ入る若人達の勢ひとては、天柱くだけ、地維かくるかと思はるゝ笑ひ聲のどよめき、中之町の通りは俄かに方角の替りしやうに思はれて、角町(すみちやう)京町處々のはね橋より、さつさ押せ押せと猪牙(ちよき)がゝつた言葉に人波を分くる群もあり、河岸の小店の百囀(もゝさへ)づりより、優にうづ高き大籬(おほまがき)の樓上まで、絃歌の聲のさまざまに沸き來るやうな面白さは大方の人おもひ出でゝ忘れぬ物に思すも有るべし。”

国際通りから吉原(現在は千束)に向かう


吉原弁財天
かつてこの辺りは湿地で、いくつもの池が点在していたという。その1つが弁天池だった。吉原遊郭ができたあとに弁天池のそばに弁天祠がつくられ、遊郭楼主の信仰を集めた。
1923(大正12)年の関東大震災で吉原遊郭一帯が火に包まれ、逃げ遅れた遊女490人が弁天池に飛び込み溺死した。この遊女の供養にと1926(大正15)年、吉原観音像が建立された。


新吉原花園池跡


吉原観音像


吉原弁財天


新装の祠を天女で彩り
芸大生らが壁画制作を協力したとのこと

次に吉原神社に向かう


吉原神社
 吉原の鎮守の社として知られる。古書には花魁が参拝したと記されており、吉原の栄枯盛衰を見守ってきた神社である。境内には、かつての吉原の地図が掲示されている。 吉原神社ができたのは1875(明治8)年に遡る。それまで吉原遊郭にまつられていた5つの稲荷神社を合祀した。1923(大正12)年の関東大震災のあと、今の場所に移った。1935(昭和10)年には吉原弁財天を合祀した。


吉原神社社殿


吉原の中心通りである仲之町通り
かつての吉原遊郭は、今の住所で言えば「千束3丁目」と「千束4丁目」になる。中心の通りは「仲之町」だ。吉原大門からS字の道路を入っていけば「仲之町」の通りだ。


仲之町通りにある、そばや”大村庵” ここで早めの昼食
あとで知ったが、このおそばやさんは明治30年代の開業。終戦後は多忙で18時開店で夜通し営業、出前をしていたとのこと。


おかめそばを食す 
写真を撮ろうとしたら、おかみさんが”おかめ”の向きはこっちですよと向きを直してくれた。
おかめは懐かしい味。寒かったので良く暖まる。


千束四丁目交差点
ここがかつての吉原の中心点か。


揚屋町通りのソープ街
ソープ街の店では入口に客呼びの店員が立っていたりする。


吉原公園の階段
通りは「おはぐろどぶ」といって、一段低く作られていたようで、この公園の階段差はそのなごりのようだ。


吉原大門の跡を示す標柱
吉原遊郭の入り口として、その名をこんにちにとどめているのが「吉原大門」である。


1900年代の吉原大門(当時の絵葉書より)
金色に輝くはでな門、ここが吉原の本当の入口だった。


大門からのS字路
吉原の外から大門の中が見えないようにするために、道を曲げて作ったのである。


大門からのS字路出口


吉原大門交差点 通りは土手通り


見返りの柳 吉原大門交差点にある
かつて京都の島原遊郭の門口に柳があったことから、それにならって吉原でも柳を植えていた。その柳の辺りで、享楽を堪能した客が去りがたい思いを抱いて遊郭を振り返ったのが「見返り柳」の由来である。


土手通りにある現役の古民家の店 なかなか当時の風情が残っているようだ
天麩羅の土手の伊勢屋(右)、桜肉鍋中江(左)
土手の伊勢屋は明治22年(1889)、桜肉鍋中江は明治38年(1905)の創業。吉原が賑やかだった頃、土手通りは客の行きかえりで繁盛したそうだ。

このあと2次会だが、昼から呑める居酒屋はなか見つからないので、
大門から北めぐりんのバスでゆっくりと台東区を一周して浅草で降りる


ニュー浅草本店
午後2時過ぎに入店。ここで2次会となった。昼間から空いている店で、お客もかなり入っていた。
Sさんのトルコ土産話に耳を傾けた。話題は広がりヨーロッパへと続いた・・・。


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