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谷根千散策(卯月の会)

2009年06月27日 | 散歩
 谷根千(ヤネセン)は台東区谷中、文京区根津、千駄木に広がるエリアをあらわす愛称である。梅雨の晴れ間の一日、今日は30度を越えるような暑さとなった。
 松戸9時30分集合し、日暮里駅から散策スタート。


日暮里駅北口から谷中方面に御殿坂を登る。江戸初期から白山御殿(将軍綱吉)があったのでこの名称がついたとか。道沿いに寺院が多く見られる。谷中せんべい店はレトロな昭和初期建築のようだ。


まっすぐ歩くと、夕焼けだんだんに着く。懐かしい下町の夕暮れがとてもよく似合う風景である。この先は谷中銀座につづくが、我々は階段下を左折する。


じきに岡倉天心の六角堂に着く。岡倉天心の旧居があったところだそうで、小ぶりの六角堂の中には金色の岡倉天心坐像が安置されていた。お堂が地味なせいか金色がまばゆい程である。小庭園に谷中生姜が植えられていた。谷中生姜は練馬大根・小松菜・滝野川牛蒡と並ぶ江戸の名産品に数えられていたのである。


狭い蛍坂という名前負けする味気ない坂を上がる。ほどなく観音寺の築地塀があらわれる。瓦と土が交互に重なっていて寺町にはかかせない風情がある。


寺域が過ぎると広大な谷中霊園にぶつかる。
長谷川一夫の端正な墓をよぎると、谷中五重塔跡が見えてくる。
谷中五重塔は幸田露伴の小説「五重塔」のモデルになるなど、谷中霊園のシンボル的存在だったが、昭和32年7月に放火により全照し、現在は塔の礎石を残すのみである。焼失前後と炎上中の写真がそばに展示されていた。


霊園内を奥へ奥へと目指すは徳川幕府最後の将軍徳川慶喜墓所。柵で囲まれた一角が墓所である。
手前左側が徳川慶喜、右側が妻の墓である。朝敵とされた自分を赦免した上、華族の最高位である公爵を親授した明治天皇に感謝の意を示すため、慶喜は自分の葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう遺言した。このため、慶喜の墓は徳川家菩提寺である増上寺徳川家墓地でも寛永寺徳川家墓地でもなく、谷中霊園に皇族のそれと同じような円墳が建てられたとのこと。


霊園の南口を抜けていくと、旧吉田屋本店がある。谷中6丁目で江戸時代から代々酒屋を営んでいた「吉田屋」の建物を現在地に移築したもので、明治43年に建てられた江戸中期から明治時代の商家建築の特徴を示すものだそうだ。内部に酒屋を営んでいた当時の展示がされており、郷愁をそそる。


再び寺域を抜けていくと根津に下る三浦坂に出る。


坂の中ほどに「ねんねこ家」がある。ねこのグッズが屋根から土間まであふれんばかりに置かれており、愛好家にはたまらないらしい。


根津まで下って根津駅の近くの串揚げ専門の「はん亭」まで足を伸ばした。明治時代に建てられ、関東大震災にも耐えた総けやき造り木造三階建の日本家屋で文化庁の登録有形文化財にも指定されているそうだ。明治の建築物で、3階建てというのは、かなり珍しいと思われる。


はん亭を横に見て、我々はそばやを探して根津界隈を歩く。暑さで喉もカラカラになっている状態で、必死になって?探したのである。と、出前のお兄さんが目の前を自転車で通ったのを発見、聞き出した店の場所が近かったので、とたんに皆足取りも軽やかになり、程なくその店「朝日屋」に入ることができ昼食。
冷たいビールで乾杯し、大もりを食す。熱い体に冷えたビールが染み渡る感じだ。


昼食後、あとは千駄木を抜けて日暮里まで帰るだけとなる。谷中銀座は人で溢れていた。この暑い真昼間でもここは人気スポットなのだろう。店もそれぞれ趣向をこらして繁盛しているようだ。惣菜やでコロッケを買い食いし、後藤の飴の店でアメを買う。


 谷中はあちこちにネコが見られる町なのだが、この暑さのせいか、ネコどもはどこかで昼寝でもしているようで、あまり見かけない。
 写真は谷中霊園で石灯篭の中で昼寝しているネコ、気持ちよさそうだった。
谷中銀座の惣菜やには、何とも愛らしいねこ人形が売り上げに一役買っていた。

 散策の終点は出発と同じ日暮里駅。松戸に戻りカラオケで喉を整えてから、2次会で生ビールで乾杯。次回の散策場所は「両国から柳橋へ」に決定した。

(過去の散策リンク)2003/04/17 谷中から根津神社へ

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