それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

何故みんなで歌うのか?:山田太一「よその歌 わたしの唄」、「ヤング@ハート」、「グリー」

2013-07-19 23:46:53 | コラム的な何か
今日は夜、山田太一のドラマを見た。

ひとりカラオケに来ている人々を元大学教師が集めて、一緒に歌を歌おうと誘い、色々なことが起きていくというストーリーだ。

参加者はまったくそれぞれの理由で孤独である。

介護に疲れていたり、奥さんと子供に逃げられたり、深刻な病気であったり、夫婦仲が悪かったり。

年齢も性別も職業もバラバラだが、彼らは集まるのである。

そして、一度ポップスを合唱して非常に盛り上がる。

しかし、ひとつの事件をきっかけに、すれ違いやそれぞれの事情からメンバーはバラバラに。

そこからもう一度それぞれの事情を抱えながらも、なんとか集まるというクライマックス。

僕はとても素晴らしい作品だと思った。

とにかく役者の芝居がうまい。山田太一の奇妙に切れ切れで倒置法だらけのセリフを、見事に自然な会話にしている。

そして会話のトーンとスピードの変化によって、まるでひとつの楽曲のように、一場面ずつが起承転結していく。

歌は全員下手だ。

コーラスワークもめちゃくちゃだ。

けれど、それでいい。そうじゃなければ、リアルじゃない。

そんなことより、それぞれが抱えた孤独と葛藤をその瞬間に癒されていることが伝わってくる。

本当はもっと感動的なシナリオにも出来たはずだ。

けれど、山田はそうしない。

彼のメッセージは単純ではない。「みんなで歌えば孤独は癒される」ではない。

むしろ「人間はひとりだ。生まれて来るとき、死ぬとき、必ずどこからでひとりになる。そして、人間はひとりになりたいとも思っている。他人を信じられなかったり、許せなかったりする。けれど、そうだとしても、一緒に歌うことに何か意義はないだろうか?人に構うことは、お節介を焼くことは、そんなにダメなことだろうか?」

山田は、人間のアンビバレンスを丁寧に描く。人間が孤独になりたい衝動と、つながりたい衝動を両方持った面倒な生き物であることを的確に描くのである。



孤独な人が集まって歌を歌うと言えば、「ヤング@ハート」というドキュメンタリー映画がある。

アメリカの田舎町の公共住宅の老人たちによる合唱団を追った話だ。

平均年齢80歳。

彼らが歌うのは、ロックやファンクだ。

歌の技術は確かに下手。

でも、感動する。彼らの「生」そのものが歌のなかで輝くのが見えるからだ。

彼らの歌は人気になり、全国で世界で公演することになる。

公演中に仲間が死んでいく。仕方がない。それだけ高い年齢層なのだ。

しかし、メンバーは挫けたり、振り返ったりしない。歌うことで前に進もうとする(メンバーがはっきりそう口にする)。

ヤング@ハートは、歌および音楽が人間の「生」とどれほど深くつながっているのかを明らかにしている。



孤独な人が集まって歌うと言えば、「グリー」を忘れるわけにはいかない。

アメリカの「グリークラブ」に、人種的、性的、身体的、精神的な理由からマイノリティになった学生たちが集まり、歌とダンスを通じて自分を獲得していく物語だ。

グリーは他のふたつと異なり、演奏技術もダンスの技術もきわめて高い。

しかし、物語の本質は近しい。音楽が人間を結び付け、そして各人が自分のアイデンティティを得ようとする。



このふたつの作品と比べると、山田太一の作品はかなり捻じれている。

最初に指摘したように、この作品には日本人の面倒くさい部分が凝縮されていて、単純に「歌で人がつながって幸せになる」ということにならないのである。

むしろ「人間の圧倒的な孤独に対して、他者と共に歌うことがわずかな憩いになる」という程度の現実的な、しかし願いのようなメッセージが乗っている。

ずっと定期的に歌い続ける?いや無理だ。しかし、せめてもう一度!

遠慮がちで、わがままで、意志の疎通が不自由な日本人一般が頑張って到達できる地点を、山田はリアルに、そしてユートピア的に我々に突きつけるのである。

誰かと歌うことは感動する。

それは分かっている。

それは僕も分かっている。

でも、出来ない。

もう、出来ないんだ。

しかし、そう決めつけるべきなのか?

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