行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり

2020年01月14日 | 仏の心
誰も死ぬ確率は100パーセント。誰にも平等に訪れるのが死。
死を考えるなど縁起でもないと言いますが、死について考えることにより充実した人生を送れると思うのです。仏法は死んだらそれまでというニヒリズムではありません。死は人生の一大仕事だと思うようになりました。遠藤周作の言葉に「生きざまなどという言葉はない。死に様というのが正しい」というのがありましたが、その通りだと思います。

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きたろうの戯れ言

2020年01月10日 | 仏の心
○本当に賢い人というのは、物知りだとか数学がよくできるということではなく、情報の真偽を見極める能力のある人だと思う。私はまだまだであるが。

○仏教において八正道は大切であるが、要は情報の真偽を見極めて伝えていくことではなかろうか。デマを拡散しないことかな。

○信仰とか信心というものは、こちらが信じるものではなく、向こうの世界から信じさせていただいているものだと実感した。

○私の場合宗教に対する目覚めは、死の恐怖が原点になっている。

○子どもの頃、夏休みが始まると、2学期は永遠に来ないような感覚があったけど、若い頃は死が無縁のように感じられたのは、これに似ている。

○浄土真宗で「檀家」より「門徒」というのは、個人の宗教としての意味があると思います。例えば家の宗教が真言宗だから真言宗だというのではなく、弘法大師の教えがいいから真言宗だというのがいいと思います。(もちろん「家の宗教」はそれで意義があるとは思いますが)

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死は新しい何かの始まりなのか?

2020年01月07日 | 仏の心
私は3回死にかけたことから、死とは終わりではなく、何かの始まりなのだと思うようになりました。これは仏法とかキリスト教とかの内容から見れば荒唐無稽なのかもしれません。
宮沢賢治は『春と修羅 序』の中で

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

と語っていますが、最後の「ひかりはたもち その電灯は失はれ」という部分がよくわかるような気がするのです。
肉体は滅んでも、永遠の命を生きているような気がします。
花びらは散っても花は枯れていない
「死とは何か」これは哲学ではなく、感性の世界のことだと思います。
宮沢賢治は「詩」とは言わずに「心象スケッチ」と言っていますが、まさにそうなのだと思います。
「死は何かの始まり」というのは頭で考えてもわかりません。自然と対話し自分の中の本当の自分と対話してみてわかることなのです。

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烏鷺滝禅話集(138)死について

2020年01月03日 | 仏の心
〇若い頃は自分が死ぬなどというようなことは考えられなんだわ。しかし、年をとってみると常に死は自分のすぐそばにおるもんじゃと実感するようになったわい。

〇ワシはまだ未熟もんじゃけぇ、死は怖くないなどと達観はできんわい。

〇念仏しようが坐禅しようが、死ぬのは怖いものは怖い。まだまだ修行が足りんワシじゃ。

〇死について考えながら、悩みながら生きることは実は生きるための大きなエネルギーになっておるかもしれんのう。(難しい話ですんません)

〇死について悩みながら生きると、今という時の大切さがわかってくるんじゃ。

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