行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

2017年04月28日 | 禅の心
「喝」という禅語ほど、簡単に用いられているものはありません。

「喝」をよく使っていたのは、臨済禅師です。

しかし、臨済禅師よりも前に馬祖道一禅師が使い始めたと言います。

さて、「喝」をよく使っていた臨済禅師ですが、「臨済の四喝(しかつ)」として有名です。

有る時の一喝は金剛王宝剣の如く、有る時の一喝は 踞地 ( こじ ) 金毛 ( きんもう ) の獅子の如く、有る時の一喝は 探竿 ( たんかん ) 影草 ( ようぞう ) の如く、有る時の一喝は一喝の 用 ( ゆう ) を作(な)さず。


簡単に言えば、

1.何でも切れる金剛王宝剣のように、煩悩をスパッと断ち切る。

2.百獣の王ライオンのように、あたりすべての者が畏れおののく。

3.漁師が竿で草の下の魚を探るように、修行僧の力量を見極める。

4.喝の役割を示さない喝。・・・・・実は、これが一番重要なのです。

喝と言えば、若い人たちがカッコいい言葉としてむやみやたらと使うのですが、修行のできている者が使ってこそ意味のある言葉なのです。

喝は天の声であり、宇宙に響き渡る声です。

喝の役割を示さない喝とは、自分自身が宇宙と一続きであることを実感できる喝なのです。

喝の役割を示さない喝は、無心です。無欲です。何ものにもとらわれない清浄な心が発する喝なのです。

赤ちゃんがこの世に生を受けて発する第一声の「おぎゃー」という声が、「喝」と聞こえればそれでいいのです。

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曹源一滴水

2017年04月25日 | 仏の心
夏に限らず高山歩きに水は、大変貴重なものになります。飲み水はタダではなく、洗面の水すら無駄にすることは許されません。
資本主義社会はものをどんどん作って売ることを善しとしています。そしてまだ使えるものばかりか全く使っていないものまでも棄ててしまいます。
曹源一滴水の曹源は達磨から数えて六代目の祖師である慧能を源とする禅の流れです。この流れがいろんな流れに分かれていきました。つまり慧能の禅が正しく伝わったものが曹源一滴水なのです。しかし、曹源一滴水は冒頭のように一滴の水も神仏の賜物なので、大切に使おうということなのです。命に目覚めれば、一滴の水も粗末にはできません。

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みてござる

2017年04月21日 | 仏の心
童謡に
《村のはずれのお地蔵さんは いつもニコニコみて~ござる なかよしこよしのじゃんけんぽん ホイ 石蹴り縄跳びかくれんぼ 元気に遊べとみてござる ソレ見てござる》
というのがあります。あと二番には案山子が、三番にはカラスがみてござると続きます。
宗教とは一言で言えば「みてござる」だと思うのです。
人が見ていなければ、バレなければと、悪いことをしてしまうのが私どもであると思います。近年は合理的に物事を捉える傾向が強くなる中で「人がいないところでは誰も見ていないよ」と考えるのが当たり前になっています。しかし、人はいなくても、
神様が見ている
閻魔様が見ている
阿弥陀様が見ている
釈尊が見ている
街道のお地蔵様が見ている。
亡くなったお祖父さん、お祖母さんが見ている。
このような日本人の心に受け継がれてきた考え方は大切だったと思います。
「陰徳を積む者には陽報あり」です。また経典に「私の目は一つ。しかし私をみる目は無数にある」とあります。
そして、どんなに他人をごまかしても自分自身は見ているわけですし、自分の中の真の自分は見ています。

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攻撃しても仕方がない

2017年04月18日 | 仏の心
ワシもついつい権力者に対して攻撃的に出てしまうんじゃが、

あまりいいことではないと

自分でも思うとるんじゃ。

仏教者たるもの、

みんな幸せにならにゃあいけんと思わんと

みんなの幸せを願わんと

金持ちは不幸になったらええなんて

思うちゃあいけん。

権力者はくたばれ

なんて言うちゃあいけん

恵まれている人も

恵まれていない人も

いいやつも

悪いやつも

みんなそのまんまで

幸せにならにゃあいけんのんじゃ。

それが仏教ちゅうもんじゃ。


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仏教の苦と諦め

2017年04月14日 | 仏の心
人生は苦であるとはいうが、

人生は苦しいものじゃから、

我慢しなさいみたいに権力者の

都合のいい言葉に扱われてしまうわな。

仏教でいう「苦」というのは

自分では思うようにならないもの

というような意味でとらえられているんじゃ。

自分で思うようにならないものを思うようにしようとするから

苦しんじゃ

思うようにならないものは思うようにならないと考えるのが、

諦(あきら)めるちゅうこっちゃ。

あきらめる いうても、

消極的な意味ではないんじゃよ。

自分にできることと、できんことを

よう考えることが大事なんじゃ。



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