行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

禅語(38)・・・臨済の一喝

2015年07月31日 | 禅の心
有る時の一喝は金剛王宝剣の如く、有る時の一喝は踞地こじ金毛きんもうの獅子の如く、有る時の一喝は探竿たんかん影草ようぞうの如く、有る時の一喝は一喝の用ゆうを作(な)さず。

禅では、臨済の一喝、徳山の棒と呼ばれているように、静寂を破る激しさがあります。

臨済の喝も徳山の棒も、単なる暴力ではありません。

驕り高ぶった慢心を打ち砕く物です。

禅は他を批判するものではなく、批判の対象はあくまでも自分なのです。

自分の心の中の悪いものを打ち砕くのです。



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禅語(37)・・・南無地獄大菩薩

2015年07月28日 | 禅の心
「南無地獄大菩薩」は白隠禅師の言葉です。

誰も極楽がよくて地獄は嫌だと思うものです。

地獄は死後の世界のものではありません。

人生、多かれ少なかれ地獄を味わうことはあるものです。

生きていること自体が地獄であり、極楽でもあるのです。

地獄からは逃れることはできません。

せめて、自分の心は地獄から抜けて

怒らず、穏やかに生きていきたいものです。

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禅語(36)・・・柳は緑 花は紅 真面目(しんめんもく)

2015年07月24日 | 禅の心
柳は緑、花は紅、真面目は蘇東坡(蘇軾)の詩です。

自然はありのままを表していて、うそをつかないのです。

最近「ありのまま」という言葉がはやっていますが、少しまちがった意味で使われているような気がします。

あるいは「自分探し」や「当たり前のことを当たり前に・・・」というのも禅からきている言葉だと思われますが、世間では違った意味で使われています。

禅で言う「ありのまま」は、見たもの聞いたものを変に曲げて解釈しないでとらえましょうということです。自然はお経を奏でているのです。自然から真実を学ぶ。それが禅の心なのです。

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禅語(35)・・・主人公

2015年07月21日 | 禅の心
瑞巌(ずいがん)和尚、毎日自ら主人公と喚(よ)び、復また自ら応諾(おうだく)す。及ち云く「惺惺着(せいせいじゃく)や、喏(だく)。他時異日、人の瞞(まん)を受くること莫れ、喏喏(だくだく)」

無門関の一節です。瑞巌和尚は、自分で「主人公」と呼んで、自分で「はい」と答えた。「ちゃんと目をさましとるか?」「はい」「世間に騙されんさんな」「はいはい」

山本玄峰老師は「自分が自分を自分する」と言われました。世間に流されることなく、自分をしっかり生きること、真実を他に求めないことが大事なのです。


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禅語(34)・・・灰神楽

2015年07月17日 | 禅の心
千利休が加藤清正を招いて茶会を催しました。

清正が茶室に入るときに、利休は「刀をつけて茶室に入らないで下さい」と注意しました。

清正は「刀は武士の魂なんじゃけ、つけてはいるぞ。文句あるか」

と利休に言いました。

利休はそのまま黙って清正を茶室に入れました。

茶会が始まって、清正が茶三昧でいるところ、突然茶釜がひっくり返って、茶室の中に灰神楽がたちこめました。

清正は驚いて、外に出ようとしましたが、利休はそのまま黙って茶三昧でした。

「清正さんや、武士の魂はどうしたんかね」

清正は利休に一本とられてしまいました。

この話は、史実ではないのかもしれませんが、利休の反骨精神を物語る逸話だと思います。

しかし私は、利休は清正と一緒にあわてふためいてもおもしろかったと思っています。

失敗は誰にでもあります。

失敗したらあわてて、失礼をわびるのが自然な姿です。

自然にできること。それが禅の心であり、茶の心なのです。




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