雅工房 作品集

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運命紀行  内親王宣下

2013-05-08 08:00:54 | 運命紀行
          運命紀行

              内親王宣下


義子が内親王の宣下を受けたのは、二十四歳の時であった。
これにより、これまでの不安定な立場は解消され、名実共に皇族の一員として義子内親王となったのである。

義子が誕生したのは、文暦元年(1234)のことである。父は仲恭天皇であるが、この頃は半帝あるいは九条廃帝などと呼ばれていた。母は法印性慶の娘で右京大夫局だと伝えられている。

父の仲恭天皇は、不運という言葉さえ適切な表現ではないと思われるような生涯を送っている。
承久の乱が起こった承久三年(1221)四月に、父順徳天皇から践祚を受けた。満年齢でいえば二歳半の頃のことである。そして、祖父後鳥羽上皇や父順徳天皇が主導した承久の乱は鎌倉幕府軍に大敗を喫し、七月には廃位とされているのである。
満二歳の幼児に、践祚や廃位がどのような意味を持っているのか分かるはずもないが、歴代天皇の中で最も在位期間の短い天皇となったのである。しかも、父順徳は上皇を名乗っているから、仲恭は歴とした天皇であるはずだが、当時の人たちには十分認知されていなかったようで、廃位後は半帝などと呼ばれることになったのである。
正式に天皇として認められ、仲恭天皇と追号されたのは明治三年(1870)のことなのである。

また、祖父や父が戦った相手である鎌倉幕府の将軍は、第四代頼経で仲恭とは従兄弟の関係になることから、廃帝はないと考える人も多かったようであるが、幕府の実権はすでに北条氏に移っており、名前だけの将軍との関係は考慮されることはなく、首謀者の直系の子供に天皇位を続けさせるつもりは幕府にはなかったようである。

父を佐渡に流され、自身は廃位となった幼児仲恭は、母の実家である叔父の九条道家に引き取られることになった。もっとも、承久の乱が勃発した時点で、幼帝は母とともに九条家に難を避けていたらしい。
父は罪人として佐渡へ流されたが、母は、翌年には女院となっているので、相応の生活を保つのに困ることはなかったと考えられる。さらに、実家の九条家は、母の弟道家が家督を継いでいたが、一子を第四代鎌倉将軍として送り出しており、幕府との関係は悪くなく、宮廷第一の勢力を保っていた。

九条家で育てられた仲恭はやがて妻を迎えている。その経緯は詳しく伝えられていないが、右京大夫局という藤原氏の女性らしい。法印性慶の娘としか伝えられていないが、藤原氏ということであれば、九条家あるいは母親との関係から仕えていた上臈女房だったのかもしれない。
そして、文暦元年に長女義子が誕生するが、仲恭はほどなく病気で崩御する。妻についてもその後の消息の少なさから、それほどの年月を空けずに亡くなったものと思われる。
つまり義子は、不運な廃帝の子として誕生したが、さらに不運なことに、誕生間もなくして両親ともに失ったらしいのである。

両親を失った幼子を後見したのは、おそらく祖母であったと考えられる。祖母は東一条院という院号を得ている身分であり、相応の収入や仕える人たちの数も並の公卿に負けないものであったと考えられる。さらに、九条家は朝廷内でますます力を高めており、両親との縁は薄くとも不自由のない生活が保たれていたものと思われる。
そしてもう一人、義子には力強い味方である義母が登場してくるのである。

その人は、ひろ子内親王であった。後鳥羽天皇の皇女で、順徳天皇の斎宮に卜定され、伊勢神宮に入っていたが、十七歳の頃、順徳天皇の譲位により退下、京都に戻っていた。
准三后(ジュサンゴウ・三后[太皇太后・皇太后・皇后]並の待遇が与えられた)の宣下を受けていて、藤原定家や神祇伯家との交流が伝えられており、中央貴族との交流があったらしい。深草斎宮と呼ばれ定家の日記「明月記」にも再三登場しているが、二十九歳の頃の記事が最後で、その後の消息は不明である。
深草斎宮が二十九歳の頃といえば、義子が誕生した文暦元年(1234)の頃と一致するのである。
もしかすると、深草斎宮は、華やかな社交界を離れて、兄順徳天皇の孫である義子の養育に専念したのかもしれないと思うのである。
「十六夜日記」に、義子と思われる人物が登場している。残念ながら私にはこの部分の意味がよく理解できないが、「この女院(義子)は、斎宮の御子にしたてまつり・・」というくだりがある。義子のことを指しているとすれば、世間には深草斎宮の子供と認知されていたことになる。

元天皇の姫として生まれながら、経済的には恵まれていたかもしれないが、承久の乱の首謀者である父と祖父に繋がっているため、天皇家とは距離を保たざるを得なかったと考えられる義子に、この深草斎宮は力強く手を差し伸べてくれたのである。


     * * *

誕生間もなく両親と別れた義子は、おそらく祖母である東一条院の庇護を受けていたと考えられる。おそらく東一条院の屋敷と思われるが、祖母の実家である九条道家の広大な屋敷の一部であったかもしれない。
東一条院は義子誕生時は四十三歳くらいで、すでに出家していた。ただ、出家といっても寺院に入ったわけではなく、孫娘の近くで世話をしたと想像できるが、やがて、深草斎宮に養育を委ねたようである。
その経緯などは分からないが、何といっても義子は内親王になるべき姫なので、皇室血縁の深草斎宮は後見者として最適であったことは確かといえる。
深草斎宮も、宮廷を中心とした社交界から一歩退いて、義子の養育に打ち込んだようである。

まだ幼い義子は祖母や義母の愛情に包まれて何不自由のない生活を送っていたが、しかし、皇室を取り巻く状況は激しく変動していた。
六歳の頃、後鳥羽上皇が隠岐島で没した。承久の乱の中心人物であり、義子が現在の生活を余儀なくされた原因を作った曽祖父は、都への帰還を熱望しながら果たすことは出来なかった。
九歳の頃には、祖父である順徳上皇も佐渡島で没した。

この同じ年、後嵯峨天皇が誕生した。後嵯峨天皇は土佐に流された土御門上皇の第二皇子である。土御門と順徳は性格も違い承久の乱でも違う立場にあったが、共に流罪地で亡くなっていることから義子に対して同情的であった可能性はある。
深草斎宮は、義子に正式な皇族の一員ともいえる内親王宣下を受けさせるために奔走していたものと考えられる。皇室や公卿たちには自らの血縁や知己を頼り、鎌倉幕府には折衝力のある久我道家を通して働きかけていたものと想像される。

そして、その努力が実り、二十四歳の時に内親王宣下がなされ、義子内親王が誕生する。
さらに二十八歳の頃には、准三后の位が授けられ、同時に女院宣下を受けたのである。ここに、和徳門院が誕生したのである。
内親王宣下は後深草天皇の時であり、女院宣下は亀山天皇の時であるが、両天皇とも後嵯峨法皇の皇子であり、まだ院政が行われ法皇が朝廷の実権を握っていた。
義子内親王、あるいは和徳門院誕生には後嵯峨の意向が強く働いていたと考えられる。

これにより、義子内親王、つまり女院和徳門院は皇室や貴族社会にしっかりと基盤を持つことが出来たのである。女院の地位はそれほど強いものなのである。
「女院」とは、男性の「院」に対応する身分であって、実際はそれほどでもなかったかもしれないが、同等の処遇が与えられたのである。
例えば、一定の収入が保障され、別当以下の官人が与えられ専門の役所を構えることが出来たのである。さらには、臣下に位階を与えることが出来、官職を斡旋することも出来たとされる。まさか中納言や大納言を誕生させることはなかったのだろうが、殿上人に相応する五位などは与えていたようである。

女院の第一号は、正歴二年(991)一条天皇の生母である藤原詮子(藤原道長の姉)・東三条院であり、最後は、嘉永三年(1850)孝明天皇の生母正親町雅子・新待賢門院だそうである。
このおよそ八百五十年の間に百七人が宣下を受けている。単純に計算するのも何だが、八年に一人という難関なのである。
但し、承久の乱の頃から後は、女院の権限や待遇は大幅に削減されたらしい。しかしそれは、時代は武家中心の時代と移っていっており、女院に限らず公家社会全体がそうであったともいえる。

この後義子は、五十六歳で崩御するまで、和徳門院として三十年近くを生きたのである。まことに残念ながら、その間の消息は極めて少なく、微力な私などでは何も見つけることが出来なかった。
ただ、義子内親王が和徳門院となった頃から、天皇制の危機ともいえる時代へと動いているのである。
同母兄弟である後深草・亀山両天皇は対立することが多く、それぞれの子孫を皇位に就ける持明院統と大覚寺等による両統が皇位をたらい回しにすることとなったのは、この二人の天皇が端緒といえる。
そして、やがて南北朝へと繋がって行くのである。

和徳門院が揺れ動く皇室の中でどのような働きをしたのか知るよすがもないが、後醍醐天皇が登場し、南北朝という悲惨な姿を見ないで世を去っていることに、何かほっとしたものを感じるのである。

                                         ( 完 )




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