雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

過ぎし日のこと ・ 心の花園 ( 43 )

2013-05-23 08:00:57 | 心の花園
          心の花園 ( 43 )

            過ぎし日のこと

懐かしい人から電話をもらう。
特別に親しかった人ではないが、ある時期仲好くつきあっていたメンバーの一人だ。ある人の近況を報せてくれたのだが、たちまちのうちに当時のことが思い浮かんでくる。

ああ、会いたいなあ、と強く思う。
電話で話していた時にはそれほどでもなかったのだが、少し時間が過ぎ、日常の煩雑さから解放されてみると、あの頃のことが懐かしく蘇えってくる。
元に戻ることなど出来ないことは分かっているが、何か大変なものを失ってしまっているのではないかと胸に迫る。
あの頃からの長い時間、自分なりに努力してきたようにも思うが、失ったものを埋め合わせることなど、とても出来ていないような気がする・・・


さあ、心の花園を覗いて、元気を出して下さい。
もう、ぼつぼつ終りの季節ですが、「パンジー」がまだまだ元気に咲いていますよ。

「パンジー」はサンシキスミレとも呼ばれていますが、スミレの仲間です。
「パンジー」と呼ばれる花は園芸品種で、北欧において十九世紀初頭から野生のサンシキスミレをベースに改良が進められ、十九世紀半ば頃には一般大衆にも広く親しまれるようになり、品種も四百種を超えていたそうです。
改良は現在も広く進められていて、現在の品種は数千種といわれるほどです。

いわゆる「パンジー」より少し小型の花をつけるものをビオラと呼んでいますが、実は、両者の間には厳密な区分けはないようです。
「パンジー」の花言葉は「もの思い」です。
「パンジー」という名前そのものも、フランス語の「パンセ」(もの思い)からきているそうです。
確かに、大ぶりの花を持つ「パンジー」には、じっとこちらを見つめていたり、何か一人「もの思い」にふけっているような雰囲気を持っています。

過ぎた日の思い出に心が揺らぐ時は、ぜひ「パンジー」と語りあってみてくださいな。きっと、心が落ち着きますよ。
ただし、その姿をあまり人前らさらすのは避けた方が良いようですが・・・。



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運命紀行  流れゆくままに

2013-05-20 08:00:53 | 運命紀行
          運命紀行

          流れゆくままに        


飛鳥から平城京に都が置かれた時代の王権をめぐる争いは極めて激しく、その争いの陰には多くの人々の犠牲が積み上げられている。
それは、王族に生まれた人も同様で、あるいは、むしろそれがゆえの悲劇も数多く見られる。

飛鳥時代と呼ばれるのは、第三十二代崇峻天皇五年(592)から和銅三年(710)までの飛鳥に都が置かれていた百十八年間を指す。
また、その後に続く奈良時代は、一般的には第四十三代元明天皇が和同三年に平城京に遷都してから第五十代桓武天皇によって京都に平安京が開かれる延暦十三年(794)までの八十四年間を指す。
厳密に言えば、途中一時的に都が移された期間があるし、特に桓武天皇が延暦三年(784)に長岡京に都を移した以降は奈良時代とするのは不自然とする意見もあるようだ。
なお、奈良時代という呼び方は、平城京のことを奈良の都と呼んだことに基づいている。

いずれにしても、飛鳥および平城京に王権勢力の中心があったおよそ二百年間は、王族や新旧豪族の激突の激しい時代であった。
もっとも、例えば継体天皇が登場したような大幅な王権の変動など、古い時代にも激しい戦いはあったと考えられるが、ある程度正当性の高い記録が残されている量が飛鳥の頃から増えてきているので、私たちに伝えられる戦乱や悲劇の数々に迫真性が高く感じられるためと思われる。
権力をめぐる戦いは、その権力の大小にかかわらず、激しい戦いとその裏にある悲劇は避けることのできないものであるようだ。
今回のヒロインである不破内親王も、まさに、王族に生まれたがゆえに、激しい権力闘争の波に翻弄され続ける生涯を送った女性であった。

不破内親王は第四十五代聖武天皇の皇女として誕生した。母は、県犬養広刀自である。
不破内親王の正確な生没年は不詳である。姉である井上内親王の生年が西暦717年、弟である安積王の生年が西暦728年という記録などを信用するとすれば、その間、つまり神亀元年(724)前後ということにはなる。
異母姉妹に阿倍内親王(後の孝謙天皇、重祚後は称徳天皇)がいるが、彼女の母親は藤原氏の光明皇后であり、着々と朝廷の実権を手中に収めようとしていた光明皇后勢力にとっては、県犬養広刀自の子供たちは男女に問わず目障りな存在であったことは間違いあるまい。

これも時期が分からないが、不破内親王は塩焼王と結婚している。その後二人の間には数人の子供が生まれている。
塩焼王は天武天皇の孫にあたる血統であるが、天智系が皇位を繋いでいるこの頃は天武系の王は皇位とは縁のない存在であった。
本来ならば、不破内親王は皇位争いなどから遠く離れた場所で、数人の子供に囲まれて穏やかな生涯を送っていたはずなのである。
しかし、そのような平安は不破内親王には用意されていなかった。いや、それは不破内親王ばかりでなく、県犬養広刀自の井上内親王・不破内親王・安積王の三人の子供には過酷すぎる生涯が用意されていたのである。

塩焼王についても、その生年が不詳であるが、天平四年(732)に初めて従四位下が授けられているので、不破内親王とそれほど大きな年齢差はなかったように思われる。二人が結ばれた経緯などは全く分からないが、天武系の皇位争いには縁遠い王と、光明皇后からは遠ざけたいはずの内親王は、格好の夫婦だったのかも知れなかった。
そうだとすれば、皇位争いなどとは縁がなくとも、穏やかな生涯を送れるはずの不破内親王の人生を苦難へと導いた第一の原因は、基王の死去であった。
朝廷内での影響力を高めていた光明皇后の悩みの種は皇子を儲けることが出来なかったことであった。
しかし、ついに神亀四年(727)に待望の皇子が誕生した。基王(名前については他説もある)である。
基王は、生後三十二日目には皇太子になったとも伝えられているが、翌年には満一歳の誕生日を前にして他界してしまったのである。

聖武天皇の落胆は大きく、光明皇后の落胆はさらに大きかった。その上翌年には、不破親王の弟にあたる安積王が誕生しているので、光明皇后の落胆は危機感へと膨れ上がっていった。
その後も光明皇后に皇子の誕生はなく、安積王が成長するにつけ光明皇后とその威光を受けて権力を高めていた藤原仲麻呂らは危機感を募らせていった。そして、その対策として実行されたのが、阿倍内親王を聖武天皇の後継者とすることであった。
天平勝宝元年(749)聖武天皇は譲位し独身女性天皇である第四十六代孝謙天皇が誕生する。そして、皇太子には天武系の道祖王(フナドオウ)を就けたのである。本当なら聖武天皇の皇子である安積王が天皇なり皇太子なりに就くべきと考えられるが、安積王は天平十六年(744)に十七歳で急死していたのである。
脚気による病死ともいわれているが、仲麻呂らによる毒殺説も根強い。

この道祖王というのは塩焼王の弟である。天武系であり、何かと問題の多い塩焼王の弟であることから、皇位からは遥かに遠い存在で世間から忘れられたような人物が皇太子として登場してきたのである。
そして、同時に、塩焼王の存在も、皇位継承をめぐる政争の中で大きな意味を持ち始めるのである。
その大きな渦は、不破内親王にも当然のように襲いかかってくるのである。


     * * *

不破内親王の夫である塩焼王という人は、なかなか激しい人物であったらしい。
いくら皇位争いから遠のいているとはいえ、天武天皇の孫であり、妻は聖武天皇の内親王であるから、自ら、あるいは子供を皇位に就けるのに何の支障もない地位にあることは確かであった。本人の意思もさることながら、然るべき野心を抱く人物にとっては担ぎ上げたい存在であったことは間違いない。
それにしても、多くの争乱に関わっているのである。

天平十四年(742)に逮捕され、官位を剥奪され伊豆国に流されている。
罪状ははっきりしないが、皇位に関わる政争に巻き込まれたものらしい。後に塩焼王にも立太子という話が持ち上がったことがあり、孝謙天皇が強く反対したがその理由として「聖武太上天皇に対して無礼を働いたため」とされているが、この事件の時の事であったらしい。
この時も塩焼王の年齢は当然不詳であるが、例えば二十五歳前後だと仮定すれば、すでに不破内親王と結婚していたと考えられる。不破内親王は一度内親王の身分を剥奪されたらしいが、もしかするとこの時連座したものかもしれない。
この時の流罪は天平十七年に赦免を受け、翌年にはもとの正四位下に復している。

その後も、弟の道祖王が皇太子の座を追われるという事件があり、さらに仲麻呂と対立していた橘奈良麻呂が討たれる事件が起こるが、この事件にも関わりがあったようだ。
これらの事件では、特別罪を受けていないようであるが、政権側にとっては危険人物ともいえる存在だったようである。
しかし、天平宝字二年(758)に氷上真人の氏姓を与えられて皇族を離れた頃から仲麻呂と親しい関係となり、従三位、そして参議と昇進し、天平宝字六年には中納言に昇っている。
もしかすると、不破内親王にとって、この頃が一番平安な日々だったのかもしれない。

やがて仲麻呂は、最大の後見者であった光明皇后の死去や道鏡の出現により孝謙天皇と対立するようになり、ついに謀反を起こし滅亡する。塩焼王は仲麻呂と行動を共にし琵琶湖畔で斬殺されている。天平宝字八年(764)のことである。
未亡人となった不破内親王は、何歳ぐらいになっていたのだろう。おそらく四十歳前後であったと考えられる。
この事件でも不破内親王は連座となり、親王としての身分を削られている。

それから五年後、今度は不破内親王自身が呪詛の罪で逮捕されてしまう。
不破内親王の長男の志計志麿を皇位に就けるために称徳天皇(孝謙が重祚)を呪い殺そうとしたというのである。当時、呪詛は大罪であった。大変恐れられていたし効果があるものと信じられていたのである。
不破内親王は名前を厨真人厨女という名前に変えられ、都から追放されたのである。長男の志計志麿は土佐に流されている。
厨真人厨女というのは、料理を作っている女とでもいった意味らしく、変な画策などせずに料理でも作っていろ、とでもいうことだったのだろう。追放されている間どこにいたかは不詳である。
どうやらこの事件は冤罪だったようであるが、翌年称徳女帝が没すると赦免となり早々に都に戻り内親王に復帰している。

称徳の後に即位した光仁天皇の皇后は不破内親王の姉の井上皇后であったことも、早期赦免の一助になっていた可能性がある。
ところが、その二年後には、井上皇后と皇太子が投獄され獄死するという事件が起きている。
そして、それかに七年ほど経った延暦元年(782)に、息子の因幡守氷上川並の謀反が露見して逃亡、大和国で捕らえられるという事件が発生した。桓武天皇即位に絡む不満からのようであるが、川並は伊豆国三島への流罪となった。
不破内親王も、謀反人の母として淡路島への流罪となっている。おそらく六十歳に近い年であったと思われる。
その十年後には、獄死した井上皇后の祟りを恐れた桓武天皇の命で和泉国に移されている。そして、それが最後の消息である。赦免されたという記録はなく、おそらくその地で没したものと思われる。

息子の川波は、さらに十三年後の延暦二十四年(805)に赦免となり、翌年には従五位下に復帰している。その後、典薬頭や伊豆守に就任している。
長男の志計志麿の消息は、土佐に流されたまま消えてしまっている。母の不破内親王はすぐ赦免されているのに志計志麿の赦免は伝えられていない。当地で没したのかもしれないし、赦免の記録が伝えられていないのかもしれない。
ただ、志計志麿と川並とを同一人物とする説が根強くある。実際に二人が同時に登場してくる場面がないのである。個人的には同一人物という説を取りたい。

六十歳近くになって淡路島に流された不破内親王。そして、その後の十数年、あるいはそれ以上の期間は流罪人としての生活を強いられている。
ただ、淡路に流される時には娘たちも一緒だったと伝えられている。
いくら内親王という身であったとしても、流罪人としての生活は決して楽なものではなかったかもしれないが、娘たちと共に生活を送っていたとすれば、権謀が渦巻く都での親王家としての生活よりも、娘と過ごす流罪地の生活の方がずっと充実していたかもしれない。
きっと、生涯で最も平安な晩年であった、と思いたいのである。

                                     ( 完 )

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運命紀行  淡路の廃帝

2013-05-14 08:00:59 | 運命紀行
          運命紀行

               淡路の廃帝

わが国の歴代天皇には全て諡号があり、従って廃帝は存在しない。
しかし、例えば中国では、歴代のそれぞれの王朝において数多くの廃帝が記録に残されている。中国四千年の歴史などと言うが、わが国の天皇の歴史も二千数百年にも及ぶ。その間に廃帝とされた天皇はいなかったのかといえば、実は二人の天皇が廃帝とされていたのである。
一人は、今回の主役である淡路廃帝と呼ばれた第四十七代淳仁天皇であり、今一人は、九条廃帝と呼ばれた第八十五代仲恭天皇である。
この二人の天皇は、明治天皇により追号されるまでは、廃帝とされていたのである。
なお、廃帝の読みであるが、奈良時代に在位していた淡路廃帝の場合は呉音で「ハイタイ」、鎌倉時代に在位していた九条廃帝の場合は漢音で「ハイテイ」と読む。

仲恭天皇の場合は、満年齢でいえば二歳での即位であり、在位期間も七十日程であり、しかも祖父の後醍醐上皇と父の順徳上皇が承久の乱で鎌倉幕府に敗れ、その首謀者としてそれぞれ流罪になっていることなどを考えれば、ある程度納得できるような気がする。
しかし、淳仁天皇の場合は、在位期間が六年あり廃位とされた時の年齢は三十一歳である。当時の三十一歳は壮年期であり、実質的な政治権力を牛耳る存在はあるとしても、最高権力者の地位である天皇を廃位することなどなぜ出来たのか。天皇位をめぐる争いが激しかった奈良時代とはいえ、相当強力な権力者がいたことになる。

その権力者とは第四十六代孝謙天皇という未婚の女帝である。
この女帝は、淳仁天皇に譲位した後、六年後には再び皇位を奪い取り、第四十八代称徳天皇として重祚しているのである。つまり、淳仁に譲位した後も上皇の地位にあり、淳仁の後は自ら復活するのであるから天皇追放も可能だったと思われるが、それにしても廃帝とするほどの理由なり憎しみなりがあったのだろうか。

一度退位した天皇が再び即位することを重祚(チョウソ)というが、わが国の天皇は今上天皇が百二十五代であるが、この間に重祚しているのは僅か二人に過ぎない。
第三十五代皇極天皇・第三十七代斉明天皇と、孝謙天皇・称徳天皇の二人である。共に女帝であることも共通した理由があるような気もする。
なお、後醍醐天皇の時代、後醍醐天皇が隠岐に流されていた間に光厳天皇が即位しその後後醍醐が復活しているので北朝をベースにすれば重祚とされることもあるようだが、南朝をベースにすれば光厳天皇の即位を認めず継続して後醍醐の在位としている。いずれにしても南北朝という混乱期であり、いわゆる重祚とは少々性格を異にする。

皇極天皇は夫である舒明天皇の崩御を受けて即位したが、この時二人の皇子である中大兄皇子は十六歳になっていた。皇位に就くには若すぎるということから繋ぎの天皇として皇位に就いたと考えられる。
そして、退位の原因は、中大兄皇子や中臣鎌足らが実力者蘇我入鹿を討ち果たすという政変の収束のためと考えられる。この乙巳の変(イツシノヘン・大化の改新とも)という事件が発生した時には、中大兄皇子は二十歳であるが、なお即位はためらったようである。まだ若いというよりも、事件の首謀者であり、反対勢力の矢面に立つのを避けたかららしい。

そして、次善の策として、皇極の同母弟である孝徳天皇が即位する。
皇極や中大兄にすれば、世間が落ち着くまで皇位を預けたつもりだったと考えられるが、この天皇は様々な改革に熱心であったらしい。都も難波に移すなど中大兄らの思惑を超えた働きをしてしまったようである。
孝徳天皇は九年余の在位の後崩御するが、晩年は中大兄らの嫌がらせにあい、都を倭に戻せという進言を受けなかったため、公卿や官人たちの殆どを難波から引き揚げさせてしまったのである。中大兄のやり方もあくどいが、宮廷勢力はすでに天皇を見限っていたのであろう。

そして、孝徳天皇が失意のうちに崩御すると、皇極上皇が重祚して斉明天皇として再登板するのである。
この時は、中大兄皇子も二十九歳になっており、年齢に不足はないはずであるが即位していない。おそらく、先帝への強引な仕打ちなどに対する風当たりが強く、即位したくても即位できない状態のため、再び母親を重祚という苦肉の策によって風よけとしたと考えられる。
結局、中大兄皇子(後の天智天皇)を皇位に就けるための道具にされた孝徳天皇は哀れといえる。

孝謙天皇は聖武天皇の姫皇子であるが、母親は光明皇后(光明子)である。光明皇后は藤原氏が朝廷の実権を握って行く過程で重要な役割を担った女性であるが、この頃は甥にあたる藤原仲麻呂を後見していた。仲麻呂は、独身天皇孝謙とも極めて親しく、政権の実権を握ろうと模索していた。
孝謙天皇の皇太子には、聖武天皇の遺言により道祖王(フナドオウ・天武天皇の孫)が就いていたが、仲麻呂は、やはり天武の孫にあたる大炊王に立太子させようと画策する。
大炊王は仲麻呂の死んだ長男の未亡人を娶り、仲麻呂の屋敷に住んでいるなど極めて親しい関係にあった。

折から、橘奈良麻呂の乱が勃発し、仲麻呂が鎮圧すると、その計画の中に道祖王が天皇候補となっていることを理由に皇太子を捕縛、獄死に追い込んだのである。
仲麻呂の強い推挙により皇太子となった大炊王は、翌年譲位を受け淳仁天皇が誕生するのである。
わが子同然の天皇が誕生し、孝謙上皇、光明皇后という後見もあり、仲麻呂が朝廷を牛耳ることが出来る体制が整っていった。

淳仁天皇を仲麻呂による傀儡と評する見方もあるようだが、即位の時点で淳仁天皇に仲麻呂に対する不満はなく、実権の所在はいずれにあるとしても、天皇としての政務に大きな支障がない体制が誕生したと考えていたと思うのである。
しかし、先の孝徳天皇と同様に、重祚の女帝に挟まれることになる淳仁天皇には厳しい運命が待ち構えていたのである。
そして、その原因になったのは、傑物ともいえる禅師の登場であった。


     * * *

大炊王(オオイオウ・後の淳仁天皇)は、天平五年(733)に誕生した。
父は天武天皇の六男舎人親王であり、その七男としての誕生である。母は上総守当麻老の娘山背である。
時の天皇は聖武天皇であるが、天智天皇の末裔であり、王族とはいえ天武天皇の孫という血縁的にはかなり遠くなっていた。さらに、父が三歳の頃に没したため官位を与えられることもなく、忘れ去られたような存在であった。
それは、道祖王(フナドオウ)にも、同じようなことがいえる。

しかし、この天武系の王族に転機が訪れるのである。
それは、聖武天皇の皇太子となった基王が夭折してしまったのである。後継者に窮した聖武天皇は娘である安倍内親王に譲位し、崩御の前には道祖王を皇太子とすることを遺言したのである。
聖武天皇没後の朝廷の実力者は光明皇后であった。新しく即位した孝謙天皇は娘であり、実家藤原氏の有望株仲麻呂とともに政権を運営して行っていた。ただ、彼らにとって、皇太子となった道祖王は歓迎されない人物であったらしい。

仲麻呂を中心とした勢力は道祖王を失脚させると、かねてから仲麻呂が手中の玉としていた大炊王を皇太子とし、やがて淳仁天皇が誕生するのである。
淳仁天皇にすれば、皇太子やまして帝位に就くなど望外のことであったし、仲麻呂は後見者ともいえる存在であったので、光明皇后、孝謙上皇、仲麻呂、そして淳仁天皇を中核とする政権運営に不満はなく、安定政権が築かれるはずであった。

しかし、光明皇后が崩御すると微妙な変化が起こり始めた。
実際に政治運営を取り仕切っているのは仲麻呂であったが、それは光明皇后の絶大な後見があったからであった。その後ろ楯を失った仲麻呂に対して専横との声が聞こえ始め、さらに、病気を得た孝謙上皇に看病禅師が付いたことから政権は揺らぎ始めたのである。

看病禅師道鏡は、瞬く間に孝謙上皇の信頼を得ると政治向きにまで口を挟むようになっていった。
孝謙と道鏡の関係に良からぬ噂も立つようになり、何よりも自らの影響力低下を恐れた仲麻呂は淳仁天皇を通じて諫言すると、かえって事態は悪化してしまった。
「今後は、国政に関して、天皇は常の祀りと小事の裁決を、国家の大事と賞罰は、上皇が行う」という宣命を発してしまったのである。

ここに、上皇・道鏡勢力と天皇・仲麻呂勢力は決裂し、仲麻呂は挙兵したのである。しかし、軍事面での鍵を握る藤原一族は上皇方に味方したため仲麻呂軍は敗退し、琵琶湖で斬殺されてしまったのである。
この時淳仁天皇は都に居り反乱軍には加わっておらず、天皇であれば多少の兵力は有していたはずであるが、全く戦っていないようなである。天皇と仲麻呂は必ずしも一体ではなかったのかもしれない。
しかし、反乱の罪は厳しく追及された。上皇軍に連行された上、「仲麻呂と共に上皇排除を企てた罪により、親王に戻し淡路公とする」との上皇の詔が告げられ、そのまま馬で配流の旅に追い立てられてしまったのである。
院政というものが行われるのはずっと後のことであるが、この当時でも上皇の権力は天皇を上回っていたのである。

淡路島に送られた淳仁は淡路公として一院に幽閉されたようである。
親王としての身分は残されていたが、実質的には囚人並の幽閉生活であった。その場所ははっきりとしてはいないが、有力な豪族なり地方官が監視にあたったと考えられる。
一方、孝謙上皇は、重祚して称徳天皇となる。
先の皇極の重祚は、中大兄皇子に対する悪評の静まる時間を待つためのものだったと考えられるが、孝謙の場合は、道鏡を皇位に就けるための画策を図るためであったと思われるのである。
このあたりのことについては、多くの研究者の意見があり小説の題材にもなっている。真実がどれなのかは分からないが、現在私などが入手できる資料によれば、どうもそのように見えてくるのである。
どちらにしても、重祚というものの陰には、あまり明るいものは見えてこないのである。

幽閉の身となった淳仁のもとへは、都から訪ねてくる人が後を絶たなかった。
淳仁や仲麻呂に同情的な人たちもいたし、道鏡の台頭とともに政治を刷新させたい勢力も台頭していたようである。
新天皇方もその情報は掴んでおり、監視体制を強めていっていた。
廃位にされた次の年、天平神護元年(765)十月、淳仁は脱出を図る。
監視体制が身に危険が及ぶほど厳しいものになったためなのか、新政権の横暴を抑えるために決起を図ったものなのか、その理由は分からないが、淳仁自らの意思での脱出であった。
しかし、計画は失敗に終わり、淡路守の軍勢に捕らえられ、翌日には亡くなっている。「自ら命を失ひうせ給にき」といった記録があるが、自殺に追い込まれたものと思われる。
享年三十三歳。痛ましい最期である。

やがて称徳天皇も目的を果たせないままに没し、次に立った光仁天皇の二年目、ある事件を淡路に流された廃帝の祟りと受け止め、淡路に広大な陵墓を築かせたという。
そしてまた、淡路の廃帝と言われていた悲運の天皇は、明治三年(1870)に明治天皇によって淳仁天皇と諡号されたのである。
淡路島に無念の涙と共に散った淳仁天皇の御陵などの遺跡は、千三百年を過ぎた今も、南あわじ市を中心に幾つも残され、語り継がれているという。

                                      ( 完 )




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運命紀行  内親王宣下

2013-05-08 08:00:54 | 運命紀行
          運命紀行

              内親王宣下


義子が内親王の宣下を受けたのは、二十四歳の時であった。
これにより、これまでの不安定な立場は解消され、名実共に皇族の一員として義子内親王となったのである。

義子が誕生したのは、文暦元年(1234)のことである。父は仲恭天皇であるが、この頃は半帝あるいは九条廃帝などと呼ばれていた。母は法印性慶の娘で右京大夫局だと伝えられている。

父の仲恭天皇は、不運という言葉さえ適切な表現ではないと思われるような生涯を送っている。
承久の乱が起こった承久三年(1221)四月に、父順徳天皇から践祚を受けた。満年齢でいえば二歳半の頃のことである。そして、祖父後鳥羽上皇や父順徳天皇が主導した承久の乱は鎌倉幕府軍に大敗を喫し、七月には廃位とされているのである。
満二歳の幼児に、践祚や廃位がどのような意味を持っているのか分かるはずもないが、歴代天皇の中で最も在位期間の短い天皇となったのである。しかも、父順徳は上皇を名乗っているから、仲恭は歴とした天皇であるはずだが、当時の人たちには十分認知されていなかったようで、廃位後は半帝などと呼ばれることになったのである。
正式に天皇として認められ、仲恭天皇と追号されたのは明治三年(1870)のことなのである。

また、祖父や父が戦った相手である鎌倉幕府の将軍は、第四代頼経で仲恭とは従兄弟の関係になることから、廃帝はないと考える人も多かったようであるが、幕府の実権はすでに北条氏に移っており、名前だけの将軍との関係は考慮されることはなく、首謀者の直系の子供に天皇位を続けさせるつもりは幕府にはなかったようである。

父を佐渡に流され、自身は廃位となった幼児仲恭は、母の実家である叔父の九条道家に引き取られることになった。もっとも、承久の乱が勃発した時点で、幼帝は母とともに九条家に難を避けていたらしい。
父は罪人として佐渡へ流されたが、母は、翌年には女院となっているので、相応の生活を保つのに困ることはなかったと考えられる。さらに、実家の九条家は、母の弟道家が家督を継いでいたが、一子を第四代鎌倉将軍として送り出しており、幕府との関係は悪くなく、宮廷第一の勢力を保っていた。

九条家で育てられた仲恭はやがて妻を迎えている。その経緯は詳しく伝えられていないが、右京大夫局という藤原氏の女性らしい。法印性慶の娘としか伝えられていないが、藤原氏ということであれば、九条家あるいは母親との関係から仕えていた上臈女房だったのかもしれない。
そして、文暦元年に長女義子が誕生するが、仲恭はほどなく病気で崩御する。妻についてもその後の消息の少なさから、それほどの年月を空けずに亡くなったものと思われる。
つまり義子は、不運な廃帝の子として誕生したが、さらに不運なことに、誕生間もなくして両親ともに失ったらしいのである。

両親を失った幼子を後見したのは、おそらく祖母であったと考えられる。祖母は東一条院という院号を得ている身分であり、相応の収入や仕える人たちの数も並の公卿に負けないものであったと考えられる。さらに、九条家は朝廷内でますます力を高めており、両親との縁は薄くとも不自由のない生活が保たれていたものと思われる。
そしてもう一人、義子には力強い味方である義母が登場してくるのである。

その人は、ひろ子内親王であった。後鳥羽天皇の皇女で、順徳天皇の斎宮に卜定され、伊勢神宮に入っていたが、十七歳の頃、順徳天皇の譲位により退下、京都に戻っていた。
准三后(ジュサンゴウ・三后[太皇太后・皇太后・皇后]並の待遇が与えられた)の宣下を受けていて、藤原定家や神祇伯家との交流が伝えられており、中央貴族との交流があったらしい。深草斎宮と呼ばれ定家の日記「明月記」にも再三登場しているが、二十九歳の頃の記事が最後で、その後の消息は不明である。
深草斎宮が二十九歳の頃といえば、義子が誕生した文暦元年(1234)の頃と一致するのである。
もしかすると、深草斎宮は、華やかな社交界を離れて、兄順徳天皇の孫である義子の養育に専念したのかもしれないと思うのである。
「十六夜日記」に、義子と思われる人物が登場している。残念ながら私にはこの部分の意味がよく理解できないが、「この女院(義子)は、斎宮の御子にしたてまつり・・」というくだりがある。義子のことを指しているとすれば、世間には深草斎宮の子供と認知されていたことになる。

元天皇の姫として生まれながら、経済的には恵まれていたかもしれないが、承久の乱の首謀者である父と祖父に繋がっているため、天皇家とは距離を保たざるを得なかったと考えられる義子に、この深草斎宮は力強く手を差し伸べてくれたのである。


     * * *

誕生間もなく両親と別れた義子は、おそらく祖母である東一条院の庇護を受けていたと考えられる。おそらく東一条院の屋敷と思われるが、祖母の実家である九条道家の広大な屋敷の一部であったかもしれない。
東一条院は義子誕生時は四十三歳くらいで、すでに出家していた。ただ、出家といっても寺院に入ったわけではなく、孫娘の近くで世話をしたと想像できるが、やがて、深草斎宮に養育を委ねたようである。
その経緯などは分からないが、何といっても義子は内親王になるべき姫なので、皇室血縁の深草斎宮は後見者として最適であったことは確かといえる。
深草斎宮も、宮廷を中心とした社交界から一歩退いて、義子の養育に打ち込んだようである。

まだ幼い義子は祖母や義母の愛情に包まれて何不自由のない生活を送っていたが、しかし、皇室を取り巻く状況は激しく変動していた。
六歳の頃、後鳥羽上皇が隠岐島で没した。承久の乱の中心人物であり、義子が現在の生活を余儀なくされた原因を作った曽祖父は、都への帰還を熱望しながら果たすことは出来なかった。
九歳の頃には、祖父である順徳上皇も佐渡島で没した。

この同じ年、後嵯峨天皇が誕生した。後嵯峨天皇は土佐に流された土御門上皇の第二皇子である。土御門と順徳は性格も違い承久の乱でも違う立場にあったが、共に流罪地で亡くなっていることから義子に対して同情的であった可能性はある。
深草斎宮は、義子に正式な皇族の一員ともいえる内親王宣下を受けさせるために奔走していたものと考えられる。皇室や公卿たちには自らの血縁や知己を頼り、鎌倉幕府には折衝力のある久我道家を通して働きかけていたものと想像される。

そして、その努力が実り、二十四歳の時に内親王宣下がなされ、義子内親王が誕生する。
さらに二十八歳の頃には、准三后の位が授けられ、同時に女院宣下を受けたのである。ここに、和徳門院が誕生したのである。
内親王宣下は後深草天皇の時であり、女院宣下は亀山天皇の時であるが、両天皇とも後嵯峨法皇の皇子であり、まだ院政が行われ法皇が朝廷の実権を握っていた。
義子内親王、あるいは和徳門院誕生には後嵯峨の意向が強く働いていたと考えられる。

これにより、義子内親王、つまり女院和徳門院は皇室や貴族社会にしっかりと基盤を持つことが出来たのである。女院の地位はそれほど強いものなのである。
「女院」とは、男性の「院」に対応する身分であって、実際はそれほどでもなかったかもしれないが、同等の処遇が与えられたのである。
例えば、一定の収入が保障され、別当以下の官人が与えられ専門の役所を構えることが出来たのである。さらには、臣下に位階を与えることが出来、官職を斡旋することも出来たとされる。まさか中納言や大納言を誕生させることはなかったのだろうが、殿上人に相応する五位などは与えていたようである。

女院の第一号は、正歴二年(991)一条天皇の生母である藤原詮子(藤原道長の姉)・東三条院であり、最後は、嘉永三年(1850)孝明天皇の生母正親町雅子・新待賢門院だそうである。
このおよそ八百五十年の間に百七人が宣下を受けている。単純に計算するのも何だが、八年に一人という難関なのである。
但し、承久の乱の頃から後は、女院の権限や待遇は大幅に削減されたらしい。しかしそれは、時代は武家中心の時代と移っていっており、女院に限らず公家社会全体がそうであったともいえる。

この後義子は、五十六歳で崩御するまで、和徳門院として三十年近くを生きたのである。まことに残念ながら、その間の消息は極めて少なく、微力な私などでは何も見つけることが出来なかった。
ただ、義子内親王が和徳門院となった頃から、天皇制の危機ともいえる時代へと動いているのである。
同母兄弟である後深草・亀山両天皇は対立することが多く、それぞれの子孫を皇位に就ける持明院統と大覚寺等による両統が皇位をたらい回しにすることとなったのは、この二人の天皇が端緒といえる。
そして、やがて南北朝へと繋がって行くのである。

和徳門院が揺れ動く皇室の中でどのような働きをしたのか知るよすがもないが、後醍醐天皇が登場し、南北朝という悲惨な姿を見ないで世を去っていることに、何かほっとしたものを感じるのである。

                                         ( 完 )




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颯爽たる姿 ・ 心の花園 ( 42 )

2013-05-05 08:00:45 | 心の花園
          心の花園 ( 42 )

              颯爽たる姿


気がつくと、下を向いて歩いていることが時々あります。
特別落ち込んでいるわけではないのですが、ふと気がつくと、肩を落として歩いているのです。そして、そんな自分が、何かに取り残されているように思われ、惨めな気持に襲われてしまう・・・


そんな時には、ぜひ、心の花園を覗いてください。
そう、「テッポウユリ」などどうでしょうか。
漢字書きでは「鉄砲百合」となりますが、危険な雰囲気など全くなく、すっと伸びた姿は堂々としていて、自信にあふれています。

「テッポウユリ」はわが国が原産地で、九州南部から南西諸島がその故郷です。
その気品ある姿は古くから大切にされていて、仏花としてもよく使われますが、江戸時代にはヨーロッパに紹介されたちまちその美しさが珍重されるようになりました。
白いユリは、キリスト教では聖母マリアに捧げられる花として「マドンナ・リリー」と呼ばれています。
「テッポウユリ」がヨーロッパに伝わってからは、主としてこのユリが「マドンナ・リリー」として用いられているそうです。

「テッポウユリ」とよく似たものに「タカサゴユリ」という種類があります。「テッポウユリ」よりやや大型で逞しく感じられます。こちらは台湾原産のユリですが、早くにわが国に入り野生化しています。種子を多く付け、風で運ばれ広く分布しており、里山や野原の中ですっきりと茎をのばし、辺りを見回すように威厳のある姿で咲いているのは、「タカサゴユリ」であることが多いようです。
ただ、この両種は交雑したり、特に園芸種では改良がなされ、見分けるのが難しい場合が多いようです。

「テッポウユリ」の花言葉は「純潔」そして「威厳」です。他のユリ類も、「上品」とか「無垢」などといった、気品を感じさせるものが多いようです。
走り続けるような日々の中で、ふと自身を失いそうになった時には、心の花園の「テッポウユリ」の凛々しい姿を思い浮かべて下さい。大丈夫ですよ、雑草の中にあっても、「テッポウユリ」だって自分の姿を素直に表現しているのですから。
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運命紀行  重荷を捨てて

2013-05-02 08:00:40 | 運命紀行
          運命紀行

              重荷を捨てて


承久三年(1221)五月十四日、後鳥羽上皇は「流鏑馬(ヤブサメ)そろい」を名目に、諸国の武士千七百人を集めた。そして、その場で討幕の意志を鮮明にして、鎌倉幕府執権北条義時を討てと檄を飛ばした。
世にいう承久の乱の勃発であった。

平氏の台頭により天皇政権の力は衰えていたが、源氏による平氏討伐は成功し、安徳天皇共々西国の海に撃滅することに成功したが、代わって武士の棟梁となった源頼朝は鎌倉に幕府を開き東国を中心に勢力を強めていった。
ただ、鎌倉幕府は東国武士が中心で、土地支配や警察権を掌握していたのも関東を中心とした東国で、京都周辺や西国については朝廷の支配力はまだ健在であった。つまり、鎌倉時代初期は、幕府と朝廷による微妙な二頭政治が行われていたのである。

しかし、その微妙なバランスは、武士階層が次第に力を増していき、朝廷、つまり公家階層の勢力基盤である各地の荘園が武士たちに侵食され、年貢の取り立てが思うに任せられないようになり、その不満が増大していっていた。
安徳天皇が平氏一族とともに京都を離れた後、先帝がまだ天皇位にある中で祭り上げられるようにして僅か四歳で践祚を受けた後鳥羽上皇もこの時四十二歳、治天の君として朝廷に君臨していた。
幼帝の頃は、源平を相手に権謀術数を持って朝廷に君臨していた後白河法皇が後見していたが、後鳥羽が十三歳の頃に法皇が没すると、名実共に天皇家の頂点に立った。

この後鳥羽上皇という人物は、実に多才な人であったらしい。
文化面では特に歌人として優れ多くの和歌を現代に残しているし、何よりも新古今和歌集の勅撰者であることは大きな功績といえる。その一方で、武略面でも積極的な行動を示し、御所警護の侍たちを増員し、飛躍的に戦力を高めようと計っていたようである。
そうした実績をもとに、流鏑馬と称して集めた武士たちに討伐を宣言したのは、単なる思いつきではなかった。鎌倉幕府では、源実朝の死去により頼朝の直系は途絶し、北条氏による執権政治が行われていたが、その基盤は必ずしも一枚岩ではなく、三浦氏などの有力御家人たちとの軋轢も都にまで伝わってきていた。

後鳥羽上皇の檄に対して、ほとんどの武士たちは上皇方につくことを誓った。自信を得た上皇は、反対勢力である武士や公家たちを捕縛し、あるいは討ち取った。
この後、全国の豪族や寺社勢力などに宣旨を発すれば、畿内や西国はもちろんのこと、東国でも幕府に不満を持つ勢力が雪崩を打って鎌倉に襲い掛かるはずであった。
その宣旨は、翌五月十五日に発せられた。

ところが、鎌倉に心を寄せる勢力も黙視していたわけではなかった。
宣旨が発せられたことを伝える密使は、十九日の昼頃には、鎌倉に到着していたのである。
その当時、京都と鎌倉の間の旅程は半月余りかかっていた。早馬での伝令でも七日を要していたが、この密使は三日半ばかりで到着しているのである。馬を替えながら、夜も昼も休むことなく駆け抜けたものと考えられる。
上皇方の密使も宣旨を伝えるため急行しているが、鎌倉に到着したのは十九日の夕方になり、しかも鎌倉方に捕らえられている。密使はその他にも何人も送られているものと考えられるが、実はこの半日の差が戦況に大きな影響を与えたのである。

事態の重大さを知った幕府は、直ちに御家人たちを招集した。そして、その場に登場した北条政子は一世一代の演説をぶったのである。
その内容については、本稿『心を一つにせよ』に書いているので割愛させていただくが、頼朝の恩を忘れるなと訴え、心を一つにしてこの難事を打ち破れと熱弁をふるったのである。しかも、事変の張本人が後鳥羽上皇であることを承知していながら、打倒すべき相手は天皇家ではなく藤原秀康・三浦胤康ら上皇の側近らを挙げる配慮もしているのである。
御家人の中には、感動のあまり武者ぶるいする者、涙を流す者さえあったという。

直ちに京都遠征軍の準備が進められ、三日後には、東海道を中心に中山道、北陸道に分かれて大軍が進発し、六月十四日には総勢二十万の大軍となって京都に侵入したのである。
進軍途中で上皇方の抵抗もあり、幕府側が無傷ということではなかったが、全体としては一方的な戦いとなり、瞬く間に乱は終結し、生き残った後鳥羽上皇方はことごとく捕縛されてしまった。

乱後の幕府方の処置は、峻烈を極めた。
後鳥羽上皇は隠岐島に流罪、順徳上皇は佐渡島へ流罪、土御門上皇は土佐へ流罪。
貴族で上皇方についた六人は、実朝の妻の兄だけが流罪で、後は死罪。
同じく上皇方として戦った武士の殆どが死罪。
そして、上皇方から没収された荘園などは畿内や西国を中心に膨大な量となり、それらは幕府方の御家人などに恩賞として与えられ、あるいは新たな御家人が誕生したりしている。
これにより、武家勢力による全国支配は一気に進み、皮肉なことではあるが、朝廷勢力の巻き返しを図った後鳥羽上皇の試みは、武家政治を定着させ、時代を一歩進める働きを果たしたのである。

乱後の処理の中で、幼帝仲恭天皇も廃帝とされた。この時四歳の仲恭天皇は在位期間僅か七十日間で廃されることとなったが、父や祖父の思惑に翻弄されただけで何の罪もないはずだが、廃帝という厳しい処断が下された。結局、母の実家である摂政・九条道家に引き取られたが、十七歳で崩御している。
そして、もう一人、土御門上皇の罪も、何とも不可解なものであった。乱には全く関わっておらず、幕府からも罪はなくそのまま京都に住むよう伝えられたが、自ら望んで流罪となったというのである。その心境を、ぜひ知りたいものである。


     * * *

土御門天皇は、建久六年十二月、後鳥羽天皇の第一皇子として誕生した。
そして、建久九年(1198)一月に践祚を受け三月に第八十三代天皇に即位した。数え年では四歳ということになるが、満年齢でいえば二年と四カ月での即位である。
これは、当時盛んに行われていた院政を行うためで、上皇となった後鳥羽院が治天の君となったのである。
なお、治天の君という言葉は、天皇家の家督者として政務の実権を握っている上皇や天皇を指す。但し、治天の君という地位は、平安時代後期に院政が行われるようになって登場した言葉なので、天皇を含めない方が適切なのかもしれない。

土御門天皇は、成長するにつれて父後鳥羽上皇とは違う性格を見せ始めたようである。後鳥羽はかなり激しい性格の持ち主であったと推定されるが、土御門は温厚な性格で、争いごとを好まなかった。鎌倉幕府に対する接し方も、全面対決型の後鳥羽に対して、土御門は協調路線を選ぼうとしていたようである。
もっとも、幼児の頃に即位し、退位したのが十六歳であるから、土御門の性格というより取り巻き連中の意向だったのかもしれない。

いずれにしても、そのような考え方の土御門天皇は後鳥羽上皇の意向には添わず、天皇らしい活躍を見せる機会もないままに譲位をせまられ、二歳年下の異母弟である順徳にその位を譲ることになる。
十六歳の、少年上皇とでもいえそうな土御門には、政務の実権など程遠い状況にあった。順徳天皇の院政は引き続き後鳥羽上皇が執っており、土御門は上皇という名前は得ても政務からは遠い存在であった。
やがて、順徳も、四歳のわが子仲恭にその位を譲り三人の上皇が誕生する。
そして、対幕府強硬派の後鳥羽上皇と順徳上皇は武力により政権の挽回を図り、惨敗する。

承久の乱後の厳しい処断により、二人の上皇は流罪となる。多くの公卿や武士たちが死罪に追い込まれる中では当然の結果ともいえるが、この二人の上皇とともに、今一人の上皇土御門も土佐に流罪となっているのである。戦乱とは全く関与していなかったわけであるし、幕府方もそのことを十分承知していたのにである。
残されている記録によれば、父と弟である二人の上皇が流罪となりながら自分だけが無傷で都に残るわけにはゆかない、と言って自ら志願しての流罪だったとされている。

父には疎まれ、弟からは軽視されていた土御門であったが、父への孝心は強く連帯しようとした美談とされているものもある。
しかし、本当にそうだったのだろうか。
孝心など全くなかったと断言するわけにはいかないが、天皇家やその取り巻きの多くが断罪され、あるいは追放されていく中で、一人残される身に天皇家としてのしがらみや、立身を望む人たちの渦中に巻き込まれていく煩わしさが重かったのではないか、と考えてしまうのである。
その重荷を捨て去る最良の方法こそが、自ら流罪の身となることだったのではないだろうか。

土御門上皇の配流先は、土佐の南端ともいえる幡多郡中村であった。従者二人と女房四人を連れての新しい生活であった。
この地において、上皇は井戸を掘り、寺院を創建し、和歌を作る日々を送ったという。
幕府も、他の上皇とは違い土御門に対しては好意的で何かと支援が行われたようである。
その後、少しでも都に近くという配慮からか、阿波国に移されている。
上皇を担いで決起を図る計画もあったようで、引き続き幕府の監視は厳しかったが、上皇は全く関心を示すこともなく風雅の日を送り、幕府もそれに応えて、阿波の御家人に命じて御所を造営させている。
重い荷を捨てた生活は、土御門上皇に心の自由を与えてくれるものであったのだろうか。
都を離れてからおよそ十年後に、阿波の地で崩御した。享年三十七歳であった。
上皇が崩御して十一年後、捨ててきたはずの都では、その子邦仁親王が第八十八代後嵯峨天皇として即位している。

残されている和歌の中にこのようなものがある。
『 行きつまる里を我が世と思へども なほ恋しきは都なりけり 』
重荷として捨ててきたはずの都は、やはり、生涯捨てきることが出来なかったのかもしれない。

                                       ( 完 )
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