雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

勇気をもって ・ 心の花園 ( 31 )

2013-02-28 08:00:49 | 心の花園
          心の花園 ( 31 )

            勇気をもって


どうにもならないことって、あるものですよ。
何もかもが理論通り行き、思惑通りに解決するのであれば良いのですが、なかなかそうは行かないのが現実の世界です。
正義が必ず悪に勝つわけでもありませんし、第一、何が正義で何が悪かも、明瞭でないことも多いのですから。
いくら厳しい冬でも、いつか必ず春はやってきますが、現実の世界は、いくら堪えに堪えても、必ずしも春がやってくるとは限らないのですよ。

時には、勇気をもって、一度全てを投げ出してみたらどうか、考えてみることも大切です。
そう覚悟を決めてしまえば、全てを投げ出す程のことは案外少ないものです。悩みの根源にある部分というものは、意外に小さな場合がほとんどなのですから。

心の花園に「キョウチクトウ」がピンクの花をいっぱいに着けています。
漢字で書くと「夾竹桃」となりますが、なかなか美しい名前でしょう。
この木は、見た目も生命力に溢れていますが、実際に乾燥や公害に強い木なのです。
あの広島において、原爆の後、被爆焼土には何十年も草木が生えないと考えられていましたが、その悪夢のような跡地にいち早く花を咲かせたのは、この「キョウチクトウ」だそうです。

「キョウチクトウ」の花言葉は、「注意」「危険」です。この木の樹液には強い毒性がありますので、そこから生まれた花言葉だと思われますが、あなたの悩みにも、注意が必要であり、危険が潜んでいる可能性があるかもしれませんよ。
ああ、そうそう、この花の花言葉には、「危険な愛」というのもあるそうですから、念のため。
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楚々として ・ 心の花園 ( 30 )

2013-02-22 08:00:05 | 心の花園
         心の花園 ( 30 )

            楚々として

ややもすると、私たちは派手やかなものに目がいってしまいます。
まあ、当然と言えば当然かもしれませんが、長い付き合いをお望みなら、そっと控えているような、楚々とした美しさを大切にすべきだと思うのですよ。

心の花園には、自然のままの山林も残されていますが、そんな林の一画に「シュンラン」が咲いています。
漢字で書けば、「春蘭」となりますが、各地の林に自生する野生ランの一つです。
ランといえば、華やかな洋ランに目が行きがちですが、地味であってもしっとりとした美しさは格別のものです。
まだ風が冷たい早春の頃、林の中でひっそりと咲く姿は昔から愛されていたようで、江戸時代から園芸植物として栽培されている東洋ランの代表的な花といえます。また、「春蘭秋菊倶に廃すべからず」といった言葉もあるようで、地味ではあっても存在感があったのです。
少し注意していますと、園芸店などで鉢植えを見ることもできるはずですよ。

「シュンラン」の花言葉は、「ひかえめな美」です。そのような、楚々とした美しさこそ貴重だと思うのですが。
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運命紀行  母よ兄よ

2013-02-19 08:00:50 | 運命紀行
         運命紀行

            母よ兄よ

徳川家康という程の人物でも、生涯において、絶体絶命と思われるほどの危機に何度か遭遇している。また、悔やんでも悔やんでも消し去ることのできない忸怩たる思いも、やはり何度かは経験しているはずである。
絶体絶命の危機を脱したことは家康の生涯における勲章となるが、忸怩たるものは時とともに薄まることはあるとしても、完全に消し去ることなど出来るまい。

おそらく、家康が自らの生涯を思い返した時、もっとも悔いの残る出来事とは、長男の信康を自刃に追い込んだことであろう。
信康を死なせてしまった理由については、虚実さまざまな説があり、小説などでも描かれている。
武田氏との内通の疑いや、信康の妻徳姫が父の織田信長に讒言したため信長から家康に対して信長切腹の命令があったとか、あるいは、信康を幽閉している間に家臣が逃亡を助けることを期待していたが自刃に至ってしまったという話もある。
反対に、このような事実があったかもしれないが、信康は家康に反抗的で、これ幸いと積極的に自刃に追い込んだという説も有力である。
ただ、これらのどれが真実であったとしても、この事件が、家康の生涯において常に重い澱みとなって彼の心の奥にあり続けたことであろう。

家康が瀬名姫と結ばれたのは、弘治三年(1557)のことである。家康が十六歳、瀬名姫も同じ年ぐらいであった。家康がまだ今川氏の人質として駿府にあった頃のことである。
瀬名姫の父関口親永は、今川氏一門である今川刑部少輔家の当主であり今川家屈指の重臣であった。母は、今川義元の妹であることを考えれば、人質とはいえ義元が家康の将来を買っていたと考えられる。
永禄二年(1559)には長男である信康が生まれ、その翌年には長女の亀姫が誕生した。
このまま推移すれば、家康並びに岡崎にある松平家中(当時は松平元康)を有力家臣団にすることが出来ると、少なくとも義元は考えていたことであろう。

ところが、永禄三年(1660)五月十九日、三河と尾張の国境あたりを平定するため大軍を率いて出陣していた今川氏当主義元は、戦力で遥かに劣るはずの織田信長の奇襲にあい討死してしまったのである。桶狭間の合戦と呼ばれることになる信長の名前を全国の大名に周知させた戦いである。
なお、亀姫の誕生は、この年の六月四日なので、今川当主が討死した後の大混乱の駿府で誕生したことになる。
この出陣には、家康も先方として出陣していたが、今川本営とは行動を別にしていたため奇襲から免れたのである。
大将を失い、統率を失った今川の大軍は、さらに多くの犠牲者を出しながら我先にとばかりに駿府へ逃げ帰って行った。しかし、家康はその動きには同調せず、やがて松平家の居城岡崎城を制圧していた今川勢が駿府に逃げ帰ったのを見定めて、岡崎城に入ったのである。
桶狭間の合戦は、織田信長の名を全国に知らしめた戦いであるが、同時に、家康を今川の呪縛から解き放った戦いでもあったのである。

駿府からは家康に対して帰還命令が再三出されたがこれを無視して、今川勢力によって荒らされた領地の整備にあたり、信長との同盟を結んで今川氏との対立関係を鮮明にしていった。
駿府に残っていた家康の家族は当然人質として押さえられ、娘婿の不忠を義元の跡を継いだ氏真から責められた関口親永は自刃に追い込まれている。

家康の妻子は、その後の人質交換によってようやく駿府を出ることができて岡崎に移っている。ただ、この人質交換で駿府に送られた人物の中に、家康の生母於大の方の次男が入っていたことから、瀬名姫は於大の方や一部の重臣から快く思われなかったらしい。
そのことが原因とも思えないが、岡崎に移った瀬名姫と二人の子供は城内に迎えられず、城外の惣持尼寺で幽閉同然の生活を強いられたのである。瀬名姫は築山御前と呼ばれることになるが、それは築山の生茂った様子から名付けられたという。

永禄十年(1567)、長男の信康は信長の長女徳姫と結婚する。
京都への野望を抱く信長にとって、後背の地である三河の家康と同盟を結ぶことは重要であり、まだ弱小の家康にとっても信長の力を頼りにして東に領土を広げることが出来る願ってもない同盟の証であった。
権謀術数が渦巻く時代の中にあって、この両者の同盟は信長が本能寺で倒れるまで崩れることはなかったのである。
この信康の結婚の後も築山御前(瀬名姫)は城中に迎えられることはなく、晴れて城内に移ることが出来たのは、元亀元年(1570)になってからのことである。

信康と徳姫の間には二人の姫が誕生したが、男子が誕生しておらず、築山御前が側室を強く勧めたことも原因らしいが、徳姫と信康・築山御前の仲は冷えてゆき、ついに悲劇の発生となった。
築山御前の密通とか武田氏との内通などは、どの程度信憑性があるものかは触れないが、家康の正室築山御前に対する扱いもいかにも冷たい感じがする。
徳姫の訴えに端を発した事件は、信長の圧力に抗しきれずか、家康の思惑も働いていたのか、天正七年(1579)八月二十九日、築山御前は幽閉地に送られる途中で殺害され、九月十五日には信康自刃という結末を迎えたのである。

そしてここに、一人取り残された女性が登場してくるのである。
信康の妹亀姫である。この事件により母と兄を失ってしまった亀姫は、信康より一歳年下の二十歳になっていた。すでに人妻となり、子も生していたが、その悲しみはいかばかりであったか。
今川氏の血を色濃く引く亀姫は、それゆえに風当たりの強い幼少期を送り、ようやく一家の妻の座を得ていた中での悲報であった。
日の出の勢いの父家康は亀姫たちに対してあまりにも冷たく、名門の誇りを捨てきれなかった母築山御前の悲劇を背負って、この戦国の世を何をよすがに生き抜いて行くのか、独り思い悩んだのではないだろうか。そしておそらく、非業の最期を遂げた母と兄の誇りのために、凛然として生き抜く決意を固めたのではないだろうか


     * * *

亀姫が三河国の新庄城主奥平信昌(この頃は貞昌)のもとに嫁いだのは、天正四年(1576)のことで十七歳の頃であった。夫は五歳年上の二十二歳である。
奥平氏は、村上源氏の血を引くとされる名門であるが、武田氏が今川氏や織田氏や松平氏と激突を繰り返す要衝の地に本拠地を構えていた。家康や信長もこの地を押さえることを重視していた。

天正四年の長篠の戦いは壮絶な戦いとして知られているが、織田・松平方として籠城戦を戦った奥平勢の奮戦ぶりは高く評価され、その褒賞として亀姫は与えられたのである。なお、この婚姻は信長の意見によるともいわれ、奥平貞昌の活躍を高く評価した信長は、その一字を与えて信昌と改名させている。
奥平氏にとっては、家康の第一の姫であり、今川の血脈を引く姫は、願ってもない嫁であった。もちろん人質としての価値が高いという意味でであるが。

この典型的な政略結婚により結ばれた二人ではあるが、その仲は睦まじいものであったらしい。
二人の間には、男子四人と女子一人が生まれており、決して不幸な結婚生活ではなかった。しかし、結婚して三年ほど経った頃、亀姫は母とたった一人の兄を失うことになったのである。それも、父親の命令によってなのである。いくら戦国の世とはいえ、残酷な仕打ちといえる。
亀姫がその悲劇を知ったのは、次男を誕生する前後のことで、その心境は察するに余りある。

しかし、亀姫は凛然として過酷な試練に立ち向かっていった。夫信昌の支えや次々と誕生した子供たちが亀姫を戦国武将の正室として成長させていったのであろうが、その根本には、今川の血脈を何よりも誇りとしていた母築山御前の心意気を、ただ一人残された自分が担わねばならないと思っていたのかもしれない。

正室や嫡男の犠牲を噛みしめながら、家康は大きく羽ばたいていった。
家康の娘婿にあたる奥平信昌も、その期待に応える活躍を続けていた。家康が関東へ国替えとなった天正十八年(1590)には、信昌も家康に従って関東に移り、上野国甘楽郡に三万石が与えられた。
そしてついに、慶長五年(1600)九月、関ヶ原の戦いを経て家康は天下人へと上って行く。
関ヶ原の戦いに、信昌は直接参戦していたとも秀忠軍に加わっていたともいわれるが、戦後には京都の治安維持のために京都所司代を務めている。
翌年三月には、これらの功績により美濃国加納十万石を新たに与えられ、三男の忠政とともに入府した。妻の亀姫も行動を共にしていて、この後は加納御前とも加納の方とも呼ばれるようになる。
亀姫四十二歳の頃である。

長男の家昌は、この時十五歳であったが、そのまま上野国の領地に残り、十月には北関東の要地である下野国宇都宮十万石が与えられた。親子ともどもに十万石の大名となり、家康の信頼の厚さが窺える。

母と兄が非業の死を遂げた時誕生した次男家治は、十一歳で家康の養子となり松平の姓が与えられている。自らが死に追いやった妻と長男への償いのように見える行動ではある。
関東移封に際しては、早くも上州長根に七千石の領地を与えられているが、僅か十四歳で死去、この家系は断絶している。

三男忠政は父母と共に行動し、慶長七年(1602)に早々と隠居した父から加納藩主の地位を引き継いでいる。忠政はこの時二十三歳、信昌が四十八歳の時である。

四男忠明は、天正十六年(1588)、六歳の頃家康の養子になっている。次男の家治より早くに養子となっており、家康は幼年期から徳川の子として育てる意向だったのかもしれない。
早くから松平の姓を許されていたが、兄の家治が早世したためその家督を継いでおり、僅か十歳で七千石の領主となっている。この七年後には、秀忠から一字が与えられ、忠明と名乗る。この後も秀忠の信頼を得て、徳川政権の重要な人物になって行くのである。
慶長十五年(1610)には伊勢亀山五万石に加増移封となり、大阪の陣の後には摂津大坂十万石の藩主となり、戦後復興にあたっている。その際、有志による運河開削を称賛した忠明は、そこに「道頓堀」の名前を付けたと伝えられている。
その後も、大和郡山十二万石、播磨姫路十八万石と出世を続け、秀忠の死に際しては、彦根藩主井伊直孝とともに次期将軍家光の後見役(大政参与)に指名されているのである。

一人娘も大久保忠常に嫁いでおり、今川の誇りを引き継いだ亀姫の努力は、徳川体制下で着実に花開いて行った。
しかし、何もかもが順風満帆というわけではなかった。
慶長十九年(1614)に、宇都宮藩主である長男家政、加納藩を継いでいた三男忠政を相次いで亡くし、翌年には夫信昌も世を去った。信昌の享年は六十一歳、子供たちは三十代半ばであった。
五十六歳となっていた亀姫は、髪を下して盛徳院を号したが、とても仏門一筋という状態ではなかった。加納藩、宇都宮藩共に孫が相続したがいずれもまだ幼く、亀姫はその後見にあたった。凛然として母や兄が大切にした名門の誇りを失うことなく、さらには徳川の血を受けている誇りもさらに加わっていたのである。

少し出来過ぎた話ではあるが、有名な逸話が残されている。
「宇都宮城釣天井事件」という幕府内の大事件がある。これは、将軍が日光参詣の時には必ず宇都宮城を宿舎としていたが、湯殿に釣天井を仕掛けて将軍秀忠を暗殺しようとしているという密告があったのである。その時の城主は本多正純であった。本多正信・正純父子は長年政権を牛耳ってきた人物であるが、秀忠の将軍継承には賛成でなかったことはよく知られていたらしい。結局この事件により正純は失脚するのである。
そして、この舞台の黒子役を演じたのが亀姫だというのである。

それにはある程度納得性のある背景がある。
宇都宮藩は亀姫の嫡男が藩主を務めており、三十八歳で死去したため僅か七歳の遺児忠昌が継いでいたが、十二歳の時に下総古河藩に転封となった。その理由は宇都宮は要衝の地であり藩主若年のためとなっており、七歳の時ならともかく、十二歳まで成長した後での転封は、陰に陽に後見していた亀姫の怒りにふれたのである。そして。その後に入府したのが本多正純で、彼の画策によるものと考えたのである。
さらには、一人娘の嫁いでいた大久保忠常は早世していたがそのあとを後見してくれていた父の大久保忠隣は幕閣の有力者であったが、不可解な改易により失脚しておりその黒幕が正純であるのは公然の秘密であった。

亀姫はついに堪忍袋の緒が切れてしまい、異母弟である将軍秀忠に日光参詣にあたって、暗殺計画があることを告げたというのである。
おそらくは、秀忠に近い重臣たちの画策かと思われるが、正純が配流となった跡には、再び亀姫の孫の忠昌が宇都宮藩主となっているので、亀姫にも隠然たる力があったことがうかがえる。

亀姫は、寛永二年(1625)加納において六十六歳で世を去った。
家康の苦悩と栄光の生涯のある部分を映し出しているような生涯であった。
孫たちを後見し、特に末息子の忠明は、奥平松平家を屈指の名家に育て上げていった。
亀姫の凛然とした生き方は確かな形で徳川全盛の世の中に花開いたのである。そしてそれは、悲しく散っていった母築山御前と兄松平信康が確かに存在していたことを、徳川の御代に末永く伝え残していく役目を果たしているようにも思うのである。

                                        ( 完 )
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早春の朝に ・ 心の花園 ( 29 )

2013-02-16 08:00:06 | 心の花園
         心の花園 ( 29 )

            早春の朝に


早春の朝、風はまだ冷たく、肌を刺す。
でも、やはり、春は春。寒さの中にも、光の強さが増してきているように感じられる。

そして、早春は、別れの季節。そして、旅立ちのとき・・・

心の花園にも、寒さをものともせず、「クロッカス」が鮮やかな花を咲かせています。
小さな背丈、細い糸のような葉の中から、目一杯に花びらを広げています。白、黄、紫と実に華やかに、あなたの旅立ちを祝っています。

「クロッカス」には神話や伝説などが幾つも伝えられているようです。
ギリシャ神話では、医術に秀でている美青年にクロッカスという名前をつけています。彼は、リーズという娘と恋に落ちます。しかし、二人の恋は、リーズの母親により引き裂かれてしまい、さらに二人とも命を落としてしまいます。
愛と美の女神であるアプロディーテは二人を哀れみ、クロッカスを健気に咲いているこの花に、リーズを青いアサガオに変えたのだと言います。

「クロッカス」には多くの花言葉か付けられていますが、いずれも早春の若者に似合いそうなものばかりです。
そう、あなたには、「青春の喜び」そして「悔いなき青春」という花言葉を贈りましょう。
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運命紀行  制外の家

2013-02-13 08:00:11 | 運命紀行
         運命紀行

            制外の家


徳川家康という人物を、百数十年にも及ぶ戦国時代を収束させた最後の功労者とするのに異論を唱える人は少ないと思う。
そういう人物であるから、当然文武両道に優れ、高邁な理想を描き、将来を見通す能力に優れていたと推測される。さらに、家康個人がいくら優れていても、彼を支える家臣団や味方となる諸豪族あってのことであろうから、それらの人々を惹きつけるだけの人格者であることも必要だったはずである。
おそらく家康という人物は、それら天下人として必要とされるあらゆる資質を備え、あるいは磨き上げていったと考えられる。ただ、その家康という人物を理解するうえで、分かり難い部分もある。
生まれてきたばかりのわが子を忌み嫌ったという話が残されていることもその一つである。

家康には、公認されているだけで十一人の男子がいる。そのうちの二人について、生まれてきた時に嫌悪していることを明言しているのである。
一人は次男の於義丸、あと一人は六男の辰千代である。
この二人について共通していることは、どうやら二人とも双子として誕生してきたらしいことである。当時の風習として、双子を嫌ったらしいことはいろいろな記録に残されている。そうだとすれば、家康がこの二人を嫌ったということも当然のようにも考えられるが、並の人物ならともかく、天下を収めるほどの人物が、それほど嫌うほどこの迷信が強烈なものであったのかと首をひねるのである。
この嫌われた二人の息子は、一人は本編の主人公である後の結城秀康であり、もう一人は後の松平忠輝である。

於義丸は、天正二年(1574)二月、家康の次男として誕生した。母・於万の方は、三河国の神社の社人氷見吉英の娘である。なお、誕生月には異説もあり、幼名も於義伊、義伊丸、義伊松なども伝えられている。
於万の方は、家康正室の築山殿の奥女中であったが、家康が見染めたものである。築山殿は今川氏に繋がる出自もあって、家康は頭が上がらなかったらしい。家康の長男は、この築山殿の生んだ信康である。
於万の方が懐妊したことを知った家康は、築山殿の悋気を恐れ、於万の方を重臣の本多重次のもとに預けた。
結局、於義丸が誕生したのは、浜松城下の有富見村の代官、中村正吉の屋敷であり、その後もこの屋敷で養育されたようである。
これはずっと後年のことであるが、於義丸を初代藩主とする福井藩の歴代藩主は、参勤交代の際にはこの中村家に立ち寄ることを慣例としていたという。

家康に嫌われた於義丸が正式に父子対面したのは三歳の頃で、それも義兄である信康の取り成しにより実現したものらしい。
その信康は、天正七年(1579)武田氏との内通を疑われ自刃に追い込まれている。この内通については、母の築山御前と共にそれらしい動きがあったとされるが、それ以上に家康と同盟関係にあった織田信長からの圧力によるともいわれる。一方で、信康と家康の間に意見対立があったという説も有力になっている。
いずれにしても、この時点で、於義丸は家康後継者の地位に繰り上がるのが当然であるが、どうもそのような処遇は受けていない。なお、嫌われていたようなのである。

天正十二年(1584)、家康と秀吉が唯一戦った小牧・長久手の戦いが起こった。この戦いは、武力衝突の面では徳川軍有利であったが、政治戦略では羽柴側が遥かに勝り、結局うやむやの内に終結しているが、その和解の条件として於義丸は秀吉のもとに養子に出されることになった。実質的な人質である。
この時、於義丸は十一歳になっていたが、家康には他にも男子がいたのである。後の秀忠が六歳、松平忠吉が五歳、武田信吉が二歳の三人である。
武家の棟梁である家康にとって、嫡男の地位にある子供を人質に出すことは極力避けたいはずである。当時の徳川・羽柴の力関係からしても秀吉が家康の嫡男を要求したとは考えにくい。一番下の信吉はともかく、秀忠であれ忠吉であれ人質としての役は十分なはずなのである。家康自身が人質となったのは六歳の頃であることを考えれば、於義丸は、やはりこの時点でも嫌われていたらしい。

同年の十二月、秀吉のもとで元服を果たした於義丸は、羽柴の名字と実父・養父から一字ずつ取った秀康が与えられ、羽柴秀康と名乗ることになる。
天正十五年(1587)の九州征伐で初陣を果たし、その後の豊前岩石城攻めや日向国平定戦でも功績を挙げ、天正十八年の小田原城攻めにも参加している。
秀康は、優れた体躯の持ち主で剛毅な性格で武勇抜群であったと伝えられている。しかし、秀吉の庇護のもとでの戦陣では、その武勇の程度を試される場面もあったかもしれないが、秀吉の養子として大切に扱われての戦功であったとも考えられる。

後のことになるが、三人目の父となる結城晴朝から贈られた「御手杵(オテギネ)」という槍は、天下三名槍の一つとされていて、常人では使いこなせないような大きく重いものであった。従って、秀康が相当武勇に優れていたということは事実らしい。
因みに、この天下三名槍と呼ばれるものは、黒田節で知られる「日本号」と、家康自慢の豪傑本多忠勝愛用の「蜻蛉切(トンボキリ)」との三つである。

養子に出されたとはいえ、天下人秀吉の庇護のもとで堂々たる若武者として育っていた秀康であるが、再び試練の時を迎える。
天正十七年(1589)、秀吉の側室淀の方が男児を出生した。鶴松と名付けられるこの男児の出生は、秀吉にとっては望外の幸運であったが、周辺に及ばす影響は小さなものではなかった。うがった見方ではあるが、この男児の出生、そして、その後の秀頼の誕生こそが、豊臣政権を短命で終わらせた原因のようにさえ思えるのである。
それはともかく、鶴松の誕生は秀康の身の上にも大きな影響を与えたのである。

実子のいない秀吉は、多くの養子を手元で養育していた。実質的には人質としての意味が大きかったが、同時に自分の手足となることを期待している面もあった。さらには、養子の中から自分の後継者、あるいは次期政権を担う人材の養成も考えていたように思われる。甥の秀次などはその有力候補であったはずである。
しかし、実子誕生により、それらの構想は大きく変化していった。むしろ、優秀な養子ほどわが子にとっては将来の禍根となる懸念を抱いたようなのである。
秀吉は、養子たちを積極的に外に出すことを考え、ついには秀次のような悲劇へと発展していくのである。

秀吉の方針により、秀康は北関東の有力大名結城氏に婿入りすることになったのである。
結城氏は下野の守護に任命されたこともある名門豪族であった。そこに目を付けた秀吉は、当主の結城晴朝の姪と秀康を娶せ、結城十一万石の家督を継がせたのである。
この処置は、家康が三河を中心とした旧領から関東一円二百四十万石へ転封されていることに配慮して、その後背地に実子の秀康を婿入りさせたともいわれているが、同時に、秀康が豊臣政権のために働くはずとの自信もあったように思うのである。

ここに、三人目の父を得て、結城秀康が誕生したのである。天正十八年(1590)のことで、秀康は十七歳になっていた。
結城氏の家督を継いだ後、ある期間は結城秀朝と名乗りを替えていたことがある。およそ五年間ほどのことであるが、実父の「康」を新しい養父の「朝」に替えているのであるが、このことを想像するだけでも様々な思惑や配慮が浮かんでくるのである。
また、改めて羽柴の姓も贈られていて、「羽柴結城少将」と呼ばれていた時期もある。

実父に嫌われ、養父も二人目となり、名乗る名字は、徳川・羽柴・結城と変わり、さらには再び羽柴も名乗ることになった秀康は、それでもまだ、その変遷の激しさは道半ばだったのである。


     * * *

やがて秀吉が死に、時代は徳川の時代へと移って行く。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの前哨戦ともいえる会津征伐には秀康も参加している。会津への途上、石田三成が挙兵したことにより、家康は小山で評定を開き、西に引き返すことを決定する。
この時、家康は、本隊は家康自らが率いて東海道を進み、別働隊は秀忠が率いて中山道(東山道)を進むことが決められ、秀康は上杉景勝を押さえるための留守居役を命じられている。
この配置は、秀忠を後継者として意識しているようにも見えるし、後背を守る役割を秀康に託しており、その器量を評価しているようにもみえる。

関ヶ原の戦いで勝利した後、秀康は越前国北庄六十七万石が与えられた。これは五十五万石程の加増であり、論功行賞中最大のものである。
慶長九年(1604)には、松平の姓を名乗ることを許されたらしく、秀康はさらに名乗る名字が新しくなった。
翌年には権の中納言に昇任し、徳川政権下で重きをなす大名になって行った。
慶長十二(1607)、伏見城番を任じられたが、病のため任務途中で帰国、閏四月八日に死去した。
波乱に満ちた生涯であったが、まだ享年三十四歳という若さであった。

秀康は、実父家康に嫌われ、二人の養父に仕えるなど、気の休まることのない生涯であったかに思われるが、なかなか剛毅でスケールの大きな人物であったらしい。それらしい逸話が幾つも残されている。

伏見城で、家康と共に相撲観戦をしていた時のことである。
観客が熱狂のあまり興奮状態となり騒然となった。その時秀忠が観客席から立ち上がり、騒いでいる者どもを睨みつけた。その凄まじいまでの威厳に、観客は一瞬の内に静まり返ったという。
家康も驚き、その威厳ある態度に感心したことを近習に話したという。

石田三成が武断派と呼ばれる福島正則や加藤清正らに襲撃されて家康の屋敷に逃げ込んだことがあった。仲介の労を取った家康は、三成を隠居させることで収束させたが、三成を居城の近江まで送り届ける役を秀康に命じた。血気あふれる豊臣の荒武者たちから守る役を秀康に託したのである。
無事役目を果たし、その接し方に感激した三成は、名刀「五郎正宗」を贈った。この名刀は、「石田正宗」と称せられ、末裔である津山松平家で後世に伝えられた。

秀康一行が鉄砲を持ったまま江戸に向かおうとしていた時、碓氷峠の関所で咎められたことがあった。
秀康は、我が越前松平家は徳川家中で別格扱いであることを知らぬ関守は不届きとして成敗しようとした。役人は驚き、江戸に伺いを立てたが、秀忠は、殺されなかったことを幸いだったと笑って事態は収まったという。

関ヶ原合戦後間もない頃のことと思われるが、家康が重臣たちに後継者について意見を聞いたことがあった。本多忠勝、本多正信・正純親子らは秀康を推し、秀忠を支持したのは大久保忠隣一人だけだったという。

秀忠が家督を継いだ時、秀康は伏見城代を務めていた。
都で人気の出雲の阿国一座を伏見城に招いたことがあった。阿国の歌舞伎を絶賛した後こう漏らしたという。
「天下に幾千万の女あれど、一人の女を天下に呼ばれ候はこの女なり。我は天下一の男となることかなわず、あの女にさえ劣りたること無念なり」と。

最後の逸話は、自分の気持ちを必死に鎮めようとしているように感じられて切ない。
しかし秀康の末裔は、御三家などの序列とは別格の「制外の家」として幕末までその存在感を示し続けている。松平忠直という問題児も出たが、福井藩を本家として、津山藩、松江藩なども越前松平家として隠然たる影響力を保ち続けていた。それは、単なる名門ということだけでなく、福井藩単独としては三十万石前後であったが、一門を合わせれば百万石程度にもなり御三家を遥かに上回る実力を有していたのである。

家康には、公認されているだけで十一人の男子がいたことは先に述べたが、後世まで家を存続させたのは五人だけである。将軍家を継いだ秀忠と御三家を興した義直・頼宣・頼房の三人と、松平秀康の五人である。このうち先の四人はいずれも徳川を名乗っており、松平を名乗った家康の直系は秀康一人なのである。
これは結果論かもしれないが、天運は、秀忠には徳川を、秀康には松平を継がせたのかもしれない、と思ったりするのである。

                                        ( 完 )

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時は流れる ・ 心の花園 ( 28 )

2013-02-10 08:00:27 | 心の花園
          心の花園 ( 28 )

            時は流れる


心配なんて、いつまでたっても無くなるものではありませんよ。
でもね、自分がその年頃のころ、何をしていたかを考えてみますと、まあ、あまり大きなことも言えませんよ。

心の花園の片隅に、ひっそりと植えられている「ゆずりは」でも眺めて下さいな。
結構大きくなる木なのですが、何だか控え目に見える植木なんですよね。

「ゆずりは」というのは、いかにも作られたような名前ですが、ユズリハ科の常緑の高木で、正式の名前なのです。ただ、漢字書きする時には、いろいろな文字が当てられています。「𣜿」「𣜿葉」「譲葉」「交譲木」などがあり、「親子草」という別名もあるようです。古くは「ユズルハ」と呼ばれたそうですが、これもなかなか味のある呼び方です。

この木にも、初夏にはピンクの花が咲き、夏には葡萄に似た実をつけます。それぞれに楽しませてくれると思うのですが、やはりこの木は、名前の由来ともいえる若葉が一番珍重されるようです。
「ゆずりは」は、春、枝先に若葉が出てくると、前年の葉がその場所を譲るかのように散ってゆきます。
その様子が、親が子に譲る姿に見えるのでしょうか、家が代々続いて行く姿に見立てて縁起の良い木とされ、正月飾りや庭木に使われることも多いのです。

「ゆずりは」の花言葉は、「若返り」とか「世代交代」とされていますが、そのまま「譲り葉」としているものもあります。花言葉としては具体性に欠けるかもしれませんが、「譲り葉」というのは何とも良いではありませんか。

まあ、頑張れるだけ頑張ることも大事ですが、私たちは「止まることなく流れ続けている時」の中に生きています。いつまでもこのままで良い、というものなど一つもないのですよ。
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運命紀行  伊達の秘蔵っ子

2013-02-07 08:00:01 | 運命紀行
         運命紀行

            伊達の秘蔵っ子


戦国武将たちを評する場合、伊達政宗を「遅れて生まれてきた英雄」と表現されることがある。
確かに、政宗は文武に優れた武将であったし、何よりもその覇気は天下を狙うに相応しいものであったらしい。少なくとも、関ヶ原の合戦の決着がつく頃までは、天下はともかく、奥州全土を勢力下に置く程度の野望は抱いていたかに見える。

しかし、政宗は、やはり少し遅れて生まれてきたのである。
彼が誕生したのは永禄十年(1567)のことで、戦国の始まりとされる応仁の乱から百年目に当たる年である。戦国の世はようやくその終息の方向が見え始めていた。
因みに、この年の有力武将の年齢を見てみると、武田信玄四十九歳、織田信長三十四歳、豊臣秀吉三十一歳、徳川家康二十六歳、西国の雄毛利元就に至っては七十一歳になっていた。

米沢城主伊達輝宗の第一子として誕生した政宗は、幼い頃は内向的な少年だったともいわれるが、やがてその武勇は頭角を現し、天正十二年(1584)十八歳にして家督を引き継いだが、その後も一族や近隣豪族との戦いに明け暮れていた。
中央から遠く離れた奥羽の地でようやく強力な地盤を築き上げかけた頃には、天下はすでに、秀吉がその手中にしようとしていたのである。

もしかすると、五郎八姫(イロハヒメ)もまた、少し遅れて生まれてきた姫だったのかもしれない。
伊達政宗が田村清顕の娘愛姫(ヨシヒメ/メゴヒメ)を正室に迎えたのは、天正七年(1579)のことである。
政宗が十三歳、愛姫が十二歳のことである。二人の年齢を考えれば、すぐに子供が生まれないのも不思議ではないが、二人の最初の子供である五郎八姫が誕生するのは、結婚後十五年後の文禄三年(1594)なのである。

このあと、二人の間には三人の子供が生まれているし、政宗の最初の子供は側室が生んだ男の子で五郎八姫の誕生より三年前のことである。なお、この庶長子である男の子は後の秀宗で、伊予宇和島十万石の初代藩主となる人物である。
また、政宗は生涯で七人以上の側室を持っているが、儲けた子供の数は全部で伝えられているだけで十六人を数える。
これらを考え合わせてみると、政宗と愛姫の間に十五年も子供が生まれなかったことが、何か運命的なものを感じてしまうのである。

もし、五郎八姫があと十年早く生まれていれば、彼女の生涯はどういうものになっていたのだろうか。
歴史において、あるいは一人の生涯においてでも、「もし」などと言い出せばきりがないのは承知しているが、どうしても考えてしまうのである。
もし十年早く生まれていれば、少なくとも、五郎八姫が松平忠輝と結ばれることはまずなかったと考えられ、徳川の影の部分を生きることはなかったと思われる。

では、どういう人生が考えられるかと言えば、おそらく、秀吉の影響を強く受けた人生になっていた可能性が高いように思われる。実際に、先に述べた三歳年上の義兄である秀宗は秀吉の猶子となっているのである。
五郎八姫が十年早く生まれていれば、秀吉は秀宗より先に五郎八姫を実質的な人質として手元に置こうとすることは十分考えられる。そうなれば、秀吉麾下の有力大名との婚姻が考えられ、政宗の動向と共に違った人生が用意されていたかもしれない。
もちろん、このような想像など、歴史を考える上では全く詮ないことであることは確かである。

歴史の事実は、関ヶ原の戦いの前年、六歳の五郎八姫は家康六男の忠輝と婚約が成立する。徳川家康が覇権を手中にするための大きな布石の一翼を担うことになったのである。
この時忠輝もまだ八歳で、この二人が結婚に至るのは七年後のことであるが、徳川政権が安定してゆく中で、波乱の生涯を強いられることになるのである。


     * * *

五郎八姫は、文禄三年六月、伊達政宗の長女として誕生した。母は正室愛姫である。
政宗にはすでに庶長子の秀宗がいたが、正室との間の子を待ち望んでいて十五年目にして初めての出産に狂喜したといわれている。
当時の風潮として、当然男児出生を望んでいて、生まれてくる子供の名前は「五郎八」と決めていたが、生まれてきたのが女児だったため落胆したが、名前はそのままつけることとし、「姫」だけを付け加えたといわれている。
しかし政宗は、大変美しくそして聡明に育っていった五郎八姫をたいそう可愛がったようである。
「五郎八姫が男であったなら」と、政宗は残念がったという逸話も伝えられている。

その五郎八姫に、大きな転機が訪れてきた。
秀吉亡き後の天下を掌握すべく策動を始めていた家康にとって、伊達家は何としても味方に取り入れる必要のある人物であった。まだ若く、向こう意気の強い政宗は、秀吉との関係で何度か厳しい状況に追い込まれることがあったが、その都度陰に陽に援助の手を差し伸べてきていて、政宗も感謝の気持ちを抱いていた。
その関係を盤石のものにするための切り札となったのが、五郎八姫と家康の六男忠輝の婚約であった。
家康は、秀吉が言い残していた命令を無視して、他にも有力大名との婚姻を進めていったが、他の婚姻は、加藤清正であれ、福島正則であれ、黒田長政であれ、蜂須賀家政であれ、全て自分の娘(養女)を嫁がせるものであった。つまり、相手に人質ともいえる姫を与えているのである。
しかし、伊達政宗の場合は違っていた。婚姻とはいえ五郎八姫を人質として差し出せというものであった。

婚約が調ったのは関ヶ原の戦いの前年である慶長四年一月で、五郎八姫が六歳、忠輝が八歳の時であるが、実際に輿入れするのはずっと後のことなので、関ヶ原の合戦前に五郎八姫が徳川屋敷に移ることはなかったらしい。つまり、人質としての役にはなっておらず、この婚約による同盟強化は、政宗と家康の男と男の約束であったらしい。

五郎八姫が誕生したのは、京都の聚楽第伊達屋敷である。その後も、伏見、大坂と住いを移しているが、これは豊臣政権下での必要からだと考えられる。従って、五郎八姫は伊達家の姫ではあるが、京都生まれの大坂育ちといった環境で幼少期を過ごしており、武家の姫というよりもっと雅やかに育っていた可能性もある。
そして、伊達家の大坂屋敷や伏見屋敷で育てられていた間は、先に述べたような徳川の人質などというよりは、むしろ豊臣の人質という立場であったかもしれない。しかし、考えようでは、そのような環境なればこそ五郎八姫と忠輝の婚約は、伊達家と徳川家の紐帯に意味を持っていたともいえる。

五郎八姫が伏見から江戸に移ったのは、慶長八年(1603)のことで、この年は家康が征夷大将軍に就いた年であり、徳川政権の動きに合わせたものである。
そして慶長十一年(1606)十二月にかねて婚約中の二人は結婚した。五郎八姫十三歳、忠輝十五歳という年齢は、当時としては適齢期といえるが、この結婚はあくまでも政略的な必要からのものであり、年齢の考慮などないはずである。そう考えれば、婚約から結婚まで八年近くも間が空いているのは少々不自然に感じられる。
その理由としては、関ヶ原の戦いを挟み、豊臣から徳川へと政権が移っていく激しい期間であり婚姻が延び延びにになってしまったことが考えられる。あるいは、徳川軍の大勝利により、結婚を急ぐ必要性が薄まり、両人の適齢期まで待ったとも考えられる。どちらも納得できる理由である。

もう一つ、推測できる理由もある。
忠輝が家康に嫌われていたらしいことは多くの記録が残されているので、その程度はともかく事実であろう。しかし、それにもかかわらず忠輝はなかなか覇気のある人物であったらしい。
政宗もまた、覇気もあり野心も抱いている人物だったはずである。
五郎八姫と忠輝の婚姻は、伊達家を麾下に置くための家康の策略であったが、一方で政宗は忠輝によって徳川政権に影響力を持とうと策謀をめぐらせたとしても何の不思議もない。
忠輝を家康後継者にすることまで考えたか否かはともかく、後の御三家並、あるいはそれ以上の大藩となれば、伊達家と合わせれば徳川政権下にあって無視できない勢力を得ることになる。
二人の婚約から結婚の間に時間が空いたこと、あるいは、この後の忠輝の処遇を合わせて考えてみた時、このような推論を全く空論というわけにはいくまい。

さまざまな政略を背景とした二人の結婚であったが、その仲は極めて睦まじいものであったという。ただ、残念ながら子供は生まれなかったようである。
冷遇され続けている忠輝であるが、遅れながらも身代を膨らませてゆき、慶長十五年(1610)には越後高田藩主に任じられ、以前からの川中島と合わせ七十五万石の太守となった。
この頃の五郎八姫の動静はあまり伝えられていないが、その自覚はともかく、奥州の雄伊達家と徳川の不満分子的な忠輝とを結びつける重要な位置にいた可能性は高い。もし、そのような見方をする人物が徳川政権内に居たとすれば、伊達六十二万石、伊予伊達十万石らと忠輝七十五万石の団結は、決して面白いものではなかったであろう。

やがて、元和二年(1616)四月に家康が没すると、七月には、兄である二代将軍秀忠によって忠輝は改易の処分を受ける。理由は大坂夏の陣における不行跡とされているが、七十五万石の太守である弟を改易処分とするには、並々ならぬ政治的な判断がなされたはずである。
忠輝は伊勢国朝熊に流罪となり、その後幽閉先を変えながら、延々と流人生活を送るのである。

忠輝のこの処分に伴い、五郎八姫は離縁され実家に戻り、その後は仙台で暮らすことになる。五郎八姫二十三歳の時であった。
離縁についての詳しい記録は残されていないようであるが、どちらからの申し出にせよ、幕府の改易の目的に伊達家と忠輝との分離が含まれているとすれば、とうてい婚姻生活を続けることは出来なかったことになる。

仙台に戻った後は、仙台城本丸の西館に住いが与えられたことから、西館殿とも呼ばれたという。
五郎八姫はこの地で四十五年の年月を生きるのである。
この長い仙台での生活について残されている資料は少ない。
ただ、二代藩主となった六歳年下の同母弟である忠宗は、この姉を随分頼りにして大切に遇したといわれる。
また、母の愛姫がある時期キリシタンであったことからも、五郎八姫も入信していた可能性が高い。伊達藩は、ローマで教皇パウロ五世との謁見を実現させた遣欧使節を送り出しており、キリスト教との繋がりの強い土地柄であった。仙台に戻った五郎八姫が、何らかの形でキリシタンの活動に参加したり援助を行った可能性は否定できない。
その後の徳川政権は、厳しいキリシタン弾圧政策を行っているので、五郎八姫の動静を伝えるものが少ないのは、そのあたりにも影響があるかもしれない。

寛文元年(1661)五月、五郎八姫は六十八歳で亡くなった。墓所は、松島の天麟院である。
この時、忠輝は遥か信濃の国で健在であった。離縁した後の二人は、互いの動静について、たとえ風の便りのようなものでも伝わっていたのであろうか。
そして、もし、五郎八姫がキリシタンの教えを守り続けていたとすれば、離婚を認めない教義に従って、二人は依然夫婦だったのかもしれない。二十三歳で仙台に戻った五郎八姫には、数多くの再婚話が持ち上がったが全て拒絶したという。
遠く離れ、再びまみえる可能性など全くない状況の四十五年間であるが、もしかすると、五郎八姫は幸せな日々であったのかもしれない、と思うのである。

                                         ( 完 )

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小さな小さな物語  第八部

2013-02-06 19:27:23 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
小さな小さな物語  第八部


   
 No.421 ~ 480を収録しています
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小さな小さな物語 目次

2013-02-06 19:20:25 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
     小さな小さな物語  目次( No.421~440 )


      No.421  希望
        422  絶好調
        423  素質と努力
        424  バレーボールチームに感謝
        425  戦い終えて

        
        426  イメージ・トレーニング
        427  季節の変わり目
        428  趣味は何ですか?
        429  「松・竹・梅」
        430  技術立国


        431  違憲状態
        432  原発政策は冷静に
        433  しつけ
        434  責任の在り処
        435  つながり


        436  故人を偲ぶ
        437  行きつ戻りつ
        438  まわれ右
        439  踏み止まる力
        440  足して二で割る
        
     
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希望 ・ 小さな小さな物語 ( 421 )

2013-02-06 19:19:32 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
ロンドンオリンピック、寝不足になりながら楽しんでいます。
一つのメダルの陰に多くの物語が隠されており、感動したり、同情したりの毎日です。
それぞれの競技にはそれぞれの特徴があり、歴史や国民性なども加味されながら、実にたくさんの競技があるものだと感心してしまいます。
例えば、カヌー競技などは、もちろん名前は知っていましたし、これまでにも映像は何度か見ましたが、今回テレビ放送を見ていても、どのあたりが技術的にすばらしいのか今一つ分からず、むしろ、こんな競技施設をつくるのは大変だっただろうなどと感心している始末です。


かつて、クーベルタン男爵は、スポーツを通じて世界の平和に貢献しようと近代オリンピックを提唱したと学びましたが、かの男爵も、今日のような発展までは考えていたでしょうか。
今回は、204の国や地域が参加していて、現に戦闘状況にある地域や、紛争の絶えない地域からも多数の国などが参加しています。経済的に厳しい状況にある国家や、経済面や領土などをめぐって激しく対立している国家も同じ競技場で肩を並べていたりします。
クーベルタン男爵の高邁な理想は、達成には遥かに遠いということは確かですが、この競技会にはまだまだ夢を託すだけの可能性があるように思われます。


競技運営に関していえば、審判判定に関しての不手際や不明瞭さがちらほら見えてしまいました。
メダル獲得のための凄まじいまでの戦いは見るものに感動を与えますが、それが行き過ぎてしまい、無様な姿として表面化してきているものもいくつか指摘されています。ある競技で無気力試合として失格扱いとなったものなどは、少々ではなく、相当程度を超えてしまっているように見えました。
これなどは、おそらく競技している選手の意思ではなく、指導者層の作戦、あるいは背景にある団体や国家の事情が出てしまったのだと思うのですが、実に後味の悪い出来ごとに感じました。


しかし、どうでしょうか。いろいろ醜い面も浮かび上がってきてはいますが、全体としてはオリンピック大会は感動を与えてくれるものだと思うのです。
大会はまだ前半戦が終わろうとしているところですが、これからも、まだまだ素晴らしい競技を展開してくれることでしょう。スポーツだけで世界の平和が実現できるとは思われませんが、希望を感じさせてくれるような気もします。
私たちの社会も、多くの嫌な事件や現象を抱えています。時代が進むことと、私たちが住みよい社会になることとが、一致しているとはとても実感できないのですが、オリンピック出場選手たちの努力や苦難を乗り越える姿を思えば、私たちは、そうそう簡単にこの社会を見捨てるべきではないように思うのです。
進歩の度合いは少なくとも、おもしろくないことの多過ぎる社会だとしても、それなればこそ私たちは、未来への希望を見つけ出すことが絶対に必要だと思うのです。

( 2012.08.04 )
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