【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会副会長 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

火神主宰 俳句大学学長 Haïku Column代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

井上微笑  (夏目漱石)

2014年05月12日 07時29分14秒 | 論文

 井上微笑

初出 「方位」19号 三章文庫 1996・9

     
初めに
井上微笑。本名藤太郎。慶応三年(一八六七)、福岡県甘木市に生まれた。この年は、くしくも夏目漱石・正岡子規、そしてペンネームの由来となる尾崎紅葉が生まれた年でもあり、生まれ年の因縁の深さを思わせて興味深い。福岡中学、英吉利法律学校(現中央大学)に学び、一九歳の時、父母の居住地の関係で人吉市に住む。二六歳、球磨郡湯前町役場の書記となり、七〇歳の生涯を閉じるまでこの地を離れることはなかった。三四歳(明治三三年)、紫溟吟社の第四回兼題「更衣」(夏目漱石選)と第五回兼題「蚤」(松瀬青々選)に入選を果たす。そのときの「此の処女作(『更衣』の句=筆者注)は一句麗麗しく他と列記発表された。次が松瀬青々選の蚤それにも一句出た。私は鬼の首をニツ取つた」(「私の俳号」『かはがらし』昭和五年十二月号)という文章には、活字になつた自分の句を手放しで喜んでいる様子が窺える。これは微笑俳句の出発点が夏目漱石の存在を抜きにしては考えられないことを示している。この入選を契機にますます句作に熱中する。そして、その頃、多良木の郡立病院長須藤郷生や薬局長田代紫浜、医者久木田杉門等と知り合いになったことがその後の微笑にとつて大きな転機となった。彼らが作っていた白扇句会に参加するようになり、後には微笑がこの句会の中心的役割を担うこととなる。
微笑と白扇会
「白扇会廻報」は明治三六年二月、微笑三七歳の時に創刊され、「白扇会回報」・「白扇会会報」・「白扇会報」とその名称をわずかに変えながら、四一年に終刊する。この「白扇会報」は製作費・送料その他がすべて私費によって発行されていることを思えば、それは並大抵のことではない。高田素次氏の集計によると、「白扇会報」の最盛時の会員数は五三七名に及び、北は東北から南は台湾まで、日露戦争中は戦地に送られ、『ホトトギス』にもその名前が載るような状態であった。しかも、この雑誌が熊本は言うに及ばず、日本の近代俳句史上で特筆されるのは、五百数十名に及ぶ会員の中に近代俳句を推進した人々が名前を連ねていることである。
夏目漱石・高浜虚子・河東碧梧桐・内藤鳴雪・坂本四方太・石井露月・寒川鼠骨・野田別天楼等。
このような活動状況を見て、「微笑自身の熱意と辛抱強さ」(「井上微笑と白扇会」『東火』昭和十九年八月号)に目を見張るのは高田素次氏一人だけではない。この〈熱意と辛抱強さ〉の源はどこにあったのだろうか。思えらく、その一つに、後年「私は多年俳句の信者である。(中略)私は恐らく俳句を一生棄てないであらう」(「俳句ニ就テ」大正十四・十一・一○)とまで言い切るほどの俳句への情熱があったことが挙げられる。後に述べるような漱石へ依頼することの臆面もなさもそこから生じているといえよう。また、発刊して最初の年である明治三六年が最も盛んで、二カ月で八冊も刊行し、年度に構わず、十二冊をもつて一巻としていることからもわかるように、自分の熱意の赴くままに出せるときには出しておこうという気持ちがあったからであろう。しかし、それ以上に注目すべきは、紫漠吟社との相対的関係である。当時の紫溟吟社は、「吟社の句は曾て『銀杏』の刊行せられて居た時分は別として、今日では会報とか何とか世上の雑誌にはあまり見へない」(「白扇会報」第二巻第八号・明治三七・六・三〇)という状況であった。紫溟吟社の機関紙『銀杏』が終刊したのが明治三五年五月で、その年も満たない明治三六年二月に「白扇会報」が創刊された事情から考えられるのは、熊本の近代俳句を強力に推進した紫溟吟社の活動が衰退していくのを惜しんだ微笑が、紫溟吟社の仕事を引継ぎ、みずからの手で再び熊本の近代俳句を興隆しようとしたのではなかつたかということである。この紫溟吟社に対する後継者意識は、「熊城の紫溟吟社は本会の父母にして、追々吟社諸賢の御寄稿も可有之」という文章(「白扇会報」編輯係第八号・明治三六・四・三〇)に端的に示されていて、ここではっきりと紫溟吟社を〈父母〉と位置づけ、「白扇会報」を子として認識しているのである。
微笑と中央俳壇
ところで、正岡子規の俳句革新運動が明治三〇年創刊の俳誌『ホトトギス』と新聞『日本』を根城に展開されたことは周知の事実である。子規の病没後、碧梧桐が『日本』を、虚子が『ホトトギス』を受け持つわけだが、四〇年頃から碧梧桐が新傾向の句を発表するようになり、虚子が碧梧桐派の行きすぎを尻目に、大正元年頃から〈守旧派〉の立場を明らかにして俳壇に復帰し活動を展開する。こうした中央俳句界の激しい動きと白扇会の活動とを時期的に重ね合わせてみると、自扇会の活動の時期は碧梧桐と虚子の対立が激化する前の、子規派の幸福な時期であり、蜜月の時期であつたことが浮かび上がってくる。こういう時期であったがゆえに、「白扇会報」が虚子.碧梧桐を初めとして新派俳壇の有力な人物を多数選者・寄稿者に加えることができたのであろう。そういう意味から言っても、この「白扇会報」は当時の研究資料として見過ごすことのできないものがある。
碧梧桐の新傾向運動が一時期、全国の大小を問わず、ほとんどの結社を揺り動かし、虚子の周辺をさらうほどの勢いのなかで、「九州の四天王」のうち微笑ただ一人最後まで新傾向運動とは一線を画し、季語定型を守り続けた。前衛的な、当時でいう新傾向とも言うべき俳句が袋小路に陥っている現在の状況から見て、「今日新傾向も多年の練磨で、一つの俳句の行き方とあつたであらうが、これを以て俳句の標準とするほど重きを為すものではあるまい」(「俳句の標準」『俳句二就テ』前掲)と述べていることは、微笑の俳句に対する素養の確かさと先見性とを示して余りあるものがある。この周囲の状況に振り回されない態度は、もちろん〈私は多年俳句の信者である〉というほどの俳句への執着にも示されていて、本人の脇目も振らぬ、一徹な性情によるものであるけれども、漱石の兼題に対しての入選という予期せぬ幸運によって俳句開眼した喜びが大きかっただけにその喜びとその感謝の気持として季語定型を重んじたとされる漱石、直接的にはその影響のもと紫溟吟社で活躍した渋川玄耳の作句法を長く持ち続けたということができる。
微笑と夏目漱石
井上微笑宛の夏目漱石書簡は、現在七通存在している。この書簡はいずれも「白扇会報」の投稿・選評等の依頼に対しての返事である。時期的には書簡の日付でいうと、明治三六年五月一〇日付の第一書簡から明治三八年一月五日付の最終書簡の間である。漱石の側からこの時期を見ると、第一書簡の明治三六年五月といえば、英国留学からの帰国直後で、四月には一高の英語嘱託、東京帝大文科大学講師に就いて一カ月後である。また、最終書簡の明治三八年一月は、『ホトトギス』一月号に「我が輩は猫である」を発表し、一躍文名があがり、作家的デピューを果たした年である。この往復書簡の期間は俳人漱石から小説家漱石に移る最も重要な時期であったといわなければならない。
微笑にしてみれば、第一書簡の時期一つ取ってみても、漱石の帰国の機を伺って、一早く選句の依頼をしたということになろう。しかし、漱石はその第一書簡で「拝啓、貴俳並に白扇会報御送被下難有奉謝候、小生は目下大多忙にて、近来俳句とは全く絶縁の有様に候へば、評選等の儀は到底御依頼に応じがたく候。いづれ近日、虚子、碧梧桐両君の内にでも依頼致し見るべくと存候。先は右御返事迄、勿々頓首」と書き、〈大多忙〉と俳句との〈絶縁〉状態を理由に依頼を断り、自分の代わりとして高浜虚子と河東碧梧桐を紹介している。これは当然と言っては当然なことで、確かに漱石にとっては帰国直後の慌ただしい時であり、この申し出にいささか閉口したにちがいない。そういう事情を推し量ることなく、大胆な依頼をしたのには、同年二月から出し始めた「白扇会報」に少しでも彩りを添えたいという気持ちがまさったためであろう。この時期が先に触れたように「白扇会報」の活動の最盛時だったのも故なしとしない。
にもかかわらず、微笑が時を置くことなく漱石に再度依頼していることがわかるのは、第一書簡の一〇日後五月二〇日付の第二書簡である。漱石はむろんこの依頼も断り、虚子に代わりを頼んでいる。その後、微笑のたびたびの依頼に対して、漱石自身断り切れなくて、依頼に応じていることが第四・七の書簡によって知ることができる。これらの漱石書簡で浮かび上がってくるのは、微笑の「白扇会報」発行に対する熱意であり、相手の再三の断りにも意に介さないほどの情熱である。そして、漱石の「自扇会報」に対する労りであり、一地方雑誌といえどもおろそかにしない親切心である。特に、第三書簡では「拝啓、白扇会報第九号わざわざ御送付被下難有存候、右会報は活版ならぬ処大に雅味あるやに虚子とも申合候、内容も面白く拝見仕候、近頃地方俳句会の吟什見るべきもの多く、却つて本場の東京を凌ぐ佳句もゝ見受候様に存候、ほととぎす杯にても地方俳句会の句の中には大にふるうて居るのがあると先日四方太と話し申候」と書いているように、「白扇会報」を最大の賛辞とも受け取れる言葉で誉めそやしている。微笑にとって、これはお墨付きを貰ったようなもので、「白扇会報」の運営に自信を強く持つたにちがいない。
このような漱石の助力や激励に対して、微笑自身「在東京の漱石先生へは、先般御願致候処、即ち本号に於て御寄送を得たり。そもそも我が肥後新俳壇が先生に負ふ所のもの頗る多し。然るに今日我が会報が玉什を頂戴するの栄は最も欣然の至りに御座候」(「白扇会報」編輯便・第一巻第一○号・明治三六・六)と述べて、漱石への深い恩義を表明している。微笑と漱石の間には直接の面識はなかつたものの、師弟関係と言ったようなものが存在していたといえよう。微笑の熱意に漱石が振り回された格好であるが、しかし、特に帰国後の落ち着きのない生活の中で俳句を作る余裕などない漱石にとって、「白扇会報」ヘの投句の要請がなかったならば、ことさら句を作ってみようという気がしなかったであろう。その「白扇会報」への投句である十三句の、明治三六年作の二二句のなかに占める割合は大きい。その意味で、漱石の俳句史においても「白扇会報」が担った役割は決して少なくない。
微笑と正岡子規
「故子規先生に縦令直接の縁故が無いにせよ、師表としての平素負ふ所のもの決して少々のものにあらざることを信ずるのである。であるから、先生没すと難も、先生の主唱したるの道は、とこしえに存して、千尋の海の一滴にだも如かざる我会報が、斯く生長し行くを得るのも、先生の賜にあらずして何ぞやだ」(「白扇会報」第二巻第一号・明治三六・一〇・一〇)この少々力みが感じられる文章からはそれだけに微笑の子規に対する率直な気持ちが表現されている。もちろん漱石を通しての繋がりであるけれど、近代俳句の革新者としての子規に絶大な敬意を表し、子規派の系統を明言している。「今日我々の進歩して新派の俳句には最も理屈を忌むわけです。此の意味から可成説明的な文句は言はずに、唯写生の句が現代の俳句であります」(「華城句稿」昭和九年)という俳句観の持ち主であってみれば、微笑とその白扇会が子規の影響下にあることはまちがいないし、いわゆる日本派と称してもいいのであるが、今日虚子派か碧梧桐派かの問題になると、「今日新傾向も多年の練磨で、一つの俳句の生き方とあつたであらうが、これを以て俳句の標準とするほど重きを為すものではあるまい」というすでに引用した文章によってもわかるように、碧梧桐派の運動に対していささか冷めた視点で見ていることから、子規→虚子という近代俳句の主流に乗りかかっているといえるだろう。しかしこれは中央の俳壇史にだけ目を向けた捉え方であって、当時の出版、交通事情などを考えるならば、必ずしも中央の動向と同じとはかぎらず、「併し此趣味は子規氏等の言ふ如く説明されるものでない」(「破笠句稿」明治四二年)という微笑の朱評もあることから、子規派と違った、あるいは子規派としても、虚子派と違った子規派の支流との見方も成り立ってこよう。
終りに
「白扇会報」終刊後、微笑の才能を惜しんだ友人の斡旋で、九州日日新聞の「新俳壇」の選者になったが、二年で広瀬楚雨にゆずってしまう。微笑の生涯を見渡すとき、そこにはいつも漱石の影を感じる。「白扇会報」にしても、「熱心可驚。白扇会報は自費にして、好俳の士に頒つと言ふ。多作にして佳句に乏しと言ふ人もあれど、見るべきもの少なからず。九州の俳士は子に負ふ処多し」(望潮生「九州の新作家」『豊州新聞』明治四〇・一.一)と評価されるようになったのは、漱石の紹介によって碧梧桐や虚子らが参加したためであろうし、俳句への意欲が掻き立てられるきっかけになったのも、漱石の兼題選に入ったことによるものであろう。そして何よりも、頑固なまでも季語定型を守り続けたのは、漱石への忠誠ということもあったにちがいない。このように微笑の側から見ても、微笑と白扇会に及ぼした影響は顕著であり、漱石こそが「熊本最初の近代文学の開花における種蒔く人であつた」(浦池正紀「紫溟吟社・その成立と終焉」『熊本商大論集』第十五号・昭和三七・十二・二〇)という評価は少しも揺らぐことがない。

注1 「私の俳号」『かはがらし』昭和五年十二月号参照。
注2 高田素次「紫溟吟社と白扇会」『未踏』第四巻第五号(昭和六三年一月号)~第九巻第二号(平成四年七月号)参照。
注3 高田素次「井上微笑と白扇会」『東火』昭和十九年八月号参照。
注4 高田素次『湯前村史』昭和四三年十一月二三日参照。
注5 句作りの指導において「君等の様に趣味もつかまへずそんな無茶な事をしても物にならぬと云ふ事、俳句には季がある、それは絵画の色の様なものだと云ふ事、其他主観客観と云ふ様な僕等の丸で考へ及ばぬ耳新しい話」(蒲生紫川『鈍語』)をしたという。
注6 「玄耳の句の中に、漱石のにおいのする句が少なくない」高田素次「紫溟吟社と白扇会」『未踏』第四巻第五号(昭和六三年一月号)
注7 高田素次「明治俳壇の諸先輩」『井上微笑の往復書簡』東火社・昭和五二年一号参照
注8 高田素次「微笑朱評・華城句稿・破笠句稿」『東火』昭和五五年八月号参照。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三好達治ー阿蘇詩ニ篇

2014年05月12日 07時13分58秒 | 論文

三好達治-阿蘇詩二篇

本稿は『熊本の文学』(審美社、昭六〇・九)と『方位』第十六号(三章文庫、一九九三・九)の両本文をまとめたものである。
     
    一 初めに
 三好達治は、阿蘇登山の経験をもとにした詩「大阿蘇」と「艸千里浜」の二篇を発表している。阿蘇詩二篇は昭和十一年より昭和十二年にかけて書かれたものである。今日、両詩篇に対する評価は極めて高く、例えば「大阿蘇」は〈口語脈作品の代表的な一篇〉(伊藤信吉『詩のふるさと』)とされるし、「艸千里浜」もまた〈代表作の一〉(吉田精一角川版『三好達治詩集』鑑賞)とまでされている。三好達治は阿蘇の地には二度、しかも二十年の歳月をおいて足を踏み入れている。最初の旅は、幼年学校時代、大分の中津出身の学友と連れだって耶馬渓を越えて阿蘇に遊んだとき(註1)である。再度の旅は、昭和十一年頃かと予想されるが、今の時点では阿蘇への足取りも明らかでない。
    二 詩歴
 三好達治(一九〇〇〈明治三三〉~一九六四〈昭和三九〉)。大阪府東区に長男として生まれた。三高時代には萩原朔太郎の詩に親しみ、級友丸山薫の影響もあって詩への関心を深めた。東大では梶井基次郎らの同人雑誌『青空』に参加し、詩を発表するようになる。さらには『詩と詩論』や『亜』などのアヴァンギャルド(芸術前衛)雑誌に関係し、昭和五年、処女詩集『測量船』(第一書房)を刊行した。これは昭和初期を代表する名詩集と評価され、早くも独自の詩風を示して注目された。次いで、昭和七年の第二詩集『南窗集』(椎の木社)では四行詩という定型による斬新な詩風を展開し、『閒花集』(四季社、昭九)・『山果集』(四季社、昭一〇)などの詩集に引き継がれていく。その間、昭和九年には詩誌『四季』の創刊に参加している。そして、『艸千里』(四季社、昭十四)や『一黙鐘』(創元杜、昭十六)以下の詩集からは文語詩を主体とする詠嘆的な詩風に反転、日本の叙情詩の伝統はこの詩人によって最も強く支えられることになった。
 おおよその詩的道程をみても、四十年間にわたる長い創作活動の中で、詩風の変貌ともいえるものが幾度か見られ、そのどの面をとるかで詩人像は大きく変わる。ここでは、詩型の面で著しい変化を遂げた三つの時期に分けてみる。初期は、口語・文語の二通りの用語に加え、散文詩.自由詩・定型詩と多様な形式を使って、現代の叙情詩のあらゆる可能性を試みた『測量船』の時期で、古典的な風趣と西欧のサンボリズムとを融合した詩風が特色である。第二期は、療養生活がもたらした『南窗集』『閒花集』及び『山果集』などの、F・ジャムの詩型を借りて、軽妙な機智を生かした印象写生風の四行詩の時期で、自然の事象を客観化して、最も明快な言葉で鮮明な心象映像を作り上げている。そして、第三期は、『艸千里』『一點鐘』などの文語雅語を用いて、古典的風韻をかもし出した伝統的詠嘆調の時期で、最初からその一面に内包していた古典的な要素が開花する。このように、全体像としては、「昭和初期『新詩精神』運動の方向を否定し、おのれの詩法を、おおむね古典的風雅にふちどられた叙情の方向へ限定していった」(那珂太郎「測量船」『解釈と鑑賞』昭四一・一)とあるが、同じく「『測量船』の中にあった筈のいくつもの可能な進行方向のうち、かなり強引に、またかたくなに、ひとつの方向を選んだ」.(大岡信「三好達治論補遺」現代詩読本『三好達治』)と指摘されることも否めない。そうした詩的世界の明らかな分岐点、あるいは転換点こそが、第二期までの口語脈印象写生風の世界と第三期以後の文語脈詠嘆的叙情の世界との相違にもとめられる。そして、その端的な比較の対象としてよく取り上げられるのが、まさしく「大阿蘇」と「艸千里浜」の作品(註2)である。なぜかと言えば、両作品が〈大阿蘇〉の風景を素材とし、しかもほぼ時を同じくして発表されたにもかかわらず、そこから受ける印象の違いによって「大阿蘇」の方は従来の口語的作品群の延長上にあり、「艸千里浜」の方はそれ以後の文語的作品群の直線上にあるなどと説明が加えられやすいからである。三好がそのような印象の違う詩篇を同じ時期に発表したのは単に発表誌の対象の違いばかりではなく、もっと根本的な原因があったように思える。
    三 「大阿蘇」
雨の中に馬がたつてゐる
一頭二頭仔馬をまじへた馬の群れが 雨の中にたつてゐる
雨は蕭々と降つてゐる
馬は草をたべてゐる
尻尾も背中も鬣(たてがみ)も ぐつしよりと濡れそぼつて
彼らは草をたべてゐる
草をたべてゐる
あるものはまた草もたべずに きよとんとしてうなじを垂れてたつてゐる
雨は降つてゐる
瀟々と降つてゐる 山は煙をあげてゐる
中嶽の頂きから うすら黄ろい 重つ苦しい噴煙が濠々とあがつてゐる
空いちめんの雨雲と
やがてそれはけぢめもなしにつづいてゐる
馬は草をたべてゐる
艸千里浜のとある丘の
雨に洗はれた青草を 彼らはいつしんにたべてゐる
たべてゐる
彼らはそこにみんな静かにたつてゐる
ぐつしよりと雨に濡れて いつまでもひとつところに彼らは静かに集つてゐ   る
もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう
雨が降つてゐる 雨が降つてゐる
雨は瀟々と降つてゐる
 「大阿蘇」は世界最大のカルデラを形成している阿蘇中岳を背景に、豊かに繁る牧草の高原《草千里》で蕭々と降りしきる雨の中、ひたすら草を食べたり、ただつっ立りたりしている馬の群れを描いた風景そのものの作品である。
 この詩は、二十二行から成る全一連の口語自由詩で、嘱目の風景をじつと凝視しつつ、途中で切れることなくうたい続けられている。あえて内容面から要約すると、五つの部分に分けられる。第一部=冒頭二行が中心素材の提出描写の場面にあたり、第二部=七行は中心素材の様子描写の場面である。そして、第三部=四行はまさしく背景としての阿蘇中岳描出の場面である。さらに、第四部=七行が作品主題の提示の場面にあたり、第五部=結尾三行は反復による余韻をひびかせながらの終息の場面である。なお、初出稿と現行稿と.の間では、終行の「雨が降つてゐる、雨は蕭々と降つてゐる/阿蘇は煙をあげてゐる」の二行が削除されているが、三好としては、句の冗漫さを避ける他に、第三部を中心とした左右の行数をあわせる意図があったろう。無造作な言葉の羅列のように見えて、実に細心の注意を払った構成方法であったと言わなければならない。
 この作品は、眼の前の風景を単に写生したものとみるならば、まるで〈無声映画〉や〈一幅の絵画〉を眺めるような思いがする。そういう印象を与えるのは作者が徹頭徹尾〈見る〉立場で描いているからである。三つの素材「馬」「雨」「山」が平易な口語で巧みに場面の中にうたい込まれている。しかし、これは単なる〈静物〉としての風景ではない。それぞれの情景は、固定したカメラの広角レンズ越しのような視界の中で、「食べ(立ち)続ける馬」「降り続ける雨」「吐き続ける山」といった具合に持続的な動きとして捉えられている。特に文末の補助動詞「ゐる」のリフレーンはそのすべてが現在進行〈……してゐる〉の形をとっており、時制の〈継続性・現在性〉を強く押し出している。そして、このような時意識は、末尾近くの一行「もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう」に収束し表現されている。この一行こそが、多くの叙景描写のうちから離れて、作者の心情を仮定形にひめて表明した唯一の部分である。そこには、大阿蘇を根源的に発見した感動が凝縮されていることはまちがいなく、人事全般を忘却せしめる大自然の息遣いが幾百年たったとしてもそのままの姿で〈いつまでも現在〉として存在し続けるだろうという一種異様な悠久感が打ち出されている。
 「瀟々と」降りしきる雨にしても、「重つ苦しい」噴煙にしても、ひっきりなしに降る雨をもの寂しく思い、濠々とあがる噴煙を重っ苦しく感じるのも、客観世界から受けた印象表現であるとともに、三好のこの時の心象風景――ある種の晴れやらぬ壮年の憂悶や暗雲ただよう社会情況の投影でもあっただろう。そのような作者の心情に比べれば、「尻尾も背中も鬣も ぐつしよりと濡れそぼつ」たまま、大自然にすっかり随順してしまっている馬の群れの姿には時や空間を超越するような悠久感がひしひしと感じられたに違いない。従って、詩作の契機は放牧中の〈馬〉の群れを眼にしたことに始まるといってよい。「ぐつしよりと」という擬態語も、後出の「きよとんと」「いつしんに」などと同じく馬の集団の姿態をできるだけ如実に描くことにあったと思われる。よく見れば、第二行で群れ集う馬の構成、第五行で雨に濡れた馬の様子を細かく表現しつつも、第六行目で〈馬〉から〈彼ら〉に変更されていく過程に、馬の群れに対する三好の気持ちの変化が現われており、〈彼ら〉という人称代名詞に人間に対するような親しみと一まとまりの自然物として突き放し、悠久なる時空の一点景とする見方が読み取れる。
 ところで、四行詩集『南窗集』に採録の「土」を自ら評して「この詩は御覧の通り、触目の一小事実を、そのまま直写したものです。(中略)単純に単純に、どこまで単純に表現して、而も詩的情趣が浮び出なければなりません」(「短詩二つ」)と述べているから、同じく「鹿」を解説して「現実の智識や経験と、詩的空想とは複雑に入り混つてゐるものです」(同)とは言っているものの、四行詩の詩風が本質的には〈触目〉の情景を精確に明瞭に写し取ることにあった。従って、「大阿蘇」が世に初期の頃書かれていたものと思われているのも、人によっては四行詩にすることも可能だ(註3)と考えられるのも、この詩の詩風の内質が四行詩の場合と相似た印象写生風のタッチで描かれている(註4)からである。しかし、この詩には、四行詩で書かなかったという単純な理由からだけでなく、対象への無気味なほどの凝視、粘着的な対象把握の仕方からも、後の「列外馬」に繋がる四行詩からの脱出への意識が息づいている。それにまた、「達治はもともと視覚的な素質をもつて生まれた詩人なのだ。その澄明な眼は、まず、外界の美に向かって開かれ、とらえた対象を、明晰な言語空間として定着させる力をもっている」(木村幸雄「言語感覚の厳しさ」『解釈と鑑賞』昭五〇・三)という指摘は、三好自身が「恐らく詩は、私には眼から入つてくるやうだ。さうしてこの入口を、また出口にも兼用する」(「私の詩作について」)と言っていることを踏まえたものであるが、「大阿蘇」は、その風景を視覚のパースペクティブに収めることによって口語自由詩による〈平面の美〉(註5)を捉え得た詩であるという意味で、三好の詩作上の特質が充分に発揮された作品であるといえる。
   四 「艸干里浜」
われ嘗てこの国を旅せしことあり
昧爽(あけがた)のこの山上に われ嘗て立ちしことあり
肥の国の大阿蘇の山
裾野には青艸しげり
尾上には煙なびかふ 山の姿は
そのかみの日にもかはらず
環なす外輪山は
今日もかも
思出の藍にかげろふ
うつつなき眺めなるかな
しかはあれ
若き日のわれの希望(のぞみ)と
二十年の月日と 友と
われをおきていづちゆきけむ
そのかみの思はれ人と
ゆく春のこの曇り日や
われひとり齢かたむき
はるばると旅をまた来つ
杖により四方をし眺む
肥の国の大阿蘇の山
駒あそぶ高原(たかはら)の牧
名もかなし艸千里浜
 「艸千里浜」は、一篇全体が古風な印象を与える詩で、その古風さ(註6)は、用語の面だけでなく、音律の面にも構成の面にも現われている。特に三行以下の三行と語尾の三行とはみごとに呼応していて、五音・七音の音律で構成された定型詩といった観がある。試みに数回復唱してみれば、五七調のもつ歯切れのいい音律上の美と極めてシンメトリカルな均衡美を味わうことができるだろう。ルビの振り方にしても、例えば「外輪山」をソトガキヤマと言い、「高原」をタカハラと読ませるところに、古態に倣おう(註7)とする並々ならぬ努力の跡が見られる。この詩は、「大阿蘇」の詩との対比によっても明らかだが、伝統的和歌文芸の構造に近く「彼の古典詩風をもっともよく代表するものの一である」(吉田精一角川版『三好達治詩集』鑑賞)といえる。
 この作品は、二十二行から成る全一連の文語定型に近い自由詩で、第十行目で前半部と後半部に大きく分けられる。さらに、前半部十行は五行目半ばで切れ、「山の姿は」は〈跨ぎ〉の手法によって次の行に繋がっている。これは詩法上の単調さを破るためである。後半部十二行も五行目あたりで二つに切れる。まさに「方解石のように極めて論理的に明快な構成方式」(同)をとっている。
この詩では、「大阿蘇の山」の風景的特色が見晴るかす眺望の中からパノラマ撮影のように一つの見落としもなく描き出されている。そしてさらに、その中から浮かび上がる外輪山は、「今日も」また〈山紫水明〉(「日本人の郷愁」)の言葉のごとく淡い藍色に染まっている。この風景は眼前の事実に違いないのだが、単なる事実そのものの色ではなく、「思出の」と冠することで〈追憶〉の叙情にまぶされている。つまり、かつて『測量船』から四行詩への転移について語ったときの「詩歌は、私にとつては、最も単純な、最も明瞭な何ものか」(「ある魂の径路」)という気息はなく、視界に入るものすべて、ここでは「思出の藍」色のフィルターを通した心象風景によって写し出されている。
 三好の明瞭な眼を「かげろ」わせたものは何かと言えば〈思出〉の心の痛みとして堆積した二十年にもわたる不如意な実生活の数々に他ならない。壮年に達した三好の脳裏には、現代詩の変革に胸を躍らせた若い日の希みや、三十一歳で天逝した無二の親友梶井基次郎、そして心ならずも結婚を断念せざるをえなかった心の恋人萩原アイ(朔太郎の妹)のこと(註8)などが走馬燈のように去来したのではなかろうか。ふと人生を振り返ってみた時、それらの出来事は現在の自分から遥かかなたに消え去って「うつつなき眺め」のなかにある。人によっては、その際痛苦の思いにとらわれるだろう。このような心象風景は、数年後『花筐』に収めた四行詩「かへる日もなきいにしへを/こはつゆ艸の花のいろ/はるかなるものみな青し/海の青はた空の青」(「かへる日もなき」)に進展(註9)し、〈思出〉の痛みが幾分薄れて、美しく装われていくことになる。
 従って、最後の句は、悲しみを誘うものなどない(艸千里〉だが、「かなし」という唯一の主観語にこの時の心情のすべてが託されたとみるべきで、おそらくは島崎藤村の「歌哀し佐久の草笛」(「小諸なる古城のほとり」)の詩句(註10)とともに、失われたものへの哀惜の思いをこめて「名もかなし艸千里浜」とうたわれたものであろう。
 さて、この詩は、喪失の悲しみを主動機として、詩全体に終始一貫して流れている〈旅愁〉の情緒を形づくっている。「甃のうへ」(『測量船』)が冒頭の「あはれ」のほか一つの主観語をも使用することなく〈春愁〉の淡い情緒を漂わすことに成功している背景には、極力そういった語句の使用を控えることによってどれだけ現代詩の叙情は可能かという実験的な自覚があった。ところが、ここら辺りから次第に主観的な感情の流露が著しくなり、三好持有の〈感傷性〉(註11)といったものが悲愁をおびた詠嘆的表現となって全面に立ち現われてくる。この「艸千里浜」の場合、確かに藤村の「千曲川旅情の歌」からこの詩まで四十年聞の現代詩の進歩を疑わしむるものがあるが、伊藤信吉氏がこの詩の〈古典性〉の問題を採り挙げて、現代詩の発展というよりも、「詩そのものの完成、詩そのものの美」(註12)を追求する審美主義的な詩人像を想定されていることも考えて置くべきであろう。
    五 詩集刊行の空白期間の意味
 この阿蘇詩二篇が発表された時期の文学活動は、詩集に限って言えば、昭和十年に第四詩集『山果集』(四季社)を出版したっきり、昭和十四年に第五詩集『艸千里』を出版するまで、実に“四年間”というものの空白、ないし停滞期間が見られる。これは、彼の戦前における出版過程を知るものには珍しく不思議に思われる。
     (1) 詩風転換の時期
 詩集刊行に限らず、全体的に見渡しても、この空白期間は詩そのものの発表よりも評論や随筆の執筆が増えている。しかもこの期間は、詩風の面で著しい転換が行われている。詩集では、『山果集』が『南窗集』・『閒花集』などの印象写生風の詩を継承しているものであり、『艸千里』が伝統的な詠嘆調の詩風で伝統文芸に後戻りしたとされるものである。作品一編ずつでは「達治が四行誌から自由詩の詩型を変えたのは『山果集』を上梓した翌昭和一一年の中半になってからである」との小野隆氏の指摘(註13)にもあるように、確かに昭和十一年五月の『文学界』に発表された『空林』『かいつぶり』『檸檬忌』を最後にして四行詩の作品はあまり見られなくなり、それに代わって、その三月『文芸』発表の散文詩「南の海」、九月『中央公論』発表の詩「涙」などの『測量船』時代以来の多様な作品が多くなり、それと共に『艸千里』に収録されるような七五・五七調の文語定型詩やそれに近い詩型を多く用いるようになる。
 従って、この詩集刊行の空白期間は、詩作の上では詩風の転換期であり、新しい詩風確立のための模索の期間であって、阿蘇詩二篇の甚だしく異なる印象からは〈阿蘇山〉を描いた点では素材がまったく同じであるがゆえに、それぞれ詩篇の作風の違いを試そうとする三好の姿勢が見えてくる。つまり、「散文詩型をとった二篇の『村』、徹底した自由詩型の『大阿蘇』と、これらの作品を比べてみると、その当時の達治が、表現形態についてどれほどの試みをしたかがはっきりと知られる」(伊藤信吉)という指摘(註14)や、何よりも「当時の私は、新しい詩歌の可能性を、貧しい私の才分なりに、力をつくして模索しつづけた」という三好自身の言(『測量船』あとがき、南北書園刊再版・昭和二二)を踏まえて言えば、〈新しい詩歌〉の完成という意図を秘めつつ、「大阿蘇」は徹底した口語自由詩形を通して現代口語の機能を生かそうとし、「艸千里」はあくまでも文語定形詩形を用いて現代詩の古典性を形成しようとしたと思われる。しかし、三好はこの時すでに「口語自由詩は、明治末に誕生し、大正末にはもうその標高の峠を一つ越えきつて、下り斜面にさしかかつてゐた」(「巻後に」『定本三好達治全詩集』筑摩書房、昭三七・三)と判断しており、「所謂自由詩なるものの形式に多少疑問を抱きはじめた。その形式が、第一私にとつては、魅力の乏しいものとなつた」(「詩壇十年記」『若草』、昭十二・五)と考えていることから、三好自身の好みはと言えば、「艸千里浜」のほうにあったろうし、三好の詩風が口語自由詩の限界を認識することによって口語自由詩形から文語定形詩形へと変遷して行くことも当然の成り行きであったろう。
 さて、四年間の詩集刊行の空白期間を経過した後、両詩篇は昭和十四年にそれぞれ別々の詩集に編入された。「大阿蘇」は、その四月に刊行された合本自選詩集『春の岬』に、『測量船』より三代四行詩集とともに『霾』詩篇中の一篇として編集された。また、「艸千里浜」は、その三ヵ月後の七月に発刊された『艸千里』に、『山果集』以後の長詩二十五篇中の一篇として集録された。しかし、これは両作品が初出雑誌に単独で発表された順序とは逆になっている。すなわち、「艸千里浜」は「大阿蘇」より一年早く、当時の年齢的にも高い層をねらって発刊された婦人雑誌『むらさき』(昭十一・九)に発表されている。けだし、ここにこそというべきか、詩集刊行の空白期間の模索を通過してのちの詩風確立の明確な意識が働いている。つまり、小川和祐氏の「口語詩的作品群と、文語詩的作品群とから成る詩集とする見解に立てば、この『霾』の詩篇は明らかに口語詩的作品群の延長にあるものである。時期的には『艸千里』と『霾』には重なる部分かある。『艸千里』は文語詩的作品群の直線上のものである」という指摘(註15)を考慮に入れつつ、「大阿蘇」は前期〈口語詩的作品群〉の延長線上にあり、「艸千里浜」は後期〈文語詩的作品群〉の直線上にあると位置づければ、同じ時期の詩集であるがゆえに、これまでのすべての詩篇を総合したものとする『春の岬』に従来の傾向の詩「大阿蘇」を入れることで一応の区切りをし、『艸千里』の表題ともなっているようにその詩集の典型的な作品として「艸千里浜」を入れることによって、これ以後の新たな詩的展開への先駆けとしたいという三好なりの配慮があったからであろう。
     (2) 時代への態度決定の時期
 このように古典的な詠風へと傾斜していく契機になったものには、彼独特な詩型に対する好悪ということのほかに、また気力の弱りという「思いすごしの老年」(伊藤新吉)の面(註16)よりも、むしろ「時勢の国粋的、古典的な動向が、彼の詩魂のうしろ髪を、伝統に向けてひいたのか」という吉田精一氏の指摘(註17)に肯いたい。
 この詩集刊行の空白の時期は、近代史上希にみる激動の年代にあたっている。特に「艸千里浜」が発表された昭和十一年は、極右的青年将校によるクーデーター、いわゆる二・二六事件が起こった。それ以後、戦時体制への移行を目的とした昭和十二年の労農派検挙、執筆禁止、その翌年の国家総動員法の制定などが矢継早に行われている。つまり、二・二六事件を引き金にして、日本は軍部独裁の道をひたすら突き進むことになる。こういう戦時体制の強化のなかで、文壇側も昭和十三年九月の漢口攻略には軍部の要請に応えて、二十二名もの作家が従軍し、その報告会を各地で開くなどして、戦争追随の姿勢をしだいに色濃くしていく。三好とても、この時代の趨勢とは無関係ではなく、むしろ漢口攻略と作家のその時務的従軍より一年早く、昭和十二年十月、雑誌『改造』・『文芸』社の特派員として戦地上海に赴き、一連の従軍記を書いている。
 「上海雑観」(『文芸』昭十三・一)や上海雑観追記「半宵雑記」(『改造』昭十三・一)によると、日中戦争という「今しも重大な時期にさしかかつた私たちの祖国の一員である以上」、自分の主観でさえも絶対だとし、その延長線上において、上海を引き合いに出しながら単純至極に、「私が日本といふ国を顧みてそれをたいへん清潔な美しい国だと思つたのは事実である」と断定している。彼の見た戦争の現実とは、先進列強に食い荒らされた真の上海の素顔ではなく、頽廃に覆われた「物欲の都」上海であった。このように表層的な見方しか出来なかった彼は、そうであるがゆえに、帰国した時のことを「日本人の郷愁」(『文藝春秋』昭十七・九)のなかで回想しつつ、日本賛美を〈祖国愛〉という表現で同一化して、上海の「戦場の混乱醜悪窮乏の境から、一転して山紫水明の故国に身を移したのだから、私ならずともさういふ場合に誰人もさういふ感動を覚えるのは必然のことであって」、「我々の祖国愛といふものも、まづ第一にはその自然 ――祖国の山川草木に対する単純にして熾烈な愛情にその根柢を置いてゐる」ことに触れている。
 三好ならずとも、榊山潤が「忘れてゐた祖国を、私も上海まで入つて取り戻したか」とまで書いている「流茫」(『日本評論』昭十二・十二) という文章によっても、文学者の上海への従軍という経験がいかに〈祖国愛〉を呼び覚まさせたかが理解できるというものである。
 三好達治自身の当時の時代に対する態度は一様でなく、著しく曲折している。彼は当初当時の風潮に対して極めて批判的であった。例えば、「古典に就いて」(初出不詳・『屋上の鶏』文礼社、昭十八・四)の中で、古典文学者たちの日本主義に対する曲学阿世ぶりをたしなめている。また、「大阿蘇」を載せた『雑記帳』は、迫りくるファシズムの波に抗し、理想的な文化運動の誕生を夢見て創刊された月刊誌である。
 しかし、ここで問題にすべきなのは「半宵雑記」(既出)に窺えるように、三好がこの上海従軍行のときを境にして、日中戦争を個人の「視界を超えた偉大な聖なる意義の上に深く根柢してゐる」として、「私はすべてを肯定する」とまで書き付けるようになることである。保田輿重郎が日本の侵略戦争を「世紀の変革の神話」と捉えるようになるのが昭和十三年五月から六月にかけての中国旅行の後のことであったという周知の事実に接するならば、三好において、上海従軍による〈祖国愛〉への目覚めが戦争肯定の根拠になったであろうことは容易に想像できる。
 このようなことから、この詩集刊行の空白期間こそ、時代への態度決定の逡巡、ないし猶予期間でもあって、戦時体制への随伴行動がほぼ固まりかけるのは、「一従軍記者」(「日本人の郷愁」既出)として上海に赴き、日本の自然に対する愛情、すなわち〈祖国愛〉に目覚めることになる昭和十二年以後のことであるといえる。そして、この時代への随伴的態度は、日本文化協会から特別扱いの用紙配給を受けて出版した『一點鐘』(創元社・昭和十六年十月) の例が示すように決定的なものになる。
    (3) 〈世界一般の法則〉としての文学
 保田と言えば、この詩集刊行の空白期間は、くしくも激動の世とともに、プロ芸壊滅後、思想の混乱と時代の不安を克服しようとして、新ロマンティシズムを標傍しながら、日本精神の復活を叫び、国学の再興を企て、のちに戦時体制のイデオローグとされる保田輿重郎が主導した『日本浪曼派』の運動の期間、すなわち昭和十年の創刊から同十三年の終刊までとぴったりと重なり合う。
 保田輿重郎は、『コギト』五号(昭和七年七月)の「文芸時評」のなかで、戦況が著しく困窮の一途を辿って行く昭和十年代の状況を〈文学の貧困〉として捉え、むしろ〈文学不用の時代〉だとしながらも、「その時代に於いても文学はその真実の姿に於いて存在する」と言い切るのである。これは彼一流のイロニー的発想であるが、畢竟、文学の真実の姿は時代の困難さを積極的に受け入れることから生まれるものだという考えが成り立つ。そして、この考えは、「懐疑し、痛み傷つき、ついに美しく残ったものゝみが今後に文学の理想と精神と、さらに気品とを維持する」(註18)殉教者の栄光に擦り替えられる。
 とはいえ、文学の不遇時代という認識は、『日本浪曼派』の詩人伊東静雄の考えのなかにもあり、「ヘルダーリーンの『かかる貧しい時代に、何のために詩人は存在するか』という、ぎりぎりにつきつめた問い」(註19)(大山定一)を持っていた。また、『日本浪曼派』とは直接関係なかった三好達治でも、「友よ 詩の栄えぬ国にあつて/われながく貧しい詩を書きつづけた」(「残春偶語」『一點鐘』既出)と嘆いている。保田でさえ、著作に官憲の監視を恐れなければならなかった時代背景を抜きにしては、この彼らの文学不遇の時代という認識はあり得なかった。『日本浪曼派』がナルプ解散後の現状を否定するにしても、否定の対象としたマルクシズムもリアリズムも、思想統制という外部からの圧力で根こそぎにやられてしまっていた。保田がそういう状況をただ単なる現象として見たとき、そこに文学の不用はたしかに存在したといえる。この認識こそ、文学は現実に何をなしうるかという文学の効用を捨てたところに文学の出発をはかったイロニー的浪曼精神の萌芽がある。そして、保田らにとって、文学とは〈文学不用の時代〉にも存在する文学の真実の姿をとらえるというイロニーを体現することであった。従って、この屈折したイロニーから浮かび上がってくる゛文学の真実の姿とは何ぞや゛という問いこそが彼らの突き詰めた問いであって、彼らの内部に絶えず発せられ、それぞれの文学の営為に中で試みられたと考えられる。
 保田が一括すればヨーロッパの文芸思潮に他ならないマルクシズムもリアリズムも切り抜けてみたら、とどのつまり、彼の文学的エスプリは揺籃期に過ごした〈故郷の美しい風景〉の中にしか残っていなかった。彼の故郷大和桜井の風景は、少年の頃の甘美な思い出とともにときめくような《日本の血統》(「日本の橋」『文学界』総和十一)を感じさせてくれるものであった。昭和十年前後の思想的混乱の時期に『日本浪曼派』が成立された原因は、まさしく《日本の血統》のよさを疑わない保田がそれまでのヨーロッパの文芸思潮の紹介に終止した「文芸学書にないところの、民族の精神と志をもととしたもの」(註20)であった。つまり、『日本浪曼派』は国粋的な民族主義の趨勢の中で出るべくして出たわけだが、保田が「絶望が先行する」時代の危機を克服する道として、〈伝統の情緒〉だけで事足れり(註21)としたところに戦後の毀誉褒貶がある。
 このように、〈文学不用時代〉におけるこの文学の真実の姿を追求していった結果、日本には《伝統》の中にしかその命脈はないと知った保田は、『コギト』創刊号(昭和七年三月)の編輯後期で、「私らは最も深く古典を愛する。むしろ私らはこの国の省みられぬ古典を愛する」と高らかに宣言して、古典への憧憬とその本質の継承の意志を示し、《古典美の血統》を云々しながら、古典への志向を明らかにしていく。保田はまた、現実の戦争に対してもその実相を見ないで、彼なりの美意識に純粋培養された戦争の「世界史的意味」での壮大さ、あるいは民族の興亡のドラマに深く感動していく。これは、古典の世界から古代人の現実を抜き去り、ひたすらそこに美の理想を探ることで古典賛美へ赴いていった精神構造と同じである。
 この精神構造は保田にとどまらず、実は三好達治にも見出されるものであり、その精神構造がそのまま昭和十年代の前後の時代精神あったと言えば言い過ぎであろうか。
 三好が日本の〈山紫水明〉に感動し、「日本の風景、日本の山川草木ばかり微妙に高雅にゆかしく美しい自然は他に比類がない」(「日本人の郷愁」既出)と信じるのは、「風景こそは/いつでもどこでも私にふさはしいものであつた」(「落葉つきて」『新潮』昭三十五・一})という、生得的な゛風景゛への親近感が従軍の体験から祖国愛、とりわけ日本の〈山川草木に対する熾烈な愛情〉を覚醒させた結果ゆえである。このように、当時の中国という外地にふれることによって〈祖国愛〉というものを祖国の自然愛に溶解してしまう三好の精神が、自分の出生地が「日本の故郷」だとし、「故郷としての風景」を回想し保持することが〈日本への回帰〉の一表現だ(註22)とする保田の国粋的な精神と軌を一にしていくであろうことは想像に難くない。
 句作の素養のあった三好は、風景をそのものとして観照する世界に早い時期から馴れ親しんでいた。この観照の世界へいざなうものとして、旅は切り離すことのできないものである。ただそれほど旅に対してまめでなかった三好の場合、実際の旅とは言い難いものの、仮構されたとでも言うべき旅の過程で生み出される旅愁は、のちの伝統的な詩形とあいまって、最も主要なモチーフになり、テーマになった。旅、そして自然への愛着は、初期詩集『測量船』の「峠」という詩にすでに現れており、「旅をゆく心は、ただ左右の風物に身を託して行く行く季節を謳った古人の心でなければならない」と決意している。三好がここで〈古人の心〉にならおうとするのは、四季の風物に身を託して生涯を旅に明け暮れた西行法師や俳諧師宗祇・芭蕉などの伝統詩人の《風雅》の道を想ってのことである。彼は戦後、「雑感」(『新潮』昭三十四・七)という随筆のなかで、この《風雅》について「孤高にも反俗にも、ないし偏奇にもただ今私の興味はない。/温雅と雅馴、つまり『風雅』はそれよりももっと孤独にひとりぼっちの世界一般の法則に属することのやうに思へるからである」と述べているが、この文章で三好が〈世界一般の法則〉としての《風雅》の道(註23)を求めていることに注目したい。
 『測量船』以来、現代抒情詩の可能性を発展ではなく、「詩そのものの完成、詩そのもののの美」としての〈古典的完美〉に向かった(註24)のは、けだし〈文学不用時代〉の〈詩のさかえぬ国〉にあっても、なお《風雅》という伝統の文化情操は〈世界一般の法則〉として根強く存在し、それを詩歌に盛り込み再生することが〈新しい詩歌〉の完成につながるとの認識があったからである。この認識は、「何らの強固なる伝統がなく、根底の深い批判がなく、従つてまた詩歌に対する真の愛情が作者と読者の双方に欠けてゐた」(「詩壇十年記」既出)当時の詩壇の現状に辟易していた三好が、彼なりに文学不遇時代にも存在する文学、つまり真の詩歌とは何かという課題を真剣に求めていったことの結論であった。
 国粋的な時代の趨勢にかすめとられて行くことになる三好の〈祖国愛〉や日本賛美は日中戦争のさなか中国本土へ従軍した昭和十二年の体験が基になっている。それがやがて保田らの国学再興をうながす言説に接し、或いはその風潮に同調(註25)し、または時代の雰囲気を共有することによって古典志向の契機になり、〈世界一般の法則〉である《風雅》を盛りこむことが可能な詩型として文語体の必要性をますます痛感させるようになる。そして、そのことがその二年後出版された詩集『艸千里』の文語による伝統的詠嘆調の詩風に影響したと考えられる。
     (4) 時代人としての三好達治
 従って、以上のことをまとめると、阿蘇詩二篇は極めて重要な意味を持つものであって、詩集刊行の空白期間に発表されたこの両詩篇が象徴するのは、詩集刊行の空白期間が文語詩の詩風確立の時期であるとともに、時代への態度決定の時期でもあるということである。つまり、この期間の三好は、四行詩の脱出を文語詩、または散文詩などで試みつつ、昭和十二年の戦地従軍という時務的経験によって〈祖国愛〉に目覚めた結果、時代への態度を順応に決定する。それに併せて、保田らの『日本浪曼派』創刊の辞(昭和十年三月)で言挙げした「我が古典の未樹、我が趣味の未修」の克服という叫びに呼応するかたちで、それ以後伝統的文芸の叙情形態をもっぱら採用することになる。吉田凞生氏の「時代の影響ということが、三好ほどに深刻な意味を持っている詩人は、他にあまりないかもしれない」という指摘(註26)を待つまでもなく、本人自身も自分の過去を振り返ったエッセイの中で、「さまざまな前後の影響に揺さぶられふりまはされつづけながらの境涯にあつて、私は私なり思案を重ねないわけではなかつた」(「巻後に」『定本三好達治全集』既出)と述べ、時代の荒波に翻弄された〈境涯〉を語っている。ここに、時代に対して真摯に向かえば向かうほどその荒波に呑まれこまれていく一人の痛ましい詩人像が泛かび上がってくる。
    六 終わりに
いずれにせよ、伊藤信吉氏が愛着をこめて「私は九州阿蘇の草千里浜をたずねたとき、三好達治の二篇の詩を思い浮かべ、そこに亡き詩人の声が永く遺ることを思った」(角川版『三好達治詩集』評伝)と述べているが、それほど文芸作品とそれに由縁のある土地の風物は密接な結び付きがある。三好達治の絶唱阿蘇詩二篇は、世界規模の地質的な特色で有名な阿蘇の風物を文芸化したことによって、これからもさらに多くの読者に深い感銘を与え続けることだろう。

註1 石原八束「風狂の詩人」(『三好達治』筑摩書房、昭五四)2阿蘇の両詩篇が詩風転換の証明作品として比較対照されている例は次の通りである。
*安西均「人と作品」(日本の詩『三好達治』ほるぷ社、昭五〇)には、「それまでの鮮明な形象で自然と心理の照応を視覚化していた詩風が、『艸千里』にいたってようやく、流露しあるいは信屈する主情的な詠嘆調に移っていく。その端的な比較は、よくいわれるとおり、『春の岬』中の拾遺詩篇である「大阿蘇」と、『艸千里』中の「艸千里浜」とをくらべあわせて読むがよいだろう」とあり、これと同じ論旨の文章が、「晩年の成熟」(現代詩読本『三好達治』)で述べられている。
*この他には大岡信(『日本詩人全集三好達治』解説、新潮社、昭42)や小川和祐(『三好達治研究』)、並びに石原八束、伊藤信吉、小野隆ら諸氏の論考が挙げられる。
3 小野隆「三好達治―『艸千里』『一點鐘』の時代―」(「専修国文(27)」、昭五五)
4 石原八束「三好詩を追うて」現代詩読本(7)『三好達治』思潮社、昭五四)参照。
5 伊藤信吉『詩のふるさと』(新潮社文庫、昭四三)
6 吉田精一「鑑賞」『日本の詩集9三好達治詩集』 (角川書店、昭四三)で詳しく述べられている。
7 安藤靖彦編『鑑賞日本現代文学⑲三好達治・立原道造』(角川書店、昭五七)で、安藤氏が触れている。
8・9 小川和祐「大阿蘇」(『三好達治研究』教育出版センター、昭五一)参照。
10 註7前掲書
11 三好特有の感傷性については、本人の弁「何でもその時の衝動的なことで・…-。ぼくはセンチメンタルに載っかって衝動的に書いたと思うよ」(大岡信氏との対談)や、友人丸山薫の回想「親しくつき合ってみると、この軍人の教育を受けた骨っぽい青年の内部が意外な感傷に傷んでいるのに驚いた」などの興味深い問題があり、三好の文学との関係では村野四郎・安西均ら諸氏の指摘がある。
12 伊藤信吉「三好達治」『現代詩の鑑賞 下巻』 (新潮社文庫、昭二九)
13 註3前掲書
14 註12前掲書
15 註8前掲書
16 「草千里浜」(『詩のふるさと』新潮文庫・昭四三)
17 註6前掲書
18 「後退する意識過剰|『日本浪曼派』について」〔『コギト』昭十・一)
19 「伊東静雄とドイツ抒情詩」(『現代詩読本伊東静雄』新装版-一九八三・八)
20 「自然主義文化感覚の否定のために」(『日本評論』日本評論社・昭十六・六)
21 「編輯後記」(『コギト』昭十二・十二
22 「風景と歴史」(『風景と歴史』天理時報社、昭十七・九)、及び「風景観の変遷」(『読売新聞』昭十六・五・十六)
23 安西均氏もまた、「伝統と創造」(『現代詩物語』有斐閣・昭五三・八)のなかで、「三好にとってのあるべき詩は、現代の所産としての文芸(文芸の流行性と言い換えてもよい)であるよりも、人間の歴史の展望のなかに置かれても不変のもの(文学の不易性と言い換えてもよい)とする理念が強烈だった」と述べ、文学の〈不変のもの〉に対する三好の志向を指摘している。
24 註12前掲書
25 三好の時代への対応という点では、戦争詩の存在は決して無視することができない。戦争詩そのものは当時の状況に触れずしてうたうことができないからである。この問題については、水口洋治氏がすでに『三好達治論』(林道舎、一九八四・九〕のなかで詳しく述べている。そこで、特に「三好達治の転回」では、「結論的に、なぜ厭戦的な詩を書いていた達治が太平洋戦争開始後、戦争協力詩を書き出したのかは、小川和祐の『時代思潮への肯定的同調』と河盛好蔵のいう『憂国の志』の触れ合う所に答えがある」として、三好が〈大東亜共栄圏構想〉の欺購性を見抜けず、「その美しい言葉、アジアの開放という夢に酔い、信じ」、「誠心誠意、何ら恥じる所なく戦争に協力した」と指摘している。ただ、本稿の論点は、〈時代思潮への肯定的同調〉という点では同趣旨であるものの、その同調が昭和十年代の初期に見られることと、阿蘇詩篇の意義に触れていることで、水口氏の論とはおのずから相違がある。
26 「三好達治」(『昭和の文学』有斐閣、昭四七・四)
 [参考文献]
『三好達治全集』全12巻(筑摩書房、昭三九~四一)
『定本三好達治全詩集』(筑摩書房、昭三七・三)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『漱石俳句かるた』解説

2014年05月09日 12時03分18秒 | 論文

『漱石俳句かるた』解説

あ あまくさのうしろにさむきいりひかな
 明治三一年、小天旅行の折の作。天草の島に日が沈むのを詠んだもの。「天草」という言葉は、キリシタン禁制、天草・島原の乱などのかなしい歴史を背負っている。そうしたイメージを「天草の後ろ」に込めて、冬の「寒き入日」と取り合わせることによって、冬の一情景をみごとに表現している。季語「寒し」=冬

い いかめしきもんをはいればそばのはな
 明治三二年作。「学校」の前書がある句。旧制五高の表門は赤レンガの堂々とした立派な造りである。当時はその表門から校舎のある中門のあいだには畑があった。当時九州の最高学府である赤い門と蕎麦の白い花との対比がすばらしい。季語「蕎麦の花」=秋

う うみをみてじゅっぽにたらぬはたをうつ
 明治三一年作。「花岡山」という前書がある。花岡山は熊本市の南西にある小山である。それに連なる大地の一角で、「十歩に足らぬ」ほどの小さな畑を打ちながら、時々仕事の手を休めて、海を見る農民のつつましく静かな暮らしぶりが描かれている。季語「畑打ち」=春

え ゑいやっとはえたたきけりしょせいべや
 明治二九年作。「書生」とは他人の家に住みこみ、衣食住の世話になりながら勉学にはげむ学生のこと。のちに漱石自身五高生を書生として部屋に置くことになる。勉強の進みぐあいがうまく行かないいらだちを蠅に向けている様子が「ゑいやっと」によく表現されている。季語「蠅」=夏

お おんせんやみずなめらかにこぞのあか
 明治三一年末、小天旅行の折の作。前書は「小天に春を迎へて」。白楽天の「温泉の水滑らかに凝脂を洗ふ」という句を踏まえている。『草枕』の主人公が「温泉という名を聞けば必ずこの句にあらわれたような愉快な気持ちになる」と言っていることからもわかる。小天温泉の質のよさと歳末のあわただしさから逃れてきてほっとした気持ちがよく出ている。季語「去年の垢」=冬

か かしこるひざのあたりやそぞろさむ
 明治三二年作。「倫理講話」の前書がある。倫理科の授業は各学年各学級と合わせて週一回行われていた。「かしこまる膝」という表現によって、その授業が五高生にとっては厳しいものであったことがわかる。「かしこまる」と「そヾろ寒む」とが呼応して、倫理講話の緊張感が伝わってくる。季語「そヾろ寒む」=秋

き きしゃをおいてけむりはいゆくかれのかな
 明治二九年作。阿蘇のような広大な景色を詠んだもの。見渡すかぎりの枯野のなか、石炭を焚いて黒い煙を棚引かせながら勢いよく走っている汽車の様子を「汽車を遂て這行」という擬人化して描いているところがおもしろい。季語「枯野」=冬

く くさやまにうまはなちけりあきのそら
 明治三二年作。「戸下温泉」(阿蘇)という前書のある句。阿蘇の小高い草原に放牧されている馬を描いている。「放ちけり」には、旅人としての漱石の解放感が投影されている。澄み切った「秋の空」も、その解放感にさわやかさを添えている。季語「秋の空」=秋

け げがきするおうばくのそうなはそくひ
 明治三〇年作。「字」という前書きがある。「夏書」とは、夏の期間修行するなかで写経を行うことである。「即非」という黄檗宗のお坊さんの名前がおもしろく、いかにも禅宗らしいところに興味を覚えて詠んだもの。漱石は禅宗に人並ならぬ関心を持っていて、最初の精神的な危機を迎えたとき参禅している。季語「夏書」=夏

こ こがらしやうみにゆうひをふきおとす
 明治二九年、五高生を引率して天草・島原へ修学旅行したときの作。天草灘に沈む夕日を詠んだものと思われる。そう思うと、水平線しか見えない海原に夕日を吹き落とすくらいの「凩」が吹いても不思議ではない。広大でダイナミックな自然を描いてみごとである。季語「凩」=冬

さ さっとうつよあみのおとやはるのかわ
 明治三一年作。「白川」という前書きがある。白川は熊本時代四番目の転居地である井川端町の家の近くを流れている川である。夜の網掛けの雰囲気を「颯と」という擬態語で表現している。白川の春ののどかな感じがよく出ている。季語「春の川」=春

し しぐるゝはへいけにつらしごかのしょう
 明治二九年作。平家の落人が住んでいるという「五家荘」。郷土史に関する関心度をはかることのできる句である。源平合戦をよく詠んでいる漱石にとって、これも歴史句の一つ。都育ちの平家にとって、「時雨るゝ」五家の荘という秘境での生活はつらいだろうとおしはかっている。季語「時雨」=冬

す すみれほどなちいさきひとにうまれたし
 明治三〇年作。転生への願いを美しくかれんな「菫」に託した句。のちに文豪と称される人の言葉としては意外に思われるが、漱石は決してはなやかで世慣れた人物は好きではなかった。「菫ほどの」より「菫ほどな」と小休止したほうが「菫」のやさしい感じがよく出てくる。季語「菫」=春

せ せんせいのそぜんをふくやあきのかぜ
 明治三二年作。「教室」という前書のある句。「疎髯」とはまばらに生えている頬のひげのこと。漱石自身の授業風景かどうかわからないが、頬ひげに焦点をあてていることで、先生の日頃の厳しい表情が見えてくる。そして、「疎髯を吹く」としたところが、厳しいながらもちょっとこっけいな教師の授業風景が浮かび上がってくる。季語「秋の風」=秋

そ そりばしのちいさくみゆるふようかな
 明治二九年、鏡子夫人を伴った北九州の旅の句。前書は「太宰府天神」。心字池に架かっている遠くの朱色の「反橋」と大きな花弁を持つ優雅な「芙蓉」との取り合わせが太宰府天満宮の美しくおごそかな境内の様子を表している。季語「芙蓉」=秋

た だいじじのさんもんながきあおたかな
 明治二九年作。熊本市南部にある曹洞宗の古刹大慈禅寺。あたり一面の青田のなかに参道の長い「門」に焦点をあてることによって、「大慈寺」のたたずまいが見えてくる。「青田」の青と「山門」の色との対比も、「大慈寺」の風格のあるさまをよく表現している。季語「青田」=春

ち ちくごじやまるいやまふくはるのかぜ
 明治三〇年、実家久留米に帰っていた親友菅虎雄を見舞い、高良山から発心公園の桜を見学した折の作。「丸い山」はやわらかな「春の風」が吹くのにふわしく、この二語によって、山といってもそう高くない山が想像されて、筑後平野の風景の特色がみごとにとらえられている。季語「春の風」=春

つ つきにいくそうせきつまをわすれたり
 明治三〇年作。「妻を遺して独り肥後に下る」という前書によれば、「月に行く」は月の夜に熊本にもどるということである。月のあまりの美しさに妻を忘れてしまったという意味である。実際は流産した妻鏡子のことが気になっている句という。この逆説的な表現に、漱石の男のはにかみといきあるさまが見られる。季語「月」=秋

て てらまちやどべいのすきのぼけのはな
 明治三二年作。「寺町」という語によって、「土塀」が昔ながらの立派なものであることがわかる。その隙間から木瓜の花が顔をのぞかせているのを詠んだもの。「木瓜咲くや漱石拙を守るべく」の句のように、木瓜に拙を守る自分を重ねた漱石の目には、「寺町」・「土塀」の古風さにひきつけられたのであろう。季語「木瓜の花」=春

と どっしりとしりをすえたるかぼちゃかな
 明治二九年作。前書「承露盤」より。あらゆる修辞法を使って「南瓜」の特徴が描かれている。まず「どつしりと」という擬態語によって南瓜の大きさ・量感が表現され、「尻を据えたる」という擬人法は南瓜の安定感をよく表している。「尻」の一語はこの句のこっけい感をかもし出している。季語「南瓜」=秋

な ながきひやあくびうつしてわかれゆく
 明治二九年作。「松山客中虚子に別れて」という前書にあるとおり、五高に赴任する途中、高浜虚子との別れに際して詠まれたものである。「永き日」と「あくび」との取り合わせによって、春の日永ののどかさが感じられ、「あくびうつして」には二人に気安い関係がそれとなく表現されている。季語「永き日」=春

に にりくだるふもとのむらやくものみね
 明治二九年作。「雲の峰」とは入道雲のこと。二里下ったところにある麓の小さな村を見下ろしているのを詠んだもの。その山の上には大きな「雲の峰」がそびえている。大と小との対比がおもしろく、「雲の峰」が立派であればあるほど「麓の村」のつましさがいっそう感じられる。秘境の生活を思いやった句。季語「雲の峰」=夏

ぬ ぬかるみのなおしずかなりはるのくれ
 明治三〇年作。「泥海」はぬかるみと読むのはあて字。「泥海」という字面から有明のような海の干潟のことを詠んだものと推測される。「春の暮れ」という言葉によって、鉛色の海面の静けさと「猶」といったことで「泥海」の静けさとが重なって、春の夕暮れの海の静かな雰囲気がひしひしと伝わってくる。季語「春の暮れ」=春

ね ねぎのこのえぼしつけたりふじのはな
 明治三一年作。前書は「藤崎八幡」。藤崎八幡宮は井川端町にあり、軍神としても有名である。祢宜とは神主のもとで働く神職。その子供が子供にとっては大きめの「烏帽子」をかぶっているというのである。藤棚の下を通って行く子供の父の職業にふさわしいみやびやかさが表された句である。季語「藤棚」=春

の のぎくいちりんてちょうのなかにはさみけり
 明治三二年、阿蘇の旅の作三四句中の一つ。旅の途中、手折った野菊を句帳かなにかの手帳のあいだにしおりのように差し挟んだという。風流心を楽しむ若き日の漱石の姿が浮かび上がってくる。季語「野菊」=秋

は はるのあめなべとかまとをはこびけり
 明治三三年、「北千反畑に転居」という前書にあるとおり、六度目の引っ越しをすることになる。このあたりは藤崎宮に近く、今も静かな住宅地である。「鍋と釜」とは家財道具一切を指しているが、「鍋と釜を運びけり」といったところに、引っ越しの身軽さと引っ越し慣れした気分とが感じられる。季語「春の雨」=春

ひ ひとにししつるにうまれてさえかえる
 明治三〇年作。「冴返る」とは、ゆるんだ寒さががぶりかえすという意味。寒気の中にすくっと立っている鶴に、生まれ変わった人間の姿を見ている。漱石にとって「鶴」は孤高の象徴であるという。「冴返る」という季語と鶴への転生という言葉とがよく響き合い、純粋な美へのあこがれが読み取れる。季語「冴え返る」=春

ふ ふるいよせてしらうおくずれんばかりなり
 明治三〇年作。半透明の「白魚」のかよわさと美しさを詠んだものである。四ッ手網などで掬い取られた「白魚」に焦点をあてて、一瞬の景を「崩れん許り」という比喩によって的確に表現している。季語「白魚」=春
へ へやずみのぼうつかいおるつきよかな
 明治三二年作。「部屋住」とは書生のこと。経済的に苦しい学生は他人の家に住み込み、家の雑用をするかわりに勉学に励むことができた。漱石も書生を抱えていて、その一人を詠んだもの。月の美しい夜に勉強にうんだ「部屋住」が「棒」(竹刀)を振って、体をほぐし、鍛えている情景が思い浮かべられる。季語「月夜」=秋

ほ ぼけさくやそうせきせつをまもるべく
 明治三〇年作。『草枕』の主人公に「世間には拙を守るという人がいる。この人が来世に生まれ変わるときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい」と言わせている。頑固者の意である「漱石」という号にしても、「拙を守る」という言葉にしても、決して上手な生き方を望まない人生態度を表明したものである。季語「木瓜の花」=春

ま まくらべやほしわかれんとするあした
 明治二九年作。「内君の病を看護して」という前書によると、「枕辺」で看病して夜明けを向かえたが、その七月八日の朝は年に一度の逢瀬を楽しんだ牽牛と織女が別れて行く「星別れ」であったというのである。妻の病気に対する不安と妻への思いを込めている句である。季語「星別れ」=秋

み みずぜめのしろおちんとすさつきあめ
 明治三〇年作。歴史上のできごとを句にするのが好きであった漱石が水攻めした豊臣秀吉の故事を踏まえて詠んだものである。大洪水を起こしそうな梅雨のなかの熊本城から実際にヒントを得たのかも知れない。「城落ちんとす」と比喩することによって、「五月雨」の量感をダイナミックに描き出している。季語「五月雨」=夏

む むしうりのあきをさまざまになかせけり
 明治三〇年、一時上京した折の作。「虫売」が虫籠に入れている多くの虫がいろいろな鳴き声を響かせているのを詠んだもの。虫がそれぞれその虫特有の鳴き方をしているのを「秋をさま  鳴かせけり」ととらえているところがおもしろい。季語「虫売り」=秋

め めいげつやじゅうさんえんのいえにすむ
 明治二九年、三度目に移り住んだ合羽町(現坪井)での作。「十三円」とは家賃のことであるが、新築でありながら粗雑な普請であったことに対しての不満が込められている。しかし、「名月」という季語によって、その不満をよそに自然に親しもうとする風流心が表されている。季語「名月」=秋

も もちをきるほうちょうにぶしふるごよみ
 明治二九年作。日常生活の一端を切り取って詠んだもの。のし餅を切る感触を「鈍し」と表現したことによって、日数の少なくなった暦という意の「古暦」とともに、暮れの生活のあわただしくもけだるい雰囲気をうまく伝えている。季語「古暦」=冬

や やすやすとなまこのごときこをうめり
 明治三二年、長女筆子が生まれたときの印象の句である。「海鼠の如き」には赤ん坊の得体の知れない姿がよくとらえられている。「安々と」という言葉はむろんのこと、父親として初産の安心感を詠んだものと思われる。季語「海鼠」=冬

ゆ ゆけどはぎゆけどすすきのはらひろし
 明治三二年作。「阿蘇の山中にて道を失ひ終日あらぬ方にさまよふ」という前書がある句。このときの体験が「地にあるものは青い薄と、女郎花と、所々にわびしく交る桔梗のみ」という『二百十日』の作品に生かされている。萩と薄だけが生い茂っている草原のひろがりと次々にわき起こる不安とが「行けど」のくり返しで表現されている。季語「萩・薄」=秋

よ ようやくにまたおきあがるふぶきかな
 明治三二年の正月、宇佐・耶馬渓・日田の約一週間の旅をし、前書によれば「峠を下る時馬に蹴られて雪の中に倒れければ」ということが起こった折の作であるという。日田に下る大石峠でのできごとであった。吹雪のなか起き上がった人物に焦点をあてて、白黒の無声映画の一場面を思わせる印象鮮明な句である。季語「吹雪」=冬

ら らちもなくぜんしこえたりころもがえ
 明治三〇年作。「埒もなく」はだらしくなくという意味であるが、決して悪い意味ではなく、軽快な夏の服装になった禅宗の格の高いお坊さんの、いかにも高僧らしい様子を表したものである。当時の禅ブームのさなか禅宗への関心の深さを知ることのできる句である。季語「更衣」=夏

り りょうじょうのくんしとかたるよさむかな
 明治三〇年作。「梁上の君子」とは中国の故事成語で、ドロボーの意味であるが、ここではそれから転じてネズミのことである。屋根裏でガサゴソと音を立てているネズミに向かって語り掛けている人のさまは、「夜寒」の季語とあいまって、わびしくもあり、こっけいでもある。季語「夜寒」=秋

る るりいろのそらをひかえておかのうめ
 明治三二年作。前書「梅花百五句」の一句。「瑠璃色」とは紫がかった紺色のことであり、青色と同意である。よく晴れ渡った青い空のもと、梅の白い花びらがいっそう際立って見えるという色の対照を表現している。見晴らしのよい「岡の梅」の気品とすがすがしさを詠んだものである。季語「梅」=春

れ れっしけんをましてかげろうむらむらとたつ
 明治三〇年作。浅草観音の境内の様子を「子供の時から常に陽炎っていた」と『彼岸過迄』で書いていることや、浅草観音の実在の大道芸人を詠んでいる「抜くは長井兵助の太刀春の風」の句があることから、この句もその大道芸人を描いているのかも知れない。大道芸人扮する「列士」に磨かれた「剣」から陽炎がたっている様子を表現している。季語「陽炎」=春

ろ ろうたんのうときみみほるこたつかな
 明治三二年作。「老 」は老子のことである。しかし、ここでは老人一般のイメージとして受け取ってよい。耳が遠く、感じのいい老人が耳の垢を取っている姿にひかれて作った句である。冬の一時をくつろいでいる雰囲気が「火燵」という季語によく現れている。「老 」という言葉には、その老人をうやまう気持ちが表されている。季語「火燵」=冬

わ わくからにながるるからにはるのみず
 明治三一年作。「水前寺」という前書のある句。水前寺成趣園の池は、阿蘇の伏流水である清水が湧き出ている。つぎつぎに湧いて流れる水のさまを「湧くからに流るゝからに」と的確に表現している。特に「からに」のくり返しが湧水のリズムを捉えている。「春の水」=春

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三島由紀夫における〈老い〉の問題

2014年05月09日 11時53分38秒 | 論文

三島由紀夫における〈老い〉の問題

初出 「方位」17号 三章文庫 1994・9

   初めに
 三島由紀夫(大正十四年~昭和四十五年)の場合、今もなお生きていて、老大家として文壇に声名をほしいままにしている姿を想像できるだろうか。このような想像は繰り返しようのない歴史において禁物であるが、ここで三島についてこう問うてみたい誘惑に駆られるのは私だけであろうか。三島には老大家として名をはせる条件は十分に整っていたといえる。生前の三島はすでに世界の作家として知名度は高く、ノーベル賞候補にも川端康成、井上靖とともに再三推挙されていた。
 しかし、三島由紀夫は自らの生涯を四十五歳で終止符を打っている。これは動かしようのない厳然とした事実である。そのことをどう考えたらよいのだろうか。昭和四十二年一月元旦の「年頭の迷い」と題する『読売新聞』の文章のなかで「西郷隆盛は五十歳で英雄として死んだし、この間熊本へ行って神風連を調べて感動したことは、一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げた加屋晴堅が、私と同年で死んだという発見であった。私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合う」と述べていることから、三島の脳裏では四十代前半という年齢もまんざら捨てられたものではなく、《英雄》としての死を可能ならしめる、まさしく「英雄たる最終年齢」と意識されていたようである。つまり、三島は、衰弱死とか病死とかいった一般的で、しかも自然的な終焉を拒否し、四十五歳という「英雄たる最終年齢」で自決して果てたのである。
 従って、このような事情から言えば、「三島由紀夫のような作家には、いくつかの傑作をものにし、功成り名遂げて、今や筆を捨て悠々自適の老後を送るといったことは考えられないであろう」(「三島由紀夫論」『特集三島由紀夫』・ユリイカ十月号) という岸田秀氏の指摘を待つまでもなく、老大家としての三島はこの世に存在しえず、想像してみることすら無意味であるといえまいか。三島自身、「一体、作家の精神的発展などというものがあるかどうか、私は疑っている」(「一八歳と三十四歳の肖像画」の冒頭) と述べていることも、〈老い〉になんらの意味も見出だせない彼の、作家としての至極当然な言葉であろう。そこに、〈老い〉を拒否した三島由紀夫の作家像を想定してみるのも悪くない。
   一 〈老い〉について
   老いが同時に作家的主題の衰滅を意味する作家はいたましい。肉体的な老いが、彼の思想と感性のすべてに逆らうような作家はいたましい。
 この文章は、谷崎潤一郎について書かれた作家論(「谷崎潤一郎」「日本文学全集」一二・昭四一・一〇)である。〈老い〉と〈作家〉との関係を究明したこの作家論は、三島が一流の批評家であったことを余すことなく示しているが、それ以上に三島の〈老い〉に対する思想を谷崎の文学を通して披歴している点で注目に値する。それは、年齢と能力との関係において、両者が「衰滅」という言葉で言い表されているように下降していくものであると捉えている点である。芸術が年齢とともに成熟、ないし醸成するものであるという一般的な考え方と照らし合わせてみても、彼のこの認識の特異性は明らかであろう。
 この文章のすぐ後に続いて、「(私は自分のことを考えるとゾッとする)」と書いていることからも窺えるように、この文章が、この文章を書いた時の四十一歳という年齢を考慮に入れながら本音で語っているものであることはまちがいなく、この時点での三島が作家としての〈老い〉の問題を真正面から考えようとしていたことを証拠だてるものである。
   二 二つの作家像
   しぶとく生き永らえるものは、私にとって、俗悪さの象徴をなしていた。私は夭折に憧れていたが、なお生きており、この上生きつづけなければならぬことも予感していた。
 この文章は、「林房雄」(『新潮』昭三八・二) という作家論の中の一節である。この作家論もまた、「谷崎潤一郎」論と並んで〈老い〉に関する記述が多く見られる。それは、この二人の作家が「しぶとく生き永らえるもの」の〈象徴〉として存在しているという、まさしくその長生きの秘訣を文学の上からも知って置きたい気持ちがあったからであろう。
 このように、両者の作家論に共通するのは、三島が〈老い〉を「俗悪さの象徴」とみなし、〈老い〉に対する異常なまでの生理的とも言うべき嫌悪をあらわにしていることである。それと同時に、〈老い〉を否定する三島が〈夭折〉への憧憬に触れていることも注意すべきである。つまり、三島由紀夫の中では〈老い〉への嫌悪と〈夭折〉とは表裏一体のものとして把握されているのである。
 三島由紀夫の〈夭折〉への願望についてはしばしば言及されているが、特に磯田光一は評論家としてのデビューを飾った『殉教の美学』(昭39・2) のなかで、三島の〈夭折〉の哲学を明らかにしている。そこで、磯田が〈夭折〉の三島文学における意味を「三島の不幸は、そして彼の本質的な悲劇は、『生』と『死』とを意味づける原理の崩壊によって、つまり、彼から『美しい夭折』の可能性をうばった『敗戦』によってもたらされたのである。そして、彼を作家たらしめたものも、この『不幸』以外の何ものでもなかった」と述べ、美しい〈夭折〉への挫折と、その不幸が三島の作品のモチーフとなっていることを指摘している。これまでの多くの論考も、三島が〈夭折〉への願望を一貫して持ち続けているかのように述べている。
 しかし、次のような文章(『私の遍歴時代』)に接すると、三島が〈夭折〉への願望を一貫して持ち続けていたとは言いがたい。
  早くも、若さとか青春とかいうものはばかばかしいものだ、と考えだしている。それなら「老い」がたのしみか、と言えば、これもいただけない。
 〈夭折〉願望はそもそも「若さ」や「青春」という時代の真っ只中にいて、それ以外の人生を知らない無知からくるものであって、この文章を書いた三十八という歳の三島は自分の青春時代がようやく遠ざかってみえてきていたはずである。そして、思い返せば、三十歳を越えてから鍛え始めた肉体はいや応なく頑強になっていったであろうから、同じ頃『林房雄』論の中で述べているように「なお、生きており、この上生きつづけなければならぬ」ということを当然意識しなければならない。
  私も二、三年すれば四十歳で、そろそろ生涯の計画を立てるべきときが来た。芥川 龍之介より長生きをしたと思えば、いい気持ちだが、もうこうなったら、しゃにむに長生きをしなければならない。(中略)人間、四十歳になれば、もう美しく死ぬ夢は 絶望的で、どんな死に方をしたって醜悪なだけである。それなら、もうしゃにむに生きるほかない。
 従って、この「純文学とは? その他」(『風景』六月号・昭37) という文章もまた、三十七歳の時に執筆されていることから、「もうしゃにむに生きるほかない」生を前に立ち尽して、人生上の選択を余儀なくされている三島由紀夫の姿が浮かび上がっており、この時期が彼にとって〈老い〉を迎えるべきか否かを決定しなければならない人生の《迷いの時代》であったといえる。
 人生の選択を強いられた《迷いの時代》の三島由紀夫の脳裏には、日本のさまざまな作家像の中からは次の二つのタイプをくっきりと浮かび上がらせていたにちがいない。
 一つは「しぶとく生き永らえ」ながら、文学的な成熟をなしえた〈長寿〉型の作家、例えば、谷崎潤一郎のような作家である。
 もう一つは、短命であるがゆえに文学史上に光茫を放った〈夭折〉型の作家、立原道造ような作家である。〈夭折〉には、病死、不慮の死、あるいは自殺の類いがあることを付加して置きたい。
    〇 〈長寿〉型の作家=谷崎潤一郎
 野口武彦氏がすでに「当人は四五歳で自殺するくせに、七九歳まで長生きして『変態小説』を書き続けた谷崎のことがよくわかっていたのだ。というより、作者をその年齢まで長生きさせた谷崎文学の本質に、心のどこかでは羨望の気持ちさえ持っていたのかもしれない」(「谷崎潤一郎」『近代小説の読み方?』有斐閣・一九七九・八)と述べているが、これは、三島の「谷崎潤一郎」論の次のような文章を踏まえての言葉であろう。
  谷崎氏のかかるエロス構造においては、老いはそれほど恐るべき問題ではなかった。(中略)老いは、それほど悲劇的な事態ではなく、むしろ老い=死=ニルヴァナにこそ、性の三昧境への接近の道程があったと考えられる。小説家としての谷崎氏の長寿は、まことに芸術的必然性のある長寿であった。この神童ははじめから、知的極北における夭折への道と、反対の道を歩きだしていたからである。
 野口氏が指摘したように、三島由紀夫は〈長寿〉的な作家としての谷崎の本質を恐ろしいくらいに掴んでいた。それは谷崎の〈長寿〉が「老い=死=ニルヴァナ」という三者の「性の三昧境」を芸術的に昇華したところに必然的に生じるのを見抜いていることである。それほど彼にとって谷崎は〈長寿〉的な作家の典型的な存在だったと言えるだろう。
 また別の機会に書いた「私のきらいな人」(「話の特集」七月号・昭41) という文章では、
  私の来たるべき老年の姿を考えると、谷崎潤一郎型と永井荷風型のうち、どうも後者に傾きそうに思われる。(中略)しかし、私は荷風型に徹するだけの心根もないから、精神としては荷風型に近く、生活の外見は谷崎型に近いという折衷型になることだろう。
と述べている。この文章で大切なことは、三島が〈老い〉を迎えるとしたら、谷崎潤一郎の名前を挙げていることである。つまり、三島由紀夫は一時期にしろ、芸術的成熟にあこがれを持ち、谷崎等の〈長寿〉型の生活を心に描きながら、〈老い〉というものを仮想したこともあったのだということを提起して置きたい。
    〇 〈夭折〉型の作家=立原道造
 ここで立原道造を例として取り上げるのは、三島が自決する数ヶ月前、岸田今日子氏に「詩人として生涯を終わるためには、立原道造のように夭折しなくては………」と語ったとされているからである。三島由紀夫がこのようなことを吐露した背後には、三好達治が立原を追悼して作った「暮春嘆息」という次の詩を思い浮かべていたにちがいない。
  人が 詩人として生涯ををはるためには
  君のやうに聡明に清純に
  純潔に生きなければならなかつた
  さうして君のやうにまた
  早く死ななければ!
 三島が語ったという言葉とこの詩の冒頭の一行とは驚くほど似通っている。というより、三島のあの割腹自殺がまさしくこの詩句の内実に添うかたちで実行されたと言ったらよいだろうか。三好の詩を参考にして言えば、特に「聡明に」「清純に」「純潔に」という言葉が表象している〈純粋性〉に魅かれていたのかもしれない。三島の自決を先取りしたとされる『奔馬』という作品のなかで、拘置されている主人公飯沼勲に対して刑事がいさめる場面があるが、勲はそこであまりにも「純粋すぎる」と評されている。三島由紀夫もまた、勲と同じく、〈純粋さ〉への篤い忠誠心と言えば言える性格の持ち主であったことは疑いのないところである。
  三 三島由紀夫の選択
 三島由紀夫は遅かれ早かれ選ばなければない人生の岐路に立たされて、二つの作家像の一方を強引に選んだ。それはもちろん、立原のような〈夭折〉型の作家であり、しかも実際は芥川龍之介のように自殺という形である。自己の〈純粋性〉保持という形での死を選んだのは、三島が「谷崎氏は、芥川の敗北を見て、持ち前のマゾヒストの自信を以て、『俺ならもっとずっとずっとうまく敗北して、そうして長生きしてやる』と呟いたにちがいない」(「谷崎潤一郎」昭29・9)と述べているように、〈長寿〉型の作家のずるさを見通しているからであり、端的に言えばそれが我慢ならかったからである。ただ、三島にとって四十代での死は〈夭折〉とは言いがたく、むしろ《英雄としての死》として〈老い〉に対処したと言えるだろう。
 このように、三島の作家論を中心とした読み取りでは、三島由紀夫が〈純粋さ〉への憧れから〈夭折〉型の作家を選び、〈老い〉のずるさを拒否したのは明らかである。しかし、単にそれだけの説明で事足れりとすることができるだろうか。この〈老い〉の問題は、彼にとってもっと本質的なものを抱えているような気がする。
   三 《老醜》について
  美しい人は夭折すべきであり、客観的に見て、美しいのは若年に限られているのだから、人間はもし老醜と自然死を待つ覚悟がなければ、できる限り早く死ぬべきなのである。 
                   「アポロの杯」
 三島由紀夫は〈老い〉が人間的成熟をもたらす面を無視して、ひとえに《老醜》と一体化されたものとみなしている。ここでもまた、三島自身のちに『二・二六事件と私』で語っている「老年は永遠に醜く、青年は永遠に美しい」という「生来の癒しがたい観念」を吐露しているのである。
 従って、三島由紀夫にあっては、〈夭折〉への願望は〈老い〉への嫌悪によって導き出されており、〈老い〉への拒否は《老醜》への嫌悪と深く結び付いているということである。
    〇 祖母夏子の存在
 三島由紀夫のこの《老醜》に対する嫌悪感の根は、その経歴によれば、乳幼児期を「病気と老いの匂ひのむせかへる」(『仮面の告白』) 中で過ごすことになる、「誰が見ても異常としか言いようのない環境であった」(岸田秀・前掲書)祖母の存在にある。父平岡梓氏の「倅・三島由紀夫」の中に描かれている祖母夏子は、《老醜》そのものの権化とも言うべき老婆の姿である。
  …‥かくて生まれ落ちるとすぐ産みの親 の私と別れて、絶えず痛みを訴える病床の祖母のそばで成長するという、こんな異常な生活が何年も続くことになりました。私はこれで公威の暗い一生の運命はきまってしまったと思いました。
  ‥‥遊び相手としては男の子は危ないといって、母[祖母]の部屋には、母[祖母]があらかじめ銓衡しておいた三人の年上の女の子を呼びました。/したがって遊びは おのずからママゴトや折紙や積み木などに限定され、それ以外の男の子らしい遊びなど以ての外でありました。
  ‥‥外は明るいのに家の中は暗くしめっぽいので、少し外気を吸わせ陽の光にあててやろうとこっそり連れ出そうとしますと、母[祖母]はとたんに目をさまし、禁足されて、またもとの障子を締め切った暗い陰気な母[祖母]の病床の間に連れ戻されてしまいました。
 この祖母の幼い三島に対する行為は老人特有のエゴイスティックな心情によるものであり、結局老人の孤独性に帰せられるべきものであって、まったく同情できないことはない。しかし、年端も行かない三島を独占し、恣意的に支配した事実は彼が抵抗しえない子どもであったがためにあまりに悲惨すぎはしないか。父梓氏に限らず、「公威の暗い一生の運命はきまってしまった」と思うのはこれまた当然である。
 いずれにしても、その当時の三島は、あまりにも自己中心的で支配欲の強い祖母の枕許でじっと耐えながら、《老醜》の悲惨なさまをしっかと見据えていたにちがいない。この体験は幼児体験であるだけに後々までも根深く痕跡を残し、「人間はもし老醜と自然死を待つ覚悟がなければ、できる限り早く死ぬべきなのである」という認識を育て上げた。
   終わりに
 三島由紀夫の自死が反時代的で、しかも日本刀による矯激な割腹自殺であったことから、内外をはじめ各方面に甚大な反響を呼び起こした。時の首相佐藤栄作が「盾の会」の国粋的活動に好意を持っていたにもかかわらず、「気が狂ったとしか思われない」と発言したことは、当時の一般大衆の反応を代弁してみせたといっても過言ではない。しかし、三島の血みどろな自裁への直接行動の経過がその後次第に明らかにされるに従って、例えば、その当日、市谷駐屯地の東部方面総監室の屋上で自衛隊員に決起を呼びかけたとき、現代文明の利器たるハンド・マイクを持っていなかったことが失笑の対象にもなったが、それこそが現代文明に対するアンチ・テーゼを投げかけているのだということが了解されて、実は一連の行動は用意周到に考え抜かれたものであることがわかってきた。
 三島由紀夫の自決がそれ自身の思想と不可分のものであり、またその帰結であったことは今や疑うべくもない。作家の自殺というものが芥川の例を引くまでもなく、往々にして文学的営為の行き詰まりによる窮死に求められるが、三島の場合はむしろ〈老い〉の思想をふくめた思想の完結、つまり萩原朔太郎が芥川に対して言った言葉よろしく「実に彼は、死によってその『芸術』を完成し、合わせて彼の中の『詩人』を実証した」(「芥川龍之介の死」)といえるものではなかったか。
 従って、三島由紀夫の意識的になされた自死が文学者における〈思想〉と〈行為〉の課題を投げ掛けていることを指摘して置きたい。
註一 拙論「三島由紀夫と〈熊本〉」(『熊本の文学 第三』審美社・平5)参照。ここでは、三島由紀夫がその自決の規範として神風連を想定して いることに触れている。
註二 小島千加子氏が元「新潮」の編集者として回想した文章(「毎日新聞」平1・7・12) のなかで、「初対面の日、人間の美しさに話題が及び、先代菊五郎未亡人が六十を過ぎても男に惚れられるほど美しく、男に限らず、女でも、名妓であったような人はある種の老いの美が出てくるものだ、(中略)と語った。「美は、美であることによってすでに一徳を成す」という定見を持つこの作家は、その時まだ、老いの美を許容する若さの真只中にいた」と述べている。〈老いの美〉にしろ、〈老い〉による芸術的成熟にしろ、若き日の三島はまだ〈老い〉にある種の幻想を抱いていたことは確かである。
註三 三島由紀夫の遺書とも言うべき『豊饒の海』第四巻の最終巻「天人五衰」の結末部分において、輪廻転生の認識者として《老醜》を曝した本多繁邦の前に、綾倉聡子が「老いが衰えの方向でなく、浄化の方向へ一途に走っ」た美しさで現れる。これは、今となっては三島の〈老い〉に対する悲痛な願望ではなかったかと思わずにはおられない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「上海」横光利一

2014年05月09日 11時45分32秒 | 論文
横光利一『上海』解説

初出 「日本の近代小説」 近代文学研究編(改訂版) 
 協和書房 平成2005年3月15日

    上海

横光利一(よこみつりいち) 一八九八(明治三十一)年三月十七日~一九四七(昭和二十二)年十二月三十日。福島県北会津郡東山村(現会津若松市東山町)の東山温泉で父横光梅次郎、母こぎくの一女一男の長男として生まれる。早稲田大学高等予科文科修了、同政治経済学部中退。大正八年に友人の紹介で菊池寛と会い、師事する。大正十三年に早大高等予科の同級で詩の仲間だった小島勗の妹キミと結婚するが、昭和元年に結核で死去。「春は馬車に乗つて」(昭和元年)は妻の療養生活とその死を描いている。大正十二年の「蠅」「日輪」などの、人間を客体化して描こうとする視点、即物的な比喩、翻訳調の文体、乾いた抒情性などによって新時代の作家として認められるようになる。大正十三年に川端康成、片岡鉄兵らと「文芸時代」を創刊。「ナポレオンと田虫」などに見られるような西欧の二十世紀前衛芸術と科学技術の発展による新しい世界観の影響を受けたモダニズム的特徴は「新感覚派」と命名される。昭和五年の「機械」(「改造」)は、何ものかに支配され歯車のように動かされて行く人間の運命を描き、昭和初期の文学史を代表する傑作の一つになる。昭和三年に中国に一ヶ月滞在、この経験を素材に書いた昭和七年『上海』(改造社)は中国現代史の激動の中の人間の集団、その運動を描いた最初の長編である。横光は旧派の自然主義的リアリズムとプロレタリア文学に対決して心理主義に進み、続いて長編『寝園』長編『紋章』などを発表する。十一年にヨーロッパ各地を旅し、その成果は『旅愁』における日本の伝統への回帰の主題となる。敗戦後は戦時下の銃後文芸運動による戦争協力によって戦争責任を問われることとなる。

A お杉は街から街を歩いて参木の家の方へ帰って来た。どこか自分を使う所がないかと、貼り紙の出ている壁を捜しながら。ふと彼女は露路の入口で売ト者を見つけると、その前で立ち停った。昨夜自分を奪ったものは、甲谷であろうか参木であろうかと、また彼女は迷い出したのだ。お杉の前で観て貰っていた支那人の娘は、壁にもたれて泣いていた。売卜者の横には、足のとれかかったテーブルの屋台の上に、豚の油が淡黄く半透明に盛っ上って縮れていた。その縮れた豚の油は、露路から流れて来る塵埃を吸いながら、遠くから伝わる荷車の響きや人の足音に、絶えずぶるぶると懐えていた。小さな子供がその背の高さを、丁度テーブルの面まで延ばしながら、じっと慄える油に鼻のさきをひっつけていつまでも眺めていた。その子の頭の上からは、剥げかかった金看板がぞろりと下り、弾丸に削られた煉瓦の柱はポスターの剥げ痕で、張子のように歪んでいた。その横は錠前屋だ。店いっぱいに拡った錆びついた錠が、蔓のように天井まで這い上り、隣家の鳥屋に下った家鴨の首と一緒になって露路の入口を包んでいる。間もなく、豚や鳥の油でぎらぎらしているその露路の入口から、阿片に青ざめた女達が眼を鈍らせながら、蹌踉と現れた。彼女達は売卜者を見ると、お杉の肩の上から重なって下のブリキの板を覗き込んだ。
 ふとお杉は肩を叩かれで振り返った。すると、参木が彼女の後に立って笑っていた。お杉は一寸お辞儀をしたが耳を中心に彼女の顔がだんだんと赧くなった。
「御飯を食べに行こう。」と参木が云って歩き出した。
 お杉は参木の後から黙って歩いた。もういつの間にか夜になっている街角では、湯を売る店頭の黒い壷から、ほのぼのとした湯気が鮮かに流れていた。そのとき、参木は後から肩を叩かれたので振り向くと、ロシア人の男の乞食が、彼に手を差し出して云った。
「君、一文くれ給え。どうも革命にやられてね、行く所もなければ食う所もなし、困ってるんだ。これじゃ今にのたれ死にだ。君、一文恵んでくれ給え。」
「馬車にしようか。」と参木はお杉に云った。
 お杉は小さな声で頷いた。馬車屋の前では、主婦が馬の口の傍で粥の立食いをやっていた。二人は古いロココ風の馬車に乗ると、ぼってりと重く湿り出した夜の街の中を揺られていった。
 参木はお杉に、自分も首になったことを話そうかと思った。しかし、それではお杉を抛り出すのと同じであった。お杉の失職の原因が彼にあるだけ、このことについては彼は黙っていなければならなかった。参木は愉快そうに見せかけながらお杉に云った。
「僕はあんたから何も聞かないが、多分首でも切られたんだろうね。」
「ええ。あなたがお帰りになってから。直ぐ後で。」
「そう。じゃ、心配することはない。僕の所には、あんたがいたいだけいるがいい。」
 お杉は黙って答えなかった。参木は彼女が何を云いたそうにもじもじしているのか分らなかった。だが、彼には、彼女が何を云い出そうと、今は何の感動も受けないであろうと思った。露路の裏の方で、しきりに爆竹が鳴った。アメリカの水兵達がステッキを振り上げて車夫を叩きながら、黄包車に速力を与えていた。
 馬車が道の四つ角へ来ると、暫くそこで停っていた。一方の道からは塵埃と一緒に、豚の匂いが流れて来た。その反対の方からは、春婦達がきらきらと胴を輝かせながら、揺れ出て来た。またその一方の道からは、黄包車の素足の群れが、乱れて来た。角の交通整理のスポットが展開すると、車輪や人波が、真蒼な一直線の流れとなって、どよめき出した。参木の馬車は動き出した。と、スポットは忽ち変って赤くなった。参木の行く手の磨かれた道路は、春婦の群れも車も家も、真赤な照明を浴びた血のような河となって、浮き上った。
 二人は馬車から降りると人込みの中をまた歩いた。立ったまま動かない人込みは、ただ唾を吐きながら饒舌っていた。二人は旗亭の陶器の階段を昇って一室に納った。テーブルの上には煙草の大きな葉が壺にささったまま、青々と垂れていた。
「どうだ、お杉さん。あんたは日本へ帰りたいと思わんか。」
「ええ。」
「もっとも今から帰ったって、仕様がないね。」
 参木は料理の来るまで、欄干にもたれて南瓜の種を噛んでいた。彼は明日から、どうして生活をするのかまだ見当さえつかないのだ。だが、そうかと云って日本へ帰ればなお更だった。どこの国でも同じように、この支那の植民地へ集っている者は、本国へ帰れば、全く生活の方法がなくなって了っていた。それ故ここでは、本国から生活を奪われた各国人の集団が寄り合いつつ、世界で類例のない独立国を造っている。だが、それぞれの人種は、余りある土貨を吸い合う本国の吸盤となって生活している。此のためここでは、一人の肉体は、いかに無為無職のものと難も、ただ漫然といることでさえ、その肉体が空間を占めている以上、ロシア人を除いては、愛国心の現れとなって活動しているのと同様であった。――参木はそれを思うと笑うのだ。事実、彼は、日本におれば、日本の食物をそれだけ減らすにちがいなかった。だが、彼が上海にいる以上、彼の肉体の占めている空間は、絶えず日本の領上となって流れているのだ。
 ――俺の身体は領土なんだ。此の俺の身体もお杉の身体も。――
 その二人が首を切られて、さて明日からどうしたら良いのかと考えているのである。参木は自分達の周囲に流れて来ている旧ロシアの貴族のことを考えた。彼らの女は、各国人の男性の股から股をくぐって生活している。そうして男は、各国人の最下層の乞食となって。――参木は思った。
 ――それは彼らが悪いのだ。彼らは、自分の同胞を、男の股の下で生活させ、乞食をさせ続けて来たからだ。――と。
 人は、自分の同胞の股の下で生活し、自分の同胞の中で乞食をするよりも、他国人の股の下で生活し、他国人の間で乞食をする方が楽ではないか。――それならと参木は考えた。
 ――あのロシア人達に、われわれは同情する必要は少しもない。――と。
 しかし、参木は.お杉と自分が誰を困らせたことがあるだろうと考えた。すると、彼は、鬱勃として揺れ出して来ている支那の思想のように、急に専務が憎むべき存在となって映り出した。だが、彼は、自分の上役を憎むことが、彼自身の母国そのものを憎んでいるのと同様な結果になると云うことについては、忘れていた。然も、母国を認めずして、上海でなし得る目本人の行動は、乞食と売春婦以外にはないのであった。
B 高重の工場では、暴徒の襲った夜以来、殆ど操業は停止された。しかし、反共産派の工人達は機械を守護して動かなかった。彼らは共産派の指令が来ると、袋叩きにして川へ投げた。工場の内外では、共産派の宣伝ビラと反共派の宣伝ビラとが、風の中で闘っていた。
 高重は暴徒の夜から参木の顔を見なかった。もし参木が無事なら、顔だけは見せるにちがいないと思っていた。だが、それも見せぬ。――
 高重は工場の中を廻ってみた、運転を休止した機械は、昨夜一夜の南風のために錆びついていた。工人達は黙々とした機械の間で、やがて襲って来るであろう暴徒の噂のために、蒼ざめていた。彼らは列を作った機械の間へ虱のように挟まったまま、錆びを落した。機械を磨く金剛砂が湿気のために、ぼろぼろと紙から落ちた。すると、工人達は口々にその日本製のやくざなぺーパーを罵りながら、静ったベルトの掛けかえを練習した。綿は彼らの周囲で、今は始末のつかぬ吐潟物のように湿りながら、いたる所に塊っていた。
 高重は階上から工場の周囲を見廻した。駆逐艦から閃めく探海灯が層雲を浮き出しながら、廻っていた。黒く続いた炭層の切れ目には、重なった起重機の群れが刺さっていた。密輸入船の破れた帆が、真黒な翼のように傾いて登っていた。と、そのとき、炭層の表面で、襤褸の群れが這いながら、滲み出るように黒々と拡がり出した。探海灯がそれら背中の上を疾走すると、濫襖の波は扁平に、べたりと炭層へへばりついた。
 来た。――
 高重は脊を低めて階下へ降りようとした。すると、倉庫と倉庫の間から、声を潜めて馳けている黒い一団が、発電所のガラスの中へ辷っていた。それは逞しい兇器のように、急所を狙って進行している恐るべき一団にちがいないのだ。
 高重はそれらの一団の背後に、芳秋蘭の潜んでいることを、頭に描いた。彼は彼らの計画の裏へ廻って出没したい欲望を感じて来た。彼らは何を欲しているのか。ただ今は、工場を占領したいだけなのだ。――
 高重は電鈴のボタンを押した。すると、見渡す全工場は、真暗になった。喚声が内外二ヵ所の門の傍から、湧き起った。石炭が工場を狙って、飛び始めた。探海灯の光鋩が廻って来ると、塀を攀じ登っている群衆の背中が、蟻のように浮き上った。
 高重は彼らを工場内に導き入れることの、寧ろ得策であることを考えた。這入れば袋の鼠と同様である。外から逆に彼らを閉塞すれば、それで良いのだ。もし彼らが機械を破壊するなら、損失はやがて彼らの上にも廻るだろう。――彼は階段を降りていった。すると、早や場内へ雪崩れて来た一団の先端は、機械を守る一団と、衝突を始めていた。
 彼らは叫びながら、胸を垣のように連ねて機械の間を押して来た。場内の工人達は、押され出した。印度人の警官隊は、銃の台尻を振り上げて、押し返した。格闘の群れが、連った機械を侵食しながら、奥へ奥へと進んでいった。と、予備品室の錠前が引きち切られた。場外の一団は、その中へ殺到すると、棍棒形のピッキングステッキを奪い取った。彼らは再びその中から溢れ出すと、手に手に、その鉄の棍棒を振り上げて新しく襲って来た。
 彼らは精紡機の上から、格闘する人の頭の上へ、飛び降りた。木管が、なげつけられる人の中を、飛び廻った。ハンク・メーターのガラスの破片が、飛散しながら、裸体の肉塊へつき刺さった。打ち合うラップボードの音響と叫喚に攻め寄せられて、次第に反共産派の工人達は崩れて来た。
 高重は電話室へ馳け込むと、工部局の警官隊へ今一隊の増員を要求した。彼は引き返すと、急に消えていた工場内の電灯が明るくなった。瞬間、混乱した群衆は、停止した。と、再び、怒濤のような喚声が、張り上った。高重は、まだ侵入されぬローラの櫓を楯にとると、頭の上で唸る礫を防ぎながら、叫び出した。
「警官隊だ。ふん張れ、機関銃だ。」
 しかし、それと同時に、周囲の窓ガラスが爆音を立てて崩壊した。と、その黒々とした巨大な穴の中から、一団の新しい群衆が、泡のように噴き上った。彼らは見る間に機械の上へ飛び上がると、礫や石灰を機械の間へ投げ込んだ。それに続いて、彼らの後から陸続として飛び上がる群衆は、間もなく機械の上で盛り上った。彼らは破壊する目的物がなくなると、社員目がけて雪崩れて来た。
 反共派の工人達はこの団々と膨脹して来る群衆の勢力に、巻き込まれた。彼らは群衆と一つになると、新らしく群衆の勢力に変りながら、逆に××社員を襲い出した。××社員は、今はいかなる抵抗も無駄であった。彼らは印度人の警官隊と一団になりながら、群衆に追いつめられて庭へ出た。すると、行手の西方の門から、また一団の工人の群れが、襲って来た。彼らの押し詰った団塊の肩は、見る間に塀を突き崩した。と、その倒れた塀の背後から、兇器を振り上げた新しい群衆が、忽然として現れた。彼らの怒った口は、鬨の声を張り上げると、××社員に向って肉迫した。腹背に敵を受けた社員達は、最早や動くことが出来なかった。高重は仲間と共に××××を群衆に差し向けた。
 ――今は最後だ。
 彼の引金にかかった理性の際限が、群衆と一緒に、バネのように伸縮した。と、その先端へ、乱れた蓬髪の海が、速力を加えて殺到した。同時に、印度人の警官隊から銃が鳴った。続いて高重達の一団から××××が、――群衆の先端の一角から、叫びが上った。すると、その一部は翼を折られたように、へたばった。彼等は引き返そうとした。と、後方の押し出す群れと、衝突した。彼らは円弧を描いた二つの黒い潮流となって、高重の眼前で動乱した。方向を失った背中の波と顔の波とが、廻り始めた。逃げる頭が塊った胴の中へ、潜り込んだ。倒れた塀に躓いて人が倒れると、その上に盛り上って倒れた人垣が、暫く流動する人波の中で、黒々と停って動かなかった。 
C 参木はお杉が習い覚えた春婦の習慣を、自分に押し隠そうと努めているのを見ると、それに対して、客のようになり下ろうとした自分の心のいまわしさに胸が冷めた。しかし、あんなにも自分を愛してくれたお杉、その結果がこんなにも深く泥の中へ落ち込んでしまったお杉、そのお杉に暗がりの中で今逢って、ひと思いに強く抱きかかえてやることも出来ないということは、何という良心のいたずらであろう。前にはお杉を、もしや春婦に落すようなことがあってはならぬと思って抱くこともひかえていたのに、それに今度はお杉が春婦に落ってしまっていることのために、抱きかかえてやることも出来ぬとは。――
「お杉さん、マッチはないか。一ぺんお杉さんの顔が見たいものだね。良かろう。」
「いや。」とお杉は.云った。
「しかし、長い間別れていたんじゃないか。こんなに顔も見ずに暗がりの中で饒舌っていたんじゃ、まるで幽霊と話しているみたいで気味が悪いよ。」
「だって、あたし、こんなになってしまっているとこ、あなたに今頃見られるのいやだわ。」
 勿論そうであろうとは分っていたが、そんなに直接お杉から口に出して云われると、参木はきびしく胸の締って来るのを感じた。
「いいじゃないか、あんたと別れた夜は、あれは僕も銀行を首になるし、君もお柳のとこを切られた日だったが、男はともかく女は首になっちゃ、どうしようもないからね。」
 しかし、参木はそんなにお杉に優しげな言葉を云いながらも、ともすると、まだ物欲しげにごそごそお杉の方へ動きたがる自身の身体を感じると、もうひと思いにお杉を暗の中に葬って、このまま眠ってしまおうと努力した。
「参木さん、あなたお柳さんにお逢いになって。」
「いや、逢わない。あの夜あんたのことで喧嘩してから一度もだ。」
「そう。あの夜はお神さん、それやあたしにひどいことを云ったのよ。」
「どんなことだ?」
「いやだわ、あんなこと。」
 嫉妬にのぼせたお柳のことなら、定めて口にも云えないことを云ったのであろうと参木は思った。あのときは、風呂場ヘマッサージに来たお柳をつかまえて、戯れにお杉を愛していることを、自分はほのめかしてやったのだった。すると、お柳はお杉を引き摺り出して来て自分の足もとへぶつけたのだ。それから、自分はお杉に代ってお柳に詫びた。すると、ますますお柳は怒ってお杉の首を切ったのだ。ああ、しかし総てがみんな戯れからだと参木は思った。それに自分はお杉のことは忘れてしまって、いつの間にか尽く秋蘭に心を奪われてしまっていたのである。しかし、今は彼は、だんだんお杉が身内の中で前のように暖まって来るのを感じると心も自然に軽く踊って来た。
「お杉さん、もう僕は眠ってしまうよ。今日は疲れてもうものも云えないからね。その代り、明日からこのまま居候をさせて貰うかもしれないが、いいかねあんたは?」
「ええ、お好なまでここにいてね。その代り、汚いことは汚いわ。明日になって明るくなればみんな分ることだけど。」
「汚いのは僕はちっともかまわないんだが、もうここから動くのは、だんだんいやになって来た。迷惑なら迷惑だと今の中に云ってくれたまえ。」
「いいえ、あたしはちっともかまわないわ。だけど、ここは参木さんなんか、いらっしゃれるところじゃないのよ。」
 参木は自分のお杉に云ったことが、直ぐそのまま明日から事実になるものとは思わなかった。だが、事実になればなったで、もうそれもかまわないと思うと、彼は云った。
「しかし、一人でいるより、今頃こんな露路みたいな中じゃ、二人でいる方が気丈夫だろう。それとも、お杉さんが僕の家へ来ているか、どっちにしたってかまわないぜ。」
 参木は何とお杉が返事をするであろうと思って待っていると、彼女は黙ったまま、またしくしく暗がりの中で泣き始めた。参木はお杉がお柳の家で初めてそのように泣いたときも、いま自分が云ったと同様な言葉を云ってお杉を慰めたのを思い出した。しかも、自分の言葉を信じていく度に、お杉はだんだん不幸に落ち込んでいったのだ。
 しかし、彼がお杉を救う手段としては、あのときも、その言葉以外にはないのであった。生活の出来なくなった女を生活の出来るまで家においてやることが悪いのなら、それなら自分は何をして良いのであろう。ただ一つ自分の悪かったのは、お杉を抱きかかえてやらなかったことだけだ。だが、それはたしかに、悪事のうちでも一番悪いことにちがいなかったと参木は思った。
 抱くということ、――それは全くどんなに悪かろうとも、お杉にとっては抱かぬよりは良いことだったのだ。それにしても、まアお杉を抱くようになるまでには、自分はどれだけ沢山なことを考えたであろう。
 しかも、それら数々の考えは、尽く、どうすればお杉を、まだこれ以上虐め続けていかれるであろうかと考えていたのと、どこ一つ違ったところはないのであった。
「お杉さん、こちらへ来なさい。あんたはもう何も考えちゃ駄目だ。考えずにここへ来なさい。」
 参木はお杉の方へ手を延ばした。すると、お杉の身体は、ぽってりと重々しく彼の両手の上へ倒れて来た。

 解 説 「上海」は、横光利一とって初めての連載小説であり、初めての長編小説である。昭和三年十一月から昭和六年十一月まで断続的ながら七回にわたって『改造』に発表された。昭和七年七月改造社から単行本として発行された後、かなりの改稿がなされ、昭和十年三月、書物展望社より決定版が再刊された。
東洋随一の国際都市で十年間を過ごしている参木は銀行の専務の不正行為を隠す仕事をしている。しかも、死に魅入られ、日に一度は死ぬ方法を考えている。参木の友人である甲谷はシンガポールの材木会社に勤務し、将来は為替仲買人となることを夢みている。お杉は参木のちょっとした戯れから勤めていたトルコ風呂を首にされて、上海の巷に放り出されてしまう。参木もまた、専務にたてつき、ついに辞職して巷の人となる。職を失って拠るところを失った男は乞食に、女は売春婦になるよりほかない〔A〕。甲谷は意中の人である宮子のいるダンスホールで、アジア主義者の山口から「死人拾い」という奇妙な商売に心動かされる。また、そのダンスホールに出入りしている共産党の女性闘士、芳秋蘭の美貌にうたれる。お杉の前から姿をくらました参木は山口から預けられた亡命ロシア人女性オルガを持てあます。その後、参木は甲谷の兄高重に救われ、刻一刻と変化する国際綿花市場の仕事に再就職する。東洋紡績会社に勤める高重は夜業の見回りの途中、労働者を組織し、ストライキの機運を盛り上げている芳秋蘭の存在を参木に教える。ついに暴動による破壊が始まり、その激化のなかで傷つきかけた芳秋蘭を助ける。部屋まで送り届けた参木は芳秋蘭の論理と弁舌に圧倒され、かすかな恋の芽生えを感じる。革命の都市化しつつあるなか、ストライキの群れに向かって発砲された高重の銃弾が一人の死者をだすと、対日運動は全市に拡大する〔B〕。そして数万に膨れ上がった反帝運動の群集に英国官憲の銃弾が浴びせられて、動乱は最高潮に達する。ついに、甲谷は山口の居候の身となり、参木も今は、乞食同然となる。参木は荒廃した上海を彷徨するうちに、売春婦となったお杉の許に辿り着き、お杉を闇の中で初めて抱き寄せる〔C〕。
 横光が上海に渡ったのは芥川龍之介の勧めによる。後に芥川の死を受けて、自らその系譜の一翼を担おうとする横光にとって、芥川による上海への勧めというのは「上海」という作品を考察する上で無視できない。この勧めが芥川のどういう意図によるものなのかはともかく、横光が上海行を試みたのは芥川の「上海游記」の問答にみられる、当時における西洋と東洋の課題を考察する材料があると認識した結果であろう。この小説に描かれた〈五・三十事件〉は世界史的にも中国民衆の反帝国主義運動の絶頂と位置付けられているものである。
改造社の〈上海紀行を書け〉との依頼に対して、「私は上海のいろいろの面白さを上海ともどこともせずに、ぽっかり東洋の塵埃溜にして了つて一つさう云う不思議な都会を書いてみたいのです。」として「ぢくぢくかかつて長編にしたい」と主張するほど、帰国後すでに長編の構想が沸々として湧き上っていたと思われる。横光が「上海と名づけられた長編の題をきらっていた」という証言は、現実の上海ではなく、あくまでその上海を捨象した〈東洋の塵埃溜〉という〈不思議な都会〉に強く拘っていたことを示すものである。
異民族清に支配され、しかも体制が弛みかけていた中国の民衆、特に上海の民衆は領土意識を持っていなかったこと(田島英一「上海」PHP新書)など、当時の日本人の常識に反する事実が明らかになってきている。今日、このような歴史的背景を抜きにして作品「上海」を読んでみると、欲望と策謀と思想の渦巻く〈東洋の塵埃溜〉という〈不思議な都会〉の様態を描き切っていると言わなければならない。冒頭の章ですでに描かれているように、街には売春婦がたち、乞食があてもなくうろつき、本国では全く生活の方法がない種々雑多な人間が寄り合い、まさしく物も人も〈塵埃溜〉のように暮らしている。この〈東洋の塵埃溜〉という〈不思議な都会〉に放り込まれているのが参木である。もちろん、参木を取り巻く人々の群像は多彩で、参木一人に絞り込むことはできないものの、最終章で参木が幾多の遍歴を経ながらお杉の懐に転がり込むことの意味は大きい。
参木が最後まで手離さないものは人間主義的な倫理観である。アジア主義の山口やコミュニストの芳秋蘭にしても、甲谷や高重のような合理主義者にしても、参木の人間主義を引き立たせる役目を果たしている。意に反して、お杉という一人の女性を不幸に陥れることになる人間主義的な「良心」は、何もかも腐敗させていく〈東洋の塵埃溜〉の中で唯一腐敗を免れているものである。この人間主義を生み出しているのは本国の母親に対する思いである。「故郷では母親は今頃は」という形で心の片隅に絶えず揺曳している母の存在が「俺の身体は領土なんだ。この俺の身体もお杉の身体も。」という領土意識の基盤になっているのはいうまでもない。流民化し、〈塵埃溜〉に埋没していけばいくほど、領土意識、愛国意識をより先鋭化していくのは、その意識によってしか、〈塵埃溜〉の中では参木の主体性を支えることができないからである。「もうこの支那で、何か希望らしい希望か理想らしい理想を持つとしたら、それは何も持たないと云うことが、一番いいんじゃないか」という逆説はそれこそ身一つしか頼るべきものがないということを意味している。お杉の日本的〈身体〉に回帰するのは、〈身体〉こそ〈領土〉だという認識を手放さないものの当然の帰結である。「上海」は何もかも呑み込んでしまう〈塵埃溜〉の、何も希望を見いだせない状況の中でいかに行くべきかの課題を追求した小説である。「俺が生きているのは、孝行なのだ。俺の身体は親の身体だ、親の。」という認識を持ち続ける限り、みずからの意志で〈身体〉を処理することができない。そのことが脆い頼りないと評されるゆえんである。しかし、この認識を梃子に自己の「良心」を見失うことなく生きるぬく参木の姿には一つの生の原型を見ることができる。
【参考文献】
 栗坪良樹編「横光利一」(『鑑賞日本現代文学14』角川書店 昭和五十六年九月)
 菅野昭正「解説 さまよう《上海の日本人》」(横光利一『上海』講談社文芸文庫 一九九一年九月)
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする