【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会副会長 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「俳句大学」学長 「火神」主宰 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞受賞

明治初期の熊本(熊本駅周辺)   

2023年10月29日 22時07分00秒 | 文学顕彰

明治初期の熊本(熊本駅周辺)    永田満徳

独鈷山:竹崎茶堂、順子夫妻の墓が山麓の「竹崎公園」の一画にある。

花岡山:1876年(明治9年)1月30日、「熊本バンド」が花岡山で行われた祈祷会で「奉教趣意書」に署名し、 キリスト教の教えを日本全国に宣布しようと誓約した。

本山:日新堂・広取黌跡。明治初期の本山村は実学党系の竹崎律次郎夫妻の私塾日新堂、嘉悦氏房の広取黌(広取英語塾)があり、幾多の人材を輩出した。

熊本の明治初期の人物群像

 まず、人物としては特に独鈷山に墓所がある、木下順二の『風浪』の主人公のモデル・竹崎茶堂である。竹崎茶堂に象徴される「実学党」の政策は明治六年頃になると中央政府の意図を乗り越えるものであった。

もちろん、その急激な政策を快く思わなかった中央政府から派遣された県令によってわずか三年で挫折し、茶堂は熊本近郊に退くことになるにしても、その実学党の政策のもとに建てられた洋学校に招かれたジェインズは当時の青年に対してすぐれて感化力の強い魅力的な人物であった。現にその洋学校のグループのなかからは、例えば海老名弾正・徳富蘇峰らのまったく新しい明治の青年が生み出され、日本の近代化に大きな役割を果たすことになる。

一方には、保守主義的傾向の中でも得意な存在で、神がかりの復古・攘夷主義に固執する「敬神党」の集団があった。

また、同じく保守的傾向を持つ「学校党」も敬神党ほど守旧的ではないけれど、かつては藩支配権力を独占し、実学党政権下では鳴りを潜めている集団が存在していた。

明治の〈熊本〉が全国的に見ても、あまりにも新旧の典型を示していて驚くばかりであるが、きわめて保守的で、ラディカルな人物を輩出し、明治初期の三者三様の人間模様が展開されていたと言わざるを得ない。

熊本の明治初期の事件

また、事件については、熊本では明治9年の三つの事件、いわゆる「神風連((敬神党)の乱」、「熊本バンド事件」、「西南の役」が相次いで起こっている。

神風連の乱」は神官大田黒伴雄を首領とする170余名が手に刀剣と槍のみで挙兵した明治維新後の復古的攘夷派の象徴的な士族反乱で、〈神秘的秘密結社〉(蘇峰)の乱ともいうべきという評価があるだけに特殊な事件であった。

熊本バンド事件」は、花岡山の頂で、洋学校の生徒30余名が「奉教趣意書」を読み上げ署名したキリスト教入信宣言で、日本プロテスタントの夜明けといわれる事件であった。これらの事件もまた同じ熊本に出現したあまりにも対処的な現象であって、いずれも当時の日本全体を揺り動かしたものとして知られている。

さらに、明治期の最大事件である「西南の役」は、花岡山も薩摩軍の陣地となっているが、熊本では学校党と民権党は相反する思想であったにもかかわらず、実学党をのぞく士族のほとんどが参加した戦争で、明治政府の「有司専制」体制を武力的反抗によって打倒できると考えた一連の士族反乱の典型と言っていい。

これらの事件は、明治初期の世相の典型であり、日本の維新期の縮図であった。

熊本の明治初期の土地

最後に、土地としては、「風浪」の私塾をモデルにしている竹崎茶堂の私塾「日新堂」があった場所に注目したい。この私塾は茶堂が官を辞して後開設した私学校で、新式の教授法を実施して、新時代の人物養成を志したことで有名である。この私塾は本来「本山村」にあったが、木下順二はこの本山という土地について、西南戦争当時「一つの時代の終りと次の時代の始まりを鮮かに示している点において、本山村は一つの典型であった」(「『城下の人』の思想」『海』1975年4月号)という認識を示している。この認識は茶堂の私塾「日新堂」もまた時代の〈典型〉であるという意味をも物語っていると言えないだろうか。

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