写真:島原鉄道南線最期の夜、加津佐駅に到着した下り最終139列車のサボ
平成20年3月31日、島原鉄道南線(島原外港―加津佐間)は最期の日を迎えた。
翌4月1日付けで、南線は廃止となる。
前日の3月30日日曜日、僕は涙雨に霞む島原鉄道南線に乗車した。
これで「お別れ」のつもりだったが、「また乗りたい、キハ20にまた会いたい、島鉄南線の最期を見届けたい!」という想いが募り我慢出来なくなった僕は、翌日の島鉄南線最期の夜にまた乗車することを、雨の有明海を渡る熊本港行き九商フェリーの船中で決心した。
「また明日、来るよ。最後にまた会おう!」
という訳で平成20年3月31日月曜日、
職場に無理を云って翌日の休暇を貰った僕は終業と同時にクルマを飛ばして熊本港フェリーターミナルへと向かった。
熊本港19:10発の島原行き九商フェリー最終便は定時運航で1時間後に島原港に入港。
暗い海の向こうに島原の街灯りが見えてくると、気もはやる。
島原鉄道南線の終着駅加津佐行き最終列車の島原外港駅発車時刻は20:18。フェリーターミナルから外港駅までは距離にして数百メートルだが、途中に信号付き横断歩道が2箇所あるので乗り継ぎ時間は約10分は見ておきたい。つまりギリギリである。
ここまできてタッチの差で最終列車を逃したりしたら、一生悔やんでも悔やみきれまい。
接岸したフェリーの舷側にタラップが固定されるのももどかしく、走ってフェリーターミナルを出て島原外港駅を目指す。
しかし運悪く赤信号に捕まり、信号待ちの最中、踏み切りの警報機の音が聞こえ3本ヒゲのキハ20が島原外港駅を発車していくのが見えて心臓が止まりそうになるが、
「落ち着け!あれは逆方向の上り列車だ。ということは、下りの加津佐行きは隣の南島原駅であの列車と交換する筈だからまだ暫くは到着しないな!ああ、ダイヤが乱れて遅れてるみたいで助かった…」
島原外港駅に着いたが、加津佐行き最終列車はなかなか到着しない。やはりかなりダイヤに遅れが生じているようだ。
「やっぱり最期の日だからな…名残り乗車の乗客が多くて混乱してるんだろうな」
最終列車が遅れる分には全く問題がない、いやむしろ有り難い。
それだけ長く、島原鉄道南線が生き永らえるということなのだから。
最終列車に乗る人、見送る人で混みあっているだろうと思っていた島原外港駅は、意外にも閑散としていた。
窓口も既に閉まっており、職員の列車見送りもないらしい。プラットホームには撮影準備中の鉄道ファンが数人と、名残り乗車と思われる乗客が数人。
結局待つこと20分、彼方から警笛を鳴らしながら加津佐行き下り139列車が到着した。
島原鉄道南線の下り最終列車は、島鉄オリジナルカラーのキハ2018と2019の編成。奇しくも昨日乗車したのと同じ車輌。
最終列車はお別れの乗客で超満員かと思っていたら、思いのほか空いている。
平日夜であることと、終着駅の加津佐まで乗って行ったらもう今夜中は帰りの交通手段がなく取り残されてしまう為だろうか。
それでも車中にはテレビ局の取材チームや新聞社の腕章を付けた面々が乗り込み、乗客に取材を敢行している。
最終列車の乗客は、熱心な鉄道愛好家よりは地元住人の方々が目立った。あちらこちらのボックス席から、「本当に今夜で終わりなんだね」「明日から寂しくなる」といった島原訛りの言葉が聞こえてくる。
そして、暗い車窓からは線路沿いの家の窓や道路から手を振る人たちのシルエットと、駅毎に出迎えて最終列車を見送る人たちの姿。
沿線の人々に見守られ見送られながら、加津佐行き最終139列車は通い慣れた南線を進んで行く。
車掌さんから購入した、加津佐までの乗車券。
諫早から加津佐までの全駅名がズラリと並んだ長いきっぷが売られるのも、今夜が最後。
キハ20の乗降ドアに貼られた、「まもなく100周年」のステッカー。
島原鉄道は明治41(1908)年5月5日に設立された。
会社設立100周年までまさにあと約1ヶ月に迫っているこの時期に、島原鉄道南線は廃止の時を迎えようとしている。
加津佐行き最終139列車は、坦々と最期の夜を走る。
空いていた車内には駅毎に沿線の人々が乗り込んできて、いつの間にか満員になった。
「懐かしいね、高校に通うのに毎日乗ってたよ」
「テニス部の誰某さんは龍石駅から乗ってきてたよね。夏休みに白浜海水浴場前駅でタバコ吸ってるのを見つかって停学食らったのは○○君だっけ?」
などと微笑ましい(?)思い出話に花を咲かせている元・地元の高校生だった皆さんを見ていると、島原鉄道が人生の一部になっていることに羨ましさを感じたりする。
原城駅で上り列車と最後の列車交換を行い、いよいよ終着駅が近づいた。列車の遅れは既に30分程に達していたが、きっと乗客の誰もがこう思っていたに違いない。
「このままいつまでも、永遠に終着駅なんかに着かなければいいのに。」
それでも時間は無情に過ぎて、列車もその使命を全うすべく、己の運命には無関心であるかの如く走り続ける。
午後10時頃、139列車は約30分遅れで終着駅加津佐に到着した。
車内では島原鉄道南線を称える拍手が沸き起こった。加津佐駅では、ホームを埋め尽くす人々が最終列車の到着を出迎えた。
平成20年3月31日夜、島原鉄道南線はその歴史に幕を下ろした。
やがて到着した列車からはヘッドマークが取り外され、先に到着していた旧国鉄色キハ2013と2016の編成との連結作業が始まり、加津佐駅の興奮は最高潮に達していく。
島鉄色+旧国鉄色で4輌編成を組んだキハ20の回送列車が、加津佐駅を発車していく。
これが加津佐駅が送り出す最後の列車。
島原鉄道南線加津佐駅は名実共に最期の時を迎えた。
感極まったのか、感謝と別れの言葉を絶叫する声や万歳三唱も…
列車が去った加津佐駅から、出迎え客も三々五々引き揚げて行き、やがて人けの無くなった構内が照明に煌々と照らし出されていた。
「さて…僕も帰らなくちゃ、歩いて。」
→ 「島原鉄道 南線35.3キロの野辺送り」 に続きます
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平成20年3月31日、島原鉄道南線(島原外港―加津佐間)は最期の日を迎えた。
翌4月1日付けで、南線は廃止となる。
前日の3月30日日曜日、僕は涙雨に霞む島原鉄道南線に乗車した。
これで「お別れ」のつもりだったが、「また乗りたい、キハ20にまた会いたい、島鉄南線の最期を見届けたい!」という想いが募り我慢出来なくなった僕は、翌日の島鉄南線最期の夜にまた乗車することを、雨の有明海を渡る熊本港行き九商フェリーの船中で決心した。
「また明日、来るよ。最後にまた会おう!」
という訳で平成20年3月31日月曜日、
職場に無理を云って翌日の休暇を貰った僕は終業と同時にクルマを飛ばして熊本港フェリーターミナルへと向かった。
熊本港19:10発の島原行き九商フェリー最終便は定時運航で1時間後に島原港に入港。
暗い海の向こうに島原の街灯りが見えてくると、気もはやる。
島原鉄道南線の終着駅加津佐行き最終列車の島原外港駅発車時刻は20:18。フェリーターミナルから外港駅までは距離にして数百メートルだが、途中に信号付き横断歩道が2箇所あるので乗り継ぎ時間は約10分は見ておきたい。つまりギリギリである。
ここまできてタッチの差で最終列車を逃したりしたら、一生悔やんでも悔やみきれまい。
接岸したフェリーの舷側にタラップが固定されるのももどかしく、走ってフェリーターミナルを出て島原外港駅を目指す。
しかし運悪く赤信号に捕まり、信号待ちの最中、踏み切りの警報機の音が聞こえ3本ヒゲのキハ20が島原外港駅を発車していくのが見えて心臓が止まりそうになるが、
「落ち着け!あれは逆方向の上り列車だ。ということは、下りの加津佐行きは隣の南島原駅であの列車と交換する筈だからまだ暫くは到着しないな!ああ、ダイヤが乱れて遅れてるみたいで助かった…」
島原外港駅に着いたが、加津佐行き最終列車はなかなか到着しない。やはりかなりダイヤに遅れが生じているようだ。
「やっぱり最期の日だからな…名残り乗車の乗客が多くて混乱してるんだろうな」
最終列車が遅れる分には全く問題がない、いやむしろ有り難い。
それだけ長く、島原鉄道南線が生き永らえるということなのだから。
最終列車に乗る人、見送る人で混みあっているだろうと思っていた島原外港駅は、意外にも閑散としていた。
窓口も既に閉まっており、職員の列車見送りもないらしい。プラットホームには撮影準備中の鉄道ファンが数人と、名残り乗車と思われる乗客が数人。
結局待つこと20分、彼方から警笛を鳴らしながら加津佐行き下り139列車が到着した。
島原鉄道南線の下り最終列車は、島鉄オリジナルカラーのキハ2018と2019の編成。奇しくも昨日乗車したのと同じ車輌。
最終列車はお別れの乗客で超満員かと思っていたら、思いのほか空いている。
平日夜であることと、終着駅の加津佐まで乗って行ったらもう今夜中は帰りの交通手段がなく取り残されてしまう為だろうか。
それでも車中にはテレビ局の取材チームや新聞社の腕章を付けた面々が乗り込み、乗客に取材を敢行している。
最終列車の乗客は、熱心な鉄道愛好家よりは地元住人の方々が目立った。あちらこちらのボックス席から、「本当に今夜で終わりなんだね」「明日から寂しくなる」といった島原訛りの言葉が聞こえてくる。
そして、暗い車窓からは線路沿いの家の窓や道路から手を振る人たちのシルエットと、駅毎に出迎えて最終列車を見送る人たちの姿。
沿線の人々に見守られ見送られながら、加津佐行き最終139列車は通い慣れた南線を進んで行く。
車掌さんから購入した、加津佐までの乗車券。
諫早から加津佐までの全駅名がズラリと並んだ長いきっぷが売られるのも、今夜が最後。
キハ20の乗降ドアに貼られた、「まもなく100周年」のステッカー。
島原鉄道は明治41(1908)年5月5日に設立された。
会社設立100周年までまさにあと約1ヶ月に迫っているこの時期に、島原鉄道南線は廃止の時を迎えようとしている。
加津佐行き最終139列車は、坦々と最期の夜を走る。
空いていた車内には駅毎に沿線の人々が乗り込んできて、いつの間にか満員になった。
「懐かしいね、高校に通うのに毎日乗ってたよ」
「テニス部の誰某さんは龍石駅から乗ってきてたよね。夏休みに白浜海水浴場前駅でタバコ吸ってるのを見つかって停学食らったのは○○君だっけ?」
などと微笑ましい(?)思い出話に花を咲かせている元・地元の高校生だった皆さんを見ていると、島原鉄道が人生の一部になっていることに羨ましさを感じたりする。
原城駅で上り列車と最後の列車交換を行い、いよいよ終着駅が近づいた。列車の遅れは既に30分程に達していたが、きっと乗客の誰もがこう思っていたに違いない。
「このままいつまでも、永遠に終着駅なんかに着かなければいいのに。」
それでも時間は無情に過ぎて、列車もその使命を全うすべく、己の運命には無関心であるかの如く走り続ける。
午後10時頃、139列車は約30分遅れで終着駅加津佐に到着した。
車内では島原鉄道南線を称える拍手が沸き起こった。加津佐駅では、ホームを埋め尽くす人々が最終列車の到着を出迎えた。
平成20年3月31日夜、島原鉄道南線はその歴史に幕を下ろした。
やがて到着した列車からはヘッドマークが取り外され、先に到着していた旧国鉄色キハ2013と2016の編成との連結作業が始まり、加津佐駅の興奮は最高潮に達していく。
島鉄色+旧国鉄色で4輌編成を組んだキハ20の回送列車が、加津佐駅を発車していく。
これが加津佐駅が送り出す最後の列車。
島原鉄道南線加津佐駅は名実共に最期の時を迎えた。
感極まったのか、感謝と別れの言葉を絶叫する声や万歳三唱も…
列車が去った加津佐駅から、出迎え客も三々五々引き揚げて行き、やがて人けの無くなった構内が照明に煌々と照らし出されていた。
「さて…僕も帰らなくちゃ、歩いて。」
→ 「島原鉄道 南線35.3キロの野辺送り」 に続きます
小惑星探査機「はやぶさ」情報:提供 JAXA宇宙科学研究本部
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「はやぶさ2を実現させよう」勝手にキャンペーン
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以前最終で加津佐に降り立った時、潮騒の声が
聞こえて何ともゆったりした時間を過ごせました。最終には乗れませんでしたが、4,5日前に我慢できずに加津佐に降り立ちました。
加津佐は海水浴場がすぐ近くにあって、本当に潮騒の駅でしたね。
4,5日前に行って来られたんですか。
まだ線路は剥がされずに残ってましたか?
島原鉄道南線の鉄路の復活はもう有り得無いでしょうが、例えばJR北海道が開発しているデュアルモードビークルでの運行再開などは有効性があるかも知れませんね。