遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。
昨年は、このブログを通じて本当にたくさんの方と知り合い、色々と考えるきっかけを与えてもらえました。
またMITを卒業して、仕事にも復帰し、最近はようやく自分らしく仕事が出来るようになってきました。
有難うございます。
「書く」、そして発信するという行為は自分にとっては大切な時間。
留学中に自分のスタイルを確立し始めていたのに、昨年の後半は、ブログやTwitterがほとんど手につかずにいた。
これは仕事が忙しいというより、ある人生の決断が出来ずにずっと悩み続けていたからだった。
それは私にはとても大切な時間でしたが、記事を待って下さっていた方には申し訳なかったです。
12月に入ってようやく結論が出て、動き始めて、最近ようやく落ち着き始めたところ。
これからは前のように、ブログ記事も(土日中心に)頻繁に書いていこうと思う。
この決断について書くつもりは無いので、代わりに数年前の私の人生の大きな決断の話を書いてみる。
就活中の大学生とかに「何で研究者やめてコンサルに来たんですか?」とよく聞かれる。
公式の理由は、研究よりも本当に職業としてやりたいことを見つけたから、とか話しているが、
実のところは、インフルエンザで死にそうになったのが、きっかけだった。
それを一度、会社のアメリカ人の同僚に話したら死ぬほどバカにされ、以来秘密にしていた。
でも結局のところ、人間って「今死ぬかも知れないけど、それでよいのか」と思ったときに、大きな人生の決断が出来るんじゃないのか、と今は思う。
私は物心ついたころから科学者になりたい、と思っていた。
小学1年のころから、周囲の子とファミコンで遊ぶより顕微鏡を覗いたり、化学実験をしてる方が好きな変なガキだった。
(ただし最新ゲームソフトでクラスメートを釣って、遊びに来た友人に顕微鏡を覗かせたり、科学の素晴しさを説いたりするリーダーシップ?は今と余り変わらない。)
時には利根川進目指して生物化学者を志したり、アインシュタインに憧れて物理学者を目指したりと、
なりたい科学者の種類は色々ぶれたが、科学者になりたいという気持ちは変わらなかった。
だから何の迷いもなく、大学では理学部に進学し、そのまま大学院に進学した。
ところが、大学院に入るかくらいの頃から状況が変わってきた。
まず一人で今まで頑張っていた母が病気で寝込んでしまい、私が全ての家計を支える必要が出てきた。
奨学金を3本もらい、塾講師などのバイトをやり、TAをやり、更に雑誌の書評などを書いて稼いだ。
そんな中、私がいた分野では伝統的に毎年全国の院生400人程度が数日間泊りがけで行う若手の会の運営委員のリーダーをやることになった。
これまでは博士課程の学生がやる任務だったが、先輩の推薦で、弱冠修士1年の私が大抜擢された。
私は、勢いと理想だけで突っ走る完璧主義者であり、恐らく運営委員の皆は大変苦労したことだろう。
リーダーとして余りに未熟だったために、私個人が学ぶことはたくさんあり、組織の運営や経営というものに初めて興味を持つようになった。
このリーダーの大切な仕事のひとつが、全国の関連研究所や企業に、若手の会の意義をプレゼンし、協賛金を頂いてくる仕事だった。
私は昔から面接やプレゼンの類は得意で、ここばかりは本領発揮だった。
ある研究所の所長氏は、私のプレゼンに感動して、研究所全体で活動を支えると満額以上の回答を下さった。
色々あったが、この若手の会自体は大成功にて幕を閉じた。
その一方で、本業である勉強や研究はほとんど進まず、自分の研究者としての能力を何度も疑った。
研究者になりたい自分にとって企画運営やプレゼンの能力よりも、研究を進める力が欲しかった。
見つけた研究テーマも、研究室の方向性と合わないから、という理由で何度か教授に却下された。
修士2年半ばには妥協してテーマを見つけ、それなりに没頭して研究も進め、100ページを超える修士論文を英語で何とか書き上げた。
そして博士課程に進学した。
この頃が一番つらかった。
学科には、それなりに成果も出しているのに、ポストにつけないままに35歳を過ぎ、先のポストが無いポスドクの先輩が何人もいた。
「大学院重点化」および「ポスドク1万人計画」の第一世代だ。
研究が進まずにうつ病状態の友人や、自害する先輩・後輩すらいた。
これが日本の最高学府で、最も優秀だといわれる人たちが行く分野なのかと思った。
もちろんそんな状況でも、才能を世界に羽ばたかせたり、若いのに助手になったり、優秀な学生はたくさんいた。
私の周囲は皆優しく、研究室は楽しかったが、私は妥協した研究テーマ自体に既に興味を失っており、家に帰れば、病気の母がいるだけだった。
こんな状況で、苦労だけさせた母に申し訳ないと思った。
現実逃避を兼ねて、バイトや書評で金を稼ぎ、まるで自分が研究自体に向いてないわけではないといわんばかりに、科学哲学の学会に出ては、そこで論文を書いたりしていた。
既に大学運営や大学経営のあり方、科学研究のあり方といったテーマに興味は移っていた。
おぼろげながら、科学研究が必ずしも自分に向いている職業でないことには気がついていた。
しかし小さい頃から20年近くも夢見てきた科学者になるのを諦めるのは、自分には困難だった。
で、すでに人生の妥協路線を考え始めていた。
自分の性質を考えると、面白い科学の本を書いたり、そのうちどこか地方の大学で上に立って、大学の改革とかをやれるようにはなるだろう。
科学者として一流になれなくても、それで別に十分じゃないか、と思いはじめていた。
そんな感じで半年が過ぎた11月の半ば、学会に出た神戸からの高速バスの帰りに突然気分が悪くなって吐いた。
ほうほうの体で家に帰ると、既に熱が40度を超えていた。
二日目には意識が朦朧とし、何も飲めなくなった。
喉が強烈に渇いているのに、水を飲もうとしても、体が受け付けず全て吐いてしまう。
お湯にして飲もうとしてもダメだ。
三日目になっても何度やっても吐くだけで何も飲めず、このまま死ぬのかな、と思った。
突然、ポカリスエットの粉末が目に入り、これをお湯に混ぜれば少しは体が吸収するかも、と思った。
母が昔話していた、赤ちゃんが風邪を引いたとき、塩と砂糖をお湯に溶かして飲ませないと、体が吸収できずに脱水症状を起こしてしまうというという話を思い出したのだ。
何とかひとくちか、ふたくち飲んだ。
今度は、吐かないで飲めた。
熱は下がらないものの、朦朧としていた意識が漸くはっきりしてきた。
ここで死にたくない、と思った。
少しずつ良くなるとともに、自分はこのまま研究者を続けるのか、とずっと問うべきだった問いを問うた。
人生は一度しかなく、いつ死ぬかもわからない。
だったら、自分が組織運営や経営に興味があるなら、今それがやれる職業に就くべきじゃないか。
それに母の病気だって、私がちゃんと社会に出て稼ぐようになれば、治るかもしれない。
私が向いてるわけでもいない研究者になるのを諦めるだけで、明らかに家族も幸せになるだろう。
その可能性を全て捨ててでも、本当に研究者を目指すべきか。
今まで何度も問うて答えが出なかったが、今度は明らかにNoだった。
今死んでも後悔しないことをしよう、と思った。
この風邪から完全に回復するには2週間かかったが、治る頃には私の行動は明確だった。
学振の締め切りなど無視して研究室を休み、就職するためのあらゆる情報を探し始めた。
まずはメーカーの企画や経営の分野を考えた。
博士中退者を取るかどうか、日本のメーカーに問い合わせたが全滅だった。
「博士卒業してからなら採用を考えますが、研究職ですね」と言われた。
それで、博士中退でも修士卒として採用を検討するという、インテルやシーメンス、クワルコムなど、欧米メーカーのマーケティングや経営企画などの職を中心に調べ始めた。
リクルート社がやっているRCAPという職業適性を調べる有料のオンライン診断があったので、
やってみたところ、「ビジネスコンサルタント」が最も向いている、との結果が郵送されてきた。
コンサルティング業界関連の本を何十冊もAmazonで購入して読み、確かに自分に適性があると言われる理由がよくわかった。
そんなころ、今勤めているファームから説明会の案内があった。
ずばり「理系研究者の将来を考える」という内容だった。
実際にはそれは弊社の理系向けの就職説明会であり、半分だまされたようなものだったわけだが、
そんなタイトルでもなければコンサルティングファームの門など叩かなかっただろう。
行ってみて、パートナーの人の話が正直長すぎると思ったが、その説明内容には感銘を受けた。
彼が言っていた、日本の科学技術分野には優秀な人が多いが、企業の戦略や組織がうまくなく、人を生かしきれていないという問題意識は、大学にいた私も持っていたものだった。
そういう日本の組織を内部から変えようという人がいて、その動きを外部から手助けするのがコンサルティングだというのは、なるほどと思った。
よく「外から変えるのがコンサル」という人はいるが、内部が連携せずに外からだけで変えられるわけがなく、この「手助けする」という謙虚さに真実味があると思った。
一番感銘を受けたのは、フラットな組織運営の仕組みや採用する人材、価値観や企業文化が全てこのファームの目指すミッションと整合性が取れていることだった。
こういう組織なら当然色んな才能の人があるべく活躍出来るだろうし、自分も行ってみたいと思った。
それは私が、本来科学の世界にあるべきだと思っていた、効率よく高い成果を出せるフラットな組織だったからだ。
この組織で、日本企業や、日本という組織を変革する仕事をしてみようか、と思った。
それで中途のような形で採用試験を受け、面接を受け、即採用になり、2ヵ月後に博士課程中退で入社した。
働き始めて母の病気も治り、兄弟も就職したりして、家族が明るく回り始めた。
本当にグローバルなファームで、仕事や留学を経て自分の世界は破格に広がった。
今でも自分の性格にも目標にも興味にも向いた仕事だと思っていて、感謝している。
しかし、科学者を辞めるという決断をした頃は、たくさんの人に反対もされ、悩みもあった。
新しい仕事で辛いときは、本当に科学者辞めてこっちに来て良かったのか、と思ったこともあった。
その度に、自分に余り適性がない学者を目指していたころの絶望感を思い出して、「今ここで頑張るしかないだろう、今ここで死んでも後悔はしない選択をしたはずだ。賽は投げられたのだから」と自分に言い聞かせた。
人生の決断とは、それをした瞬間は迷いがあり、失ったものの大きさに戸惑い、間違った決断をしたのではないかと悩むものだ。
しかし、自分の決断に覚悟を決めて、ゴールに向かって強く歩き続ければ、得られるものは大きい。
そもそも決断とは、人生を推進するエネルギーを得るためのものなのだから。
いや、博士課程までいってらしたとは。。。。
死にそうな体験の重さってなかなか他人には理解してもらえなかったりするので、そこがある意味辛いところですよね。
僕はまだなんとか続けられていますが、Lilacさん程の理数の適性はないにせよ、理数の研究者を志してきた人間ですので決断の重みは非常によくわかります。
とはいえ、ブログ(記事とアクセス数)などでみている限り水を得た魚のような印象を受けておりますので、万事塞翁が馬なのではないかと思います。僕もそう考えるようにしています。
私も修士を卒業して、大手電機メーカーに就職し生産技術のエンジニアとして開発に携わってます。しかし、生産部門の内向きで村社会的な風土に強い閉塞感を感じており同じような気持ちでいます。
同じ経営コンサルタントに大転換したいと考えてますが、
採用試験で対策はされましたか?
英会話のトレーニングとか。
もし、差し支えなければご指導頂けないでしょうか?
よろしくお願いします。
“なりたい自分”に至る手段の一つとして職場であるとすれば、環境を変えることは決してマイナスにはならない。今までの職業で培ってきたスキルが別の職業で応用できる、という良いケースですね。
きっと新しいポジション(?)でもエネルギッシュに活躍されるのだと思いますが、ブログ執筆活動は続けて下さい。
一読者としては楽しみにしておりますので...
もてない男としては、今回のエントリーは、憧れの女性の理解不能な言動を思い出さす、ホロ苦い内容です。(「この決断」が悩ましい)
じらしちゃ嫌よと思いながらも、また定期的に読める事で満足しておきます。
どうであれ、何であれ、ご活躍をお祈りしております。
さっきのコメントを書いた後で、「この決断」に思い当たる節があり(私の全くの勘違いの可能性も多々あるが)、真摯に応援する気持とは別に、軽すぎた事をちょっと後悔しております。
とにかく頑張ってください。
(両コメントとも削除して頂いて結構です)
大きな決断をする時、キッカケは必要ですね。
話はそれてしまいますが、私は会社で「うちの会社が外資に買収されました。▲年までに、◯人あたりXXの売上と利益がないと人を削減します、と宣告されました。」という仮定を作り事業の見直しをしました。
追い込まれた時、時間が本当になくなった時、人は選択できるのですよね。
これからもご活躍していかれるのを楽しみにしています。
コメント有難うございます(Twitterも!)
理学部系は特に、研究者でなければ人でなしとは言いませんが、皆が皆、小さい頃から研究者を志してるような人ばかりだったので、普通以上に意思決定がし難い場だったな、と今振り返ると思います。
普通に企業に勤めていて、転職を考えるほうがよっぽどか普通のことというか。
人間万事塞翁が馬。
どちらの決断をしても、結局は一緒なのかもしれません。でも決断をするということが大切なのだろうな、とも思います。
@エンジニア4年生さん
電機メーカーで生産技術のエンジニアとなると、分野によっては大変だろうなと思います。
特に半導体など、コモディティ化が進み、強みのありかが産業全体で変わってきているようなところだと大変そうです。
コンサルと一口にいっても、会社によってだいぶ選考の要件が違うと思うので、一概には言えないと思いますが、論理的に考えて話すというのは、癖みたいなものなので、訓練しておくのがいいかもしれません。
こんな本もありますし。
「ロジカル・シンキング」
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E2%80%95%E8%AB%96%E7%90%86%E7%9A%84%E3%81%AA%E6%80%9D%E8%80%83%E3%81%A8%E6%A7%8B%E6%88%90%E3%81%AE%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB-Best-solution-%E7%85%A7%E5%B1%8B-%E8%8F%AF%E5%AD%90/dp/4492531122
@AMOさん
コメント有難うございます。
実は今回の件は、今やってる仕事の話ではないので、勤めている会社などは変わらないのです。
これからますます忙しくはなると思いますが、ブログは続けていきたいと思いますので、よろしくお願いします。
@YS Journalさん
いつもいつも有難うございます。YSさんのご声援に励まされることも多く、助かっています。
研究者を辞めてコンサルに入った公式の話は、今までそれこそ100回以上話したり、書いたりしてきました。。
今回は、そういうところでは普通は書かない・話さないことを書いたんですが、それでもすでに「ストーリー」になってますからね。
ストーリーになってるってのは、もっとどろどろしたわけのわからない気持ちは全部整理されて、捨象されて、きれいになってるってことですよね。
だから「語れる」。
それが「狡い」と思えてしまうところなのかもしれない、と思いました。
書ききれないけど、本当はもっと色々複雑な気持ち、もっと人間的な、しょうもない気持ちが交錯して、その決断にいたったのだと思います。
だからこそ、死にそうになったりしないと、決断が下せないんですよね。
>よく「外から変えるのがコンサル」という人はいるが、内部が連携せずに外からだけで変えられるわけがなく、この「手助けする」という謙虚さに真実味があると思った。
私は建築系の仕事をしているのですが、施主と設計者(建築家)の関係に似ていると思いました。ある有名な建築家の方が(誰だか忘れてしまいましたが)「施主の能力が高くないと、いい建築は生まれない」と言っていたそうです。
コンサルタントや設計者など外部の人だけが頑張っても世の中は良くなってはいかない。「内部からももっとつきあげていかないと。保守的な上司になんかめげている場合じゃないぞ。がんばらないと」と強く思いました。
アドバイスありがとうございます。
その本でロジカル思考を鍛えるとともに、業界研究も進めてみます。
半導体は確かに大変そうですね。
設備投資が巨額なだけに、担当者へのプレッシャーが物凄いようです。
私は組立のFA装置の研究開発が専門ですが、装置の稼働率向上とコストダウンのために重箱の隅の隅をつつくよくな、地道な改良を繰り返してます。
Appleの製造は全て中国で生産されているように、
10年後も生産部門が日本に残っているのだろうか?
地道なコストダウン改良のスキルは陳腐化してしまわないか?
地方か東南アジアの工場に飛ばされてしまわないか。
このような不安を募らせてます。
そんななか、Lilac様の今日のエントリーに出逢えたので、
胸にこみ上げて来るものがありました。
あれから半年留学したものの、結局日本に帰ってきて、しばらく無職でいましたが運よく最近邁進しているアジア系企業の不動産投資企業に就職することとなりました。
日本ではできたばかりの企業なため上司が外国の方でほとんど英語に囲まれているため、いい企業に就職したと思っています。
Liacさんのようにスケールこそ大きくありませんが、英語力を磨いてもう一度留学にチャレンジしたいと思います。
Liacさん、情熱が南場さんになんとなく似て見えてしまいます。生意気なこといっていたらすいません。Blog楽しみにしてますね。