井の中の蛙、カイラス山巡礼に挑む!

夢のカイラス巡礼を終え、登山を再開しました。山岳信仰の延長上に四国遍路、カイラス山巡礼があり、原点の登山に戻ります。

野塚岳(南日高)11年4月

2011-04-21 20:43:48 | 日高山系の山
 ニペソツ山を登り次の山をどこにしようかと話し合ったところ南日高にあるピリカヌプリはどうだろうかということになりました。
 O氏は登ったことがあるものの私とS氏は登っていません。
早速、日程を調整して4月16日から18日の2泊3日で計画を立てます。

 私達の計画にSa氏とIさんが加わることになりました。

 天気予報をチェックしていると低気圧の通過により16日夕方から雨、17日は強風とのことです。
多少の風ならと思いましたが、高度1800m辺りで20メートルを超える予報では、さすがに当初の日程通りは無理と判断し、予定を1日繰り下げ17日から19日に変更しました。

 17日は札幌も風が吹き、浦河町に向かって車を走らせても風が強く、それでも、登山口となる野塚トンネルで判断することにして現地へ向かいます。

 野塚トンネルでは沢筋を強風が吹き荒れています。
晴れていれば目の前に見えるトヨニ岳も雲の中です。
これでは、今日の入山は無理だと判断して時間つぶしに「アエル」でお風呂に入って時間を潰すことにします。

 天気は昼過ぎから晴れてきたものの風の強さが変わりません。
ここでピリカヌプリをあきらめ日帰りで野塚岳からオムシャヌプリを往復する計画に変更します。


 4月18日、天気は快晴、風も収まっています。
ところが昨夜のお酒が利きすぎたのか全員が朝寝坊をして4時起きが5時に目を覚ます有様です。
脱兎のごとく朝食を食べますが、Iさんは昨夜から頭痛がするとのことで体調が悪く朝食もいらないといいます。

それでも、山には登るとのことですので朝食を済ませ日帰り装備を確認して野塚トンネルの十勝側の入り口にある駐車場を目指します。

 6時40分、予定より遅れましたが野塚岳に向かって北尾根を目指します。
まずはカリカリになっている雪の斜面を登ります。
最初からアイゼンを付ける人もいましたが、私は表面の雪にキックステップが効くのでそのままツボ足で登ります。

 1時間ほど登り最初の休憩でほぼ稜線上の1147mのコブに達します。
    
    この1147m地点からトヨニ岳が真っ白に輝く姿が見えます。

 ここで休憩を取り後続を待ちます
そして私はここから先はアイゼンを付けます。

 後続が追いついてきたところで行動食を食べますが、Iさんはうずくまりお腹の調子がが悪いといいながら吐いてしまいます。
S氏がIさんにポカリを飲ませたり面倒を見てくれます。
少しやすむと幾分落ち着いたようです。
こういう気遣いはS氏にかないません。

 尾根に出ているのですが風もないので歩いているとうっすらと汗がにじんできます。
ウィンドブレーカーも脱いで、私は快調に歩きます。
Iさんの調子も少しずつ良くなっているようでそれほど遅れずに歩いてきます。

ところどころ尾根が狭くなっており雪庇の大きいのが出来ています。
しかも亀裂が入っているところもありますのであまり近づかずに歩きます。

 8時50分、1223mのピークまで来ました。
 目の前に大きな斜面が見えてきます。
    
    野塚岳の山頂へ続く大きな雪の斜面の尾根です。

 この斜面を30分ほどかかって登るとやっと山頂です。
 10時25分山頂に到着です。

 この山頂からは南日高の大眺望が広がります。
 まず北の方向にはトヨニ岳が大きく翼を広げたように見えます。
   

 南にはオムシャヌプリから十勝岳、その奥には楽古岳が見えています。 
   

  この野塚岳の山頂に着いた時点でオムシャヌプリへ行くことはあきらめました。
何故かというと、このメンバーで野塚岳からオムシャヌプリを往復するのには4時間は掛かってしまいます。
いくら天気が良いとはいえこのメンバーでは荷の重い行程です。

 トヨニ岳の山頂と東峰の合間にピリカヌプリの山頂が顔を覗かせています。
   

 さらに東の方には中部から北日高の山々が見えています。

 北にあるトヨニ岳に続く雪の斜面を見ているとこのまま登ってきた尾根を下る気にはなれませんでした。
そこで、私はトヨニ岳に向かう国境稜線を歩き直接野塚トンネルの入り口に向かうコースを下りたいとメンバーに告げます。

 ところが、Sa氏が途中の尾根にストックを置いてきてしまっていました。
そこで、Sa氏とIさんが登ってきたコースを下ることとして、私にS氏とO氏の3人はトヨニ岳へ続く稜線の途中から下山することにしました。

 11時ちょうど、3人と2人の二組に分かれ下山します。
山頂からいきなりの急斜面をドンドン下ります。
この稜線には数日前に歩いたようなトレースが残っています。
10分ほどでコルまで降り、ここから少し登ります。
この登り終えたコブが西野塚岳と称したところです。

 登り終えたところで野塚岳方面を見るとSa氏とIさんがちょうど野塚岳の山頂を下ったようでした。
真っ白な尾根にごま粒のような黒い点が見えています。

 このコブからまた下っていると前方に雪で作ったブロックが見えてきます。
そばに行って見るとテントサイトの跡でした。
   
   高さ1メートルくらいのブロックが野塚岳に向かって
  コの字型に積み上げられています。

 稜線に残っていたトレースはこの人達のもののようです。
ブロックの大きさからすると3~4人用のテントが張られていたようです。

稜線に残されている雪尻に気をつけながら歩いているとトヨニ岳の東側に大きな山が見えてきます。どうやら神威岳のようです。

これらの景色を楽しみながら下降点に着きます。
野塚岳の山頂からまだ1時間も経っていません。
思ったより早く歩けています。

 稜線に別れを告げ急な斜面を掛け下ります。
一応雪崩れに気をつけるため尾根場の斜面を選んで下ります。

 雪面の表面は太陽に熱でうっすらと溶けてきています。
アイゼンの爪を効かせながら快調に下りますが所々堅く凍った斜面があるので足を取られないように下ります。

中腹辺りで1時間ほど経ちました。
「休憩しますか?」とメンバーに聞いたところこのまま下まで降りようということになり
さらに下ります。
   
   直ぐ下にトンネルの入り口と駐車している車が見えます。

 下るに従って雪が柔らかくなり足が埋まって転びそうになります。
O氏はシリセードを使いながら上手に下っていきます。
私はアイゼンの爪が邪魔になるのでアイゼンを外しツボ足で下ります。
急な斜面を降り終えて沢に出るとそこはもう野塚トンネルの入り口でした。

 12時40分、トンネル入り口にある駐車場に着きました。
ここで、別ルーツで降りてくるSa氏とIさんを待ちます。

40分ほど経ったところでSa氏とIさんが降りてきます。

 今回の登山は天候に恵まれずピリカヌプリへ行くことは出来ませんでしたが、野塚岳からほんの少しですが国境稜線を歩けたのでヨシとします。

 胸の中には消化不良でモヤモヤした気持ちですが、「この次は、きっとピリカヌプリの山頂を踏むぞ」と心に誓って野塚トンネルを通り抜け札幌へ向かいます。
 

宮城県南三陸町へ・・・

2011-04-09 08:43:10 | その他
4月1日から7日までの1週間、宮城県南三陸町においてボランティア活動に参加してきました。

北海道から南三陸町へ行くには苫小牧から秋田へフェリーで渡り、そこからはバイクで南三陸町を目指しました。
行くだけで2日間を要するため実際にボランティア活動を行ったのは、3日から5日までの3日間です。

私が行ったボランティア活動は「思いで探し隊」という活動です。
この活動は南三陸町の佐藤町長の発案によるものです。

佐藤町長は、チリ沖の津波、東日本大震災などにより思い出の品を失った経験から写真やアルバムトロフィーや盾、表彰状などなど個人にとって思い出となる品を瓦礫の中から探し出し被災者の手元に渡そうという活動を提唱しました。

3月28日からこの活動を行っており、このことを新聞で知った私も参加したいと思ったわけです。

今回のボランティアは被災地で行う活動ということもあり、テントに食料を持参して参加しました。


隣町の登米市から南三陸町(志津川)へ山から海に向かって下がっていくと突然テレビで見た光景が広がります。
一面、瓦礫の山が広がります。
残っている建物は非木造のビルです。
しかしそのビルの屋上にも瓦礫が乗っており津波の高さが尋常でないことを示しています。

災害本部のあるベイサイドアリーナへ行かなければ行けないのですがどちらへ行けば分かりません。
道路に標識はないので、何となく車の流れに乗って志津川の港から北に向かい小高い丘へ進みます。
そこにベイサイドアリーナがありました。

アリーナは立派な体育館です。
駐車場には救急車、消防車、報道用の車、検診車などが所狭しと並んでいます。
その中に見慣れない国旗を掲げている真っ白なコンテナがあります。
イスラエルの医療団でした。
コンテナ6個を並べ、このコンテナで医療活動を行っています。

ベイサイドアリーナの体育館は災害復旧物資置き場になっています。
バスケットコート2面がいろいろな物資で埋まっています。

エントランスやロビーに被災者の方々が段ボールで区切り寝ています。
大半がお年寄りでした。

南三陸町は電気、水道などのライフラインがまだ復旧していません。
ベイサイドアリーナは高圧電源車のお陰で夜だけ電気を通しています。
町の方でやっと電柱を立て通電作業が始まったばかりでした。


さて、被害の様子を見ると港などがある海岸近くは壊滅的な有様です。
しかし、そこから少し離れた小高い丘に点在する民家は外見上はほとんど被害を受けている様子にはまったく見えず普通にその家で暮らしているようです。
(とはいえ、地震直後は家の中のタンスや戸棚が倒れ酷い状況になったと思います。)
しかし電気が通じてないので夜は真っ暗です。

この違いは、海面からの高さによるのはいうまでもありません。
ベイサイドアリーナも外見上は体育館の天井パネルが数枚落ちているだけです。


さて、「思いで探し隊」の活動について話したいと思います。
活動の中心は近畿ブロックから派遣されている社会福祉協議会の職員がリーダーとなって運営されてます。
彼らは1週間交代で南三陸町に派遣されています。

このリーダーの指示により瓦礫の中から写真などを探し出すのです。
足元は安全長靴を履きます。
これは瓦礫の中に多数ある木くずにある釘を踏まないようにするためです。
日本家屋は木造建築とはよくいったものです。
瓦礫のほとんどが木くずです。
その木くずに無数の釘がむき出しで牙をむいています。
この釘を不用意に踏んでしまえば破傷風などの恐れがあるのです。
そこで安全靴で足底を守ります。

瓦礫の中を注意深く歩き紙くずや衣類の散乱する中から写真やアルバムなどを探します。
思ったより数多く拾えました。
写真の中には結婚式の記念写真、学校でのクラスの集合写真、いろいろな写真が落ちています。
中でも赤ちゃんの写真を拾うとその愛らしい顔をまともに見ることができません。
幸せそうな顔に接するたび、この人達の無事を願わずにはいられません。

この作業を3日間続けましたが、2日目の午後には小雪がちらついてきました。
でも、誰も作業を止めようとする者はいません。
みなさんモクモクと瓦礫の山と戦っています。

私が拾った中で変わったものは棟上式に使って天井裏に掲げて置いたお札がありました。
それから香典帳、船舶免許証、など写真以外の物も沢山見つかりました。


今回、感動したことがあります。
それは、歌津という町で目にしたのですが、瓦礫の中で営業しているガソリンスタンドがありました。
スタンドの社屋は津波で流されています。
しかし、オイルを貯蔵している地下タンクは損傷を受けていないようで瓦礫を片づけた中で計量器を足踏みのポンプで営業しているのです。(数日後は電動になってました。)
ガソリンが買えず車を動かせないという話はあちらこちらで聞きました。
ガソリンスタンドの半数が被害を受け営業できないのですから仕方のないことです。

こんな状況の中で町民にガソリンを届けたいというこの姿勢は見習うべきです。
瓦礫の中で営業するガソリンスタンドの方達に復興への執念を感じ希望の光を見いだしたような気がしました。


書きたいことは山ほどありますが、生き残った方々は着の身着のままで避難生活をしています。
援助物資は届きつつあります。

でも、この避難生活から抜け出すには何よりお金が必要になります。

このブログを見ていただいているみなさんに再度のお願いがあります。
ぜひ、義捐金に募金してあげてください。

よろしくお願いします。