なんとなく

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思想の発現

2015-09-24 | 日記
自然法に反対する2つの法思想について考えてみます。

第一次、第二次両大戦の間に、2つの思想は登場しました。
両者は法理念の普遍性を否定し、人種理論的立場から、或いは階級理論的立場から法を一定の国家目的や国家の政策の手段と認める点において共通しています。
両者とも国家の個人に対する絶対的支配、一党の独裁、民主主義に対する全体主義において一致し、このような全体主義は、19世紀後半以降の法実証主義の極端な発現形態と認められるのです。

ナチ的法思想は、法哲学的観点からいって独創的なものではなく、従来から存在していた各種の法思想からある部分を引き抜いてきて、寄せ集めた観を呈しています。

それは人種法則的法理論を基調とし、反個人主義、反自由主義、反ローマ法、反パンデクテン、反法典主義、インド・ゲルマン人種以外の人種ことにユダヤ人の排斥のような消極的意味における政治性が露骨にあらわれています。

積極的の法理としては、サヴィニーの民族精神、ギールケの団体主義的思想、人種学的法理論、法における道徳の強調(これさえも人種理論的道徳)があるにすぎないのです。

ナチ的法思想は、相互に対立矛盾する学説や主張が、全体主義的政治目的(ゲルマン人種の維持とドイツ民族国家の優越)の達成のために無秩序に雑居しているにすぎないのです。
このようなことから、ナチズムは、その政治的影響力に重要性があり、法思想史的には大した役割を演じなかったのです。

つぎにソヴィエト・ロシアにおいては、その法思想は、唯物史観的世界観を基礎とするものです。
すべての文化、道徳、宗教、法は、経済なる下層建築の上に立てられた上層建築に過ぎないというような漠然とした法上部構造論、反形而上学的、反自然法的な意味は、国家や法を階級的支配の手段とみるものです。

私法の分野がソヴィエトにおける法生活からほとんど姿を消していることはその国是上当然としても、独裁主義と、スターリン憲法が保障すると自負する、国民の基本的な人権や自由と決して調和しないことは、ナチ的、ファシスト的独裁国家の場合と異なることはないのです。

ソヴィエト連邦において言論や結社や学問やその他の政治的自由の保障が単に紙上の粉飾にすぎないものであることは、政治の実績による証明をまつまでもなく、その独裁主義から直接でてくるのです。
独裁主義と同義語である国家権力の万能、徹底した法実証主義は、自然法上の権利や自由とは相容れないものなのだからです。

ソヴィエトにおいては法は国家つまり政治に屈従します。
裁判官の独立は単に紙上のものにすぎないので、裁判官は政治の従僕です。このことはスターリン憲法が裁判官から法解釈権を奪い、解釈権は立法者に属すべきものとする立場(三権分立の否定)からこれを最高ソヴィエト会議議長に与えていることによっていっそう明瞭にされるのです。
もし基本的な人権と自由を理論的に認めるとするならば、それは階級国家の立場を捨てなければならず、これらの権利や自由が完全に保障されるためには、司法が完全に独立していなければならないのです。

ナチズムやファシズムの出現以来、法思想的対立は個人の学者によって代表されるのみならず、その具体性を国家において見出すことに至ったのです。