千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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市川市の戦争遺跡2(陸軍病院、総寧寺の境界標石、陸軍射撃場)

2007-07-22 | 市川市の戦争遺跡
1.国府台陸軍病院

「市川市の戦争遺跡」で前述した通り、市川の国府台は陸軍教導団が置かれたのを嚆矢として、陸軍野砲兵の町として変貌した。国府台はもとは大学用地であったが、大学の建設が交通の便など種々の理由から頓挫し、その土地に目をつけた陸軍が、当時東京市内に分散していた陸軍教導団(明治期の陸軍下士官養成機関)を国府台に移し、病院を併設した。国府台に教導団が集結すると、国府台坂下の根本(市川4丁目・真間4丁目)付近には、軍隊相手の御用商人が集まって、軍人の生活物資を扱う店などを含めて商店が建ち並んだ。この教導団出身の下士官は非常に優秀で、その中からはやがて将校となり、田中義一が陸軍大将、総理大臣となったのに代表されるように、陸軍における重要な地位についた人々もいた。

国府台の土地に目をつけた人物とは教導団団長の陸軍大佐渡辺央であり、早速兵営と病院の工事に着手した。それは1885年(明治18年)から翌年9月のことで、1885年(明治18年)5月、歩兵大隊が配備されたのを皮切りに、兵舎などの施設も建設されていった。
教導団が併設した病院が、教導団廃止後は、1899年(明治32年)10月 国府台衛戊病院と改称、さらに1936年(昭和11年)11月 国府台陸軍病院と改称、終戦後の1945年(昭和20年)12月 厚生省に移管、国立国府台病院として発足したものである(現、国立精神・神経センター国府台病院)。
なお、里見公園に一時置かれた教導団の病院は、戦時中まで国府台陸軍病院の高いコンクリート塀のある精神科病棟として併存していたが、現存せず、遺構も残っていない。

この精神科に収容された陸軍軍人は、一般に軍人で精神に障害をもつ者、召集された知的障害者でトラブルを起こした者など(思想上問題があるとされたり、反軍活動などをした者が含まれていたかはさだかではない)であるが、いわゆる戦争神経症の患者も多数いたと思われる。戦争神経症は、当初、ヒステリー患者とされていたが、戦争によるストレスが原因で発症する。「たとえば、その発症原因として加害行為についての罪悪感というものがあった。山東省で部隊長命令で部落民を殺したことがもっとも脳裏に残っている。とくに幼児をも一緒に殺したが、自分にも同じような子どもがいたので、余計に厭な気がした。ヒステリー性反応としては、その場で卒倒するケースが多いが、夢遊病者のように動きまわり、無意識のうちに離隊・逃亡することも少なくなかった。」などと報告されている。(『日本帝国陸軍と精神障害兵士』(清水寛著 不二出版)

現在の国立精神・神経センター国府台病院は、新しく建替えられたものであり、病院の職員の人に聞いたが、特に遺構もないとのことであった。たしかに、建物では旧軍時代のものはなさそうである。病院の中庭に古そうな物置のようなものがあったが、旧軍時代からのものかどうか分らない。

<現在の国府台病院>


2.総寧寺境内の境界標石

里見公園は、もとは総寧寺の境内の一部であったものを戦後公園化したものである。したがって、里見公園と今の総寧寺境内との境界は、戦後作られたものであり、前出の陸軍病院の精神科病棟にしても、元は総寧寺境内の一部であったはずである。
この関宿の小笠原氏ゆかりの寺が、寺領を失い、存続すら危ぶまれたのは、維新後の話。江戸時代は、さぞや隆盛を極めたのでは、と想像できる。その総寧寺境内に陸軍用地の境界標石がある。寺のなかにあるのは、失礼な話と思うが、今の里見公園一帯は戦時中は病院以外に、高射砲陣地が出来たり、今の総寧寺の境内に隣接する国府台城の遺構も壊れ放題であった。
その境界標石は、よくある御影石製で、土中に埋まっていた部分も露出しているようだ。場所は境内の端の藪になっているところで、少し分りにくい。

<境界標石>


3.陸軍射撃場

松戸街道からみると東になり、式場病院の裏にあたるが、旧陸軍の実弾射撃場跡があった。今のじゅんさい池の東側台地にあり、松林に囲まれた篠竹原になっていたが、かつては、よく銃弾や薬莢が落ちていたという。ここでは三八式歩兵銃だけでなく、野戦重砲兵の大砲の射撃もされていた。近所を歩いていた老紳士に聞いたところ、その東側台地一帯が東練兵場であり、射撃場はじゅんさい池に近い、その台地端にあった、銃弾を南東から北西方向に撃ったとのことである。老紳士は親切にも、その台地がよく見える地点まで案内してくれた。

近くには、国分池あるいはじゅんさい池と呼ばれる細長い池があり、今では市民の憩いの場になっている。ご多分に漏れず、この界隈も宅地化が進んでおり、かつての面影はなくなってきている。
よく言う「三角山」とは、その射撃場が置かれた台地にあった小高い土手の通称のようである。それを射撃の標的にしたようだ。その話は軍関係の文書などに出てくる訳でなく、地元の伝承として残っている。銃弾がそれていかないように、高く築かれた土塁も、今は削られて平坦地となっており、殆ど跡形もない。国府台あたりの人がいう「三角山」という呼称は、地域によって変わるようで、中国分の古くからの住民の人は「私たちは、『大土手』と呼んでいました。『三角山』とは呼んでいません。戦後土手はすっかり削られて住宅地になってしまい、今ではどこに何があったかわかりませんがね」とのことで、同じ市川市域でも、「三角山」、「大土手」と呼称が違うようである。
なお、戦後1947年に米軍が撮影した航空写真にも、細長く射撃場跡が写っている。短冊形に土手を築き、その中で射撃の実弾演習をしたらしい。この射撃場と東練兵場の土地は、戦後元の持ち主に返還あるいは帰農した軍人に払下げられた。また強制連行されてきた朝鮮人が、その辺りに戦後住み着いたというHP記事もある(市民平和訴訟の会・東京)。現在は、射撃場跡もすっかり宅地化されていて、あまり面影はないが、道に沿って一部残る土手がわずかに名残をとどめている。

<じゅんさい池付近から射撃場のあった台地を望む>


<射撃場のあった台地上の現在の様子>


<1947年当時の国府台付近の航空写真>

(国土地理院のHPより、1947/11/5米軍撮影)
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