千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
(無断転載を禁じます)

船橋市の戦争遺跡3(日本建鐵から行田周辺)

2006-07-08 | 船橋市の戦争遺跡
1.軍用機「雷電」を製造していた日本建鐵

「ああ紅の血は燃ゆる」という軍歌をご存知だろうか。
「花も蕾の若桜・・・」で始まるこの歌は、学業を中途で投げ出し、ある者は学徒出陣、またある者は軍需工場への勤労動員という若者たちの姿を歌ったものである。歌詞の内容は、当然ながら当時の軍国模範青年を奨励するような官製のものであるが、実際に青春を犠牲にした人々の思いは、そんなものではなかっただろう。

前にも述べたが、元々船橋は余り工業が発達した地域ではなかったが、1935年(昭和10年)にJR船橋駅の近く、現在の西武百貨店のある場所に、昭和製粉船橋工場のビルがたったのを皮切りに、1939年(昭和14年)には鴨川ニッケル工業が設立、1941年(昭和16年)には日本建鉄が行田の海軍無線電信所の西の20万坪という敷地で、軍需製品を生産した。

<周辺地図:水色で囲った部分がかつての日本建鐵跡地>


その日本建鐵は、今も当地で工場の操業を続けているが、本来の敷地は現在のものより広かった。ここでは、最盛期には徴用工を含めて2万人もの人が働いていたという。当時の寮などは残っていないが、新京成バスの「建鉄循環」路線では、建鉄荘前-第一希望荘-第四希望荘という寮の名前のついたバス停があり、往時の名残りがあるのみである。
この日本建鐵では、主に海軍の航空機関連の部品を製造した。ここでは迎撃戦闘機「雷電」の大半の部品を取り付け、七十五機製造したこともあるという。

<現在の日本建鐵正門>


日本建鐵のHPを見ても、過去海軍管理工場であり、軍需工場で軍用機の部品等製造していたことは書かれていない。
「1920(大正 9年) 4月 東京建鐵株式会社創立(当社創業) 
 1921(大正10年) 1月 東京建鐵株式会社を解散、日本建鐵工業株式会社を設立し事業を継承 
 1950(昭和25年) 1月 資本金3千万円をもって日本建鐵株式会社を設立し、本社を東京都千代田区丸の内2丁目3番地におき、日本建鐵工業株式会社の事業を継承」とあるのみである。

この船橋の日本建鐵用地は、1941年(昭和16年)三菱地所が買収したもので、過去に三菱商事が再建の支援もした関係もあり、日本建鐵と三菱財閥は以前からつながりがあった。三河島などで軍艦の防火鎧扉や大型艦船攻撃用爆弾、爆弾投下器などの軍需用品を作っていた日本建鐵の新工場用地を買収することで、三菱が日本建鐵の軍需関係の技術を活用する狙いも、その船橋での新工場建設にはあった。そして三菱系の技術陣も迎えられる中、日本建鐵の本格軍需工場としての生産が行われた。

前述のように日本建鐵にも、千葉中、佐原中、佐倉高女などの学生が学徒動員された。彼ら学徒勤労報国隊は、学業半ばで航空機部品の生産に従事した。

その後、日本建鐵は1944年(昭和19年)12月の空襲では、周辺住宅などへの空爆の被害があったが、工場自体への被害は軽微であり、戦後も操業を続けた。朝鮮戦争での特需に潤うこともあったが、一度は会社整理、工場用地も一部売却して規模縮小した。以前の工場敷地に大型スーパーや集合住宅が出来たりしているのは、そのためである。現在は建材事業から撤退し、事業をショーケース事業・ランドリー事業・環境事業・不動産事業に再編、三菱の家電製品の生産などを行っている。2005年(平成17年)5月、三菱電機の完全子会社となり、今日に至っている。

<日本建鐵敷地内の古い建物>


2.行田周辺の海軍標石

上記日本建鐵があった区画から程近い、行田周辺には行田海軍無線通信所があった関係からか、海軍境界標石が畑などに立っている。
まず、日本建鐵の工場から北西に向い、行田東公園が見えてくる辺りにある畑の中に数本、「海軍」と書かれた標石がある。「海軍」の字の上にある波型模様は、海軍だからやはり海の波であろうか。
もう一つ、行田東小学校の構内、グランド脇の植え込みに「無用ノ者ハ入ル可カラズ 海軍」と刻された石柱が立っている。これは行田海軍無線通信所の近辺にあったものを、戦後移動したものである。
しかし、いずれも顧みられることもなく、人知れず立っている。

<畑のなかの海軍境界標石>


<行田東小学校にある海軍標石>


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3 コメント

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建鐵の終焉 (cubics)
2015-09-08 04:37:18
日本建鐵は2015年1月に会社清算され、親会社の三菱電機に資産は引き継がれ、当地は三菱電機ライフサービスとなりました。
清算を前に旧工場棟はすべて解体撤去され、これから汚染除去が始まります。(三菱電機グループの新しい工場棟などは残っています。)

近所の海軍境界標石もいくつかは見当たらなくなっており、山手2丁目にあった、廃屋入口にあった門柱状のものも住宅開発で消えました。

社宅等の名称をもつバス停は10年前にすべて改称がされましたが、「日本建鉄前」が今はまだ残っています。
バス路線も「建鉄線」のままですし。
はじめまして (Arco)
2015-10-29 04:39:36
私は日本建鐵の近くに住んでいるので、船橋周辺の戦争遺跡や古い建物、神社や廃墟などをいつも辿っています。
ネットで探した中で、こちらのブログが、日本建鐵についての説明が最も参考になったので、お礼を言いたくてコメントを書かせていただきました。
特に、三菱による買収の辺りが参考になったので、私なりに言葉を変えたり加筆して、自分のブログに書かせていただきました。
本当にありがとうございました。
千葉の隣の葛飾区より (OMM)
2020-06-13 04:21:52
葛飾区に住んでいます。
来年2021年の春に森永乳業東京工場が移転することになることを聞き、戦時中この地に日本建鐵があってそこで母が爆弾の外装容器の溶接をした話を思い出しました(当時13歳)。当時の社会情勢や街の雰囲気などを聞きましたが子供にこういうことをやらせなければならないほどの状況なのか、日本は大丈夫なのかなど子供ながらに心配したことが強く記憶に残っているそうです。

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