千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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市川市の戦争遺跡4(国府台の赤レンガ倉庫)

2011-09-24 | 市川市の戦争遺跡
市川の国府台で「赤レンガをいかす会」(代表:吉原廣氏)という団体が、戦後に県の血清研究所が使用していた赤レンガの旧軍武器庫を保存すべく、その見学会を開催していたので行ってきた。
それについては、以前工兵隊の発電所と聞いていたので、当ブログでもそう書いていたが、そうではなく現存するものは教導団の頃に設置された可能性のある武器庫だという。
実は、1970年(昭和45年)に解体されたもう一つの赤レンガの建物があったそうだが、それは現存するものより大きく、あるいはそちらが発電機を置いていた建物か。
いずれにせよ、現存する赤レンガは出来た頃より、血清研究所が使用していた頃にいたるまで、倉庫としてしか使われていないらしい。

<外観>


なるほど、実際に中に入って見ると木造の梁や柱があって、すくなくとも今残っているものには発電機を設置したような跡はみられない。

この赤レンガ倉庫が設置されたのは、明治時代であることは間違いないが、時期は特定できていない。発見された棟札には「起工明治三十六年三月六日 竣成仝三十六年三月三十一日」とあり、工期は25日間であったことがわかる。つまり1ヶ月たらずで出来たことになるのだが、これが建物全体か、のちに屋根を直した際のものかが不明である。
この棟札の件は県血清研30年誌に掲載された、当時の職員の佐藤寛三氏の「思い出」に書かれ、その後棟札自体が発見されたことで、1903年(明治36年)に建物ができたと考えられたが、市川市立博物館所蔵の1901年(明治34年)印刷の「野砲兵第一連隊及び第十六連隊兵営の図」に第十六連隊武器庫として、同じ場所と思われる位置に同様の倉庫が一棟だけ描かれているというのだ。

野砲兵第十六連隊は、国府台に設置されていた下士官養成の教導団がその役割を終えて1899年(明治32年)に廃止された後に設置され、この倉庫が出来た後のようだが、1904年(明治37年)〜1905年(明治38年)日露戦役では、旅順要塞攻略戦、奉天大会戦に出陣している。既に国府台にあった野砲兵第一連隊、野砲兵第十六連隊に続いて、1908年(明治41年)に野砲兵第十五連隊が国府台に置かれた。1919年(大正8年)には野砲兵第十四連隊も世田谷から国府台に移された。野砲兵第二旅団司令部も設けられ、国府台一帯は、まさに「砲兵の街」となった。

野戦で使用する砲は砲身だけでなく、移動するための車輪、照準その他の附属物があり、その保管には赤レンガ倉庫は決して大げさなものではなかったのだろう。勿論、砲兵といえども小銃の類も使っただろうから、それらもいくらかは入っていただろうが。

<二階内部>


赤レンガ倉庫といっても、舞鶴の海軍の赤レンガ倉庫などと比べるとかなり小ぶりである。幅は7.7mほどしかなく、長さは20.69mである。それが2階建てで高さは9.78m、一棟のみ。レンガの積み方は、レンガの長手と小口を交互に積むフランス積みで、明治でも早い頃にはやったもの。旧軍施設では、猿島要塞など少数しか残っていない。1890年頃にはイギリス積みというレンガの長手だけの段、小口だけの段と一段おきに積む方式が一般的になった。ちなみに、千葉市の鉄道連隊の材料廠は、イギリス積みの変形で端部のみ長さの違うレンガにするオランダ積みである(以下参照)。

http://www.shimousa.net/tetsudourentai/tetsudourentai_no1.html

今の国府台の赤レンガ倉庫は、旧血清研の時期にいろいろ改変がされている。例えば一階東側中央の出入口は、旧軍時代のものではないそうだ。一階は血清の冷蔵に使用され、ウレタンが部屋の内側全面を覆う形にされている。二階も多少は改変されているようだが、ほとんど旧軍時代のままになっている。

本来の出入口である西側(江戸川側)にある出入口から急な階段を二階にあがると、むき出しになった天井が古い日本家屋と違い、直径25cmほどの梁の上に筋交い状に細い柱が屋根に向かい三角の形をつくっているのに気付く。

これはトラスというもので、両側の壁に組み込まれた二重の桁によって支えられている。阪神淡路大震災の際に話題となった耐震構造でも、日本建築に筋交いを使うことで強度を高めるということが言われたが、こういう構造は屋根の重みを松の直径40cmくらいの大きな木などの太い梁を使わなくても支えられるのだという。

窓も古いままで、窓枠の内側に少し窪みがある。元は外側に観音開き扉があったのだが、蝶番が残っているだけで失われている。窓には嵌め殺しの鉄格子があり、内側には、金網戸とガラス戸がある。

<窓の外側>


<窓の内側>


窓に嵌めこまれた鉄格子は、現地で組み立てたのではなく、工場で組み立てたのをレンガを積む過程でレンガに穴をあけて嵌めて行ったもの。だいぶこみいった作業であった模様。

なんと、面白いことに旧軍時代の「兵器係」「使役兵」といった壁への小さな貼り紙が残っており、軍帽か何かを掛けて使ったのではないかと思う。札を掛けた、出社カードのようなものではなかろう。
南側の天井の梁に近い場所にフックがあるのだが、何を掛けたものか、これは使用目的が分らない。詳細な見取り図か何かないと、はっきりしない。だれか覚えていれば幸いであるが。

<旧軍時代の名札>


人の記憶は、年とともにあいまいになる。言葉も昔歌った歌でさえ。小生が戦後復学した学生の頃に歌った「青年よ団結せよ」の歌は、ソビエトのV.クルーチニンが作曲、P.ゲルマンが作詞した歌で、日本ではイールズ声明反対闘争が盛り上がるなかで歌われた。この歌は戦争直後の1947年、プラーグ国際青年祭コンクールで入選し、「全世界民主青年歌」とともに愛唱されたというが、その一方の、「全世界民主青年歌」を学生の頃よく歌っていたかといえば、あまり記憶がない。戦後ですら、記憶が薄れている。戦時中の詳細なことは尚更分らなくなる。

話が横道にそれた。この赤レンガ倉庫は、いずれ創設の時期などが明確になってくると信じるが、歴史の証言者が高齢となり、次々に鬼籍に入ってしまう中、保存の決定とさらなる研究が急がれる。
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