千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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木更津の山中にあるB29搭乗員慰霊碑

2010-07-02 | 木更津市の戦争遺跡


日本軍の戦闘機などが様々な理由で墜落した際の慰霊碑は、全国各地に多い。しかし、米軍機が日本軍の戦闘機や高射砲などで撃ち落されるなどして、墜落したものの搭乗員慰霊碑が、全国に少数ながら存在し、千葉県にもあることは寡聞にして知らなかった。

偶然にも、森-CHANが知人から教わったインターネットのWEBマガジン「ヒコーキ雲」に掲載されていた日本航空協会の「航空と文化」誌97号の記事を航空会館で複写していたところ、その記事を書いた当の航空協会の職員の方から、千葉県木更津市の慰霊碑の場所や管理しているお宅の住所を聞いたのがきっかけで、実際に慰霊碑を当HP取材チームが訪ねるにいたったのである。

慰霊碑を管理しておられるのは、木更津市の影山順一さんで、慰霊碑を建立したのは、御父堂の影山金司さん(故人)であり、それも終戦から6年後に慰霊碑を建てたとのことであった。そのB29は1945年(昭和20年)5月29日横浜空襲を実施したB29の517機のうちの一機であり、木更津の「高射砲」(高角砲)が落としたものらしい。搭乗員12名は、即死の状態であったらしいが、遺体は殆どが大きく損傷した。そのなかで、珍しくほぼ完全な形で残った遺体は首から小さな靴を下げていたという。

他にも米軍機搭乗員の慰霊碑はあるが、これは最も古い部類である。

小生が興味を抱いたのは、普通の市民であった筈の影山金司さんが、B29の墜落を目の当たりにし、軍国主義の思想がまだ色濃く残っていた戦後間もない時期に、なぜB29搭乗員の慰霊碑を建立しようと思ったかである。兄弟が軍属として南海に散ったことも、戦争犠牲者はなんびとも平等だという考えにつながったと、息子である順一さんは想像しておられるが、それを行動であらわしたのは、なかなかできることではない。

慰霊碑の存在は、ごく一部の人しか知らなかったが、最近になって近くを通る館山自動車道が開通し、その残土を入れたために山林の一部が平坦になって、人が入り込みやすくなったことから、山菜とりの人に慰霊碑が発見され、米国大使館や木更津市長を招いた慰霊祭が行われるにいたった。その慰霊祭は、影山順一さんもいろいろ世話をして実現したものであり、親子二代にわたり、義理人情に厚い人なのかもしれぬ。

実は、この取材は今年初めに行っていたが、HPにあげるのが大幅に遅れたのは、森-CHANが仕事やら地域活動やらで、なかなか時間がとれなかったためである。こういう心温まる話は、何をおいてもすぐに上梓してほしいものだ。

木更津の次は館山へ行ってくれと言っているが、いつになることやら。

(写真はB29搭乗員慰霊碑〜影山さんが持たせてくれたお茶を取材チームが供えた)

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木更津海軍航空隊の開設話

2010-03-26 | 木更津市の戦争遺跡
満州事変後、中国大陸への進出を画策する軍部にあって、中国大陸への長距離飛行での空爆を企図し、同時に航空機による攻撃から首都防衛を考えていた海軍は、かねて東京湾沿岸の適地を選び、海軍航空隊を建設しようと考えていた。

東京湾沿岸の候補地は木更津・青堀・姉ヶ崎、行徳などとなっており、1934年(昭和9年)年頭には海軍省から千葉県知事にその旨の内示があり、木更津町長であった石川善之助らも海軍航空隊の誘致運動をはじめた。
すなわち、同年7月5日には石川町長の提唱にて、「木更津飛行場建設促進同盟会」が結成され、翌々日の7日には横須賀鎮守府建築部より測量要員6名が派遣されて現地測量が行われた。一方、木更津海軍飛行場の予定地であった巌根村中里・江川地区の漁民ら住民にとっては寝耳に水であり、また中里・江川地区の海岸の一部埋め立てによって漁業を行う場所が制約されるため建設反対の声があがった。しかし、「木更津飛行場建設促進同盟会」の実行委員らが説得し、7月中旬にはほぼ反対気運はおさまった。その後、7月20日に横須賀鎮守府より木更津町に海軍航空隊設置決定の通告があった。

<木更津海軍航空隊があった陸自木更津駐屯地(南側)遠景>


撮影:染谷たけし

<木更津海軍航空隊があった陸自木更津駐屯地(北側)遠景>


撮影:染谷たけし

こうして同年9月5日より県土木課は買収事務を開始。11月1日には「東京湾海軍航空隊」(仮称)新設起工式が横須賀鎮守府司令長官の永野修身海軍大将以下の臨席で行われた。かくして、東京湾の大規模な埋立工事が開始された。請負業者は浅野財閥系の東京湾埋立株式会社(現・東亜建設工業)。
翌1935年(昭和10年)3月には航空隊建設準備委員が任命され、委員長は竹中龍造海軍大佐が就任した。施設建設は主として横須賀の馬淵組(現在の馬淵建設)が請負い、突貫工事で飛行場建設が進められた。1936年(昭和11年)3月26日には飛行場は概ね完成し、陸上攻撃機(中攻)などの飛行機が配備された。そして同年4月1日に、木更津海軍航空隊は開隊した。

開設された、木更津海軍航空隊(木更津空)は、木空(きくう、もっくう)とも呼ばれ、司令は竹中龍造大佐、副長は青木泰二郎中佐、飛行長曽我義治少佐を含め、准士官まで14名、下士官・兵が約100名であった。5月2日の開隊祝賀式には海軍大臣永野修身大将、横須賀鎮守府司令長官米内光政中将のほか陸海軍の幹部軍人が列席、5月末には町内各小学校児童を招き、優勝旗争奪の運動会も催した。

 <開隊当時の隊門前>



木更津基地は東京湾に面して、四周に障害物なく広々として、その大きさたるや、幅八十米、長さ千二百米(後に二千米)の滑走路が南西海岸から北東へのび、東西、南北にも各一つの滑走路がある、理想的な海軍基地であった。

この木更津空は、中国大陸への長距離飛行での空爆を企図した海軍が特に周到に準備した外戦作戦実施部隊であり、平時には首都防衛にあたるもので、同様の目的で西日本を担当する鹿屋海軍航空隊と同時に開隊した。しかし、一般の木更津町住民には、開隊にあたっての式典で海軍のそうそうたる高官が来たり、大相撲の横綱土俵入りがあったりと、物珍しく映ったに違いない。

初代の司令官、竹中龍造大佐にしても、のちに空母の艦長や各地の航空隊の司令を歴任し、最後は海軍航空技術廠支廠長で海軍中将となった人物であるが、当時の木更津町民には民間の家に住み、朝晩車で送迎されている「偉い人」としてしか、認識されなかったであろう。


<開隊を祝う地元の人々>



なお、開隊の日に見学を許されたのは限られた小中学、女学校生徒などで、その他一般の人には許されなかった。
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