千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
(無断転載を禁じます)

ロケット戦闘機秋水関連動画

2015-06-13 | 柏市の戦争遺跡



ロケット戦闘機秋水については、柏市花野井に地下燃料庫が現存しているが、これを世の中に紹介したのは、「柏に残された地下壕の謎」という小野英夫氏、川畑光明氏の柏市での論文である。 小野英夫氏、川畑光明氏の研究により、住宅地にあるコンクリート製の地下式の台地側面に出入口のある奇怪な壕が、戦時中日本軍がロケット戦闘機秋水の燃料を格納するものとして作られたものであり、過酸化水素という劇物を燃料としているために、大掛かりで頑丈な燃料庫が必要とされ、それが柏飛行場に近い柏市花野井に建設されたことが知られるようになったのである。

写真は花野井交番の裏にある覆土がなくなってむき出しになった地下燃料庫の一部を、近くから写真家が撮影したものである。小石が混じるコンクリートの荒い様子がわかるだろうか。この燃料庫は全長40mほどあり、かなり大きい。むき出しになっていない別の燃料庫も同じような大きさなのだろう。出入口は人が少しかがんではいることが出来る位の高さで、終戦直後は大陸からの引揚者などが中に住み着いていたが、最近になって子供が入ったりして危険なので開口部が塞がれている。

<秋水地下燃料庫の出入口(現在は塞がれている)>

秋水は、言うまでもなく、ドイツのメッサーシュミットMe163Bなどをモデルとしつつ、太平洋戦争末期に日本の陸海軍が共同で開発したロケット戦闘機である。 秋水用の飛行場には、柏陸軍飛行場が割り当てられた。それは柏が首都東京に近く、もともと柏飛行場が「首都防衛」を目的とした立地であること、実際B29が首都東京を攻撃する際の経路の一つに、柏がなっていたからである。

柏飛行場は、東京に近いだけでなく、1,500m(後に2,000mに拡張)の舗装された滑走路を持つ飛行場であり、銚子沖などから東京に向って侵入してくるB29を邀撃するのに絶好の位置にあった。そういう立地条件もあって、陸軍は柏飛行場を秋水の基地とすることを考え、陸軍の航空審査部の関係者、荒蒔義次少佐以下が近くの寺院などに宿営し、秋水実験隊の拠点が作られていた。また、過酸化水素などロケット燃料の貯蔵庫として、地下燃料庫が建設されたが、最初は十余二の飛行場に近い場所に主に実験飛行用、後に1945年(昭和20年)春ごろにはリスク分散のため、柏飛行場から東へ2Kmもはなれた花野井や大室などの地に地下燃料庫が建設された。

現在の住所では柏市正連寺にある飛行場に近い場所の燃料庫は、ヒューム管をつないだだけの簡単な作りで、L字形をなし、長い方で径2mほどのヒューム管(長さ2.5m)を8つ連結し、20mほどとしたものと直角に7から8mほどの長さにヒューム管を接合したものである。それに比べて、花野井の地下燃料庫のほうは前述のとおり約40mの長さ、形は昔の黒電話の受話器のように両端が直角のカーブで曲がっている。

この異様な燃料庫は一回の飛行で2トンもの燃料を消費するロケット戦闘機秋水のためのものであり、以下にB29を高高度で迎撃するとはいえ、大掛かりな燃料庫を必要とし、その燃料生産や付随する容器製造その他で、莫大な費用と人員をかけたにも関わらず、秋水は一度も実戦で飛ぶことなく、終戦を迎えた。 実際に搭乗するために人体実験そのものといえる低圧装置での試験がなされた後に、飛行訓練は滑空機などを用いて行われたが、終戦直前の1945年7月、海軍の犬塚大尉が横須賀追浜で試験飛行して墜落して殉職、陸軍では試験飛行すらなされないまま終戦となった。 思えば日本軍国主義の破綻直前に生まれた仇花であったのか、そのモニュメントとして頑丈に作られたがゆえに今も柏市花野井に秋水地下燃料庫が残っているのである。

なお、柏市の市民団体、手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会が、2004年頃から学習会、見学会などで、これを取り上げている。最近では2013年には見学会を行い、旧海軍三一二航空隊の搭乗要員(元中尉)の聞取り内容のビデオ上映も行ったと聞く。

同団体の動画があるので、以下にご紹介する。なお、旧海軍三一二航空隊の搭乗要員(元中尉)の聞取りについては1時間ほどのビデオになっていて一般には公開されていないが、文書では千葉県立図書館に寄贈されている。

ロケット戦闘機秋水と地下燃料庫 https://youtu.be/8LXuDVNacbs

ロケット戦闘機秋水~海軍搭乗要員は語る~ https://youtu.be/mZK3Kv4ky8M

 


開発で失われゆく柏飛行場の戦争遺跡

2013-12-22 | 柏市の戦争遺跡

以前、柏飛行場について、「千葉県の戦争遺跡」HPのほうで、いろいろ記載してきた。そのうち、終戦間際に柏に配備されようとしていたロケット戦闘機秋水については、以下のように記載している。

「秋水の地下燃料庫が飛行場東側に作られ、実際に使用された。それはL字形をしており、地上に径2mほどのヒューム管(長さ2.5m)を8つ連結し、20mほどとしたものと直角に7から8mほどの長さにヒューム管を接合したものと見られ、覆土していたために長年存在が分からなかったが、手賀の湖と台地の歴史を考える会の調査で、つい最近5基発見された(現在、周辺は学校や道路建設などの県の開発地域で立ち入り禁止である)。 これは、地上を少し掘り下げ直接ヒューム管を置き、接合したあとに更にコンクリートで表面を覆い、その上に土を被せて擬装している。換気孔は燃料庫の端部についているのみのようである。 一方、前述の通り、花野井と大室にも秋水の地下燃料庫が建設され、花野井の崖中段に開口のある3つほどと、花野井交番の裏手にあるコンクリート剥き出しの燃料庫が現存しているが、こちらは本格運用しようとしたものらしく、十余二(正連寺)の地下燃料庫は実験用に建設されたもののようである。 (略) 同会が秋水地下燃料庫を発見したのは、最初飛行場跡周辺の遺構として掩体壕跡を調査している際に、自然の会の方に案内されて掩体壕といわれる二つの土盛りがあるのを知り、戦後の航空写真と照合したり、終戦直後のことを知るTさんという元陸軍少尉の方や秋水実験隊の方などに聞き取りをおこなって、よくよく調べたところ、どうも秋水地下燃料庫らしいと推測したのが発端である。その後、何回か踏査の結果、あるマウンドの地上に開いた隙間から、地下燃料庫を実際に確認したものである。 

<十余二(現・正連寺)にある秋水地下燃料庫#4の内部>

 撮影:森-CHAN

プレス発表後、2010年8月8日に行われた手賀の湖と台地の歴史を考える会主催の現地見学会には、定員の90名いっぱいの人が参加した。会代表である國學院大學の上山和雄教授の挨拶と説明に続き、麗澤大学の櫻井良樹教授が柏飛行場と秋水に関する説明をおこなって、参加者は3班に分かれて見学した。 事前説明会のあったのは、柏の葉の公園センターの会議室で、そこから地下燃料庫跡のある場所までは、柏の葉公園の前の道路を渡り、数百メートル歩いていった。俗に、その道路が柏飛行場の滑走路のようにいわれているが、実際には道路の北の端がかろうじて重なっている程度で、滑走路は道路東側の科学警察研究所や関税中央分析所、税関研修所といった官庁の建物がある場所の上を通っていた。現地は、千葉県が管理している公園や小学校などの予定地であり、戦後の一時期はゴルフ場だった場所である。しかし、今はゴルフ場の面影はなく、草木の茂った荒地のような場所になっている。」

この十余二(現・正連寺)の秋水地下燃料庫は現在どういう状況か、といえば、上記のようにプレス発表まで行ったにもかかわらず、千葉県の開発に伴い、まったく打ち捨てられた状態で、保存などされないようである。

その見るも無残な状態は、上記団体とは別の、昔から柏で歴史の研究をおこなっている手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会がつくった柏飛行場の動画のなかで出てくる。どこかから望遠で撮影したようであるが。

http://youtu.be/-q806Jk9rvY

 上記動画で女性の声で、柏飛行場跡地は現在官庁の建物や大学、病院、住宅地のある場所に生まれ変わったとあるように、かつての面影はほとんどなくなり、唯一建物で残っていた陸軍航空廠柏分廠の建物もつい最近取り壊されたと聞く。民間で保存してきたが、所有者が維持しきれなくなったのだろうと推測する。

なお、動画の最後のほうに荒地にあるヒューム管が出てくるが、あれが見学会を行った秋水地下燃料庫の残骸である。あんなくらいのものであれば、掘り出してそのままどこかに展示するくらいわけないと思うのであるが、如何。

開発ばかり優先され、少しの労力で保存できるような戦争遺跡まで失われるのは誠に残念なことである。

 

 


柏飛行場関連動画

2013-11-13 | 柏市の戦争遺跡





柏陸軍飛行場とは

日中戦争の火蓋が切られる直前の1937年(昭和12年)6月、かねて首都東京に近い場所に新たに「首都防衛」の飛行場を求めていた近衛師団経理部が、新飛行場を当地(当時の東葛飾郡田中村十余二)に開設することを決定した。地元でも誘致の動きがあり、田中村の松丸厳村長が斡旋するなどして、約55万坪という用地買収は同年中に終了した。この用地のなかで、多かったのは花野井の吉田家のもの(約6万坪という)という。

翌1938(昭和13年)1月には、飛行場建設が着工、同年秋には完工し、当地に陸軍東部第百五部隊の飛行場、すなわち柏飛行場が開設された。ここに、田中村、八木村にまたがる約145万平米の敷地と、1,500m滑走路1本の柏飛行場が誕生したのである。

同年11月29日、東京立川から移転してきた陸軍飛行第五戦隊をはじめとして、飛行第一戦隊、一八戦隊、七〇戦隊などが、この柏飛行場にそれぞれ時期は違うが駐屯することになる。なお、柏の歴史で柏飛行場に駐屯した部隊を「東部第百五部隊」というが、実はこの飛行第五戦隊のことである。当時の飛行第五戦隊の戦隊長は近藤兼利大佐で、近藤戦隊長はのちに中将にまで昇進し、第一〇飛行師団の師団長になった。この飛行第五戦隊の保有機は、当初九五戦、1940(昭和15年)9月には九七戦に変更され、1942年(昭和17年)3月以降の主力は、二式複座戦闘機である屠龍であった。

この最初に柏にやってきた飛行第五戦隊は1943年(昭和18年)7月、ジャワ島マランに移り、周辺のチモール・ラングーン・バボに中隊を展開して輸送援護や防空に従事した。
その後柏飛行場には、飛行第一戦隊、同第一八戦隊、同第七〇戦隊と、いくつかの部隊の変遷はあったが、松戸、成増、調布などと共に、1944年(昭和19年)末から激しくなった米軍B29などによる空襲に対し防空戦闘にあたった。
飛行第一戦隊は、ラバウルから内地に帰還、一旦大阪の大正飛行場に兄弟戦隊の飛行第一一戦隊ともにあったが、旧満州ジャムスを経て1943年(昭和18年)11月から柏に展開した。1944年(昭和19年)4月、一式戦、隼から最新鋭の四式戦、疾風に機種を変更し、一時九州防空にもあたったが、九州では活躍の機会なく、同年10月8日、捷号作戦により、飛行第一戦隊はフィリピンへ進出するが、レイテ攻撃戦の中で戦力を急速に失い、戦隊長松村俊輔少佐が10月28日払暁出動時の離陸事故でなくなり、各中隊長の多くも戦死、10月末には壊滅に近い状態となった(可動機もわずか4機であった)。
11月以降も春日井敏郎大尉、さらに内地に一時帰還し新しい飛行機と特操出身者を中心とする補充者を連れて戻った橋本重治大尉という歴代の戦隊長ら幹部が次々と戦死する有様で、翌1945年(昭和20年)3月には生き残った空中勤務者と一部地上勤務者が台湾を経由して内地帰還した。しかし、多くの地上勤務者はフィリピンに残留、歩兵部隊に臨時歩兵として編入されたが、物資、食糧が欠乏する困難な中で戦死者が多く、わずかに21名が戦後復員を果たした。

飛行第一八戦隊は三式戦闘機、飛燕を装備していたが、B29 の夜間攻撃に対抗するための訓練で事故を起こし、夜間訓練は中止となった。飛行第一八戦隊の戦隊長磯塚倫三少佐以下の主力は、米軍がフィリピン・レイテ島に1944年(昭和19年)10月20日に上陸した直後の11月11日、フィリピンに向かい、フィリピン・レイテ戦に参加したが、日本軍は海軍のレイテ沖海戦も含めて一連の戦いに敗退、12月19日には遂にレイテ島を放棄せざるを得なかった。飛行第一八戦隊残置隊は五式戦闘機(キ-100)へ保有機種を変更し、1945年(昭和20年)6月に松戸へ移動、米軍機邀撃を続けた。
飛行第一八戦隊主力と入れ替わりに、坂戸篤行大尉(終戦時、少佐)を戦隊長とする飛行第七〇戦隊が柏飛行場に来たのは、1944年(昭和19年)11月7日である。この戦隊の主な保有機は、二式単座戦闘機、鐘馗であった。坂戸戦隊長は、飛行第一八戦隊残置隊も指揮下に置いた。飛行第七〇戦隊は、松戸から柏に移る前は、旧満州の鞍山にあって、B29との戦闘を経験していた。そのため、師団からの期待も大きかったが、この飛行第七〇戦隊は、1944年(昭和19年)終わりから翌年初頭にかけて、B29への正攻法での攻撃をあきらめた師団によってB29に対する空対空体当り特別攻撃隊、震天制空隊を編成せられた。
しかし、彼我の飛行機の能力の格差を埋める非常手段として、「体当り」による特攻が選択され、戦闘機から武装やパイロットの生命を守る防弾板 を外し、脱出できるかどうか分からない「体当り」をさせたのであるから、これは乗員の生命を軽視した論外の策といわざるを得ない。その機たるや、損耗しても惜しくないような老朽機であったのである。機体ごと、体当りする衝撃は、大変なもので、我々には想像もできない。ぶつかってから脱出することは、ほぼ不可能であるし、ぶつかる前に、乗っている機から脱出することも難しく、脱出できたとしてもパラシュートが無事に開くとは限らない。
震天制空隊には、飛行第七〇戦隊では小林茂少尉以下、4名が指名された。実際に人命を軽視するその方針のもと、他の戦隊機とともに、1944年(昭和19年)12月27日の東京の中島飛行機武蔵工場への空襲でB29への体当り戦死が報告されている。
翌1945年(昭和20年)2月16日、17日には、グラマン、アベンジャーを主体とする米艦載機による大空襲があり、邀撃が行われたが、2月17日の空中戦で河野涓水大尉が厚木上空でグラマンと交戦中に被弾、横須賀市市街地に落下の際、自分の名入りの航空手袋を地上に落とし、市街地を避けて東京湾に墜落、自爆した。他にも軍曹二名が、同日の戦闘で戦死している。
この戦隊は、艦上戦闘機を含む米軍機による空襲への邀撃で隊員と保有機を減耗しつつ、同年6月に機種を四式戦闘機、疾風に変更、8月10日にP-51群の来襲に対して緊急離陸直後に本多寛嗣大尉が直撃され戦死するなどの戦闘があったが、終戦まで柏に駐留した。
なお、当飛行場に配置された各飛行戦隊は、1944年(昭和19年)3月以降、第十飛行師団隷下にあり、師団長は当初、吉田喜八郎少将(陸士29期)で、1945年(昭和20年)3月からは前述の近藤兼利中将(陸士26期)となった。また、飛行場には、同じ師団隷下であるが、飛行戦隊とは別に飛行場大隊が駐留し、飛行場の警備や整備、必要資材の調達などを担当した。
兵員はおよそ600~700人配備されていたといわれているが、戦隊の入れ替わりが激しくその数はつねに変動していた。1945年(昭和20年)初頭の戦力は、二式単座戦闘機 鐘馗が約40機、三式戦闘機 飛燕が約15機であった。
柏飛行場は、1,500mの滑走路と周辺設備を保有し、太平洋戦争末期に開発されたロケット戦闘機「秋水」の飛行基地も、この柏飛行場が割り当てられた。秋水実験隊も活動し、近隣の法栄寺を荒蒔少佐ら航空審査部の秋水関係者の宿舎として使用した。秋水実戦配備の際の実施部隊としては、飛行第七○戦隊が想定されており、1945年(昭和20年)7月には操縦者全員の身体検査も行われたが、実現しなかった。


飛行場跡の現在と関連動画

柏飛行場は戦後米軍に接収されたが、変換され、戦隊本部などのあった兵営の一部を自衛隊が使っているが、大部分は官庁、公園、学校、住宅地などになり、飛行場の痕跡としては十余二の道路ぞいにある土手やそこを起点として豊四季駅までまっすぐ南に道がのびる営門跡、航空廠柏分廠の建物群などに限定される。弾薬庫が残っているらしいが、実見していない。

ほかに無蓋掩体壕が残ってるが、千葉県の開発により、全部は残らないらしい。秋水の地下燃料庫も飛行場に近接する旧柏ゴルフ場跡に存在する。

手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会は、飛行戦隊の生存者の聞き取りなどを行っているが、それは筆記録や記録DVDとなったようである。 簡単な動画も一般に公開している。

柏飛行場跡の動画

http://youtu.be/-q806Jk9rvY

飛行第一戦隊の納翼の碑

http://youtu.be/rLYcumhuLtk

飛行第一戦隊の沿革

http://youtu.be/qozNjQwmevY


柏陸軍飛行場跡地附近で新たに発見された秋水地下燃料庫(続き)

2010-07-31 | 柏市の戦争遺跡
*注意:標記遺構の場所は現在立入禁止、また8月8日の見学会は事前予約制(既に締めきり)です

森-CHANが7月27日のプレス発表で撮影した写真を、また送ってくれた。それと以前に撮影した地下燃料庫の内部写真もあり、それらを掲載するものである。

なお、今回の発表内容も含めて、千葉県の戦争遺跡HP http://www.shimousa.net/の「『首都防衛』の飛行場」に「柏とロケット戦闘機秋水」というページをアップしたので、そちらも参照して頂きたい。

1.柏市正連寺の秋水地下燃料庫 #5

地下燃料庫の上に集まる関係者



穴から内部を撮影しようとしている報道関係者



内部の様子(あいかわらず、森-CHANはいざという時の写真が下手である、光の玉は何だか分らん)



2.柏市正連寺の秋水地下燃料庫 #4

1とは別の地下燃料庫の上に集まっている記者たち(足元に小さな穴がある)



この地下燃料庫の内部



3.柏市正連寺の他の地下燃料庫

1,2とは別の地下燃料庫の内部



以上、撮影は森-CHAN。

4.柏飛行場東側国道脇の掩体壕跡

柏の葉からみて国道16線を挟んで東側の香取神社の近くにある無蓋掩体壕の残欠。一部の土手は消失しており、完全なかたちではないが、馬蹄形をなしていたことが容易に想定できる。




これは従来野馬土手だと思われていたもの。手賀の湖と台地の歴史を考える会の調査により、掩体壕であることが分った。

5.花野井交番裏にある秋水燃料庫跡

こちらは、有名になったコンクリートむき出しの燃料庫跡。



小さなタンク車で出入りするようになっていたが、今は出入口が塞がれている。



以上、撮影は染谷たけし氏。










柏陸軍飛行場跡地附近で新たに発見された秋水地下燃料庫

2010-07-27 | 柏市の戦争遺跡
*注意:標記遺構の場所は現在立入禁止、また8月8日の見学会は事前予約制(既に締めきり)です

かねて柏陸軍飛行場附近で掩体などの調査を行っていた、手賀の湖と台地の歴史を考える会(代表:國學院大學上山教授)が、この4月4日にロケット戦闘機秋水の地下燃料庫を五基発見したという。場所は掩体と同じような場所であるが、多少位置がずれている。地下燃料庫は、秋水のロケット燃料の甲液(過酸化水素80%と安定剤)を保管したもので、上から見ればL字型をしており、一基の大きさはL字の縦方向が約20m、横方向が7から8m、高さは2.5m、幅2.5m弱で、径2mのヒューム管長さ2.5mのものを縦方向に8つ並べた形であり、端に換気孔があったという。

これは7月27日プレス向けに発表があったもので、読売新聞と朝日新聞に掲載されたほか、種々のネットニュースに流れている。

<地下燃料庫跡の発見時>



その発表には海軍で秋水の飛行訓練をしていた13期予備学生出身の、鈴木晴利元海軍中尉も駆けつけ、元山海軍航空隊から移ってきて、選抜された16名で厳しい訓練を今の茨城県の百里あたりでおこなったことや、その訓練はひたすら帰投を目指した滑空訓練が主体で、その他射撃もあった、射撃といっても五式三十粍機銃ではなく、通常の零戦に付いているようなものであったことなど、具体的に述べられたという。86歳でいまだ矍鑠とされ、HPの写真にもスマートな海軍士官らしさがにじみ出ている。

<地下燃料庫跡に立つ鈴木元海軍中尉と秋水研究家の柴田さん>


(柴田さんが抱えているのは、戦後近隣の人がそのあたりの秋水地下燃料庫から持ち出したという硫酸瓶。かつては液体燃料の過酸化水素が入っていたそうだ)

なお、同会では、8月8日に一般向け見学会をするそうだが、いろいろ保険だとかあり、また人数も絞って事前予約制になっている。

最終案内かどうか、森-CHANからの情報が今一つ明確でないが、概略以下の通りらしい。
また森-CHANによれば、同会のブログに詳細が書かれているとのことで、最初見たら何もかいていなかったが、二回目に見ると、該当の記事があった。よって、同会のブログを確認して頂きたい。

「手賀の湖と台地の歴史を考える会」のブログ http://teganoumi.blog62.fc2.com/

「手賀の湖(うみ)と台地の歴史を考える会」

(以下、同会の連絡文)

柏市正連寺で有人ロケット戦闘機・秋水の地下燃料貯蔵庫5基を発見しました。完全な形ではありませんが、内部の保存状態は良く、戦争中に使用されていたことも分かっている非常に貴重な遺構です。この発見した燃料庫のうち、2基の見学会を下記のとおり開催いたします。参加ご希望の方は、事務局までEメール、電話またはファクスでお申し込みください。
日時:8月8日(日)午前10時~12時
場所:①概要説明(午前10時~11時すぎ):千葉県立柏の葉公園・公園センターの大会議室
     (場所はhttp://www.cue-net.or.jp/kouen/kasiwa/annai/access.html)
②現地見学(午前11時すぎ~12時):公園センターから徒歩5分。徒歩で移動
参加費:500円(資料代、保険料込み)
申込方法:参加される方全員の「お名前」「性別」「年齢」「ご住所」「電話番号」を、会ブログhttp://teganoumi.blog62.fc2.com/、事務局☎・Fax04-7155-2351までご連絡ください。
※要予約、申し込み先着90人、少雨決行。また、道の部分の草刈りはされていますが、周囲は薮
(やぶ)です。長袖・長ズボン・足元のしっかりした靴でご参加ください。
問い合わせ:事務局(浦久)☎04-7155-2351、090-5560-2408

(以上)

<発見された地下燃料庫の内部>


なお、わが取材班もデジタル一眼レフ持参で、柏まで行く予定。遠路はるばるご苦労さん。

本来は館山に飛んでいる時期であるが、自衛隊の開隊行事は10月らしく、それまで延期するつもりらしい。それなら、茂原でもどこでも海軍基地に行ってきてほしいものだ。

柏陸軍飛行場跡周辺の掩体壕

2009-10-23 | 柏市の戦争遺跡


柏陸軍飛行場周辺に掩体壕があるとの話は、前からあった。しかし、それは長い間確認されていなかった。戦後60年以上たち、柏に展開していた陸軍の各飛行戦隊など飛行場関連の軍人たちは、次々と鬼籍に入り、飛行場が戦後米軍に接収されて、返還後も飛行場跡地が開発されていくなかで、飛行場の関連施設遺構にかんする記憶も風化してしまった。

どういうわけか、旧柏ゴルフ倶楽部敷地内に掩体壕跡と伝えられる箇所があり、それはこんぶくろ池の公園予定地内である。現在、柏市が管理しており、立入りが禁止されている。

國學院大學の上山教授を代表とする「手賀の湖と台地の歴史を考える会」では、柏市の許可を得て、その場所を含めて巡見を行った。掩体壕といわれる、その位置を地図上に特定する、また周辺を調べてみる、終戦後1,2年の航空写真と見比べて、その場所が航空写真でどうなっているかを調べるなどの活動を後日行った。

その後、航空写真でもうつっている税関研修所の東側の道が、柏陸軍飛行場の東誘導路といわれる道であることが分かり、その道路沿いに3基、さらに国道16号線を越えた香取神社近くに3基の掩体壕があることが踏査・実見によって判明した。

それらは、別に新たに「発見」されたものではなく、従前は野馬土手と思われていたのである。それが、航空写真に写っている掩体壕と場所が一致すること、また形状が印旛陸軍飛行場の掩体壕や茨城県小美玉市の百里原海軍飛行場とも似通っていることから、野馬土手ではなく掩体壕であることが分かったのである。
但し、一番初めに同会が調査した旧柏ゴルフ倶楽部敷地内の掩体壕跡と伝えられるものが、結局何であったかは判明していない。


<柏陸軍飛行場の略図>


旧柏ゴルフ倶楽部敷地内の掩体壕跡といわれるものは、東側の土手は高さもあり、掩体壕の一部と考えておかしくないが、南西側は崩れた形で、高さも1.5mほどと低い。

東側の土手も、北のぼさ藪になっている部分で切れており、直下は平坦地、さらに一段低くなる。南西側の土盛の傍、土盛で囲まれた平坦地に、大木があり、太平洋戦争中にはすでに当地に生えていた模様。

これらの土手などを柏市に所蔵されている記録では、掩体壕跡としている。

ただ、箱形の掩体壕としても、三方の土手ではなく、二方のみであるのは、不自然で、掩体壕ではなく、別の構築物であったと思われる。仮に掩体壕であったとすれば、未完成であったか、一方が破壊されたと考えられる。


<旧柏ゴルフ倶楽部敷地内の伝・掩体壕跡の東側土手>


同会は、自然保護団体の案内で周辺を探索し、柏市正連寺の国道16号線の西側にあって、こんぶくろ池に近い資材置場横の藪化している場所で、馬蹄形の掩体壕跡が確認できた。

形は五角形の一辺がない形であり、土手はかなり高く、高い部分では3mほどありそうであった。東側は藪がすごく、見通しが利かず、土手の距離を図るのもレーザー距離計などでは歯がたたず、巻尺で測るしかないように思われた。西側の土手の上にのぼり、向こうをみると、土手が城の土塁のように切り立っていることが分かった。

後日、その場所を1947年(昭和22年)の米軍撮影の航空写真等で確認すると、確かに該当する掩体壕があり、その前の道が誘導路であることも分かった。さらに自然保護団体の話や会員の実見により、税関研修所脇の庭球場近くの山林に一つあることが分かった。

瓢箪から駒のような話で、伝聞から掩体壕跡といわれる土手を調べたあとで、こちらももしかしたら掩体壕かもしれないとしてまわった後のほうが、正真正銘の掩体壕であり、その場所を昔の航空写真と照合したところ、米軍が1947年に撮影した航空写真にうつっている掩体壕と一致し、芋づる式に誘導路沿いの別の掩体壕も見つかって行ったのである。

同会は前述のこんぶくろ池近くの資材置場横のものとあわせて、踏査したところ、両者の中間の位置に、半壊しているが、土手の高い掩体壕があることが分かり、税関研修所脇から国道16号線まで都合3つ掩体壕があることが判明した。そして、国道16号線の東側の香取神社周辺に3つの掩体壕があって、合計6基の掩体壕が柏にはあることになった。

<誘導路沿いの掩体壕の土手にのぼる>


実は、6基の掩体壕のうち、こんぶくろ池公園予定地のなかにはいるのは、税関研修所脇の池に近い2基のみで、あとは開発地域である。とくに、国道16号線の東側の香取神社周辺の3基については、周辺が既に整地に入っていて、風前の灯である。遺跡というものは、一度壊されれば元には戻らない。こんぶくろ池の公園予定地内の掩体壕2基を保存するのは勿論のこと、開発対象区域のものについても発掘調査などを行い、東誘導路の国道より西にある1基については保存してもらいたいものである。


柏市の戦争遺跡5(東部百二部隊:第四航空教育隊、毒ガス事案)

2008-03-31 | 柏市の戦争遺跡
1.東部第百二部隊:第四航空教育隊

柏陸軍飛行場跡の南側の金属工業団地のある辺りには、陸軍東部第百二部隊、すなわち陸軍第四航空教育隊があった。南北600m、東西400mほどの長方形の区画のなかに、部隊本部、兵舎、格納庫などがあった。それは東部第百五部隊、柏飛行場の門跡から南下し、豊四季駅にいたる県道279号線、豊四季停車場高田原線の駒木交差点附近が、東部第百二部隊入口であり、そこを東に折れてしばらくいったところ、現在の梅林第三公園の手前に営門があった。
現在のつくばエクスプレスがすぐ近くを通る柏浄水センターの北側から、南は十余二の光風園、高田車庫入口のバス停の辺りまでが、東部百二部隊が駐屯していた場所である。

<東部百二部隊略図~梅林第四公園の案内図の写真に追記>


1938年(昭和13年)に当地に開設された陸軍東部第百五部隊の飛行場、すなわち柏飛行場は、1937年(昭和12年)6月、近衛師団経理部が新飛行場を当地(当時の東葛飾郡田中村十余二)に開設することを決定し、用地買収を行って建設されたものである。その当時、日本は1931年(昭和6年)の満州事変以降、日中の戦線拡大の真只中にあり、1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件を契機として、日中全面戦争に突入していた。柏飛行場は、首都防衛の飛行場として、松戸、成増、調布などと共に陸軍が設置したものである。

その柏飛行場開設から遅れること約2年、1940年(昭和15年)2月に高田、十余二にまたがる上記地域に、第四航空教育隊(東部百二部隊)は移駐した。この部隊は、1938年(昭和13年)7月立川で開設されたものである。その兵員は3,500名から4,000名、終戦当時は7,000名以上といわれる。

陸軍航空教育隊とは、文字通り陸軍の航空兵を教育、養成する部隊である。1937年(昭和12年)7月「支那駐屯軍」による北京郊外での通告なしの夜間演習時、中国軍から発砲があったとして、日本軍が中国軍を攻撃した盧溝橋事件に端を発する日中戦争開戦以降、航空兵の減耗率が高くなったことに危機感を覚えた陸軍は、航空兵の養成のために各地に航空教育隊を開設していった。

航空教育隊に入隊すると、初年兵教育としての基礎訓練3ヶ月、各部門(機関・武装・通信・写真・自動車など)に分かれた特業教育3ヶ月、都合半年の訓練ののち、実施部隊に配属される。

いわゆる特幹(特別幹部候補生)の教育をする航空教育隊もあった。特幹とは、海軍でいえば予科練に相当する。いや、海軍では飛行科、整備科に限られていたから、陸軍の特幹のほうが幅広い兵科、兵種を対象とした。それは海軍の予科練に対抗するものとして、短期間の軍隊教育で即戦力として活用できる中等学校生徒(十五才から二十才)を登用し、不足している航空、船舶、通信等、軍の中堅幹部である現役下士官要員のため作られた陸軍特別幹部候補生をいう。

柏の第四航空教育隊(東部百二部隊)も、特幹の訓練を行った。彼らは、厳しい訓練に耐えて、陸軍航空兵の不足を補った。

<近隣の公園に残る東部百二部隊の営門>


この東部百二部隊の遺構といえば、まず営門があげられよう。これは前述のように、梅林第三公園近くにあったのだが、現在は柏までのバス通りに面した梅林第四公園に移設されている。門柱は、赤味がかった砂岩質の石で出来ているが、その赤い色から地元の人は「赤門」と呼んでいる。かつて、本来の場所にあったときは、門を入ると左手に衛兵所と部隊本部、兵舎が建ち並び、右手には面会所があった。営門は豊四季と柏飛行場営門を結ぶ県道豊四季停車場高田原線の側に開いていて、兵員の出入り口は主にそちら側であった。現在のように柏の葉公園から柏駅を結ぶバス通りはなく、部隊の東側は林であった。

今もかつての営門のあった場所を示すように、「百二(以下不明)」と書かれた陸軍境界標石が民家の塀の基礎に寄り添うようにあるが、その家の人もそれが旧陸軍のものであることを知らないようであった。

<「百二」と書かれた陸軍境界標石>


陸軍境界標石といえば、流山市域になるが、県道豊四季停車場高田原線の東部百二部隊入口附近に「陸軍」と書かれた境界標石がある。それも、この部隊関連であろう。

<県道沿いにある「陸軍」と書かれた陸軍境界標石>


面白いことに、給水塔が現在も防火用水としてか、柏浄水場の北側工場脇に残存している。梅林第四公園にあった案内図をみると、現在の場所ではなく、もっと南側の部隊の中心からみれば西側にあったはずだが、戦後移設したものであろうか。かつて給水塔があった場所は、本部の建物の北側、炊事場のすぐ東隣に位置し、炊事場の西側には兵舎があった。

柏飛行場の東部百五部隊にも、現在の柏送信所の西南に給水塔があったが、その近隣にあった兵舎とともに現存しない。

<給水塔>


2.東部第百二部隊をめぐる毒ガス事案

環境省のHPには、平成17年度第六回の「国内における毒ガス弾等に関する総合調査検討会」で、「追加的な情報収集が必要とされたB/C事案及び平成16年度新規事案と平成17年度新規事案の評価について」として、この東部第百二部隊:第四航空教育隊において、終戦直後に毒ガスが埋められたらしいとの元兵士の証言をもとにした簡単な調査結果を載せている。

それによると、

終戦を柏付近で迎えた元第4航空教育隊員は、昭和20年8月16日朝起床すると、「自分たちのバラックの兵舎から20mくらい離れた松林の中に広さ20~30坪程で、深さ約3mの大きな穴が掘られており、兵士たちが集まっていた。
穴の周囲には掘削した際に出る土が盛られていなかったので、何かを埋めるために掘られた穴なのだろうと思った。自分たちの部隊にはこの穴を掘った者はいなかったので、どこかよその部隊が掘ったのではないか」、「そうこうするうちに兵士たちの間で、この穴は毒ガスを埋めるために掘られたのだろう、国際法違反の問題をまず消すのだろう等という噂が誰ともなくまことしやかに広まった。そのとき、ある兵士から、糜爛性ガスのイペリットは缶に入っており、そのガスに触れると手も足も腐ってしまうという話を聞いた。自分は毒ガスを見たことはないが、このとき聞いた「イペリット」という名はなぜか記憶に残った。自分が穴を見たのはこれが最初で最後である」と証言している

とのことである。

これは伝聞情報であり、確たる証拠はないのであるが、なにせ毒ガスは毒ガス戦の訓練が行われた習志野原だけでなく、全然関係ないはずの銚子の海からも多数発見され、1951年(昭和26年)の銚子の事案では尊い人命が失われた。この場合は、一見すると可能性は低いと思われる。ただし、航空教育隊は毒ガスを使用する部隊ではない、隠すなら教育中の兵士が多い部隊より、別の実施部隊にするだろうと一般には推認されるものの、逆に盲点をついているかもしれない(例えば銚子の海に投棄したのと同様、一見関係ない教育隊の営内に捨てた、など)。つまり、まったくありえない話としてしまうのも早計であろう。

環境省のHPによれば、

(2)第4航空教育隊の毒ガス関連施設に係る情報
・「東部第102部隊(航空教育隊)関係」の兵営略図には、「ガス室」の位置が示されている〔5〕。
(3)柏市内の毒ガス関連施設に係る情報
・「東部第14部隊(工兵)関係・東部83部隊(歩兵)関係」の略図中に、「ガス講堂」の位置が示されている〔5〕。また、兵舎位置図には、「毒ガス室」の位置が示されている〔4〕。
・「東部105部隊・立川航空廠柏分廠」の兵営配置図に「ガス庫」の位置が示されている〔5〕。

と、柏にあった部隊のガス室の存在を指摘している。

文中、〔4〕とか〔5〕とあるのは、引用文献の注であり、
・『歴史アルバム かしわ』〔4〕
・『平和への願い(増補版)』〔5〕と対応づけられるが、小生も持っている『歴史アルバム かしわ』を見てみると、確かに高射砲連隊がいた高野台に、高射砲の後にはいった東部十四部隊、東部八十三部隊の部隊配置図に毒ガス室の記載がある。

<高射砲連隊移転後にはいった東部十四部隊、東部八十三部隊の部隊配置図>

『歴史アルバム かしわ』(柏市役所)より引用

それは根戸消防署分署として残っている馬糧庫の西、機関銃中隊のさらに西である。あるいは、後の追及を恐れた日本軍が、柏周辺に分散していた毒ガスをまとめて、柏航空教育隊の一角に遺棄したものかもしれない。今後の調査研究が待たれる。

なお、東部百二部隊を調べているうちに、東部百五部隊の残存遺構、陸軍航空廠立川支廠柏分廠の遺構もいろいろ見聞した。それは主に、流山市域に属するものなので、ここでは述べず、別途頁をおこすこととしたい。

参考文献:
『歴史アルバム かしわ』 柏市役所 (1984)

柏市の戦争遺跡4(「柏の軍事基地と幻の戦闘機・秋水」講演会で実験隊員の話を聞く)

2007-11-04 | 柏市の戦争遺跡
2007年10月29日の日曜日、柏中央公民館で「柏の軍事基地と幻の戦闘機・秋水」と題された講演会があると親戚から聞き、出向いて聞いた。聴衆は9割以上が高齢者、中年以下の人は数名であった。小生も今回は補聴器のお世話にならずにすんだが、隣の同年代の老人は補聴器をしきりに触っていた。それはともかくとして。

基調講演は、國學院大学の栗田尚弥先生(日本近現代史、軍事史がご専門)が行った。栗田尚弥先生は柏市史編さん委員会参与でもある。

基調講演のレジュメでは、以下のようになっていた。
1.はじめに
2.国土防空の主張
  ①陸軍省軍務局「国土防空について」
  ②満州事変と空襲の懸念
  ③都市防空の主張
3.軍防空の充実と柏飛行場
  ①民防空の充実に向けて
  ②帝都防空飛行場の必要と柏飛行場
4.太平洋戦争と柏飛行場
  ①航空部隊の進出
  ②「国土防空作戦計画要綱」の策定
  ③「帝都」防空機構の改編
  ④通称「東京航空要塞」の成立
  ⑤B29の登場
  ⑥B29VS日本軍戦闘機
5.秋水登場
  ①メッサーシュミットから秋水へ
  ②陸軍の開発
  ③秋水部隊    

基調講演では、欧州大戦を機会に戦闘機が積極的に使われるようになり、日本でもいろいろ開発されたが、戦争末期にはドイツのメッサーシュミットをモデルとして、ロケット戦闘機秋水が開発され、それは犬猿の仲であった陸海軍の珍しい共同開発であり、陸軍柏飛行場はその秋水の基地となる予定であったことなどを述べられた。

このロケット戦闘機・秋水は航続時間が短く、3分で1万mの高度にまで上昇し、急降下でB29など敵機を迎撃する、その次に上昇する高度は7千mとなり、また急降下で敵を狙える、そして一度攻撃すれば滑空により着陸するというという。

<秋水の飛行方法>


またパネルディスカッションとして、柏飛行場で秋水の実験隊員として実際に活動されていた福田禮吉氏と百瀬博明氏が参加して、当時の状況が語られた。
福田氏、百瀬氏ともに、陸軍の特幹出身で1944年(昭和19年)8月15日入隊の同期とのことで、百瀬氏は第四航空教育隊で最初横田にいて、福生の陸軍航空審査部に移り、最終的に柏で秋水の実験に従事したとのこと。福田氏も福生から柏に来た人で、この人は「或る陸軍特別幹部候補生の一年間」(文芸社)という本も上梓されている。

<講演会の様子1、壇上左から栗田尚弥先生、福田禮吉氏、百瀬博明氏>


当時、秋水の開発は、エンジンを陸軍が、機体は海軍が開発し、両者を合体させて試験飛行し、実施部隊で飛ばす予定であった。
陸軍でロケットエンジンの開発テストをしていたのは、長野県の松本で今の松商学園がある場所にあたるという。一方、海軍で機体の開発をおこなっていたのは、横須賀市の追浜であった。

それまでに練習機秋草は出来ていたが、秋水の開発は難しいものであった。苦労したのは、ロケット戦闘機であるため、特別なロケット戦闘機用燃料が必要であるが、その燃料の扱いが難しかった。燃料は液体燃料で甲液(過酸化水素80%と安定剤の混合)と乙液(水化ヒドラジン、メタノール、水の混合溶液に微量の銅シアン化カリを添加)があり、両者を反応させて推力を得るというもの。特にオキシフルのような甲液の扱いが難しく、金属を溶かしてしまうため、常滑で陶製の燃料容器(甕)をつくらせた。
燃料を入れた甕は柏駅(引込線)まで貨車で運び、さらにトラックで運ぶ。
しかし、その甕を運ぶときなど、たまに液がこぼれることがあり、それが服につくとぼろぼろになり、手につくと皮膚の表面が溶けるのか白くなる。

<柏にて>


本物の秋水を飛ばすまでの間の準備として、飛行訓練としては我々が予科練でやったように、飛行機に索をつなぎグライダーを引っ張ってもらって、グライダーで飛ぶことはやったと百瀬氏が述べていた。秋水は一般の戦闘機とも違い、10分しかもたない燃料を使いつくし、滑空で降りてくるのだが、その際通常の飛行機より滞空時間が短い。

実際の飛行に際しては、ほかの多くの戦闘機とは違い、通常の車輪をつけておらず、ゴムタイヤを履いているのみで、離陸すると機体の重量を軽くするために脚を落とし、上昇、下降を繰り返し、滑空して着陸する際には腹から鉄製のソリを出してそれで着地する、だから着地するのは滑走路ではなく、地面が土の草地のようなものでなくてはならず、高度な技術を要するものである。

<講演会の様子2、壇上左から栗田尚弥先生、福田禮吉氏、百瀬博明氏>


実際の秋水に初めてエンジンをのせた試験飛行は、1945年(昭和20年)7月7日に海軍追浜にて飛行士(犬塚大尉)搭乗で行われたが、約300m飛んでロケットエンジン停止により着陸に失敗、機体は大破、操縦士犬塚大尉は重傷を負った(翌日死亡)。この大破した機が、当時完成した唯一の秋水であった。この失敗は、ロケットエンジン停止により、上昇後右旋回して不時着しようとしたが、機体の沈下速度が予想以上に速く、翼端が建物に接触、大破したというものである。それとは別に、1945年(昭和20年)8月、陸軍柏飛行場でも、伊藤大尉の操縦で、重滑空機試験飛行が行われたが、松の木に引っかかって墜落するという事故があり、伊藤大尉は重傷を負った。これは操縦士伊藤大尉が離陸直後にタイヤを落とさなかったこと、索の解除を誤ったことによるが、そもそも事前に勉強していっただろうが、十分な訓練ができていなかったのが要因だという。そして間もなく、秋水は一度も実施部隊での飛行を行うことなく、終戦となった。(2007.11.17訂正)

福田氏、百瀬氏は結局1年間の軍隊生活を殆ど、秋水のために費やしたわけであるが、秋水は幻のロケット戦闘機で終わった。その他、海軍の追浜からトラックに載せて陸路秋水を運んだ際に、空襲のあとで翼がどこかに引っかかり、両国駅で荷を直した話、米軍艦載機による空襲で仲間がなくなった話、戦闘機の掩体壕を掘った話、慰問団で轟由紀子が来て「お山の杉の子」を歌った話などがあった。轟由紀子など、久しぶりに名前を聞いた。
福田氏の話で、1945年(昭和20年)6月頃、流山の成顕寺で分宿した際に、沖縄出身の隊員が汗びっしょりで沖縄空手の稽古をしていたのは、あるいは涙をふるっていたのかもしれないというのが特に印象に残った。
実際に秋水の実験隊員の話を聞くのは初めてで、非常に興味深かった。

柏市の戦争遺跡3(補足:柏飛行場と秋水)

2006-10-30 | 柏市の戦争遺跡
1.柏飛行場の戦後と現況

前に述べたように、柏には陸軍の飛行場あり、秋水の燃料格納庫あり、高射砲部隊あり、陸軍病院ありと、まさに「軍都柏」の名前の通りである。そのなかで中心的なものは、1938年(昭和13年)に当地に開設された陸軍東部第百五部隊の飛行場、すなわち柏飛行場であろう。柏飛行場は、1937年(昭和12年)6月、近衛師団経理部が新飛行場を当地(当時の東葛飾郡田中村十余二)に開設することを決定し、用地買収を行って建設されたものである。その当時、日本は1931年(昭和6年)の満州事変以降、日中の戦線拡大の真只中にあり、1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件を契機として、日中全面戦争に突入していた。柏飛行場は、「首都防衛」の飛行場として、松戸、成増、調布などと共に陸軍が拠点としたものである。兵員はおよそ600~700人の配備であり、飛行機の配備(1945年初め)としては2式戦闘機(鍾馗)約40機、3式戦闘機(飛燕)約15機であった。

柏飛行場には、1500mの滑走路と周辺設備があり、後述するように太平洋戦争末期には、ロケット戦闘機「秋水」の飛行基地も、この柏飛行場が割り当てられた。
陸軍東部第百五部隊の営門は、現在の陸上自衛隊柏送信所の前の道路が、十余二の大通りと交差する駐在所横にあり、当時の位置のままである。コンクリート製で、今も門扉を取り付けた金具が残っている。

終戦間際の1945年(昭和20年)頃になると、空襲に際しては滑走路も無視して四方八方から戦闘機が迎撃に飛び立って行き、そのまま帰還しない機も少なくなかったという。

<東部第百五部隊の営門~1943年当時>


<東部第百五部隊の営門跡>


そして、1945年(昭和20年)8月15日の敗戦の日を迎える。日本国民は天皇を頂点とした軍部ファシズム、戦時統制経済のくびきから解放されたが、多くの引揚者、復員軍人を迎えた国土は戦争で疲弊しており、戦後の食糧難の時期を迎える。柏飛行場跡地は、食糧難解消のための緊急開拓地の一つとして、開拓民が移住、引揚者や旧軍人など約140人が入植した。当地は地味や水利が良くなかったものの、陸稲や小麦、甘藷、落花生などが栽培され、柏飛行場跡地は徐々に農地へ転換した。

しかし、朝鮮戦争が始まると、開拓地は米軍に接収され、朝鮮戦争以降アンテナの立ち並ぶ通信基地として使用された。すなわち、柏飛行場の農地転換作業がほぼ完成した1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が勃発するや、1952年(昭和27年)には日米合同委員会が米空軍通信基地の設置を決定、1955年(昭和30年)、「米空軍柏通信所」、トムリンソン通信基地が開拓地内に建設された。基地には200mの大アンテナをはじめ、アンテナが林立し、日本の国土でありながら朝鮮、ベトナムに駐留する米軍に対してアメリカ国防総省の命令を伝達する通信基地となったのである。
トムリンソン通信基地では、旧軍の柏飛行場を一部改変し、道路の付替えを行っている。

<基地跡のアンテナの残骸>


その後、農民の強い反対運動にもかかわらず、米軍基地は拡大、昭和38年(1963)施設拡充のための国による買収問題を契機に開拓農民に動揺が起き、結局ほとんどの開拓地は国に買収されて農民は去り、わずかな民有地を残して中十余二開拓は消滅した。
その後、国民運動におされて、日本政府も基地返還についてアメリカ政府と交渉せざるを得ず、関東での基地返還があいつぎ、柏のトムリンソン通信基地についても昭和50年(1975)に返還の動きが出てきた。そこで県と地元市町村(松戸市、野田市、柏市、流山市、我孫子市、鎌ヶ谷市、関宿町、沼南町)は、1976年(昭和51年)2月23日に「米空軍柏通信所跡地利用促進協議会」を設置して、基地の早期全面返還と跡地の公共的利用について、更に積極的な活動を進めることになった。

さらに、県議会、柏市・流山市議会においても早期返還の決議がなされ、また、地元協議会などの幅広い活動の結果、1977年(昭和52年)と、1979年(昭和54年)の二度に渡りほぼ半々ずつの面積で返還が行われ、跡地188 haの全面返還が実現した。
その際、アメリカは1977年(昭和52年)に基地の半分を返還すると通告してきたが、同時に残り半分を原子力潜水艦へ核攻撃の指令を出すための通信基地「ロランC」を新設すると通告、これは国会でも取り上げられ、大きな反対運動が起こった。結果、米軍は新たな基地建設を断念、1979年(昭和54年)の全面返還となったのである。

日本に返還された基地跡は、背丈ほどの雑草の生い茂る荒地となっていたのを、近年柏の葉キャンパスとして、国立がんセンター、科学警察研究所、財務省税関研修所、東葛テクノプラザ、東京大学といった官公庁、大学などの研究施設や柏の葉公園などとなった。
実は、前述したように、米軍の通信基地になった段階で、旧軍の柏飛行場は大きく改変が加えられたが、通信基地には殆ど無用な滑走路が廃され、新たに道が付替えられるなどした。
航空写真(1974年)と現在の住宅地図を重ね合わせることによって、柏飛行場跡の現況を見ると、以下のようになる。なお、地図を合わせるポイントは、1974年当時から変化がすくないと考えられる営門跡付近、柏養護学校付近の道路とし、それが丁度重なることを確認して、重ねあわせた。

<柏飛行場跡の航空写真と住宅地図を重ねたもの>

航空写真:国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省より

色々な文献に、柏の葉公園脇の道路は、かつての滑走路跡を通っていると書かれている。また当ブログでもそのように記述していた。しかし、航空写真から見られるように、柏の葉公園脇の道路は北側については滑走路跡に重なっているものの、財務省税関研修所付近から南は滑走路跡の西にずれていき、南側は東大第2キャンパスの地点で約200mずれている。科学警察研究所や東大第2キャンパスの一部、柏西高校の校舎などは、かつての滑走路跡に建っていることになる。

<財務省税関研修所脇から北の滑走路跡を望む>


それにしても、折角入植していながら、米軍、政府の勝手で土地を取り上げられた開拓農民の人々は、一体どこへ行ったのか。軍隊でもベタ金(将官をあらわす兵隊言葉)や部隊長クラスなど一部高級将校のみ優遇され、下級将校や下士官兵は、天皇や将官からみてどうでもいい存在であった。事実、我下級将校や下士官は、最も減耗率の高い、「消耗品」だったのである。そして、戦後においても犠牲になるのは、いつも真面目にはたらいている労働者・農民・中小商工業者であるのは腹立たしい限りである。


2.秋水と柏飛行場

戦争末期、頻々として日本国土を空襲する米軍のB29やP51は、1万メートルの高高度を飛ぶ爆撃機であった。特にB29は、空の要塞とも言われた。それを迎撃するにも、日本陸海軍の戦闘機、零戦、隼は既に時代遅れ、月光、雷電、紫電、紫電改では高高度にあがるまでに時間がかかる上、高空性能が悪く、歯が立たなかった。陸軍の高射砲も、一般的な八八式七十五粍野戦高射砲では、最大射高9千百メートルと届かない。1万メートルに届く九九式八十八粍高射砲がのちに量産されるが、間に合わず、他に新しい高射砲も開発されたが、故障が多いなど問題もあり、配備される数もすくなかった。
そこで、ドイツのメッサーシュミットのロケット戦闘機を模して、ロケット戦闘機を開発し、迎撃用とすることが計画された。この開発には戦争末期の国家予算の7%がつぎ込まれ、陸海軍の垣根を越えて開発が進められた。そのロケット戦闘機が、秋水である。それは、当初1945年9月までに数千機作る計画であったが、計画そのものの無謀さもさることながら、如何に戦争末期の日本が最後の切り札として、このロケット戦闘機に賭けていたかがよく分かる。

<メッサーシュミットのロケット戦闘機>
ベルリン・ガトウのドイツ空軍博物館に展示されるMe163B


<ロケット戦闘機 秋水>


三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料館にて、許可を得て撮影(撮影:森-CHAN)

その秋水用の飛行場も、建設されつつあった。その飛行場に柏飛行場が割り当てられた。それはB29が首都東京を攻撃する際の経路の一つに、柏がなっていたからである。そのため、柏飛行場には、秋水用の掩体壕などが作られつつあった。また、過酸化水素などロケット燃料の貯蔵庫として、地下壕が建設されたが、リスク分散のため、それは柏飛行場から東へ2Kmもはなれた花野井や大室などの地であった。

<花野井、大室の地下燃料貯蔵庫址分布>


写真は上が北、柏市花野井の花野井交番付近を写した国土交通省提供の航空写真(1979年:地形図番号NI-54-25-1の解像度400dpiのもの)にマーク・文字入れを行った。

<秋水地下燃料貯蔵庫址>


それらが実現されれば、柏は戦争末期における日本の一大軍事拠点となった筈であるが、飛行場などの建設は未完に終わった。しかし、秋水の地下燃料貯蔵庫址は現存している。花野井、大室に台地端の崖を利用した横穴式のコンクリート製の地下壕が作られた。その地下燃料貯蔵庫は両端に出入口がある、ちょうど昔の黒電話の受話器のような形をしていて、長さは40mほどで中は中空になっている。断面はかまぼこ型で高さ2m以上、幅は3mから4mもあった。地下壕の出入口は台地端の斜面などにあり、小さなタンク車が中まで入ることができるような構造になっていた。この奇妙な形は、貯蔵時に出るガスを逃すように風通しを良くするためで、喚起孔もついている。
花野井、大室以外に、十余二にも台地上にヒューム管を埋め込む形の地下燃料貯蔵庫が作られた。
現在、確認できるのは、花野井では花野井交番の近くのコンクリートの胴体が露出している地下燃料貯蔵庫のほか、台地端の出入り口が3か所、畑にヒューム管が突き出している場所である。

<畑の中に突き出たヒューム管>


住宅地の片隅、台地の縁辺に残っている姿は異様だが、貴重な戦争遺跡である。なお、台地端にある燃料貯蔵庫址には、終戦直後引揚者など人が住んでいたとのことで、戦後になって近所の子供が中に入ると人がいて怒られたという話もある。その後、農家の納屋などとして使用されたが、最近は子供が遊ぶと危険なため、入口や換気孔を塞がれている。


3.秋水用の呂号兵器を作った町、愛知県常滑市

前にも述べたが、ロケット燃料の甲液、過酸化水素水は扱い難く、通常の金属容器を溶かしてしまう、不純物が入ると爆発の危険性もあるという代物であった。特にその製造を行う濃縮過酸化水素製造装置をどんな素材でつくるか、陸海軍の技術陣の頭を悩ませたが、結局行き着いたのが耐酸性の強い陶磁器であった。それをつくるのに、白羽の矢がたったのが、製陶業の会社のなかで湿田対策など農業用の大きな土管製造の技術をもつ伊奈製陶(現在のINAX)であった。伊奈製陶は、常滑市に本社のある会社であるが、ここに1944年(昭和19年)7月下旬、海軍省燃料局より「呂号兵器」を生産するよう、それも短納期でという命令が出た。

<常滑市民俗資料館にある呂号甕(撮影:森-CHAN)>


「呂号兵器」の「呂」とはロケットのロである。「呂号兵器」とは、正式には呂号乙薬甲液製造装置という。これは、酸やアルカリに最も強い耐酸器を、ロケット推進に必要な高度の濃縮過酸化水素製造装置に用いるもので、海軍の命令は大量の大小貯蔵槽、反応塔、真空瓶、各種パイプ、蒸留装置等を8月末から11月中頃までに納入せよというものだった。そして、この新兵器は航空機以上の急用品だという。
伊奈製陶は、早速それまでの受注品を全部辞退し、中・小型の貯蔵槽など比較的簡単な物は、地域の中小工場を指導して製造を委託することになった。そうして、1944年(昭和19年)8月頃からは伊奈製陶だけでなく、常滑全体をあげて、本来の陶器生産そっちのけで呂号兵器の生産にシフトすることになった。

現在でも、常滑では町のあちこちに「呂号兵器」が残っているという。その辺りは、以下のブログを参照されたし。

「夜霧の古城」 作者:森-CHAN 
夜霧の古城:常滑に呂号甕をたずねて

参考文献:「柏に残された地下壕の謎」小野英夫 川畑光明 /『柏市史』
     『最終決戦兵器「秋水」設計者の回想』牧野育雄 光人社 (2006)
     『千葉県の戦争遺跡をあるく』千葉歴史教育者協議会 (2004)
     

柏市の戦争遺跡2(高射砲部隊、柏飛行場など)

2006-07-03 | 柏市の戦争遺跡

1.高射砲部隊関連

JR北柏駅を北上し、東へいくと布施弁天方面となる布施入口のバス停付近をしばらくそのまま行くと、富勢の大きな交差点に出る。その交差点を西側(柏方面)に進めば、高野台児童公園に出る。1937年(昭和12年)高野台に駐屯した高射砲第二連隊が、翌1938年(昭和13年)11月に元あった市川市国府台から当地へ移動し、飛行場の防空に当たった。隊は昭和16年(1941)に主力が東京へ移り、1943年(昭和18年)に廃されるまで続いた。その後、東部十四部隊、東部八十三部隊が進駐した。東部十四部隊は、1943年(昭和18年)に高射砲第二連隊跡に駐屯、兵士を召集、教育して部隊編成して戦地に送ることを目的とした。また東部八十三部隊は、正式には東京師管区歩兵第二補充隊という。同じ敷地に、東部十四部隊の東京師管区近衛工兵補充隊と同居した。彼らは1942年(昭和17年)に廃止された柏競馬場跡地を演習場として訓練を行った。

高射砲部隊が置かれたのは、柏市根戸の市営住宅一帯で、あちこちに残骸ともいうべき遺物が残っている。しかし、当時主力であった八八式など、8千メートルまでしか弾が飛ばない旧式の高射砲は、高度1万メートルを飛ぶB29にはとどかなかったという。

<高射砲第二連隊の営門(当時)>


高射砲第二連隊の営門は、かつては県道七号線「布施入口」の標識のある富勢の交差点辺りにあった。そこから西の根戸地区一帯が、高射砲部隊があった場所である。その中央には、かつて百メートル間隔で四角く四基、標的鉄塔が建っており、それは高射砲の標的練習のためのもので、頂上をワイヤーでつなぎ、模型飛行機を吊り下げて動かし、目標としたものである。
かつては、その標的鉄塔を取り囲むように、部隊本部や兵舎、倉庫、将校集会所、護国神社などが建ち並んでいた。

現在、高射砲第二連隊の営門の門柱の一部が高野台児童公園に移築、保存されている。なお、それ以外の営門の門柱の残りと歩哨舎についても、現存していて、歩哨舎については平成24年(2012)12月26日から平成25年(2013)1月初めにかけて移設工事が行われ、営門門柱脇に移設された。

<高射砲連隊の門跡(歩哨舎移設以前の様子)>


<高射砲連隊移転後にはいった東部十四部隊、東部八十三部隊の部隊配置図>


なお、その高野台周辺には、高射砲第二連隊当時の照空予習室がほぼ完全な形で、以前柏市西部消防署根戸分署として使用されていた。前は馬糧庫といわれていたが、最近の研究で、この建物が照空予習室といわれるものと判明した。これは屋上に測遠機を置いて、前方の標的鉄塔の上にワイヤーで吊るされた模型飛行機との距離を測るとともに、室内では夕暮れの状態を再現するなど内部の照明の明るさを調整したうえで、天井などに航空機像を投影し照空灯操作を訓練する施設である。日中戦争当時の陸軍の施設ながら、一見すると戦後建てられた小さな消防署としか見えない。この照空予習室の屋上には、測遠機を吊り上げる昇降機が附いていたと思われるクレーン状の支柱が残っている。
この照空予習室の近くには、土塁で囲まれた爆薬庫も、戦後も残っていたが、集合住宅などが建って残存していない。

<照空予習室跡>


<屋上のクレーン状の支柱>


ここでの主な遺構は、営門跡と消防署になっている馬糧庫跡であるが、その他では、散在する軍施設の建物の基礎などのコンクリート残骸がある。コンクリートの残骸で目に付くものでは、ある公共施設内にあるものは、かつてその辺りは車廠であった関係上、その建物基礎であろうか。
また、周辺には陸軍境界標石もいくつかあり、例えば県道沿い、布施入口を北に進み、小柳米店のさらに北をしばらくいった筋向い、公務員住宅のほうからの出入口になっている道の県道との接点付近に二基、白御影石の境界標石が見られる。


<車廠の建物基礎と思われる残骸>


2.陸軍病院

柏市花野井の柏市立病院は、元は国立柏病院で、その前身は陸軍病院である。柏陸軍病院は、1939年(昭和14年)に創設されたが、その前年には高射砲部隊が根戸に移駐している。この陸軍病院の建物などは、残っておらず、わずかに近隣の民家横に御影石で出来た境界標石が二基あるのみである。

<かつて陸軍病院であった柏市立病院>


<境界標石>


境界標石には「陸軍」と書かれているようであるが、風雪にさらされ、字が薄くなり判読できにくくなっている。この種の境界標石は、前述の高射砲部隊跡など、北柏、柏、松戸附近ではいくつか見ることができる。

3.柏飛行場

陸軍東部第百五部隊は、1938年(昭和13年)に当地に開設された。その飛行場、すなわち柏飛行場は、「首都防衛」の飛行場として、松戸、成増、調布などと共に陸軍が拠点とした。柏飛行場には、第五、八十七、一、十八、七十の各飛行戦隊があって、1944年(昭和19年)末から激しくなったB-29による空襲に対して、B-29を迎撃し首都防衛の任務にあたった。柏市はかつて「軍都柏」と呼ばれ、市内各所に軍事施設や軍需工場があったが、柏飛行場としては、1500mの滑走路と周辺設備を持っていて、太平洋戦争末期に開発されたロケット戦闘機「秋水」の飛行基地も、この柏飛行場が割り当てられた。現在、滑走路が柏の葉公園の脇を通る街路樹のある通りと一部重なる(税関研修所辺りから北側部分)ほか、何も残っていない。終戦間際の1945年(昭和20年)頃になると、空襲に際しては滑走路も無視して四方八方から戦闘機が迎撃に飛び立って行き、そのまま帰還しない機も少なくなかったという。この柏飛行場は、戦後米軍に接収され、朝鮮戦争時にはアンテナの立ち並ぶ通信基地として使用された。その後、1979年(昭和54年)に日本に返還され、背丈ほどの雑草の生い茂る荒地となっていたのを、近年柏の葉キャンパスとして、国立がんセンター、科学警察研究所、財務省税関研修所、東葛テクノプラザ、東京大学、千葉大学といった官公庁、大学などの研究施設や柏の葉公園などとなった。柏の葉公園は、休みには周囲をジョギングしたり、散歩する市民の目立つ、周辺住民の憩いの場になっており、かつてここから多くの飛行機が飛び立ち、帰還しなかったことなど嘘のようである。
陸軍東部第百五部隊の営門は、現在の陸上自衛隊柏送信所の前の道路が、十余二の大通りと交差する駐在所横にあり、当時の位置のままである。コンクリート製で、今も門扉を取り付けた金具が残っている。

<陸軍柏飛行場の滑走路跡(財務省関税中央分析所付近から北を望む)>


~実際の滑走路は、この写真では道の右(東)側の財務省敷地に食い込んだ部分を走っていた。しかし、財務省税関研修所付近からはこの道路は滑走路の西端を使って建設された模様である(この件は別に述べる)。

<東部第百五部隊の営門跡>


<営門跡の門扉をつけた金具>


この柏飛行場の西隣には陸軍航空工廠があった。これは、1938年(昭和13年)に柏飛行場が開設されたのに伴って飛行機と付随する車両の点検整備のために設置された。正式名は陸軍航空廠立川支廠柏分廠といい、総務、経理、衛生、工務四課、約150名の人が働いていた。本部庁舎、工場四棟、酒保、衛兵所があったが、建物は一部を除いて現存しない。

<柏送信所前から航空工廠跡方面を望む>


参考文献:『歴史アルバム かしわ』 柏市役所 (1984)