千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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船橋市の戦争遺跡1

2006-04-29 | 船橋市の戦争遺跡
1.習志野原と騎兵学校

千葉県に習志野市という市があるが、実は習志野という地名は船橋市にある。こういうと、ややこしいが、習志野という町名や駅名は船橋市内にあって、もともと習志野という地名の発祥地も船橋市内の習志野原である。習志野原はかつては大和田原と呼ばれ、松原の広がる広大な原であったが、明治初期に陸軍の演習が行われて以来、陸軍の駐屯地になり、今では自衛隊がおかれている。

この習志野という地名は、明治以降の新地名であり、明治天皇が名づけたことになっている。すなわち、1873年(明治6年)4月に近衛兵の大規模な演習があり、その演習に明治天皇が観閲し、陸軍大将であった西郷隆盛が同行している。そして、その演習が無事終わった5月になって、この地を「習志野ノ原」と命名する旨、明治天皇の名で触れだされている。それで、明治天皇所縁の地名になったわけだ。その由来については、演習をおこなう原という意味で「ならし運転」の「ならし」の原から「ならしの原」になったという説と、演習に参加して活躍した篠原国幹少将に皆見習えという意味で「習え篠原」から名付けられたという説がある。

船橋市郷土資料館の前に、「明治天皇駐蹕之処」という石碑がある。これはみゆき会館(船橋市習志野台4-59-8、習志野地名発祥の地)に建てられていたが、移転して今の場所にある。仙台石でできた高さ3.9m、幅1.6mの大きな碑であり、明治天皇が近衛兵を率いて、この地で露営し、習志野原を賜り、永く陸軍操練所と定めた旨、裏面に記されている。

<「明治天皇駐蹕之処」石碑>


その習志野原は、旧陸軍の駐屯地となり、1916年(大正5年)に東京目黒から騎兵学校が移転して陸軍騎兵学校が創設された。以来、ここ習志野原の騎兵学校は騎兵のメッカとなり、数多くの騎兵を育てた。そのなかでも1932年(昭和7年)のロスアンゼルス・オリンピックで馬術で優勝の栄誉に輝いた西中尉は有名である。ちなみに亡き田中角栄元首相も騎兵出身である。その騎兵学校址としては、現在空挺館となっている旧御馬見所がある。これはかつては自衛隊習志野駐屯地の隊門近くにあったが、今は東側奥に移転している。

<空挺館(旧御馬見所)>


<現在の自衛隊習志野駐屯地>


2.陸軍墓地

かつての陸軍墓地は、自衛隊習志野駐屯地に隣接してある。陸軍墓地と言っても、今は「船橋市習志野霊園」となっており、戦後の習志野原の開拓民の墓など、一般人の墓もある。
ここには外地、内地でなくなった軍人の墓があるとともに、日露戦争や第一次大戦で捕虜となり、日本でなくなったロシア、ドイツの軍人の墓もある。
実は、近隣の習志野市東習志野にあった高津廠舎は、日露戦争時にはロシア人の捕虜収容所となり、第一大戦時にはドイツ人の捕虜収容所となっていた。そこで、捕虜生活を送っていたロシア人、ドイツ人のうちなくなった者を葬った墓が陸軍墓地内にあったため、後に船橋市が霊園整備の際に、散在していたロシア、ドイツ人の墓を墓地の奥にまとめて、日本の軍人の集合墓も新たに作り、日露独の三国軍人の墓としたのである。

<日本、ロシア、ドイツの軍人の慰霊碑が並ぶ>


<ロシア軍人の墓~ソ連成立以前の軍人であるから「ソ連」は誤り>


日露独の三国軍人の集合墓を取り巻くように配置された、日本軍人の個人墓もある。一見、集合墓の周囲を玉垣が囲んでいるようにみえるが、よく見ると明治、大正期の古い墓で、なくなった個人の名前のほかに「騎兵第十四聯隊」など部隊名も書かれている。

<玉垣のように集合墓を囲む日本軍人の個人墓>



3.行田の海軍無線塔

西船橋の北、行田には直径800mほどの円形の道で囲まれた地域があり、かつて高さ200mのアンテナが6基あった。現在、船橋市の行田団地や税務大学校の東京研修所などが建ち並ぶ行田という地区は、地図でみると、直径800mの円形の道路があり、その中に団地や公園、商店などがあるのが分かる。地図といっても、1917年(大正6年)の帝国陸地測量部作成の地図にも、そう書かれている。そして、円形の道路の中央に、船橋海軍無線電信所と記されている。

その船橋海軍無線電信所とは、いかなるものか。
昭和46年(1971)までは、その場所にはそのままの形で無線塔があり、その塔を遠くからではあるが見たことがある。後述するが、この電信所を有名ならしめたのは、太平洋戦争開戦時、1941年(昭和16年)12月8日未明の真珠湾攻撃を告げる暗号電文「ニイタカヤマノボレ」が、この無線塔から日本海軍全艦隊に伝えられたということである。

行田の円形道路の内側にかつてあった、海軍省所管の通信施設、船橋無線電信所には、高い技術を誇るドイツのテレフンケン社の送信機が採用された。1913年(大正2年)10月に着工、ドイツ人技師の指導の下で工事が行われ、1915年(大正4年)に完成したもので、その当時「東洋一」の規模と称された。この工事の途中、第一次大戦が勃発し、日本はドイツと敵味方の関係になる。

<船橋市習志野霊園(陸軍墓地)にあるドイツ兵捕虜の墓>


1914年(大正3年)6月に対独宣戦布告が発せられるや、ドイツ人技師は図面を焼いて帰国してしまい、後は残された日本技術陣で何とかするしかなかった。難航の末、ようやく無線電信所は、1915年(大正4年)4月に完成する。当初は、中央に上下平行で高さ200mの主塔、周囲に高さ60mの副塔16基が取り囲む形で、主塔は半自立型であった。半自立とは、主塔から数本、副塔方向手前の地上に鋼鉄線を張り、副塔へは電信線が延び、支線と電信線にかかる力の均衡をとるために、支線台と副塔は主塔から等距離でなくてはならない。
結果、その周囲は円形となり、現在も残る円形道路が残った。1916年(大正5年)11月16日、ここ船橋とサンフランシスコ間で、アメリカのウイルソン大統領と大正天皇が祝電をとりかわしたが、その発信元は船橋無線電信所で、ハワイを中継したものであった。このように無線電信が行われ、その発信元が船橋であると知られるようになると、船橋の名は世界的に有名になった。

<船橋海軍無線電信所主塔~1937年に立て替えられる前の半自立型鉄塔>


1937年(昭和12年)7月、盧溝橋事件が軍部の陰謀によって起こされ、日中戦争の火ぶたが切られて軍国色が強まるが、それに前後する1937年(昭和12年)5月、この無線電信所は「東京海軍無線隊船橋分遣隊」と改称され、それまでの半自立型から自立鉄塔とする大改造が始まった。それによって、182mの大鉄塔6基、数基の中型小型鉄塔が建ち並ぶことになった。

1941年(昭和16年)10月東條内閣が成立、11月5日の御前会議にて、12月1日までに対米交渉不成立の場合、武力発動を行うことが決められ、同日、対英米蘭開戦が決定された。そして、12月8日にハワイ真珠湾攻撃により、日米開戦となったのである。
この真珠湾攻撃実行の電文「新高山登レ一二〇八」は、瀬戸内海の柱島付近に停泊していた戦艦長門が打電したものを、船橋無線塔を経由して、全艦隊に伝達されるべく、連合艦隊に向けて発信された。12月2日午後5時30分のことである。

戦後、逓信省に移管され、復員船との連絡等にあたったが、それもつかの間、無線電信所はGHQに接収され、昭和41年(1966)に日本に返還されたが、もはや、その時には無線塔は通信業務の用に供されず、無用の長物となっていた。1966年(昭和41年)に日本に返還され、しばらく立ち腐れたようにたっていたあと、1972年(昭和47年)にすべて解体され現存しない。現在その場所には大規模な団地がたち、わずかに船橋無線塔記念碑が1979年(昭和54年)に地元ロータリークラブ、連合自治会、西船橋農協が中心となって建てられた。


海軍無線搭があった船橋市行田付近地図

<記念碑のたつ行田の無線塔址>

注)行田の無線塔の写真は船橋市のホームページ(http://www.city.funabashi.chiba.jp/)にあります
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