千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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「千葉県の戦争遺跡」HPに木更津海軍航空隊などを追加

2010-06-04 | 千葉県の軍事史、戦争遺跡



「千葉県の戦争遺跡」HP http://www.shimousa.net に、懸案の木更津海軍航空隊を追加した。また、第二海軍航空廠も同様に追加した。かなり、長い時間がかかったが、やむを得ない。

木更津航空隊は、巨大な飛行場を有し、負の歴史であるが、日中戦争時に渡洋爆撃(南京、重慶など)を行った。その当時の九六式陸上攻撃機(中攻)は、陸上攻撃機の花形であり、一式陸攻が出るまでは陸攻の主力であった。木更津は、鹿屋とともにその中攻の拠点であった。





今後は、房総のもう一つの海軍のメッカである、館山空をめざして行きたいと思っている。

千葉県の戦争遺跡は、現在木更津海軍航空隊、第二海軍航空廠について、「房総の海軍基地」のなかにアップし、ようやくわが海軍航空隊の記事が千葉県内においてもでき、なんとか体裁が整ってきたと思う。そのHPの充実化とともに、BGMを変えようと考えた。今までは、音楽著作権を気にするあまり、HPの雰囲気にそぐわないクラシックなどにしていたからだ。たどりついたのは、「青年よ団結せよ」の歌。

「青年よ団結せよ」の歌は、ソビエトのV.クルーチニンが作曲、P.ゲルマンが作詞した歌で、日本の戦後学生運動のはじめのころ、よく歌われた。当時は、イールズ声明反対闘争が東北大学から始まり、レッドパージ反対の広範な運動が展開された。その中で、この歌は歌われた。自由・平等・博愛のフランス国旗に似た三色旗(平和運動の象徴である)を掲げたり、剣道部の部員が防具をつけたまま、この歌を歌っていたのを記憶している。

  友よ肩に肩を組みて
  砕け敵を
  我等こよなき自由を
  守りたたかいぬかん
  輝かしき栄光を
  得(う)るはやすからじ
  幸にみちあふるる
  我が春をもとめん
   友よ肩を組めいざ進まん
   平和をかざし
   輝かしき世界創るため
   行け行け堂々と

(楽団カチューシャ訳詞)

今とは違い、当時の学生は何かと議論をし、学内外で問題があれば、みんなで団結して運動を行ったものである。戦後4,5年たっているとはいえ、みな貧乏であり、学費を稼ぐために肉体労働のアルバイトなどもよくしていた。朝鮮戦争で景気がよくなり、アルバイトの口は多くなったのは良いが、学内では反動攻勢が強くなり、トルーマン・ドクトリンが日本の隅々まで具現化していっているような気がした。
おまけに弾圧をきっかけに党は分裂、国際派全学連は党中央からにらまれ、また国際派全学連も四分五裂、最後には解体、所感派が牛耳ることにあいなった。

実は「千葉県の戦争遺跡」HPのBGMとして、今までクラシックなどを使ってきたが、どうもHPとマッチせず、いろいろ探したところ、この歌に行き着いた。もっとも最初は「モスクワ郊外の歌」にしようとしたが、案の定音楽著作権でどうにもならないのであった。

ところが、「青年よ団結せよ」の音楽素材があるはずがない。学生運動の歌としては、「国際学連の歌」が圧倒的に有名であり、YouTubeにもあがっている。一方、後にあまり歌われなくなったというこの歌は、知らない者も多いのだろう。

洋楽が好きな森-CHANが、発注して作ったBGMは、あまり完成度が高いとはいえないが、折角なのでHPのBGMとし、別にアレンジしたものも作った。かくして、ようやく「千葉県の戦争遺跡」HPのオリジナルBGMができあがったのである。
なお、「千葉県の戦争遺跡」HPのBGMのアレンジ版を作ったY陸軍少佐の孫YさんはYouTubeに、「青年よ団結せよ」をアップした。音源はロシアのものを使ったそうだ。

http://www.youtube.com/v/JXPbv3j-8b4&hl=ja_JP&fs=1&border=1

(写真は、上が海上自衛隊木更津補給処の格納庫、下が第二海軍航空廠の飛行機部工場跡)
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「千葉県の戦争遺跡」HPに「陸軍工兵学校と松戸」を追加

2009-12-28 | 千葉県の軍事史、戦争遺跡


「千葉県の戦争遺跡」HP(http://www.shimousa.net/
に、ようやく「陸軍工兵学校」のページを新設することができた。

一応、今までの概要調べや遺構の踏査結果を森-CHANが本職のカメラマンに撮ってもらった写真と手持ちの資料の一部などを作って編集したものである。
小生が以前、「千葉県の戦争遺跡」ブログ(http://blog.goo.ne.jp/mercury_mori/)
に書いていた文章を加筆するとともに、八柱演習場については戦後の旧軍人たちの開拓記念碑についての地元町会が出した冊子などを参考にして記載を増やした。

まだ、「架橋」「交通」「射撃」などと工兵の演習資料が手元にあるが、なにしろ膨大なため、徐々に形にしていこうと思う。演習の記事は未完であるが、まずは大きな懸案の一つが年内に片付いた。

(画像は、陸軍工兵学校で学んだ、ある工兵連隊の将校が描いた架橋作業の操作船)
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柏市長へ柏陸軍飛行場関連の掩体壕等保存要請

2009-10-09 | 千葉県の軍事史、戦争遺跡
柏市の本多晃市長に対し、10月5日(月)に「手賀の湖(うみ)と台地の歴史を考える会」は、柏飛行場関連の掩体壕など戦跡、および現代史調査・研究の要望書を提出した。

会の代表である國學院大學教授の上山和雄先生に森-CHANが許可を得たので、その要望書の全文を掲載するものである。

<柏飛行場関連の無蓋掩体壕の一つ、高さ3m弱の土手をのぼる>



なお、手賀の湖と台地の歴史を考える会のURLは、 http://teganoumi.blog62.fc2.com/ 。
(上記は、市民、学者・研究者で構成され、最近設立された団体。11月8日には柏市大井周辺の歴史散策を企画)

---

柏市長 本多 晃 様
2009年10 月5 日

旧柏飛行場掩体壕等戦跡、及び現代史関係調査の要望書

手賀の湖(うみ)と台地の歴史を考える会
代表 上山和雄

太平洋戦争終戦後64年がたち、戦争の惨禍を知る人々も少なくなってきました。日本国民やアジア各国の人々に大きな打撃を与えた戦争の経験を風化させないため、自治体、民間団体のレベルにおいて、様々な取り組みが行われています。こうした各地の動きを踏まえ、文化庁記念物課は「近代の遺跡調査」の中に「戦跡」の調査を加え、1996年度以降「近代遺跡の全国調査」を実施し、その中には544件の戦争遺跡が含まれています。そして現在では、国・自治体が指定・登録する近代の戦争関係の遺跡・文化財は、合計157件に及んでいます。また2002年度以降、重要な戦跡遺跡のうち50件が詳細調査の対象とされ、近いうちにその報告が公表される予定です。
各自治体では、調査を進めると同時に、散策路などを整備して市民や観光客が遺跡に触れつつ自然に親しむ取り組み、あるいは平和教育の重要な教材とする取り組みなども行っています。
柏市花野井・大室に、有人ロケット機「秋水」の燃料貯蔵庫の遺跡が残されていることは、地元の人々にはよく知られています。しかし柏市がかつて軍都・軍郷とも言われて、帝都防衛の重要拠点に位置づけられ、市域全体が本土決戦の兵営とまでなりつつあったことを知る市民は、ますます少なくなりつつあります。
今春、当会がこんぶくろ池から「秋水」燃料庫までの見学会・巡見(柏の葉〜花野井)を行った際、旧柏ゴルフ倶楽部内の小高い部分が、陸軍機の掩体壕だったのではないかという話題になりました。その後、戦後直後の米軍の空中写真や文献を集めて現況と比較し、掩体壕と思われるいくつかの遺構を、柏の葉周辺で確認することができました。
当時の写真や百里基地を調査した茨城県小美玉市の報告書などと照合しても、掩体壕であることは間違いないと思われます。一方、東葛地区に存在した松戸飛行場(現、陸上自衛隊松戸駐屯地、松飛台の住宅地・工業団地他)や藤ヶ谷飛行場(現、海上自衛隊下総基地)周辺では、松戸市五香西に掩体壕の基部が一カ所残っているのみで、その他の掩体壕の残存は確認されておりません。鎌ヶ谷市初富に10年前までほぼ完全に残っていた掩体壕も消失し、ほとんど未調査のまま遺構が失われているのが現状です。
豊四季駅までの軍用道路の起点であった柏飛行場営門、航空廠柏分廠跡、掩体壕、「秋水」燃料庫といった、柏の葉周辺の複数の遺構は、東葛全体としても貴重なものと言えます。
十余二の柏通信所跡地の返還やつくばエクスプレスの開通によって、柏北部の姿は一変しつつあります。戦後の柏市は東京の衛星都市、ベッドタウンとして、また国道六号線、十六号線がクロスする地の利などにより、商業都市として目覚ましい発展を遂げました。その背後には柏北部への工場立地などがあったことは言うまでもありません。
柏という土地が常磐炭鉱・日立地方と東京を結ぶ地点にあったことによる日立資本の進出、筑波学園都市と東京の中間地域に位置していることも大きく影響しています。このような東京郊外における柏という地域の特性を考えるとき、戦時期における柏の役割との連続性を考えざるを得ません。
柏飛行場の存在や、帝都防衛の重要拠点だった柏の役割をうかがわせる遺跡は急速に失われつつあります。確認できる掩体壕のうち、かつての形状を残しているのはごく少数となっています。開発ですべてが消滅する以前に、残された数少ない遺跡である掩体壕の調査の実施と、残すことの可能な部分は柏の重要な歴史の一部として保存し、次代の市民に伝えていただきたくお願いするものです。前述した小美玉市の調査では、米軍の掃射による弾丸などが掘り出され、戦争中の爆撃を裏付けることとなりました。さらに掩体壕のみでなく、柏が戦時期にどのように位置づけられていたのかを明らかにするという視点をもって、飛行場や憲兵分遣所などその他の軍施設の遺跡を全体として捉えた調査もお願いしたいと存じます。
言うまでもなく柏は、戦後高度成長期に最も大きな歴史的変化を遂げました。戦時から苦難の時期の昭和20年代に活動した人々は一線を退かれています。あと10年たてば、この時期を語る方々はごく少数になるものと思われます。まさに今、戦時期、復興期、高度成長期の柏の歩み、すなわち、柏が戦争にどのように組み込まれたのか、戦後の開拓の進展、人口過密への対処、首都圏整備法以降の衛星都市としての発展といった現代的な問題を射程に入れ、オーラルヒストリーをも組み込んだ調査と資料収集を開始されることを切に要望します。このことは、今を生きる私たちの、次代の柏に生きる人々に対する歴史的な責務であると考えます。
以上

---

本件、市長への要請と前後して記者会見も行われ、三大紙と東京新聞、千葉日報の記者も来たそうだが、実際に報道したのは東京新聞だけだったようだ。しかし、市長ならびに教育長、教育委員会の担当部長には、要望書が届けられ、この件について浅羽副市長とも会話したというから、柏市当局には十分伝わったと思う。

文中、「松戸市五香西に掩体壕の基部が一カ所残っている」とあるのは、「千葉県の戦争遺跡」HP(http://www.shimousa.net/) の「首都防衛」の飛行場のメニューのなかにある「松戸陸軍飛行場」のページに詳しく書かれている掩体壕のことである。上記メニューには「柏陸軍飛行場」もあり、あわせて参照願いたい。

なお、柏陸軍飛行場の掩体壕は、無蓋掩体壕で馬蹄形をなし、高さ2mから3mの土手がぐるりとめぐり、開口部は15m強、幅25mほどの比較的小さいものであり、現在6基確認されている。無蓋掩体壕は土造りのもので、空襲に際して飛行機を分散秘匿するため、誘導路に沿って作られた。牧のあった場所にあるため、従前は野馬土手と混同されていた。

柏陸軍飛行場の掩体壕については、前から噂レベルでは聞いていたが、これを機会に調査が進むことを期待したい。

<「秋水」地下燃料庫のヒューム管>
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柏陸軍飛行場と印旛陸軍飛行場をHPに掲載

2009-08-16 | 千葉県の軍事史、戦争遺跡


ブログ記事ではなく、自分のHPのご紹介です。

自分のHP「千葉県の戦争遺跡」に、「『首都防衛』の飛行場」として、柏陸軍飛行場と印旛陸軍飛行場の記事を掲載しました。

URLは、http://www.shimousa.net/
です。

印旛陸軍飛行場は草深(そうふけ)飛行場とも呼ばれていましたが、資料が自分の自宅周辺で手に入るものがほとんどなく、印西市に直接行くしかありませんでした。

以下の写真は、現在の印旛地方航空機乗員養成所 本館跡。現在開発中で、木が一本公園として残るだけ。



印旛飛行場に駐屯していた陸軍飛行第二三戦隊の戦友会が、回想録のようなものを出してくれており、また逓信省の印旛地方航空機乗員養成所の元生徒有志の方の回想録もあり、助かりました。

また、森―CHANが印西市教育委員会との折衝やら、やってくれたので、印旛のほうは思ったよりスムーズにいったかもしれない。

あとは、松戸、藤ヶ谷、下志津飛行学校、八街。

できれば、海軍の木更津、茂原も。


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柏の航空教育隊(東部百二部隊)跡に残る小さな倉庫

2009-04-20 | 千葉県の軍事史、戦争遺跡
何気なく手に取った本に、以前分からないで、そのままになっていたことが、さらりと書いてあることがある。
よく調べきらずに、そのままにしたことが良くないのであるが、それが偶然判明することは神の助けのような気がする。

柏陸軍飛行場跡の南側の金属工業団地一帯に存在した、陸軍東部第百二部隊、すなわち陸軍第四航空教育隊は、1945年(昭和20年)の戦争末期に多くの兵を擁し、多いときには一万名もの兵員が南北600m、東西400mほどの隊の敷地にいた。その長方形の区画のなかに、部隊本部、兵舎、格納庫などがあったのだが、今では工場や宅地などになっている。

<東部百二部隊略図〜梅林第四公園の案内図の写真に追記>


東部百二部隊は東部第百五部隊、柏飛行場の南にあって、柏飛行場の門から豊四季駅にいたる県道279号線、豊四季停車場高田原線の駒木交差点附近が、東部第百二部隊入口であり、そこを東に折れてしばらくいった、現在の梅林第三公園付近に営門があった。ちょうど、その営門があった場所の近く、角地にある住宅横の溝に陸軍境界標石がある。

その「百二(以下不明)」と書かれた陸軍境界標石が民家の塀の基礎に寄り添うようにあるが、その家の人もそれが旧陸軍のものであることを知らないようであった。


<近隣の公園に残る東部百二部隊の営門>


その営門は前述のように、梅林第三公園近くにあったのだが、現在は少し離れた柏までのバス通りに面した梅林第四公園に移設されている。門柱は、赤味がかった砂岩質の石で出来ているが、その赤い色から地元の人は「赤門」と呼んでいる。かつて、本来の場所にあったときは、門を入ると左手に衛兵所と部隊本部、兵舎が建ち並び、右手には面会所があった。営門は豊四季と柏飛行場営門を結ぶ県道豊四季停車場高田原線の側に開いていて、兵員の出入り口は主にそちら側であった。現在のように柏の葉公園から柏駅を結ぶバス通りはなく、部隊の東側は林であった。

現在のつくばエクスプレスがすぐ近くを通る柏浄水センターの北側から、南は十余二の光風園、高田車庫入口のバス停の辺りまでが、東部百二部隊が駐屯していた場所である。

1938年(昭和13年)に当地に開設された陸軍東部第百五部隊の飛行場、すなわち柏飛行場は、1937年(昭和12年)6月、近衛師団経理部が新飛行場を当地(当時の東葛飾郡田中村十余二)に開設することを決定し、用地買収を行って建設されたものである。その柏飛行場開設から遅れること約2年、1940年(昭和15年)2月に高田、十余二にまたがる上記地域に、第四航空教育隊(東部百二部隊)は移駐した。この部隊は、1938年(昭和13年)7月立川で開設されたものである。

陸軍航空教育隊とは、文字通り陸軍の航空兵を教育、養成する部隊である。1937年(昭和12年)7月「支那駐屯軍」による北京郊外での通告なしの夜間演習時、中国軍から発砲があったとして、日本軍が中国軍を攻撃した盧溝橋事件に端を発する日中戦争開戦以降、航空兵の減耗率が高くなったことに危機感を覚えた陸軍は、航空兵の養成のために各地に航空教育隊を開設していった。

航空教育隊に入隊すると、初年兵教育としての基礎訓練3ヶ月、各部門(機関・武装・通信・写真・自動車など)に分かれた特業教育3ヶ月、都合半年の訓練ののち、実施部隊に配属される。

この東部百二部隊跡の一角である、柏浄水場の北側工場脇に、給水塔が残存している。梅林第四公園にあった案内図をみると、現在の場所ではなく、もっと南側の部隊の中心からみれば西側にあったはずだが、戦後移設したものであろうか。

<給水塔>


その給水塔の奥に、煉瓦造りの小さな倉庫がある。これが何であるが、おそらくこれも百二部隊関連の遺構であろうとは思っていた。しかし、何の用途の建物であるかは、分からなかった。ところが、柏の図書館に行ったとき、1995年に東葛市民生協の発行した「戦時下のひとびと」という冊子を何気なく手にとると、「三ヵ月の訓練で前線へ」、「部隊は全滅」、「十七歳で陸軍に志願」といった第四航空教育隊で訓練を受けた方の戦争体験記事のなかで、その建物そっくりの煉瓦造りの倉庫が「今も残る弾薬庫」として紹介されていた。

<弾薬庫と判明した煉瓦造りの倉庫>


過去に実際に陸軍第四航空教育隊にいた人の証言は、たまたま生協が残してくれた。一般的なことを言えば、活字としては残っているが、Webの世界にまで取り込まれた情報は、それほど多くない。問題は、人の記憶が年々失われること。早い話、その証言をした人のなかには、現在あるいは故人になっている人もいるかもしれない。かくいう小生も、じきにあの世に行くのである。

いかに細かいことでも、なんとか後世につないでいきたい。



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鉄道連隊と津田沼

2009-03-07 | 千葉県の軍事史、戦争遺跡
今では一部の人しか知らないかもしれないが、津田沼の千葉工大の門は、かつての鉄道連隊の隊門であり、門柱は当時の美しいレンガ門が残っている。

<美しい旧鉄道連隊の門>


その門の近くに総武線上にかかる歩道橋があるが、それは40年ほど前にできた、新しいものである。

歩道橋の前は、踏切があったが、その踏切は1928年(昭和3年)の松井天山の絵図「津田沼町鳥瞰図」にもかかれている。踏切から津田沼市街へつづく道の名残が、かつて丸井があり、今もドーナツ店があるビル脇の短い道である。

鉄道第二連隊は、津田沼鉄道連隊といわれるほど、 津田沼と縁が深い。しかし 現在の千葉工大が、かつて陸軍鉄道連隊のおかれた場所であったことを知る人は、今では少なくなっているかもしれない。
1907年(明治40年)に従来の鉄道大隊が鉄道連隊に昇格。津田沼に兵営を一旦移した後、1908年(明治41年)に千葉に鉄道連隊司令部、第一大隊、第二大隊が移転、津田沼には鉄道第三大隊が置かれた。1918年(大正7年)に津田沼の鉄道第三大隊が、陸軍鉄道第ニ連隊に発展的に改組された。

津田沼にあった兵舎は千葉工大の校内に戦後も残っていたが、すでに千葉工大の校舎新築に伴ってなくなった。ほかにも、現在のイトーヨーカドー近くには材料廠関連の倉庫などもあったが、やはり新京成線の新津田沼駅やその他建物・用地の造成によって消滅している。

<「津田沼町鳥瞰図」にみる鉄道連隊>


なお、「津田沼町鳥瞰図」にある商店街は津田沼駅の北側、その殆どが今の船橋市域にあり、これらが鉄道第二連隊に大きく依拠していたことは想像に難くない。果物の堀越商店や戦後料理屋をしていた「かし熊」、洋食の松栄軒、酒屋であった渡辺商店など、戦後も地元の人間になじみのあった店の名前が書かれている。おそらく連隊の兵隊たちも、外出時にはこういう店で買い物をしたり、外食することを楽しみにしていただろう。

現在の新津田沼駅とイトーヨーカドー、ジャスコのある場所には材料廠の倉庫が並び、連隊の主要な建物は千葉工大の敷地になっているのがよく分かる。なお、前述したように千葉工大の前の正門(現在は通用門)は、鉄道第二連隊の隊門であり、現存している。隊門と総武線の線路を挟んだ商業地域との間には、踏み切りがあり、現在ある歩道橋はもちろん存在しない。「津田沼町鳥瞰図」にあるような、鉄道第二連隊の兵舎は戦後かなり長い期間残っていたが、前述したとおり千葉工大の新校舎建設に伴ってなくなった。

その他、総武線の上を通る跨線橋の土台は、かつての鉄道連隊演習線当時のものが残っているという。

<跨線橋>


演習線線路がどこから出ていたかは、松井天山の絵を見れば、現在の千葉工大の場所にあった鉄道連隊本部から跨線橋を通って北へまわり、ほかに現在イトーヨーカドーのある場所にあった材料廠にも引き込み線があったようである。

現在の新京成線の線路に該当するかつての新津田沼駅付近(今のパルコの裏)には、松井天山の絵には線路が描かれておらず、線路は昔の藤崎台駅方面へ行っているようだ。しかしながら、陸軍境界標石はパルコの裏の新津田沼駅跡周辺から現在の新京成線に沿って存在する。松井天山の絵がデフォルメされているのか、元は前の新津田沼駅周辺には線路がなく、1928年(昭和3年)以降に敷かれたか、どちらかであろう。

<新津田沼駅の旧在地>


昔の新京成の新津田沼駅があった、津田沼市街の線路脇(パルコの裏手)に、ガードレールのかげに隠れて、陸軍境界標石があった。以前、かつての新津田沼駅周辺には六本あったが、二本なくなって、四本あるといっていたが、実際に改めて数えてみると、駐輪場に一本、線路脇に四本、骨董屋の敷地内に一本、長野土地建物の事務所近くの線路沿いの道に一本あり、七本ある。前は九本あった勘定になる。

<駐輪場の陸軍境界標石>


新津田沼駅と前原駅の間には、やはり線路脇の道沿いに三本、前原小学校下の踏切の近くに二本(一本と思っていたが、その後もう一本あることに気づいた)あり、そこから前原駅の手前までに六本あって、計十一本。前原駅のホーム脇に一本あり、さらに道入庵の近くの線路脇に四本あるから、新津田沼駅から前原駅までで都合二十三本あることになる。

<新たに見つけた新津田沼駅付近の標石>


どうも新津田沼駅から前原駅までの線路脇の道で、線路に遠い側に境界標石があることからみて、現在の新京成線の線路と旧陸軍演習線は多少ずれていて、昔の線路は一部は今の線路脇の道と重なっていたのではないかと思う。また、今の新津田沼駅のある場所と隣接するイオンのショッピングセンター周辺は、以前は材料廠があったところで、その辺には陸軍境界標石がなく、昔の痕跡をとどめるものが何もない。1970年くらいまでは、鉄道の修理工場があり、かつての雰囲気が色濃く残っていたのだが。

しかし、境界標石も新津田沼から松戸までの沿線を数えると、いったい何本になるだろうか。一度常盤平駅北側の廃線跡を調べたが、栗ヶ沢あたりから金ヶ作にかけて境界標石は結構な数があった。とはいえ、目の悪い老人のことゆえ、見落としもあるだろう。現在の新京成沿線で、百本くらいはあるだろうか。

これらの陸軍境界標石は、鉄道連隊にかかわるものが殆どと思うが、大多数である「陸軍用地」という表示のもの以外に、単に「陸軍」と書かれたもの、あるいは「陸軍省用地」となっているものもある。それは何か用途別あるいは年代別などで違いがあるということなのだろうか。

これらの陸軍境界標石は、大体白い御影石で出来ていて、戦後の標石より一回り大きい。また頭に十字の刻みが入っているので、幸いにしてほかの標石と区分できる。

<前原小学校下の踏切にある標石>
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下総松崎の古い神社境内にあった従軍記念碑

2009-02-07 | 千葉県の軍事史、戦争遺跡
成田市の八生地区に戦時中に日本軍が撃墜した米軍機について、そのパイロットの遺骸埋葬と引き取りに関する経緯は、以前書いたが、その所縁の場所をさがすうちに、偶然二宮(埴生)神社という古い神社境内に「征清従軍記念碑」があるのを見つけた。

「征清」とあるように、日清戦争にかかわる記念碑である。これは県内でもかなり古い部類であろう。日清戦争は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけて戦われ、当初「眠れる獅子」と呼ばれた清朝中国が優位と考えられていたが、日本が勝利し、講和条約において「1.清は朝鮮が独立国であることを認める 2.清は遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に譲渡する 3.清は賠償金2億両を金で支払う」という条項を清朝にみとめさせ、中国大陸や台湾に日本帝国主義の基盤を形成したという戦争であった。

<埴生二宮神社>


なお、この「二宮神社」は船橋市三山にある二宮神社とは、まったく関係がない。成田市のHPによれば、

「成田西陵高校のグランド近くにある神社で、経津主命(ふつぬしのみこと)をまつっています。つくられた年代は不明ですが、古い記録によると平安時代にはすでにあったようです。古くは二宮埴生(はぶ)大明神と呼ばれていましたが、明治元年(1868)に二宮埴生神社、明治中期に現在の名称に変えられています。この神社は、昔の埴生(はぶ)郡の総鎮守で、3つの神社から成り立っている「埴生神社」の一つであり、一の宮が栄町の矢口(やこう)に、三の宮が成田にあります。 7月27日の祭日(祇園)には、山車の引き回しが行われます。」

ということである。

その成田市の二宮神社にあった「征清従軍記念碑」は高さ1m20cmくらいで、西洋凧に近いかたちの石に題字と従軍した地区の人の氏名を刻んでいる。

<征清従軍記念碑>


碑の裏面には、氏名が刻まれているものの、経年風化し、判読がやや難しくなっている。建立は「明治二十九年」、氏名は「陸軍歩兵一等卒  何某」という具合に列記されている。

明治時代の当時は一等兵と呼ばずに、一等卒。兵と呼ばれるのは「上等兵」以上で、上等兵以上にはなかなかなれなかった。その兵と卒とは、厳然とした差があったのである。

自分の親父の話であるが、日露戦争直後に陸軍に応召していた親父は、部隊でも模範兵であったが、どういうわけか上等兵になれず、一等卒のままであった。親父は、歩哨に立ってやることがないと、ひげを抜いたり、星を見たりして長い時間をつぶしながら、その境遇について考えていた。

日露戦争はすでに終わっており、戦功をたてることもできず、利口でも器用でも、門閥にも関係なし、資産もなければ毛並みが良いわけでもない親父は、一選抜になれなかったのである。

最近、忘れていたことをふと思い出すことがある。多くの戦死者を出した日清・日露戦役。それは日本帝国主義の膨張のための戦いであって、祖国防衛戦争や民族解放戦争のような戦いではない。そこで犠牲にならなくても、親父のような兵隊はごまんといただろうし、兵隊にとられている間、その家族は田畑をまもって苦労を強いられた。

記念碑の「一等卒」の文字に、死んだ親父のことを思い出した。

<征清従軍記念碑の裏面>


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里帰りした、寄せ書きの日章旗

2008-12-30 | 千葉県の軍事史、戦争遺跡
先日、柳原白蓮が寄せ書きした日章旗が発見されたという報道があった。西日本新聞によれば、その日章旗は、白蓮と再婚した夫宮崎龍介の東京目白の居宅離れにあった東大学生寮に住んでいた加藤という人が、1942年の海軍入営前に2人から贈られたもので、
白蓮が

「きみ征きて 祖国安泰なり 君が征く 東亜の空に 栄光うまるる」

と筆で書き、

宮崎も「武運長久 祝入営」などと書いていたという。柳原白蓮は華族出身で数奇な運命をたどった女流歌人で、白蓮という号は信仰していた日蓮上人にちなんでいる。また、宮崎龍介の父は、有名な思想家の宮崎滔天である。

柳原白蓮は歌集「地平線」では戦争で子を亡くした親の悲しみをつづっており、本心とは裏腹に、人に贈ったのは出征を祝う短歌であった。*柳原白蓮の長男・香織は、1945年(昭和20年)8月11日、鹿屋で戦死

千葉県の四街道市でも、つい最近フィリピンから米兵が持ち帰った、寄せ書きの日章旗が遺族に返還され、12月21日に開かれた四街道市核兵器廃絶平和都市宣言二十五周年記念式典で展示された。

しかし、若い兵士が、こうして日章旗に寄せ書きされ、歓呼の声で送られる先の、軍隊内部はどんなものであったか。早い話が一般の陸軍の応召兵なら、野間宏の「真空地帯」そのままの生活が展開されていく。

「武運長久」と寄せ書きされた日章旗。それは自分の記憶の中にもある。その寄せ書きは中学の先生や同級生らに書いてもらったもの。

祝出征。祝入営。しかし、いったい、何が目出度いものか。志願して入った海軍は、今の世の中でよくいう陸軍と比べて合理主義の考え方が浸透し、海軍士官は紳士でスマートなどというイメージとは全くかけ離れた、一種おかしな世界であった。

<若鷲も非合理な世界に住んでいた>


海軍がわれわれを体も学力も鍛えてくれたのは確かであるし、倶楽部のような楽しい場所も提供してくれた。規律正しい生活、戦時中にも関わらず三度三度の食事、いろいろ恩恵もあったかもしれない。しかし、表向きの世界ばかりではなく、その裏側の世界もあった。

予科練にせよ、海兵団にせよ、海軍の新米にとっては、およそ、ビンタ(平手ではなくこぶしで殴る)や前支え、飯ぬきなどの罰直は日常茶飯事で、いつも気が抜けない。罰直のタネはいたるところにあり、殴る理由がないと「最近、貴様らたるんどる」という取ってつけたことが罰直のタネになるなど、無茶苦茶であった。ゆっくりできるのは温習時間などが終わった後の短い時間か、たまにある外出の日くらいなもの。

罰直では、「海軍精神注入棒(軍人精神注入棒)」と墨書された樫の木の六角棒(または丸棒)が、どこの海軍基地、軍艦でもあり、ご丁寧に房がついていたりするのだが、その1米ちょっとの長さで七糎から十糎ほどの太さの棒で、尻を思い切り叩かれるのがある。海軍名物バッターであるが、これは気絶するほど痛い。殴る側も疲れるので交互に殴る。派手にやられると、階段も腹這いで昇るくらいで、風呂に入ると染みて痛い。あおむけで寝ることもできないので、うつぶせに寝ていたが、三日くらいで治る。若いせいか、少々のことも皆治りが早かった。風呂では、気合をいれられた集団は、尻を見れば一目瞭然。あかく腫れた尻は、「七つボタンの予科練」という颯爽とした文句に似合わぬ、猿山の猿そのままである。

軍隊では何でも早くできなければ、だめだ。朝総員起し前に目覚め、起床後は素早く着衣、整理整頓するのは当たり前。早く飯が食べられる、トイレで用を足すのも早い、これらは芸の内とされた。それと記憶力がものをいい、一度聞いたことがすばやく復唱できなければ、海軍でも陸軍でも下級の兵隊から上になかなか上がれない。海軍航空隊の偵察員では、通信がひとつの任務であり、一度聞いた電文をはやく正確に伝えねばならないのだが、電信の授業では、いつも遅い奴がいた。そういう奴は一生かかっても電信員にはなれず、操縦ができなければ射爆に行くしかない。射爆も重要な任務であるが、射爆は予科練教育も無用な誰でもできるものという偏見があり、「射爆行き」は屈辱的な言葉であった。

軍隊では万事が要領だそうだが、小生らのような若鷲にとっては、要領をつかうような大人の世界は知る由もなく、そうはいいながら、世間ではよく聞く話であった。

寄せ書きの日章旗など、戦時中は幾百万枚作られたであろうか。しかし、貰った側は戦死したり、戦後失ったり、あるいは捨てたという人もいるかもしれない。かくいう小生の寄せ書きの日章旗は、戦後しばらくして焼却した。今思えば残しておいても良かったが、そのときは過去の自分と訣別したかった。終戦時、軍艦旗を焼いてから2,3年後だったと思う。

今回、四街道市であった核兵器廃絶平和都市宣言二十五周年記念式典では、つい最近フィリピンから米兵が持ち帰り、遺族に返還された、寄せ書きの日章旗が、その会場で展示された。式典開場前から、待ち行列が作られ、開場してからは市民ホールの中は大勢の人であふれ、ほぼ満席の状態。

四街道市長らの来賓の挨拶の後、四街道在住の人から広島での原爆体験が語られ、米国人の詩人アーサービナードさんから第五福竜丸のことなどが講演で述べられた。四街道は、くしくも陸軍野戦砲兵学校や野戦重砲兵第四連隊などあった、いわば軍隊の町であった。だから、その話や関連の展示もあるかと思えば、それはなく核兵器廃絶の話が中心であった。そのほか、音楽演奏や歌、市原悦子さんによる朗読などがあった。

<返還された日章旗>


たしかに、小生らの目的の寄せ書きの日章旗は会場にあったが、戦争末期の1945年2月、フィリピン・ルソン島で戦死したという、もともとの持ち主の旧陸軍の兵士の経歴や戦闘の様子などを示す展示はなかった。

日章旗には「祈武運長久 大熊武雄君」とあり、日の丸のまわりに40名ほどの名前が書き込まれている。それは現在の四街道近辺の近所の人や、友人たちであるという。その大熊という人は亡くなった1945年2月当時、24歳だったといい、写真をみると襟章は兵長のものであった。

この返還には戦争遺留品の返還運動をしている、「戦争を語り継ごう」の西宮市の西羽さんが寄与しており、そのブログに経緯などが書かれている。

http://nishiha.blog43.fc2.com/blog-category-3.html

今回の会場での展示でも、日章旗を持ち帰り、返還した側の元米国海軍軍人アール・ウートン氏のメッセージは掲示されており、彼が所属した部隊が移動したフィリピン・レイテ島、タクロバン、ルソン島、リンガウエンなどの地名を見るに、その戦火の激しさ、米軍の圧倒的な物量・火力の前にジャングルの奥地に追い込まれていった、日本兵の生存率の低さは容易に想像がつく。

フィリピン戦線では、戦闘の激しさに加え、食糧不足や熱帯特有のマラリアなどの風土病により日本軍将兵が苦しめられただけではない。また、多くのフィリピンの人々が戦争の犠牲となり、ゲリラ掃討の名の元に日本軍に殺された人々も大勢いる。彼らのご冥福を祈るものである。

<展示に見入る来場者>

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街なかの陸軍境界標石

2008-11-22 | 千葉県の軍事史、戦争遺跡
前にも紹介したが、陸軍境界標石は意外に街なかに残っているものだ。それは、思いもしない日常生活で使っている道路脇だったり、銀行のATMコーナーのそばであったり。これは、戦争遺跡というほど、大袈裟なものではないが、確かにその場所に旧軍施設や旧軍用地があったという証拠である。そういうものが、津田沼や津田沼を起点とする新京成線沿線あるいは大久保など京成線沿線の街角にあるということは、軍郷習志野ならではということかもしれない。

<昔新津田沼駅があった西友裏の線路沿い>


例えば、昔の新京成新津田沼駅があった西友裏の線路沿いにも四本ほどある。
以前、新津田沼駅の近くには、陸軍境界標石が線路際の骨董屋の並びの塀に二本、線路の反対側の道端に一本、骨董屋の南、線路脇の駐車場の塀に二本、自転車置き場の中に一つと合計六本あった。
ところが、最近見ると、線路脇にあったマンションを建て替えており、骨董屋の並びの塀にあった陸軍境界標石二本がなくなっていた。ごく短期間に、何十年もあったものがなくなっていく。

骨董屋のビルがある踏切のところから前原駅までの手前まで線路脇に小道がある。その線路脇の小道に面して長野土地建物の事務所があるが、そこから前原駅方面までの道沿いに最低三本ある。

何十年も前から歩いた道なのに、線路脇の路上にそうしたものがあることに気付かなかった。北側に昔国際製粉の木造の何階建てかの大きな建物があり、西側には小学校のある、その線路脇の道と藤崎台方面からの道が交差するところに踏切があり、四十年ほど前までは有人踏切であった。もっと前は警報器がなかった。

この踏切には、小生にとって、やるせない思い出がある。実は、この近くで戦後小生も世話になった、スラバヤ沖海戦、ミッドウエー作戦、レイテ沖夜戦などの歴戦の勇士の元海軍大尉K氏が事故死している。あれから、もう四十五年もたつのが信じられない気がする。戦後作家・軍事評論家となり、太宰治のような髪型をしていたが、気さくないい人だった。既に河出書房から本も上梓して、週刊誌に連載も決まった矢先の事故死。潜水艦乗りで数々の戦闘で生き残った人なのに、なぜ戦後になって鉄道事故で死んだのかと話したものである。お葬式には、多くの人が弔問に来ていたが、御親戚や近所の人以外に、仕事関係など様々な人が参列していた。
なくなるまで乗っていた愛車は、水色のスバル。残された奥さんと子供は、その後どうしたのか、しばらくは前の家にいたようだが、今は元の住所には住んでいない。確か、コロという名前だったと思うが、K氏は柴犬を飼っていて、その犬をよく散歩させていた。

小生には、その陸軍境界標石が、陸軍と海軍の違いはあるが、K氏の墓標のように思えた。K氏のご冥福を改めてお祈りする。

<元海軍大尉が事故死した踏切近くの陸軍境界標石>



新京成線になった鉄道連隊演習線関係のものでは、前原駅周辺、三咲駅周辺、初富駅周辺、常盤平駅北の住宅地、新八柱駅周辺などに陸軍境界標石がかたまってある場所がある。

前原駅近くでは、駅から見える塀に埋め込まれて一本、また附近の畑の中、線路沿いに三本並び、ほかに一本やや奥まった前原の寺、道入庵に近いところにあり、都合五本あることになる。

<前原駅近くの境界標石>


三咲駅周辺では、駅の南側線路沿いにあるが、お隣の滝不動駅のほうまで続いているかどうか、そこまで歩いていないので、今後調べてみたい。

<線路沿いの何気ない風景にある境界標石>


新京成線として、現在営業している路線以外に、かつての鉄道連隊の演習線が廃線となった跡にも、陸軍境界標石はある。前述の常盤平駅北の住宅街にある陸軍境界標石も、厳密には廃線跡にある。鉄道連隊のつくった陸軍演習線は、満州の地形を模しており、ところどころわざと屈曲させるなどしているため、戦後京成電鉄に払下げられてから、営業運転に適さない屈曲部分をショートカットしたために、新京成の常盤平と五香の間は従来の演習線の路線でなく、五香駅の北、金ヶ作交差点あたりから栗ヶ沢をへて、常盤平駅の北をかすめて、21世紀の森と広場の公園の東を通り、常盤平駅の西のあたりに出てくるのが、かつての演習線の路線であった。
だから、常盤平駅から、かなり離れた北側の栗ヶ沢の住宅地などに、廃線跡が断続的に見られ、そこに陸軍境界標石群がある。

<常盤平駅のはるか北に散在する境界標石>


境界標石も、街なかの銀行の前にあると、廃線跡が道路になったことを知らないと奇異に思うかもしれない。

習志野市大久保の京成大久保駅前のある銀行の前の路傍にも、陸軍境界標石があるのに、この間気がついた。今は「ハミングロード」としゃれた名前がついているが、その道も鉄道連隊の演習線が津田沼から千葉にむかって延びていた廃線跡である。戦後は、自衛隊が一時線路を使っていたようだ。

そのハミングロードも、銀行の前だけでなく、スーパーの店舗前にも、分りにくいが陸軍境界標石があり、大久保駅と京成津田沼駅の間の警察署がある辺りまで、点々と境界標石がある。

<銀行店舗前にもある陸軍境界標石>


京成大久保駅前のスーパーを過ぎると、住宅街も途切れ、畑が見えてくる。そのあたりは、朝夕ジョギングをする人や散歩する人がめだち、市民の憩いの場にもなっている。晩秋から冬は椿が咲き、春から初夏にかけてはアジサイや皐月なども咲く。


<市民の憩いの場にもなっているハミングロード>


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戦争遺跡保存とは、未来に正しく負の記憶を伝えること

2008-11-16 | 千葉県の軍事史、戦争遺跡


田母神という戦後生まれの元空幕長は、戦争の惨禍から何も学ばず、不戦の誓いも忘れ、果ては政府見解までないがしろにするという、自分自身で過誤と歪曲の何乗もの愚劣な「説」を唱え、一応自衛隊から放逐された。それが退職金を満額もらえる定年退職の形であり、早めにやめさせた以外には懲戒の要素がないのは、戦時中に将官が軍規違反をしても軍法会議等にかけられず、不問に付されたことがあるのに似ている(たとえば海軍乙事件で、福留繁参謀長がゲリラの捕虜となり、軍機密書類を敵のゲリラに奪われたのを、海軍上層部は擁護し、軍法会議にかけず、福留は要職に留まった件など)。

こうした荒唐無稽な言説が、ある程度まかり通っている背景には、戦争体験の風化がある。それは人の記憶も、戦争体験者が年々減っていて、語り継ぐこともままならないといったこともあるが、終戦直後に占領軍が来る前に大量の軍関係書類が焼却され、特に軍の機密にかかわる書類がほとんど残っていないことから、文書の裏付けがしにくいということもあろう。

そこで、大いに意義があるのは、金石文の刻まれた記念物、軍関係の建物、民間に残る軍関係の記録などで、戦争遺跡を残すということは、そういう戦争体験の風化に対し、物で戦争の記憶を伝えるということに他ならない。それは「負」の記憶であるが、正しい歴史を伝えるためには、耳障りのいいことばかりでなく、嫌なことも含めて記憶しておらねばならないのだ。



先日といっても、8月の9−11日であるが、名古屋で第12回戦争遺跡保存全国ネットワークのシンポジウム愛知大会が開かれた。なお、会場は名古屋市千種区の名古屋大学であった。当日は、約120名の参加があり、全国から様々な報告がなされた。小生はもう年で暑さがこたえるため、当日は親戚に出席してもらい、資料などは後で送ってもらった。
記念講演で宗田理さんの豊川海軍工廠の話があるはずだったが、本人が体調不良とのことで、それはなく、戦争遺跡保存全国ネットワークの各委員や名古屋大学の方から報告があり、豊川海軍工廠については「豊川海軍工廠跡地利用をすすめる会」の伊藤さんからの報告があった。

愛知県には、豊川海軍工廠跡や名古屋陸軍造兵廠、瀬戸地下軍需工場跡、陸軍第15師団司令部庁舎跡、豊橋連隊跡、など、305もの戦争遺跡があるそうだ。

シンポジウムのなかで、沖縄戦での「集団自決」の記述をめぐる大江健三郎氏と岩波書店に対する、元陸軍海上挺身隊戦隊長らの訴訟は、訴訟を起こした「新しい歴史教科書をつくる会」側が南京大虐殺に関して世論をミスリードしようとしてうまくいかないために、沖縄に目をつけたということが説明された。

その報告をおこなったのは、沖縄平和ネットワークの村上氏。沖縄住民の言葉の引用のなかで、住民たちが隠れたガマのなかで、幼い子供が泣き出したのに、あらわれた日本兵から毒入りおにぎりを渡して殺すことを命じられたある家族が、子供たちだけを死なすのではなく、みんな死ぬ時は一緒に死のうとガマを出て、米軍に遭遇して隠れたり、海水入りの食べ物を食ったりして新しいガマを求めて右往左往したことが語られた。



この訴訟については、一審、二審とも、沖縄戦での「集団自決」への軍の関与を認め、原告の主張を退けた。大阪高裁の判断の通り、沖縄住民は勝手に軍の保有する武器である手榴弾で自決したのではなく、軍から支給された手榴弾などで、軍の関与のもとで「集団自決」したのである。
またぞろ、原告らは上告したが、歴史の真実は変わらない。

その歴史の真実を正しく伝える、裏付けの重要な要素が戦争遺跡である。今、史跡・文化財として指定・登録された戦争遺跡は、144件あるというが、それはまだまだ少ない。文化財に指定されていない、戦争遺跡の保存は、所有者の善意によるところが多いわけで、その意義を理解しない所有者の都合で容易に壊されたり、原型をとどめないように改変されたりする。こうした戦争遺跡は、別に美しいものだけではない、なかには不気味なものも多いだろう。にも関わらず、我々はその保存に関して、今まで以上に行政側に訴えていく必要がある。

(写真上段:豊川海軍工廠跡に残る空襲時に爆弾が落ちて出来た穴、中段:戦争遺跡保存全国ネットワーク・シンポジウム愛知大会、下段:沖縄戦での沖縄住民)
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