千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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佐倉市の戦争遺跡5(臼井周辺の戦争遺跡)

2009-05-05 | 佐倉市の戦争遺跡
1.印南小学校旧在地に残る紀元二千年記念体育館など

佐倉には、郷土連隊として佐倉城跡を兵営とした通称「佐倉連隊」、すなわち当初は陸軍歩兵第二連隊、第二連隊が日露戦争後水戸に移ると、その後は陸軍第五十七連隊などが置かれた。もともと佐倉には江戸時代佐倉藩があり、明治以降も郷土意識が非常に強く、文武両道を重んじる気風があった。佐倉藩の藩校は佐倉藩学問所として設立され、温故堂、成徳書院と改称されながら存続し、明治以降は私立学校となったりしたが、1899年(明治32年)千葉県に移管され、(旧制)千葉県佐倉中学校、さらに2年後(旧制)千葉県立佐倉中学校と改称された(現在の千葉県立佐倉高校)。

その(旧制)佐倉中学校に、紀元二千六百年の記念事業として1942年(昭和17年)に建設されたのが、「新武道場」である。いわば、紀元二千年記念体育館であるが、1988年(昭和63年)に印南小学校旧在地に移築されている。
印南小学校旧在地は、臼井駅の西南西、3Kmほど、国道296線の通る江原台の台地上にあり、江原のバス停を国道沿いに約150m西に行ったと、南に分岐する路地をはいった所である。

なぜ、印南小学校旧在地にあるかといえば、印南小学校、かつての印南尋常小学校の前身が、藩校の附属郷校であったためといわれる。現在は、佐倉市立青少年体育館となっており、剣道の練習などのために、中はきれいな床が張られている。トイレの増築などを除けば、外形はほぼ当時のままで、内部は前述の床面の張替などが行われている程度である。

<印南小学校の旧在地に移された佐倉高校の「新武道場」>


この建物は、木造平屋建てで瓦ぶき、床の広さ14.6m×23.6m、天井の高さ4.5mで、窓が多く採光に気をつかっている。現在は、前述の通り体育館として使用されているが、剣道、卓球、軽スポーツなどに利用されている。

<「新武道場」を横から見たところ>


もう一つ、そこには、「佐倉連隊」の門と伝えられるものがある。それは、印南小学校の旧校舎の校門であり、そこには「佐倉市立印南小学校」という小さな表札がかかっている石で出来た門柱と両脇の土塁の土留めがある。これは、印南小学校、かつての印南尋常小学校の正門であり、1915年(大正4年)に校舎を改築した際に、「佐倉連隊」から60円で払い下げたと伝えられている。「佐倉連隊」の門は表門以外に、裏門、西門があったが、この門はどの門であろうか。

当地江原新田では、肥沃な耕土を利用した畑作がさかんで、その畑作で野菜作りを主に行ってきたが、野菜作りには豊富な肥料を使うため、五十七連隊と「下肥馬糞払下及汚物掃除契約書」を結んだ農家もあった。すなわち、連隊長は江原新田住民に下肥・馬糞を払下げて、江原新田住民は「おおむね毎日一回、連隊長の指示に従い」下肥の汲み取り掃除をするという契約で、1932年(昭和7年)4月の契約では、払下げ価格は一人一箇月分2銭となっていた。
連隊の厠は、現在の歴史民俗博物館本館の西側の鬱蒼と木が茂った場所にあったが、その厠脇を通って、鹿島川のある低地に下りる坂があり、「へび坂」と呼ばれていた。この「へび坂」を下ると、西門に出るのだが、下肥の運搬をしたために、後に「肥やし坂」とも呼ばれるようになった。江原新田住民は、さらに鹿島川を越え、角来の急な坂をのぼって、台地上の畑地まで、連隊からの下肥・馬糞を運んだのである。

その他、草刈りなどで連隊に出入りする農民も多く、彼らが出入りしていた連隊西門を払い下げたようであるが、確たる証明がないために断言はできない。

<「佐倉連隊」の門を払下げたと伝えられる印南小学校旧校舎の正門跡>


2.逓信省臼井無線送信所跡

現在の国道296号のバス停「聖隷佐倉市民病院入口」の南側の奥一帯には、1986年(昭和61年)まで臼井無線送信所があった。これは逓信省が1943年(昭和17年)に開局、85m鉄塔2基と45m鉄塔7基があって、航空標識業務を行った。臼井無線送信所は米軍艦載機の標的にされ、何度か空襲にあっている。

逓信省は、戦後の1949年(昭和24年)、二省分離(郵電分離)で郵政省と電気通信省となり、無線送信業務は電気通信省の所管となり、電気通信省が日本電信電話公社に移行すると、臼井無線送信所は日本電信電話公社の施設となった。船舶への短波帯での無線送信などを行った無線局であったが、日本電信電話公社のNTTへの移行に伴い、廃局となった。

現在は、更地となっており、建物遺構はなく、わずかに境界標識などが残っている程度である。

<臼井無線送信所跡>


3.円応寺、光勝寺の頌徳碑

臼井には、千葉氏一族である臼井氏が創建した寺社が、臼井城の周囲にいくつかある。その一つで、臼井城に隣接する臨済宗の古刹、円応寺の本堂手前、鐘楼横の一角に広島で原爆で亡くなった方を含む18名の戦没者の名前刻んだ1954年(昭和29年)建立の頌徳碑がある。それには戦没された方の名前や場所などが刻まれているが、「佐倉連隊」の所属がほとんどと思われるので、戦死などの場所がかなり南方に集中している。

その頌徳碑の後ろには、陸軍歩兵第百五十七連隊(福井部隊)の戦死者4名の墓もあり、そのうちの1名の少尉の墓には陶板に写真を焼き付けたものが組み込まれている。

<円応寺にある頌徳碑>


同じく、時宗の寺で、臼井氏の尊崇をうけた光勝寺にも、本堂のある台地中腹の場所から墓地のある台地上にのぼる途中に頌徳碑がある。
これは、1958年(昭和33年)に建立されたもので、レイテや太平洋上などで戦死・戦病死された7名の方の名前や亡くなった場所などが刻まれている。

<光勝寺の頌徳碑>


4.臼井の八幡神社の石碑など

臼井の八幡台には、南北朝時代に足利尊氏に従って戦功があったという、臼井氏中興の祖ある臼井興胤が建てた八幡神社がある。ここにも、戦争にまつわる記念碑があるが、こちらは慰霊碑の類ではなしに、帰還記念碑のほうである。

参道の奥右側の一段高くなったところに、1906年(明治39年)9月に建立された「神徳碑」がある。これは、最後の佐倉藩藩主であった堀田正倫伯爵が篆額、地元の臼井田の日露戦争からの「凱旋軍人」として、九名の名前を連ねている。石碑は、日露戦役で干戈を交えること二年、硝煙弾丸の雨をくぐって奮闘してきた。区内の応召兵士九名も戦地深く生還を期さなかったが、戦争が終わり無事に帰還することができた、これも氏神である八幡神社の神徳である云々といったことが漢文で書かれ、最後に「圓應精舎丗四世沙門湖海撰」とある。円応寺の三十四世住職が書いていることになるが、円応寺も臼井田地区の寺であり、当時としては自然の成り行きだったのかもしれない。

<日露戦争帰還記念碑>


石碑はもう一つあり、千葉市のある個人が、「日支事變」の帰還記念として二百円を八幡神社の基本金として献じ、その石碑を建てたものである。

<日中戦争帰還記念碑>


八幡神社の参道の入り口のところに、白い御影石の石柱があるが、これは太平洋戦争開戦の前年である1940年(昭和15年)に地元の人が敷石50枚を奉納した記念碑だが、「武運長久」と刻まれている。その奉納した人の名前と1字違いの名前(陸軍兵長)が、光勝寺の頌徳碑に刻まれた中にある。はたして、身内なのかどうか分からないが、少々気になる。

<「奉納 武運長久」と刻まれた石柱>




参考文献:
『佐倉の軍隊 国立歴史民俗博物館 友の会「軍隊と地域」学習会の記録』 財団法人歴史民俗博物館振興会 (2005年)

『「佐倉連隊とその時代」を歩く』 山倉洋和「もうひとつの『歴史散策マップ』をつくる会」 (2006)


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佐倉市の戦争遺跡4(佐倉市街地の戦争遺跡、佐倉空襲「殉難の碑」)

2008-03-04 | 佐倉市の戦争遺跡
1.麻賀多神社に残る慰霊碑など

佐倉には、佐倉城跡を兵営とした通称「佐倉連隊」の遺構があり、また佐倉市街地にも、その関連遺構や西南の役、日清、日露戦争、日中戦争、太平洋戦争の戦没者の慰霊碑などがある。
佐倉城は戦国時代に千葉氏一族の鹿島氏が築いた鹿島山城があって、それを改修し居城としようとした千葉邦胤によって、佐倉城の原形がつくられたが、城の完成を待たずに邦胤自身が家臣の一鍬田万五郎によって暗殺され、未完となった。それを完成させたのは江戸時代に入部した土井利勝で、1610年(慶長15年)に普請を始めて現在の形に完成させた。その後、城の主は石川氏、松平氏、堀田氏とかわり、老中堀田正盛が佐倉堀田家の初代。しかし、正盛の徳川家光殉死後跡を継いだ正信の代に、佐倉惣五郎事件が起きる。また堀田正信自身、江戸から無断帰城したとがにより、所領没収の憂き目を見た。その後、歴代の佐倉城の主は様々な大名がかわったが、堀田正盛三男、古河の堀田正俊(大老をつとめた)の四男正武の長男堀田正亮は、1746年(延享3年)山形から十万石で佐倉に転封、のちに一万石を加増、その後六代にわたり、佐倉藩主であった。その五代目にあたる、堀田正睦は蘭学を奨励し、佐藤泰然を招聘して順天堂を開かせるなど、佐倉に蘭学を開花させた。

佐倉藩は蘭学ともに、「西洋砲術」と呼ばれた高嶋秋帆の近代的な砲術を取り入れた。1841年(天保12年)、佐倉藩士兼松繁蔵が高島秋帆の江戸徳丸ヶ原での洋式砲術の調練に参加したが、1855年(安政2年)木村軍太郎は藩兵制改革を立案、高島秋帆の洋式砲術を佐倉藩では採用した。江川太郎左衛門、佐久間象山に学んだ木村軍太郎、手塚律蔵、西村茂樹らの指導で自前の火薬・大砲を作ったりした。

佐倉が城下町であることは、市街地に武家屋敷があったり、藩校をルーツとする県立高校があるだけでなく、佐倉の市街を歩いてみると気付くように、様々な場所に藩主堀田氏ゆかりの寺社、石造物があることで実感できる。
たとえば、市街地中心にある麻賀多神社には、旧佐倉藩領出身の西南の役からの戦没者などの慰霊碑、記念碑が三基ある。そのひとつは、旧佐倉藩領出身者などの日露戦争戦没者約200名の名前を記した「忠勇の碑」で、撰文と「忠勇」の篆額は一般的な軍人によるものではなく、最後の佐倉藩主堀田正倫による。この碑は、日露戦争後の1906年(明治39年)に建立されたものである。

<麻賀多神社の記念碑(中央が「忠勇の碑」)>


「忠勇の碑」の向かって左側、社殿に近いほうの碑は、「義烈の碑」で日露戦争より前の戦没者17名の名前がある。この碑は、1913年(大正2年)、旧藩士の郷友会が日露戦争前の戦没者の記念碑がないことを遺憾として建立したもので、堀田正恒(正倫の子)が撰文し、「義烈」の篆額も正恒による。
特徴的なのは、戊辰戦争で賊軍とされた幕府方についた佐倉藩士の戦没者の碑もあり、「忠勇」「義烈」の碑と並んで「両氏記念之碑」という小ぶりな碑として建てられていること。その両氏とは、佐倉藩士小柴宣雄の長男で戊辰戦争で幕府方につき、後に自刃した小柴小次郎と、もうひとりの佐倉藩脱藩者木村隆吉であり、彼らの名誉回復の意味を込めて当初郷友会が「義烈の碑」のなかに彼らの名を加えようとしたが、かなわず。やむを得ずして、別の小さな碑として、元は奥まった社殿の横に建てたのである。

これは勤皇を掲げ、過激な行動をとった水戸天狗党の鎮圧を行った水戸藩ほか諸藩の戦没者が靖国神社に祀られず、逆に勤皇を掲げた天狗党の戦死者が祀られるという矛盾に対して、佐倉郷党は等しく祀られるべしという考え方で、天皇を頂点とする靖国の画一的な思想とは反するもので、佐倉郷党に敬意を表したい。

<両氏記念之碑」


麻賀多神社を出て、西側に進むと、道の左側に古びた木造平屋建ての建物があるが、これは済生堂病院跡である。済生堂病院は佐倉藩出身の軍医で後に国会議員になった、浜野昇が開設したものである。浜野昇は佐倉藩堀田家に代々仕える医師の子として生まれたが、順天堂を開いた佐藤尚中に師事して医学を学び、東京医学校(現在の東京大学医学部)を卒業。1877年(明治10年)には陸軍軍医として西南戦争に従軍。この西南の役では、浜野など佐倉順天堂関係者が軍医団の統率と現地での治療に大きな役割を果たした。1883年(明治16年)には招かれて鹿児島県立医学校の校長に就任、さらに1890年(明治23年)には衆議院議員となる。浜野昇は医師出身の国会議員として、第一期帝国議会にコッホ肺病療法(結核予防法の前身)を通過せしめ、北里柴三郎と共に日本医師会および結核予防会の設立に貢献した。

<済生堂病院跡>


その済生堂病院跡の西隣は佐倉市立体育館があるが、その体育館前に銅像がある。これは西村勝三で、佐倉藩堀田家から支藩である佐野藩堀田家附家老として佐野に赴いた西村芳郁を父とし、佐野藩士であった。しかし、1856年(安政3年)に脱藩し、その後武士も捨てて、佐野の豪商正田利右衛門と横浜に出て貿易に従事した。
1869年(明治2年)西村勝三は大村益次郎から製靴をすすめられ、弟の綾部平輔と製革製靴事業創始を決意して断髪した。断髪令に先立つこと2年であり、この決意に感動して、高見順は「日本の靴」を著したという。
兄西村茂樹の援助もあって、西村勝三は1870年3月15日(靴の記念日)に東京に「伊勢勝製靴場」、佐倉に「相済社」を創設し、日本で最初の靴製造に取り組んだ。「伊勢勝製靴場」は、その後「桜組」と改称、更に大同合併して皮革は「日本皮革株式会社」、靴は「日本製靴株式会社」となった。
西村勝三は、溶鉱炉の耐火煉瓦などを製造する「品川白煉瓦株式会社」の創業者でもある。佐倉にある銅像周辺の煉瓦は、特に寄贈された同社製の耐火煉瓦である。
相済社の創設は明治維新後の佐倉藩士への士族授産という意味合いもあったが、日清・日露の両戦役を経て、軍靴の需要はおおいに高まった。意外に知られていないが、靴の製造も立派な軍需産業である。また、日露戦争時、相済社の一部は捕虜収容所になった。

<相済社跡>


2.陸軍墓地と顕彰碑

現在の佐倉市役所北側3千坪の広大な土地のうち、三分の一はかつての陸軍墓地であった。陸軍埋葬規則にしたがって、約1mの高さに揃えられた個人墓が100基ほど整然とならび、墓地の北東隅には日清戦争当時、日本軍に協力して戦病死した三名の中国人の墓や1945年(昭和20年)に酒々井に墜落した米軍パイロットの墓もあったという。陸軍墓地はいったん掘り起こされ、忠霊堂として遺骨が一括保管されていたが、1971年(昭和46年)市役所建設に伴い撤去され、かわって忠霊塔が建設された。その右側には、「顕彰碑」と大書した黒い一枚岩の碑がある。

<旧陸軍墓地>


顕彰碑は印旛地区傷痍軍人会が日清戦争以来の戦没者60余名の慰霊のために、1961年(昭和36年)に建てたものである。戦没者名が碑の裏面に刻まれているが、地区と氏名のみで、一般的な慰霊碑とは異なり、部隊名や軍隊の階級の記載がない。

<傷痍軍人会の顕彰碑>


3.海隣寺の顕彰碑など

佐倉市役所に隣接した場所に、海隣寺がある。海隣寺は千葉氏ゆかりの古刹であり、室町時代、享徳の乱に際して足利成氏に味方する千葉氏一族の馬加康胤が、足利成り氏に対立する上杉氏を支持する千葉宗家を倒し、以降馬加系が千葉氏を継いだ後、馬加(幕張)にあった同寺を移したもの。
この海隣寺参道左側に「故陸軍少尉試補鈴木賢君之碑」がある。鈴木賢は、佐倉出身で陸軍士官学校に入り、西南の役開戦時に試補に抜擢され、西郷隆盛軍と戦った。しかし、臼杵郡三河口で負傷、その傷がもとで1877年(明治10年)8月になくなった。7年後、海隣寺に遺族が改装するとともに、顕彰碑を建立。古い将校の顕彰碑であるため掲載したが、佐倉にはこれに類した個人の顕彰碑、慰霊碑がたくさんある。

なお、海隣寺自体に日清戦争当時、捕虜収容所が置かれた。その他、市街地には妙隆寺、勝寿寺に日露戦争時の捕虜収容所、教安寺には捕虜収容所事務所が置かれていた。

<西南の役戦没者「故陸軍少尉試補鈴木賢君之碑」>


4.うるし坂

佐倉は坂が多い城下町で、このうるし坂は江戸時代からよく知られた坂である。「古今佐倉真佐子」という江戸中期に当時の佐倉藩稲葉正知家家臣渡辺善右衛門が書いた地元紹介の書物にも出てくる。この坂を使って、根郷村、日清戦争直前に開通した総武鉄道佐倉駅から佐倉連隊への人や物資の輸送が行われた。なお、うるし坂は現在JR佐倉駅方面と佐倉市街地の宮小路町、新町、並木町付近を結ぶバス通りも坂であるが、それではなく、そのバス通りから眼下に見える旧道の坂である。

<うるし坂>


5.佐倉空襲と「殉難の碑」

佐倉で空襲警報が発令せられたのは1943年(昭和18年)4月が始まりで、以来本格的な空襲が始まる1945年2月ごろから終戦まで激化したいった。当時は連日、グアム、サイパン、テニアンよりB29が飛来して京浜地区を爆撃、佐倉上空を通って九十九里に抜けるのがコースとなっていた。京浜の帰りに、残った爆弾や焼夷弾を落とすため、千葉県各地にも被害が出た。さらに硫黄島からはP51ムスタング、空母から発進するブォトシコルF4Uコルセア、グラマンF4Fワイルドキャット、グラマンF6Fヘルキャットなどの戦闘機が佐倉機関区やその他の鉄道施設を狙って連日、機銃掃射やロケット弾攻撃を繰り返した。

戦争末期の1945年7月18日に佐倉機関区で、悲惨な空襲被害があった。被害にあったのは、当時の国鉄職員である。
現在のJR線路を跨ぐ県道印西線の陸橋は、当時は線路脇の小山であり、その小山に浅間神社が祀られていた。その小山の北側には弁天社があり、傍らに大きな杉の木があった。また小山の山裾の東側に、半地下式の防空壕が掘られていた。その日、空襲警報発令とともに、一台の機関車が線路脇の小山のかげに避難してきた。その浅間神社のある小山からは四街道、印西、八街の各飛行場への米軍機の急降下爆撃の様子などが見えたため、その日も小山に三名がのぼって見物していた。また弁天社の大杉を盾にして一名、防空壕に国鉄検車区員と退避してきた機関車の乗務員の十四名がいた。

九十九里の空母から発進したグラマンF6Fヘルキャット数機が南方から佐倉駅を目指して侵攻してきたのに対し、たまたま無蓋貨車に積んだ高射機関銃二台あり、それで迎撃、数発対空射撃をした。グラマンはすぐに急旋回、機銃掃射とロケット弾で機関銃二台とも破壊した。同時にグラマン二機は浅間神社下の機関車を狙って、機銃掃射とともに二発ロケット弾を撃ち込んだ。機関車は機銃で穴だらけになったが、ロケット弾は外れて、運悪く防空壕を直撃した。

浅間神社の小山にのぼっていた三名は銃撃をまともにうけ、浅間神社の縁の下に逃げ込んで助かった。弁天社の大杉の陰に隠れた一名は杉の木をぐるぐるっと廻って逃げたが、遂に銃撃をうけてなくなった。防空壕に逃げた十四名のうち、女性職員一名が奇跡的にほぼ無傷で助かったが、その他十三名は爆死した。その爆死した人の体はバラバラになり、陸軍衛戍病院の看護婦たちがその体を縫合した。

2007年8月20日の朝日新聞千葉版に、これに関する記事が載った。

「JR佐倉駅から数百メートルの線路沿い。陸橋の脇に「殉難之碑」と書かれた小さな慰霊碑が、忘れられたように立つ。
 『機関助士見習』
 『検車掛』
 裏には犠牲になった14人の名前と肩書、16歳から55歳までの享年が刻まれている。
 悲劇は、敗戦間際の45年7月18日に起きた。
 国立歴史民俗博物館友の会がまとめた『佐倉の軍隊』によると、数機の戦闘機が県内最大の操車場があった国鉄佐倉駅を襲撃した。駅職員が逃げ込んだ防空壕(ごう)をロケット弾が直撃し、14人が即死した。物資輸送の拠点として狙われたのだった。
 『この話をするとついこの間のような気がするけれど、62年、確かにたっている。じいさんになって、孫もいる』

 四街道市に住む鈴木国雄さん(69)は当時のことを今でも鮮明に思い出す。

 梅雨が明けたころだった。快晴。蒸し暑かったのを覚えている。
 当時7歳。今で言えば小学校2年生だった。学校から帰り、佐倉駅前の商店街で両親が営んでいた瀬戸物店兼自宅にいた。『ゴォーッ』という戦闘機の音。家の中でタンスの隅に身を寄せた。防空壕に身を隠す間も無かった。
 戦闘機が飛び去ると、表から大人たちの怒号が聞こえてきた。
 『防空壕がやられた』
 『早くしろ』
 狙われたのは、家から400メートルほど離れた、線路沿いの防空壕だった。大人たちと一緒に、鈴木さんも走った。『跡形もなかった。ひっちゃかめっちゃかだった』
 がれきと一緒に、ちぎれた腕や足が落ちているのを見た。気が動転していたのか、恐ろしさはなかった。

62年後の8月15日、鈴木さんは殉難之碑の前にいた。強い日差しが照りつけ、セミの鳴き声が響く。
 あの頃と景色は変わった。田んぼだったところに家が建ち、神社があった小山は県道の陸橋に姿を変えていた。
 だが、確かに62年前、ここで14人が亡くなったのを見た。腕が落ち、担架でむしろをかけられて運ばれ、トラックの荷台に載せられる人の姿が目に焼き付いている。鈴木さんはぽつりと言った。

 『こうやってあの時のことを話しているけれど、亡くなってしまった人たちは何も話すことができないんですよ』」

1977年(昭和52年)国鉄職員有志が、防空壕のあった場所に「殉難の碑」を建立した。その碑の裏側にはなくなった十四名の名前と年齢、国鉄の所属が刻まれている。

<「殉難の碑」>


すでに防空壕跡は埋められて痕跡がなく、浅間神社のあった小山も県道の陸橋に姿を変えた。「浅間前」の地名はあるが、浅間神社自体は移されたものか、その場所にはない。

<浅間神社があった場所からJR線を望む>


参考文献:
『佐倉の軍隊 国立歴史民俗博物館 友の会「軍隊と地域」学習会の記録』 財団法人歴史民俗博物館振興会 (2005年)


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佐倉市の戦争遺跡3(西志津の戦車壕)

2007-12-05 | 佐倉市の戦争遺跡
明治初年、当時の陸軍はフランスから招聘したルボン砲兵大尉の指導のもと、佐倉藩の「火業所」を拡充し、砲兵の演習場とすることを計画、実施した。それは、射場(土手)を増築し南北三千メートル幅三百メートルの射的場としたものである。このように、現在の千葉県佐倉市下志津原には1886年(明治19年)に開設された陸軍砲兵射的学校を中心に陸軍演習場(射的場とも呼ばれた)があって、南の四街道市(1897年:明治30年に陸軍砲兵射的学校が陸軍野戦砲兵射撃学校と改称、移転)とあわせて砲兵のメッカであった。陸軍砲兵射的学校の跡地には、「日本砲兵揺籃の地」という藤江恵輔陸軍大将の立派な揮毫による石碑がある。これは戦争遺跡について書いた書物やHPでも取りあげられ、知るひとぞ知るものになっている。そのかげに隠れているが、下志津原を西にバス通りを進んだ西志津にも戦争遺跡がある。

<陸軍砲兵射的学校の碑>




それは戦車壕の跡。ちょうど西志津小学校の裏手にある公園に、その跡が残っているが、以前はその付近一帯にあったらしい。小生、その場所がなかなか分らず、コンビニの店員さん、付近の主婦の方お二人と、近隣の人に聞きながらたどり着いた。その前に行った陸軍砲兵射的学校の碑についても、タクシーの運転手にテニスコートまでと言ったにも関わらず、離れた場所で下されたため、農作業をしていた農家の方に聞いて、なんとかたどり着いたのだが、それはともかく。
その壕とは、1mほどの高さに土盛され、その頂上から深さ2.5mほどの穴が掘られた長方形の壕であったらしいが、現存するものは穴はふさがれてしまい、ちょうど公園の築山のようになっている。その周辺は「芋窪」という地名で、その名の通り、芋がとれるような農地もあったのか分らないが、現在の西志津8丁目南端の台地上で開発前は山林だったという。しかし、その面影はなく、今では瀟洒な住宅が建ち並んでいる。その公園も、「芋窪」の名を冠しているが、新興住宅地によくある公園にしか見えない。つい最近(2007年12月2日)、この地に来たが、楓の紅葉が美しかった。ここが、戦車壕のあった場所というのも、立札もなく、おそらく住民の方も知らないのではないか。

<戦車壕跡~北から見た>


<戦車壕跡~南から見た>


なお、その戦車壕を使った訓練は、千葉穴川の陸軍戦車学校(元は習志野にあったが移転、1940年には千葉陸軍戦車学校と改称)、あるいは習志野の戦車第二連隊(1933年に千葉陸軍歩兵学校教導隊戦車隊が発展改組)が行っていたようである。その戦車第二連隊の母体と成った千葉陸軍歩兵学校はわずかに裏門跡の遺構と記念碑があるが、穴川の千葉陸軍戦車学校は遺構とて残っていない。習志野の戦車第二連隊は、元々騎兵第十四連隊が駐屯していた場所に、騎兵第十四連隊が出て行ってから入ったが、現在は日大生産工学部の敷地になっている。その戦車第二連隊の碑が、日大生産工学部にあり、許可を得て立ち入り、写真も撮らせてもらった。

<日大生産工学部正門>


<日大生産工学部にある戦車第二連隊の碑>


ちなみに、その碑文は以下。連隊の連の字が旧字体になっているが、原文のままとした。開設から終戦にいたる経緯が割合簡潔に書かれている。

「戦車第二聯隊の跡

 戦車第二聯隊は昭和八年八月千葉陸軍歩兵学校教導隊戦車隊を強化改編して、国軍最初の戦車聯隊として創設され、騎兵第十四聯隊駐屯の跡に移駐した。その教育部に、全国歩兵聯隊から派遣された将校・下士官の教育に専念し、後に陸軍戦車学校に発展した。
 昭和十二年七月動員下命、聯隊の主力は北支に出動、保定会戦、黄河以北戡定作戦、徐州会戦等に赫々たる武勲を揚げた。十三年七月、部隊は戦車第八聯隊に改編され、中原会戦、満州・北支警備等の後、十七年秋、南海のラバウルへ転進した。
 戦車第二聯隊は昭和十三年七月留守隊を強化し、此処習志野で再編成された。十六年秋再び動員され、蘭印作戦に参加し各地に善戦した。分遣された第一中隊はビルマ、第四中隊はガタルカナルに於て悪戦苦闘した。聯隊は十七年秋習志野に帰還した。
 この間、習志野で編成した戦車第四大隊は昭和九年奉天に、支那駐屯軍戦車隊は十一年天津に、戦車第十七聯隊は十七年綏遠省平地泉、独立戦車第七・第八中隊は十九年夏フィリッピンに派遣された。
 河野第七中隊はレイテ島に、岩下第八中隊はマニラ飛行場周辺に三度壮烈な出撃戦を展開、戦車魂を発揮して全員華と散った。
 戦局緊迫するや、動員令により戦車第二聯隊は昭和十九年相模地区に移動、その補充隊は二十年四月新たに六個の戦車聯隊を編成し、相共に配備につき本土決戦に備えたが、八月終戦を迎えた。
この度、日本大学当局より理解ある御協力を戴き、有志相図り、幾多戦友の偉勲を偲びつつ、此処戦車第2聯隊駐屯の跡に、この碑を建て聯隊の事蹟を永く伝う。

    昭和六十三年八月一日 戦車第二聯隊会 」

戦争遺跡をめぐって困るのは、それが書かれた文献などはあっても、場所を正確に分りやすく書いたものが少ないこと。最近では、タクシーの運転手もよく道を知らず、乗ってから「しまった」と思うこともしばしば。そういう場合は、地元に長年住んでいそうな農家の人や商店の人に聞くしかない。今回、佐倉市志津方面を訪ね、一部その内容は、「佐倉市の戦争遺跡2」に載せたが、結構色々な人に道を聞いたり、お寺では西南戦争の戦死者の墓の場所を教わったりした。皆、親切に教えていただき、大変お世話になった。そういう人たちが、このHPを見ているとも思えないが、改めて感謝申し上げる。
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佐倉市の戦争遺跡2(下志津原演習場関連、宝樹院の石塔ほか)

2007-12-02 | 佐倉市の戦争遺跡
1.佐倉藩の「火業所」から発展した下志津原演習場

佐倉市域には、前に述べた佐倉城址を中心とした「佐倉連隊」関連の戦争遺跡のほかに、まだ他の地域にも別の戦争遺跡がある。
下志津原と呼ばれる四街道市の領域を含んだ、広大な原に陸軍野砲兵隊、戦車隊などの演習地があったことはよく知られているが、その演習場関連の戦争遺跡が佐倉市の志津地区に点在している。

もともと、下志津原は中世は広大な原野であり、近世になって佐倉に佐倉藩が配置され、幕末近くなると、その一部において大砲の試射・演習が行われるようになった。佐倉藩の砲術演習は、1841年(天保12年)、佐倉藩士兼松繁蔵が高島秋帆の江戸徳丸ヶ原での洋式砲術の調練に参加したのを嚆矢として、すでに宝暦年間(1751年~1764年)には太田村で大砲の演習が行われている。
1855年(安政2年)木村軍太郎は藩兵制改革を立案、高島秋帆の洋式砲術を佐倉藩では採用し、江川太郎左衛門、佐久間象山に学んだ木村軍太郎、手塚律蔵、西村茂樹らの指導で自前の火薬・大砲を作るなど、その技術は世をリードしていたといってよいだろう。下志津原での大砲演習は1861年(文久元年)からであり、明治初年まで大々的に行われた。そして、それは下志津新田木戸場を中心に、約20haの大規模な「火業所」となった。

明治政府は、旧佐倉藩の「火業所」に目をつけ、これを陸軍演習場にすることを決定し、フランスから招聘したジョルジュ・ルボン砲兵大尉の指導にしたがって、射的場の拡張を行い、下志津原に陸軍砲兵射的学校を開設した。

その地が陸軍演習場となったことで、地元の地主が土地を手放す、または演習場用地にある神社が移転するという地元住民への影響があり、その関係の戦争遺跡として以下のものがある。

(1)下志津原軍用地の石碑
(2)下志津春日神社境内の八百稲荷神社の碑

(1)は下志津の報恩寺前の道を北に数十m進んだ民家の垣根を背にして石垣に乗ったかたちであるが、下志津原一帯が軍用地として買収された経緯を刻んでいる。すなわち、佐倉藩の砲術訓練所を明治新政府の陸軍省が引き継ぎ、1886年(明治19年)に陸軍砲兵射的学校を開設、陸軍の一大演習場として整備拡大された、また1899年頃(明治30年代初め)政府による大規模な用地買収が行われたことへの地主たちの複雑な思いが詳しく書かれている。この撰者故・松戸鉄太郎氏こそ、この碑のある民家の当主だった人物である。なお、故・松戸鉄太郎氏は1947年(昭和22年)京成電車の事故でなくなっており、故・松戸氏を含めた遭難者追悼碑は京成志津駅から東へ約300mの線路脇に建立されている。

<「下志津原軍用地」の碑>


(2)については、下志津報恩寺の北側約100mほどの場所にある春日神社の境内に木立に寄りかかるようにたっているが、この八百稲荷神社の碑の裏面には、もとは下志津原飛び地の鹿見塚にあったが、1899年(明治32年)の陸軍射撃場大拡張に伴う用地買収でこの地へ遷座せざるをえなかった旨、簡単に記されている。しかし、八百稲荷神社の社殿はなく、この碑自体が神社(石祠)として祀られているようである。

<八百稲荷神社の石祠>



2.陸軍砲兵射的学校跡

前述したように、陸軍砲兵射的学校は1886年(明治19年)に開設された。そして、その周辺用地は陸軍の砲兵射撃訓練などのための演習場として買収されていった。その跡地は、現在畑、企業用地、住宅などが混在する場所になっていて、テニスクラブのテニスコートが近くにある。富士見が丘のバス停から北東に約200mの道路沿いであるが、少し奥まった木立のなかにあるために、見過ごしやすい。南に隣接する場所に飯田車体工業という会社がある。
そこに陸軍砲兵射的学校があったことを示すものとしては、その記念碑があるくらいであるが、その他土手の一部痕跡が残存している。

<陸軍砲兵射的学校、陸軍演習場の北限の土手の痕跡>


その陸軍砲兵射的学校跡の石碑は、「日本砲兵揺籃の地」とあり、藤江恵輔陸軍大将揮毫の達筆な字が刻まれている。石碑の側に、佐倉市がたてた案内板があり、それによると、
「砲術演習場跡
 佐倉藩は幕末に洋式砲術高島流を取入れ、下志津原のこの地で演習や試打を行った。
 明治六年(一八七三)政府が教師として招聘したフランスのルホン砲兵大尉は、藩士大筑尚志が築いた射場(土手)を増築し南北三千メートル幅三百メートルの射的場とした。
 同十九年陸軍砲兵射的学校が創設され、付近には料理屋、旅館などの街がつくられ、当時下志津原一丁目と呼んだという。
 その後、明治三十年に、四街道へ射的学校は移された。昭和四十年、同校関係者有志によりこの碑は建てられたものである。
       昭和五十七年三月三日              佐倉市 」

<「日本砲兵揺籃の地」の碑>


なお、この付近は、陸軍砲兵射的学校が開設された当時は原野に近かったが、周辺に料理屋や旅館が出来、賑わいをみせ、「下志津原一丁目」と俗に呼ばれたほどであった。戦後、軍隊が解体すると、この下志津原、隣接する上志津原は、かつての原野に陸軍の演習施設のみある状態から本格的に開拓されるようになる。

3.下志津空襲の痕跡

下志津の古刹、大雄山報徳寺は1945年(昭和20年)2月19日の米軍B29による下志津空襲の折、本堂が焼失し、本尊はかろうじて当時の住職の奥さんが抱えだして無事であった。現在の本堂は1984年(昭和59年)に再建されたもの。
なお、この寺にはその空襲の痕跡として、焼失を免れた柿の木がある。その柿の木の中は焼けて空洞になっているが、今も実をつけるという。

<空襲で焼けた本堂を再建した現在の報徳寺本堂>


<焼失を免れた柿の木>


なお、この寺には土地の戦没者をまつる精霊碑があるが、記載されているのは十二名で、前原さんという海軍大尉が一名、その他十一名は陸軍の下士官(軍曹、伍長)、兵(兵長、上等兵、一等兵)である。陸軍では一等兵は一名だけ、上等兵が二名、兵長が四名、伍長一名、軍曹二名で、戦没した日などは違うであろうが、ある程度年次がいってからなくなった人が多いようである。

<報徳寺の精霊碑>


なお、周辺の民家(前原氏宅)には土蔵の白壁を焼夷弾が突き破った跡があるが、お留守だったようで撮影できていない。その家は、はからずもルボン砲兵大尉の宿舎であった家である。

4.宝樹院の石塔ほか

上座の臨済宗の古刹、宝樹院には忠魂碑の近くに石塔があり、それは西南戦争で戦没した佐倉藩出身の太田紋蔵のもの。旧佐倉藩領内の将校、下士官の戦没者は麻賀多神社の「義烈之碑」に名が刻まれているが、どういうわけか太田紋蔵の名はない。
同様に明治維新当時の戦死者をまつる墓は各地にあるが、西南の役戦没者が特別にまつられている例は少ない。太田紋蔵は太田四郎右衛門の三男で、第二連隊に所属、23歳で出征し、山本郡(熊本)山鹿での激闘で戦死した。

<西南戦争で戦没した太田紋蔵の石塔>


その他、宝樹院には1769年(明和6年)鋳造の梵鐘があったが、1942年(昭和17年)12月に供出された。その後、1976年(昭和51年)に特別寄進者95名で梵鐘が再鋳され、その記念碑が鐘楼の脇にたっている。

<梵鐘再鋳記念碑>


この宝樹院近くには、比較的古い家が多く、在郷軍人会志津村分会の昭和初年の記念写真を目にする機会もあったが、顔写真はプライバシーに関わるため掲載するのはやめておく。なお、それは在郷軍人会の旗を持ち、軍服姿の青年と家族あるいは同様に在郷軍人であった中高年者の集合写真である。

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今回、宝樹院のかたには太田紋蔵の石塔の在り処を親切に教えていただいた。また、「日本砲兵揺籃の地」の碑の場所が分からず、近隣農家の方に教えを乞い、それでも少し迷ったが最終的にはたどり着いた。皆様のご厚意に感謝申し上げる。
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佐倉市の戦争遺跡1(佐倉連隊)

2006-09-05 | 佐倉市の戦争遺跡

1.佐倉城址におかれた佐倉連隊

城址に、軍隊が駐屯する例は多い。例えば、白鷺城といわれた姫路城には、陸軍第十師団が駐屯した。千葉県でも、市川の国府台城址には高射砲部隊が駐屯したが、佐倉城址の場合は、軍の草創期から軍隊の駐屯が行われた。 すなわち、1874年(明治7年)には陸軍歩兵第二連隊が当佐倉城址に駐屯、1877年(明治10年)の西南の役に出動、1894年(明治27年)~1895年(明治28年)、および1904年(明治37年)~1905年(明治38年)の日清日露の両戦役にも参戦した。日露戦争では、旅順、二百三高地の戦闘にも加わり、多くの戦死者、戦傷者を出した。1909年(明治42年)に陸軍歩兵第二連隊は水戸に移転、二七旅団に属し、第一四師団隷下となった。この陸軍歩兵第二連隊の佐倉駐屯以降、十ニもの連隊が佐倉で編成され、これらを総称して「佐倉連隊」と呼んでいる。

<佐倉城址にたつ佐倉連隊の碑>  佐倉城址にて撮影

陸軍歩兵第二連隊移転後に、陸軍歩兵第五七連隊が佐倉の兵営に移った。この部隊は1905年(明治38年)に青森で創設されたが、決まった衛戍地はなく、青森、山形、仙台に分屯、日露戦争末期に出征し、北朝鮮の守備についた。その後、1907年(明治40年)に第一師団隷下となり、内地帰還(習志野)、衛戍地は佐倉、徴兵区域は千葉県一円とされた。その翌年にかけて、東北出身者の除隊、千葉県出身者の徴兵が進められ、名実ともに、第五七連隊は郷土部隊となったわけである。そして、1909年(明治42年)、陸軍歩兵第五七連隊は習志野の仮営から佐倉の兵営に移り、朝鮮守備、第一次大戦の青島包囲攻撃にも加わった。1923年(大正12年)関東大震災に出動、1936年(昭和11年)に狂信的な陸軍将校らの指揮で、東京の一部が占拠された二・二六事件に際しては、鎮圧出動している。

同年5月22日 陸軍歩兵第五七連隊は旧満州移駐を命ぜられ、佐倉を出発、宇品港を出港して、大連港に着き、さらに5月30日駐屯地であるチチハルに到着した。1937年(昭和12年)7月、日本軍の謀略による蘆溝橋事件に端を発した日中戦争が勃発すると、第三大隊は張家口の戦闘に加わっている。その後、陸軍歩兵第五七連隊主力は、11月5日旧北満州の孫呉に移駐、1939年(昭和14年)7月~9月、日本軍のモンゴル・ハルハ河地区への侵入に端を発する、ノモンハン事件に参戦。その後も、連隊は孫呉駐屯を続ける。

一方、1937年(昭和12年)第一0一師団に動員命令が下ったとき、佐倉の歩兵第五七連隊留守部隊が母隊になり歩兵第一五七連隊が編成され、9月中国長江河口の呉淞に上陸、上海付近の戦いに参加、多くの戦死者を出した。翌1938年(昭和13年)杭州作戦、南昌作戦などに参加、それぞれの警備についた。1940年(昭和15年)2月内地帰還。その5ヶ月後、歩兵第五七連隊留守部隊から新たに第二次歩兵第一五七連隊が編成された。1943年(昭和18年)長江流域を転戦、警備の任についた後、1945年(昭和20年)上海に移駐、米軍上陸に備えたが、その陣地構築の最中に敗戦となった。

1936年(昭和11年)に中国旧満州に渡った歩兵第五七連隊は孫呉に駐屯を続けていたが、1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦以降、戦局が著しく暗転した戦争末期である1944年(昭和19年)2月、第三大隊はグアム島行きを命ぜられ、大隊長谷島大尉以下、グアム島にて米軍と交戦、激しい戦闘で大隊628名中、大部分が戦死、生還できたのはわずか63名であった。

さらに、7月24日第一師団のフィリピン、レイテ島への動員下命があり、8月20日歩兵第五七連隊(連隊長:宮内大佐)は孫呉を出発。上海を経由して、フィリピンへ向かった。11月1日にレイテ島オルモックから上陸、11月初旬リモン峠で米軍と戦闘、ここで約2,500名のうち約2,000名もの戦死者を出した。12月21日、第一師団はりモン峠を棄て、その西のカンギポット山方面へ敗走、1945年(昭和20年)1月15日、軍命令で、レイテ島からセブ島に連隊長以下198名移転、レイテ島に間宮大尉以下115名残留した。セブ島ではかろうじて回りの房飾りの部分だけになった、連隊旗が保持された。戦闘に参加した2,541名のうち、戦死2400名以上、8月15日現在の生存者114名となったいう。連隊旗は、のちに生存者によって分割保管され、内地帰還後に結合されて、現存している。その話は「人間の旗~甦った血と涙の連隊旗~」(岩川隆)に書かれている。「レイテ島で戦った将兵は、終戦を迎えたとき、戦友の血と涙にまみれた軍旗を奉焼するにしのびず、ひそかに切り刻んで分配した。……そして戦後三十有余年、苦心のすえ幻の連隊旗は復元されたのだ」(光文社の解説より)

<現在のセブ島>

<佐倉連隊の案内図~12階段地点のもの>  佐倉城址の案内板写真を拡大 2.佐倉連隊の戦争遺跡

現在、佐倉連隊の跡に残る遺構は少なく、敗戦後しばらく残っていて、映画「真空地帯」の撮影にも利用された兵舎は既になくなっている。だが、一部の建造物、石碑などは残っており、以下紹介する。まずは、営門跡から。

①営門跡

田町から歴史民俗博物館へ上る坂の途中、「臼杵磨崖仏」の出入り口付近にあった。現在は、門柱、衛兵所などの遺跡は残っていない。

<営門跡>  佐倉城址にて撮影

②兵営トイレ跡

歴史民俗博物館の西の馬出しのさらに西側の、堀に向ってのびる細い道沿いにある。コンクリートの残骸は、兵営のトイレ跡である。ここは家庭を離れ、厳しい訓練に耐えた兵士が唯一安堵できる場所であった。

 <コンクリートの兵営トイレの土台部分>  佐倉城址にて撮影

③佐倉陸軍病院跡

駐車場西側一帯に、陸軍病院があった。しかし、現在は跡形もなくなっている。初代院長は佐倉順天堂の佐藤舜海が就任。戦後は国立佐倉病院として江原台に移転。現在は聖隷佐倉市民病院。

<陸軍病院跡> 佐倉城址にて撮影

④夫婦モッコクの兵士の落書き

落書きも戦争遺跡になるのであろうか。佐倉城本丸跡に夫婦モッコクという、二本の幹のあるモッコクの木がある。昔は本丸跡とて訪れる人もなく、時々江原新田の農民が生い茂った木を切りに来たそうである。この落書きとは、貴重な県の天然記念物である夫婦モッコクの木に兵士が書いた落書きで、本丸からみて裏側の幹中央に「佐野」と大書され、もう一つの幹裏側にも「十八年十月 砲隊」と書かれたもの。「佐野」とは兵士の名前か、佐倉・野戦砲隊の略か不明。他にも「本丸」という字も見える。本来はけしからん行為であるが、寂しい本丸跡で、兵士は何を思って落書きしたのであろうか。十八年とは昭和十八年であろうが、当時佐倉連隊の本隊ともいうべき五七連隊は中国は旧北満州の孫呉に駐留しており、佐倉にいたのは留守部隊、野砲兵隊などである。おそらく野砲兵の誰かが書いたと思われるが、書いた本人はその後どうなったのであろうか。

<夫婦モッコクに刻まれた兵士の落書き~左に「佐野」、右に「砲隊」とある>     佐倉城址 本丸跡にて撮影 

<「十八年十月 砲隊」の文字>  佐倉城址 本丸跡にて撮影

⑤「車道」の碑

三逕亭の東の大きなシラカシの木の根元近くに、「車道」(くるまみち)の碑がある。1920年(大正9年)8月に石碑前の道ができた記念に建てられた。碑の表に「車道」の字と建設に関わった軍人2名の名(大城戸仁輔、峠又三)が刻されている。その側面にはびっしりと寄付者、御用商人や地元有力者の名前が刻まれている。

<「車道」記念碑>  佐倉城址にて撮影

 ⑥佐倉連隊の碑

現在、この碑がある場所には、かつて練兵場があった。その市民自由広場から植物園、佐倉中学にかけてあった広大な練兵場跡の西南隅に連隊の記念碑がある。「佐倉兵営跡」と書かれ、碑の裏側には歴代連隊長の名が刻まれている。碑の後壁の塀に「ジェラール瓦」という洋式瓦が嵌めこまれている。元々石碑は1966年(昭和41年)に酒保跡に建てられたが、歴博建設に伴って現在地に移された。

<「佐倉兵営跡」の碑> 佐倉城址にて撮影

⑦弾薬庫の跡

姥が池の南側、「車道」の碑のある高所へ行く途中、平場があるが、そこに土塁で囲まれた一角がある。そこに弾薬庫があった。土塁は、城址遺構であるが、それを利用して建てられたものであろう。現在は、建物は取り壊され、土台のコンクリートの残骸が転がっている。ここでは、初年兵の歩哨が昼夜問わずに警備をおこなった。ちなみに、よく心霊関係の興味本位の番組やビデオなどで、近くの十二階段が取り上げられるが、そちらには何の怪談話はなく、実はこの弾薬庫にこそ、軍隊でつきものの怪談話が存在する。筆者は信じる者ではないが、確かにあまり気持ちの良い場所ではない。

<弾薬庫の建物の残骸>  佐倉城址 姥が池南側の斜面途中にて撮影

⑧訓練用の十二階段

日清、日露両戦役の教訓で、高いところから飛び降りる訓練が全国的になされた。これはそのため訓練用の設備である。旧陸軍の正規の体操・運動用具の一つで「跳下台」と呼ばれた。大抵木製であったが、佐倉連隊の場合はコンクリート製で重く、搬出困難であったため、戦後も残されたようだ。くだらない心霊番組などで、再三処刑台であるかのごとく取り上げられてきたが、真相は全く違う。案内板にも兵士たちが順番に、飛び降り訓練をしている写真が付されている。

 <十二階段>  佐倉城址 姥が池脇にて撮影

⑨軍犬・軍馬の墓

歴博の駐車場南奥の窪地にある。小さい軍犬の墓は1932年(昭和7年)安藤一能軍曹が建てた「軍犬房号之墓」である。その後ろの軍馬の方は1943年(昭和18年)斃死した「軍馬北盤之墓」で、近衛連隊あたりの高級将校の馬であったと思われる。

<軍犬・軍馬の墓> 佐倉城址 国立歴史民族博物館前の駐車場奥にて撮影

⑩脂油庫

弾薬庫の少し東側にある。鉄の扉で、通風孔はあっても、窓のないコンクリート製の建物で、銃の手入れ用の油を保管していた。

<脂油庫>  佐倉城址 姥が池南側の斜面途中にて撮影

⑪兵舎土台に転用された佐倉城礎石

陸軍病院跡の南側にある。かつて兵舎が建てられる際、明治初年まであった佐倉城の建物が壊され、残った礎石が土台に転用されたもの。一辺50cmから1mほどの石がごろごろしている。

<佐倉城礎石>  佐倉城址にて撮影

(追記)

ちょっと失念していましたが、国立歴史民族博物館の学芸員の方の指示に従い、写真に撮影場所の注釈を入れました。なお、本取材にあたっては国立歴史民族博物館の学芸員他の方々に、色々便宜をはかっていただきました。ありがとうございました。

番外.歩兵第五七連隊比島戦没者慰霊塔

こちらは、佐倉市内ではなく松戸市小金であるが、佐倉の歩兵第五七連隊のレイテなどフィリピンで戦没した将兵の慰霊塔がある。知りえた事実で関連するので、記載しておく。

それは、かつて小金宿のあった水戸街道沿いの市街地で、JR北小金駅の南側の東漸寺の道をはさんだ向かい位にある妙典寺の境内にある。

妙典寺は山号を正覺山といい、日蓮宗の寺院で、中山法華経寺の末寺である。周囲はそれなりに交通量の多い道路や市街地であるが、寺に入ると静かな感じである。ただし、あまり大きな寺ではない。この寺で有名なのは、松朧庵探翠が1825年に建てたという芭蕉の句碑で、「しはらくは 花のうへなる 月夜かな」という句が刻まれている。その句碑の横に、墓石のようなものがあり、それが歩兵第五七連隊比島戦没者慰霊塔である。

なぜ、佐倉と離れた当地にあるかといえば、それはこの寺の住職自身が歩兵第五七連隊だったため、激戦のレイテ島などで戦死、戦病死した戦友の死を悼んで、その遺族などの協力を得て建立したそうである。遺族が寺に戦没者の慰霊碑を建てるのはごく一般的であるが、住職当人が部隊出身者で、遺族と一緒に寺に慰霊碑を建てたというのは珍しいケースだろう。

<妙典寺の慰霊塔>

慰霊塔の脇に碑文をしるした黒い石碑があり、「大東亜戦争」などと必ずしも適切な用語ではないが、「この塔は大東亜戦争の天王山と言われたレイテ決戦に参加して戦死された佐倉、歩兵第五十七聯隊勇士の英霊を慰めるため、生存戦友、遺族等有志により建立されたものである。云々」とある。思えば、レイテ島での悲惨な戦いは、佐倉連隊所属の将兵の多くを死に追いやり、戦闘に参加した2,541名のうち、戦死2400名以上という類をみないものとなった。あらためて、日本軍国主義の侵略戦争の犠牲となった、わが軍の将兵、敵軍将兵ならびにアジア民衆の冥福を祈りたい。

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