千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
(無断転載を禁じます)

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

京成津田沼駅近くの「御大典記念道」碑

2009-04-05 | 習志野市の戦争遺跡
小生は、天皇制を否定するものである。象徴天皇制も認めたくないが、憲法でそのように定められてしまっている。

だから、日本のあちこちにある、天皇の行幸記念碑などには、興味がなかった。
しかしながら、習志野原には明治天皇が明治新政府ができた当初に来ているし、昭和天皇も近衛兵の演習視察などのために、習志野原に視察に来ている。大正天皇については、習志野原を視察したかどうかは知らないが、手元にある資料では、赤羽の陸軍工兵隊練兵場へ行幸し、近衛歩兵第一旅団連合演習および工兵第一大隊坑道演習などを視察しているから、方々視察に行っていたものと思われる。

天皇は、陸海軍を統帥する大元帥であり、軍の演習を視察することは、その本来業務である。

そうした歴史を知ることは、戦争遺跡を研究する者にとっては、必要なことである。

<習志野原の演習を視察する昭和天皇>


これは、直接的な意味では戦争遺跡とはいえないかもしれないが、京成津田沼駅の踏切の近くに「御大典記念道」という石碑がたっている。

その「御大典」とは、1928年(昭和3年)11月10日、京都御所で挙行された昭和天皇の即位式を意味している。そしてこの記念碑は、昭和天皇の即位式を記念して道をつくったことをしるした石碑である。石碑自体は、1929年(昭和4年)2月に建立されている。小生とほとんど同年輩の記念碑である。

大正天皇は昭憲皇太后の実子ではなく、明治天皇が女官に産ませた子供である。なぜか明治天皇の子で男子で成人するまで成長したのは、大正天皇だけであった。その大正天皇も脳の病気を患ったりして子供の頃から病弱、かつ性格的にも思ったことをすぐに話すといった欠点をもっていた。それで、既に大正天皇在世のときから、病弱な大正天皇に代わって、摂政として実質的な天皇の役割を昭和天皇は果たしていた。だから、1928年(昭和3年)に即位したとはいえ、実質的な昭和天皇の統治は始っていたといえる。




その「御大典記念道」というのは、京成津田沼駅の踏切際から京成線軌道に沿って谷津に向かう道路であり、現在もその道はあるが、車より歩行者の通行が多い生活道である。
今では、何の変哲もない、その道の造成のために、工事費4,682円が使われた。

京成津田沼駅の踏切際にある石碑の側面に、その経緯が書かれている。しかし、所々の字が不鮮明で読みにくい。

小生が読んだ文字は以下の通り。若干、怪しいのが含まれているので、金石文を記録した資料があれば、そちらを参照していただきたい。

「昭和三年十一月十日御即位大礼行■津田沼町民■■■
 工費四千六百八十二円■担於町其半寄附於久久田■■
 其十分三昭和三年十月■七日起工同年十一月廿六日■
 百八十六間砂利■久久田(充)(足)寄附於是互両区交■■」

■は判読できなかった文字。( )内はあやしいもの。

「御大典記念道」をつくるのに、工費が4,682円かかり、半分を津田沼町が負担し、残りを久久田地区(菊田神社のある現在の菊田地区)の有志が負担した。また1928年(昭和3年)10月に起工して、翌月26日には完工したようである。

実は、京成津田沼駅の踏切際の石碑は、小生も昔から存在を知っていたが、もう一つ同じような石碑があるのを最近知った。それは、京成電車で船橋から津田沼に向かっていた車中から見て、同じような石碑のようなものをあるなと気付いたのである。

それは、京成谷津駅と京成津田沼駅の間、といってもだいぶ津田沼寄りの道路脇にある。



つい最近、京成津田沼駅の近くに来たついでに、その電車の中から見た石碑らしきものを見に行った。最初の石碑から歩くこと7分くらい、マロニエ橋の高架下道路脇の目立たない場所にその碑はあった。しかし、驚いたことにまるでアバタだらけになったように、石碑の表面がでこぼこして、かろじて「大典記念道」という文字が読める程度となっている。なぜ、これほどまでに、醜く変形してしまったのか。置いてある環境に問題があるのか。申し訳程度に、脇に解説の案内板が取り付けてあった。

町辻にたつ地蔵や庚申塔など、江戸時代後期の石造物のほうが、まだよく保存されている。

<現在の「御大典記念道」>

コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

習志野市の戦争遺跡3(津田沼駅周辺の戦争遺跡)

2008-04-02 | 習志野市の戦争遺跡
1.津田沼鉄道連隊

鉄道第二連隊は、津田沼鉄道連隊といわれるほど、津田沼と縁が深い。しかし、現在の千葉工大が、かつて陸軍鉄道連隊のおかれた場所であったことを知る人は、今では少なくなっているかもしれない。

1907年(明治40年)に従来の鉄道大隊が鉄道連隊に昇格、津田沼に兵営を一旦移した後、1908年(明治41年)に千葉に鉄道連隊司令部、第一大隊、第二大隊が移転、津田沼には鉄道第三大隊が置かれた。1918年(大正7年)に津田沼の鉄道第三大隊が、陸軍鉄道第ニ連隊に発展的に改組された。

<鉄道第二連隊の臨時検閲>


鉄道第二連隊が出来た当初の臨時検閲。近衛師団長久邇宮邦彦王が立会い(中列右から3人目、頭上に印のある人物)。

その鉄道第二連隊が出来た当初について、新聞は以下のように書いている。

「大正7年8月4日(日)東京日日(房総版)

連隊と津田沼 町民は軍隊に冷淡

千葉鉄道連隊が8月1日から拡張されて津田沼に1個連隊を置き、千葉を第一連隊、 津田沼を第二連隊とし、旅団に編成された処で、津田沼町は急に連隊附将校の居を構うる者が激増した。一体、同町附近には騎兵も4個連隊居るので、何分狭い街の事とて貸家が無く、該将校等は船橋や市川或は態々東京方面から通って来る始末で、同地には空地も多く、且つ相当財産を有する者も尠くないに拘らず、町民は一向平気で、軍隊など見向きもせぬと云った調子だが、恁麼事では同町将来の発展上遺憾である。殊に大工其他の職工が多数入り込んで居るにも拘らず、之に供給すべき物資に乏しき為め、職工連は非常な不便を感じて居れりと。」

しかし、津田沼の町の発展には、鉄道第二連隊の存在が大きかった。

1928年(昭和3年)に松井天山が描いた「津田沼町鳥瞰図」(成田山仏教図書館蔵)には、鉄道第二連隊の配置が細かく描かれている。それは国鉄津田沼駅の南北にあり、北は材料廠の倉庫群、南には連隊本部と兵舎や作業場、火薬庫が描かれている。

なお、「津田沼町鳥瞰図」にある商店街は津田沼駅の北側、その殆どが今の船橋市域にあり、これらが鉄道第二連隊に大きく依拠していたことは想像に難くない。果物の堀越商店や戦後料理屋をしていた「かし熊」、洋食の松栄軒、酒屋であった渡辺商店など、戦後も地元の人間になじみのあった店の名前が書かれている。おそらく連隊の兵隊たちも、外出時にはこういう店で買い物をしたり、外食することを楽しみにしていただろう。

現在の新津田沼駅とイトーヨーカドー、ジャスコのある場所には材料廠の倉庫が並び、連隊の主要な建物は千葉工大の敷地になっているのがよく分かる。なお、千葉工大の前の正門(現在は通用門)は、鉄道第二連隊の隊門であり、現存している。隊門と総武線の線路を挟んだ商業地域との間には、踏み切りがあり、現在ある歩道橋はもちろん存在しない。鉄道第二連隊の兵舎は戦後かなり長い期間残っていたが、千葉工大の新校舎建設に伴ってなくなった。

その他、総武線の上を通る跨線橋の土台は、かつての鉄道連隊演習線当時のものが残っているという。

<津田沼町鳥瞰図の一部>


現在のJR津田沼駅附近。赤字は筆者が追記したもの。

戦後、その津田沼の地にできた千葉工大は、東邦大学などと同様にその兵舎を校舎などとして利用したのである。

前述したように、かつては、その兵舎を利用した校舎もあったのだが、10年以上前に立て替えられ、現在は見ることができない。今なお残るのは、レンガ造りの隊門のみである。その隊門は、1998年(平成10年)に国の登録有形文化財の指定をうけた。

この鉄道第二連隊の歴史を振り返ると、

1918年(大正7年) 鉄道連隊第三大隊が改組、鉄道第二連隊となる。

1923年(大正12年)関東大震災で関東戒厳令司令官の指揮下にて、鉄道復旧作業に出動。

1928年(昭和3年)、中華民国山東省済南で出兵した日本軍と蒋介石軍が武力衝突した済南事件に派兵。

1937年(昭和12年)華北で鉄道の運営、徐州作戦に参加。なお、この頃から京漢線、津浦線、石太線、朧海線の占領、開拓、運営にあたった。

1940年(昭和15年)、旧満州・華北を転戦した後、主力は1945年(昭和20年)4月、九州に移転、終戦を迎える。

なお、1940年(昭和15年)の平時編成表で第一連隊が連隊長(大佐)のもと、連隊本部、三個大隊、三個中隊、材料廠で編成されていたのに対し、津田沼の第二連隊では、他に練習部、幹部候補生隊、下士官候補生隊が付設されており、留守部隊には練成部隊としての位置づけもあったようである。

かつての鉄道連隊の材料廠の主力は千葉の鉄道第一連隊となったが、津田沼の第二連隊でも材料廠の倉庫は現在の新津田沼駅周辺、イトーヨカドーやジャスコのある広い場所に建っていた。

2.鉄道第ニ連隊の演習線廃線跡

前述のように鉄道第三大隊を津田沼に移転させた軍は、占領地への軍用物資補給を円滑にするための手段として、演習線を作り、それで要員訓練することを考えた。演習線は、津田沼〜松戸、津田沼〜三山新田〜犢橋〜千葉のニ区間とし、総延長45Kmで、敷設、撤去、修理の訓練も行われた。それは、千葉に鉄道第一連隊、津田沼に鉄道第二連隊と連隊が地区ごとに独立してからも同様であった。そして、ここで教育を受けた兵たちは、樺太の鉄道敷設、日中戦争などへの出動に駆り出されたのである。

津田沼〜松戸の演習線は、戦後京成が払下げをうけて、新京成電鉄とした営業運転をするようになったが、津田沼〜千葉の演習線については廃線となった。

その一部の演習線の廃線跡は、現在ハミングロードとして市民の遊歩道ともなっている。これは京成大久保駅近くのスーパーマルエツ前の歩道が該当する。今では、地域の人の生活道路となっているが、れっきとした軍用の演習線である。これは、津田沼から総武線を離れて大久保方面へ大きく湾曲しながら続き、京成大久保駅の前を通って、八千代方面へつながっている。

遺構としては、多くはないが、境界標石が残っており、鷺沼台の畑のなかやスーパー店舗前にいくつか現存する。いずれも白御影石製の「陸軍用地」と刻まれたものである。

<京成大久保駅近くの鉄道連隊演習線跡>


<ハミングロード脇の畑の中にあった陸軍境界標石>


<陸軍境界標石に近づいてみたところ>


<駅前のスーパー店頭にも境界標石が残る>


3.新京成新津田沼駅および周辺に残る遺構

現在の新京成線は、鉄道連隊の軍用線のうち、津田沼〜松戸間の路線を戦後京成電鉄が獲得し、演習用にその余りに湾曲していた部分はショートカットするなどして営業運転させたものである。現在のイトーヨーカドーに隣接した新京成電鉄新津田沼駅付近は、かつて鉄道連隊の倉庫や資材置場があった。また戦後の一時期、千葉工業高校があった場所でもある。

現在の新京成線新津田沼駅といっても、三代目くらいの駅で、今はない藤崎台駅が新津田沼駅という名前だったこともあり、また西友裏の、かつて八坂神社があった場所の近くに、新津田沼駅があったこともある。

今の新津田沼駅の前の新津田沼駅があった、現在の西友の東の線路脇の駐車場のなかや、その近くの線路沿いにも、陸軍境界標石がある。

新津田沼駅と京成津田沼駅の間にある総武線を越える、新京成電鉄の鉄橋(跨線橋)は、前出の松井天山の「津田沼町鳥瞰図」にも描かれているが、その基礎部分には鉄道連隊時代の煉瓦の基礎が使われている。ただし、外からは確認できなくなっているので分かりにくい。

<鉄道連隊時代の基礎が残った跨線橋>


なお、現在新津田沼駅の南側、総武線の線路沿いに上述の八坂神社がある。これは元は船橋市域にあったため、純粋な習志野市の戦争遺跡とはいえないが、その境内に「皇紀二千六百年紀念」と書かれた国旗掲揚台がある。

<八坂神社の国旗掲揚台>


現在は、津田沼の商店街と遠くなってしまったが、八坂神社はかつては商店街のなかにあって、お参りする人も多かった。おそらく鉄道連隊の兵士たちも外出時には船橋市域に広がった津田沼商店街で洋食を食べ、買い物を楽しんだであろうが、商店街近くの八坂神社にもお参りした兵士も多かったであろう。

(付記:以前の習志野一中にあった防空壕について)

現在の千葉工大の西、前のサンペデック、現・モリシア津田沼がある場所には、習志野第一中学校がありました。昭和30年代終り頃には、その校庭の一角に防空壕があったのですが、現在は習志野一中自体、別の場所に移転し、防空壕も残っていません。小生の知人によれば、それは土を掘っただけの簡単なもので、「危険なので防空壕に入るな」という立て札が傍にあったそうです。

場所からみて、鉄道第二連隊関連のものと思われますが、それ以上の情報がないのです。当時の習志野第一中学校関係者の方、どなたかご存知の方、コメント等でご連絡をお願いします。 

参考文献:『千葉県の戦争遺跡をあるく』 千葉県歴史教育者協議会 (2004)

       『千葉県の歴史』 山川出版社 (2000)

      『歴史読本 日本陸軍機械化部隊総覧』 新人物往来社 (1991)ほか



コメント (6)   トラックバック (2)
この記事をはてなブックマークに追加

習志野市の戦争遺跡2(習志野騎兵と大震災時の虐殺)

2006-11-14 | 習志野市の戦争遺跡
1.日露戦争で有名になった習志野騎兵旅団

前に「習志野市の戦争遺跡」で述べたように、1873年(明治6年)の明治天皇行幸に際して、近衛兵による演習が行われ、それによって演習が行われた大和田原が「習志野原」と名づけられて以来、周辺に軍関係の施設なども拡張配備されてきた一環であるが、1899年(明治32年)日本陸軍初の快速兵団として騎兵連隊が習志野原に創設された。1901年(明治34年)には、現在の習志野市域である大久保に転営、東邦大学、日大生産工学部付近に第十三、十四連隊からなる第一旅団、東邦中学校・東邦高校付近に第十五、十六連隊からなる第二旅団がおかれた。第一旅団は第一旅団司令部と騎兵第十三連隊及び騎兵第十四連隊によって編成されており、平時は近衛師団に属した。日露戦争の折には、当時最強といわれたロシア帝国のコッサク騎兵部隊に対し、秋山好古騎兵第一旅団長が率いる騎兵部隊は、騎兵に砲隊も組み込むという独自の編成と騎兵を時には歩兵として使う、工兵などとも連携するという戦術を駆使して戦った。その戦い振りは、習志野の地名を全国に広めるきっかけとなった。

<秋山好古旅団長:前列中央(写真:アイザワスタジオ)>


<騎兵第一旅団司令部址の記念碑(右にあるのは「軍馬之碑」)>


秋山好古は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」に登場し有名になったが、日露戦争において騎兵第一旅団長として出征した。秋山率いる第一旅団は、金州、南山、大連と転戦、得利寺の戦闘ではロシア騎兵とはじめて戦って、これを破り、遼陽会戦でミシチェンコの大騎兵軍団と交戦し、健闘している。閑院宮が旅団長であった第二旅団は、遼陽会戦後に参戦し、沙河会戦で活躍した。1905年(明治38年)3月の奉天会戦では両旅団が秋山支隊となって、ロシア軍のコサック騎兵部隊と戦った。戦争末期の黒溝台の戦いでは、最左翼の秋山支隊はロシア軍の攻撃をうけ、一時騎兵を馬から降ろして歩兵編成とし、塹壕に入ってかろうじて陣地を維持する激戦ぶりであった。また秋山支隊からロシア軍の後方攪乱のために派遣された長沼挺身隊は、小説『敵中横断三百里』のモデルとなった。元教員という珍しい経歴や酒豪でも知られる秋山自身の個性や、実弟である海軍参謀秋山真之の日本海海戦での活躍とあわせて、国民の間に日露戦争の勝利のエピソードとして強く印象づけられた。

このように、騎兵第一、第二旅団は日露戦争に出征し、さらに日中戦争時には第一旅団が派遣された。しかし、軍隊の機械化により、騎兵連隊はその役割を終え、機械化部隊に再編成されていく。

<騎兵第十四連隊の隊門>


<「満州事変」に出動した騎兵第十三連隊(写真:アイザワスタジオ)>



2.騎兵第十三、十四連隊の記念碑と遺跡

正確には殆どが船橋市の範囲にあるため、習志野市の戦争遺跡に入れているのもおかしいかもしれないが、騎兵旅団司令部址は習志野市側にあるので、ご容赦ねがいたい。騎兵十三連隊は今の東邦大学、十四連隊のほうは日大生産工学部の敷地内にあった。
守衛さんに断って、日大構内を行くと、南西隅の方に各種記念碑が建っている。

<「騎兵第十四聯隊跡」の碑>


上記の左側の小さな折れた碑は、騎兵十四連隊のオリジナルともいうべき隊碑で、右が復元されたもの。
「明治34年11月創立、昭和7年6月満洲移駐、昭和8年5月建立」とあり、是永浩留守部隊長が建立した石碑である。
昭和7年(1932)満州移駐とは、満州事変への出動ということであり、以来旧満州を中心として、1933年(昭和8年)1月には海拉爾に移り、各種作戦や討伐に参加、そのなかで騎兵という時代にミスマッチな形から機械化が志向され、1940年(昭和15年)1月には自動車化部隊に改変され、1942年(昭和17年)6月のオルドス作戦に参加後、10月騎兵十三連隊とともに解隊、機動歩兵第三連隊として編成される。以降、中国での作戦や警備に明け暮れて、浙川地区警備にあたっている折に終戦を迎える。

他に戦後建てられた「騎兵第十四聯隊発祥之地」の石碑などがある。この石碑の傍らには戦友会が献納した馬の模型が添えられている。

<馬の模型が添えられた石碑>


1933年(昭和8年)満州に移駐した騎兵十四連隊のあとに、戦車第二連隊が入ってきて、これも日中戦争の泥沼に落ちてゆく1937年(昭和12年)7月に動員下命、中国北部で保定会戦、徐州会戦等に参加、さらに翌1938年(昭和13年)7月には戦車第八連隊に改編され、中原会戦、旧満州、中国北部警備等の後、1942年(昭和17年)秋にラバウルへ移動となっている。
留守隊も習志野で再編成され、蘭印作戦に参加、各地を転戦し、そのなかで独立戦車第七、第八中隊は19年夏フィリッピンに派遣され、レイテ島、マニラ飛行場周辺で全員戦死の憂き目にあっている。

<「戦車第ニ聯隊跡」の碑


この騎兵第十四連隊関連の石碑群のある西側、東邦大学薬学部敷地内には、騎兵第十三連隊の石碑など遺跡がある。東邦大学の方も、守衛さんに断って、構内へ。

まず、体育館裏に古い木造の柔道場があるが、これが東邦大学に唯一残る軍関連の建物である。かつては、東邦大学だけでなく、隣の日大にも兵舎を利用した校舎や寮などもあったのだが、随分前に立て替えられ、現在はこれくらいになった。今なお残るのは、この東邦大学の柔道場と習志野学校跡地に残る兵舎を利用した民家のみであろう。

<東邦大学に唯一軍関係の建物として残る柔道場>


そして、日大生産工学部の石碑群のちょうど対面に、第十三連隊の石碑群がある。
A級戦犯として処刑された陸軍大将南次郎揮毫の文字「武勇・信義・質素・忠節・禮儀」を角錐型の塔に書いたものがあるが、南次郎という名前で少しく拒否反応を感じるため、これ以上紹介しない。
また、「騎兵第13聯隊発祥之地」という船橋市の大橋元市長揮毫の石碑(1994年建立)があるが、最近建立されたにも関わらず復古的な文章で以下のようにある。

「日露の戦雲漸く急を告ぐる秋 日清戦争の経験に基づき宇内の趨勢に鑑み騎兵大部隊の必要性を痛感せる我が陸軍は明治32年騎兵第1、第2旅団の編成に着手、我が騎兵第13聯隊は騎兵第14聯隊と共に騎兵第1旅団の兄弟聯隊として此の地習志野原の南隅千葉県津田沼町大久保(現船橋市三山)に創設され明治34年12月19日軍旗を拝受す
明治37年2月日露の開戦に及び聯隊は我が国騎兵の父と仰がれし秋山好古旅団長指揮の許勇躍出征 5月遼東半島塩大澳に上陸第2軍に属して曲家店、沈旦堡等の戦闘に於いて世界に名だたるコザック騎兵と交戦赫々たる偉功を奏し早くもその名声を中外に宣揚す
(以下略)」

騎兵第十三連隊も、前述の第十四連隊同様、その後満州事変への出動、中国北部での各種作戦、討伐へ参加し、のち自動車化編成となり、昭和17年(1942)10月解隊、機動歩兵第三連隊として編成されている。

面白いのは、坂の上の雲の司馬遼太郎の石碑があるのと、石碑にある場所に近いお稲荷さんに大正時代に除隊記念の手水鉢や玉垣が兵たちによって奉納されており、今も名前が刻まれているのが判読可能で残っていること。

<司馬遼太郎の石碑>


司馬遼太郎の石碑は、本人の自筆で、ちょっと読みにくいが、「かつて存在せしものに、時代の価値観をこえて保存し、記念すべきものである。それが、文明というものである」と書かれている。

<稲荷の玉垣に除隊記念の文字が刻まれている>


稲荷には、小さな社殿に手水鉢、玉垣があり、石で出来た手水鉢や玉垣、狐の台座にまで満期除隊になった兵らの名前が刻まれている。玉垣に刻まれた兵の階級も、「一等卒」などとなっているのが、時代を感じさせる。また兵だけでなく、軍曹、伍長といった下士官の名前もあった。

3.関東大震災での朝鮮人・日本人虐殺への騎兵隊の関与

日露戦争における秋山支隊の活躍など、勇名を馳せた習志野騎兵であるが、1923年(大正12年)9月の関東大震災において、朝鮮人および日本人虐殺に関与していることが、軍隊、警察内部、民間人目撃者の証言、日記などから明らかになっている。
また、9月3日午前8時15分には、内務省警保局長が船橋海軍無線電信所から全国に無線で「朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし…」と無線打電しており、流言蜚語を取り締まる側の官憲が騒動を煽ったことが分かる。
地震の起きた9月1日の翌2日には千葉県南行徳村下江戸川橋際で騎兵第十五連隊の2名の兵士が朝鮮人1名を射殺したのをはじめ、東京の四つ木橋周辺でも騎兵連隊の兵による朝鮮人虐殺があり、さらに9月10日頃には高津廠舎に拘束した朝鮮人たちを自警団に引渡し、虐殺させている。千葉県内では、現浦安市、市川市、船橋市、習志野市、八千代市などを含め、約200名(350名余という説もある)が虐殺されたが、そのなかには朝鮮人に間違われた日本人(大阪出身者など)が多数混じっている。

当時の状況に関しては、区長をしていた人物の日記で、「夜になり、東京大火不逞鮮人の暴動警戒を要する趣、役場より通知有り。」(『いわれなく殺された人びと』(千葉県における追悼・調査実行委員会編) 6頁)とあり、役場からの伝達も自警団を結成し、「不逞鮮人」を取り締まるという一連の動きのきっかけになっている。船橋での自警団による虐殺については、船橋海軍無線電信所長の大森良三大尉が流言におびやかされて「SOS援兵たのむ船橋」の電文を連送したことが一つの要因になっているが、狂気にかられた自警団が北総鉄道の工事をしていた朝鮮人を襲撃したというのが真相である。

<船橋海軍無線送信所跡>


しかし、現八千代市の高津辺りで起きた虐殺では、むしろ軍・警察当局が自分達の手を汚さずに不穏分子を始末しようとしたのが明確である。それは、一旦朝鮮人たちを習志野の旧捕虜収容所に保護するような形で収容しながら、その中で反抗的なもの、反帝国主義的で「思想的に」問題のありそうなものを、近隣の自警団に払い下げ、殺害させたことによくあらわれている。一方、高津、萱田、大和田などの、朝鮮人を払い下げられた側は、好んで朝鮮人たちを殺害したのではなく、猟銃などを使える人に頼んで射殺したのだという。
対照的に、船橋市街地で朝鮮人虐殺のなかから子供2人を助け出し、保護して船橋警察署に連れて行った消防団員の話や、同じ船橋の丸山地区で朝鮮人たちと日常交流のあった集落の人々が、朝鮮人を差し出すよう迫る近隣の自警団から文字通り身体をはって彼らを守った話もある。丸山地区の住民の行動には、地区の指導者が社会運動家で差別的な考えがなく、他の住民にも同じ考え方が浸透していた、元々貧しい地区で、日本人、朝鮮人の区別なく、助け合いながら生活していたのが、その背景にある。

一方、東京では江東辺りで続発した自警団主体の朝鮮人虐殺のほか、南葛飾、今の亀戸周辺では200名ほどの中国人を虐殺した大島事件、在日中国人指導者の王希天殺害事件といった軍の直接関与によるものなど、各種の虐殺事案がおきており、そのなかでアナキスト系活動家である平澤計七、南葛労働会の幹部で共産青年同盟委員長の川合義虎など10名の日本人労働者、およびそれに先立って自警団員4名が亀戸警察署で虐殺されるという亀戸事件がおきた。このうち平澤、河合ら10名の労働者については、亀戸警察署に拘束された彼らを騎兵第十三連隊の兵が殺害したものである。

このように、大地震のあとの社会不安、異常心理が「不逞鮮人が井戸に毒をまいた」などといった流言蜚語となり、またそれを軍、警察当局が利用して、社会主義者や在日中国人指導者などの抹殺にいたった。アナキスト大杉栄と妻の伊藤野枝、そして6歳の甥の橘宗一を虐殺した甘粕正彦大尉は、軍法会議にかけられたが、結局たしいた罪にならず、昭和天皇の即位に伴う恩赦で釈放されている。甘粕は、のちに数々の謀略を実行し、満州事変の立役者になったのは、現代史の暗黒を象徴している。

<高津観音寺にある朝鮮人犠牲者慰霊の鐘楼と慰霊碑>


なお、高津の慰霊碑(写真右の白い菊が供えられている黒い石碑)の下には、付近で虐殺された犠牲者(虐殺された六名のうち朝鮮人が六名か朝鮮人五名に大阪出身の日本人一名かは不明)が眠っている。慰霊碑には明確に「関東大震災朝鮮人犠牲者」と刻まれているが、ことの経緯や犠牲者の名前は書かれていない。本当は、高津の誰が殺したのか、その時の様子はどうだったのかは、最近まで分かっていたはずであるが、皆口に戸を立てて語らず、銘文だけの慰霊碑とあいなった。しかし、このようにきちんと埋葬されているのは、まだ良い。無縁仏にされていたり、墓標もなく埋められ、その土地がただ嫌悪物件として建物などが一切建たない、習志野自衛隊近くの某所など、抹殺された多くの人々は死後も差別され続けている。

<高津観音寺の虐殺者慰霊碑>


(参考文献)
『習志野市史』 習志野市教育委員会  (1995)
『いわれなく殺された人びと』 千葉県における関東大震災犠牲者追悼・調査実行委員会 青木書店 (1983)
『関東大震災人権救済申立事件調査報告書』  日弁連 (2003)
 http://www.azusawa.jp/shiryou/kantou-200309.html
 
(参考サイト)
 船橋の大震災:
 http://www001.upp.so-net.ne.jp/hack/sinsai.html

 ⇒具体的な虐殺場所や人数まで書かれているのは、上記HP位で、習志野市役所や船橋市役所など官庁のHP、また間違っても「お子様軍隊オタク」のHPには書かれていないでしょう。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

習志野市の戦争遺跡1

2006-05-02 | 習志野市の戦争遺跡
1.騎兵旅団司令部址

軍都津田沼を背景に、習志野市にも戦争遺跡が多い。そのうち、現在の船橋市内にそのほとんどが存在した陸軍駐屯地に関連するものもあるが、その一つが現在公園などになっている騎兵旅団司令部址である。
これは1873年(明治6年)の明治天皇行幸に際して、近衛兵による演習が行われ、それによって演習が行われた大和田原が「習志野原」と名づけられて以来、周辺に軍関係の施設なども拡張配備されてきた一環であるが、1899年(明治32年)日本陸軍初の快速兵団として騎兵連隊が習志野原に創設された。1901年(明治34年)には、現在の習志野市域である大久保に転営、東邦大学、日大生産工学部付近に第十三、十四連隊からなる第一旅団、東邦中学校・東邦高校付近に第十五、十六連隊からなる第二旅団がおかれた。また、八幡公園、旧習志野郵便局の場所に旅団司令部がおかれたのである。日露戦争には両旅団が、日中戦争時には第一旅団が派遣された。その日露戦争当時の第一旅団長であったのが、司馬遼太郎の「坂の上の雲」でも有名な秋山好古陸軍少将である。ロシアのコサック騎兵部隊に対してよく戦い、騎兵に砲隊も組み込むという独自の編成と騎兵を時には歩兵として使う戦術もあえて行った。しかし、軍隊の機械化により、騎兵連隊はその役割を終え、機械化部隊に再編成されていく。
「習志野市の戦争遺跡2(習志野騎兵と大震災時の虐殺)」を参照方)

なお戦後、連隊の兵舎は、学校の校舎、寮などになり、1975年前位まではかなり残っていたが、いつの間にか新校舎などに建て替えられてしまった。旅団司令部の建物も、郵便局となり、その郵便局も移転した。八幡公園にある旅団司令部の門は現存する。

<習志野騎兵旅団司令部の隊門>


<騎兵旅団司令部址の記念碑>


また、騎兵旅団司令部の隊門付近に、「騎兵第一旅団司令部跡」と書かれた石柱碑「軍馬之碑」などがある。「軍馬之碑」とは、戦場では文字通り、人馬一体となって、騎兵を背にして戦場を駆け抜けた軍馬の霊を慰めるために建てられたもので、「軍馬之碑」「馬頭観世音」「軍馬忠魂塔」と三つが並んでいる。

<「軍馬之碑」と「馬頭観世音」>


騎兵旅団司令部址に程近い誉田(こんだ)八幡神社には、硫黄島の戦いで有名な、習志野騎兵出身の栗林忠道陸軍大将が陸軍少将のときに揮毫した「紀元二千六百年記念参道敷石竣工之碑」という石碑が、その参道脇に建っている。習志野市の一神社の参道のための記念碑にしては、ビッグネームが揮毫したものである。

<栗林忠道揮毫の石碑>


奇しくも硫黄島では、栗林忠道陸軍大将とバロン西こと、西竹一陸軍中佐(戦車第二十六連隊長)という習志野騎兵学校出身の二人の有名人がいたことになるが、かなり身近なところにその足跡があったものである。バロン西については、米軍がその馬術の名人をむざむざ戦死させるのを惜しんで投降を呼びかけたが応ぜず、顔の片側を火炎放射器で焼かれながらも最後の突撃をしたとも、自決したともいわれるが、真相は分かっていない。


2.陸軍鉄道第二連隊の隊門と演習線

現在の千葉工大が、かつて陸軍鉄道連隊のおかれた場所であったことを知る人は、今では少なくなっているかもしれない。
1907年(明治40年)に従来の鉄道大隊が鉄道連隊に昇格、津田沼に兵営を一旦移した後、1908年(明治41年)に千葉に鉄道連隊司令部、第一大隊、第二大隊が移転、津田沼には鉄道第三大隊が置かれた。1918年(大正7年)に津田沼の鉄道第三大隊が、陸軍鉄道第ニ連隊に発展的に改組された。戦後、その津田沼の地にできた千葉工大は、東邦大学などと同様にその兵舎を校舎などとして利用したのである。
かつては、その兵舎を利用した校舎もあったのだが、10年以上前に立て替えられ、現在は見ることができない。今なお残るのは、レンガ造りの隊門のみである。その隊門は、1998年(平成10年)に国の登録有形文化財の指定をうけた。

<陸軍鉄道第ニ連隊の隊門址>


さらに、鉄道連隊絡みの遺跡としては、演習線の址がある。これは京成大久保駅近くのスーパーマルエツ前の歩道が該当する。今では、地域の人の生活道路となっているが、れっきとした軍用の演習線である。
前述のように鉄道第三大隊を津田沼に移転させた軍は、占領地への軍用物資補給を円滑にするための手段として、演習線を作り、それで要員訓練することを考えた。
演習線は、津田沼〜松戸、津田沼〜三山新田〜犢橋〜千葉のニ区間とし、総延長45Kmで、敷設、撤去、修理の訓練も行われた。そして、ここで教育を受けた兵たちは、樺太の鉄道敷設、日中戦争などへの出動に駆り出されたのである。

<鉄道連隊演習線址>


現在の新京成線は、鉄道連隊の軍用線のうち、津田沼〜松戸間の路線を戦後京成電鉄が獲得し、演習用にその余りに湾曲していた部分はショートカットするなどして営業運転させたものである。現在のイトーヨーカドーに隣接した新京成電鉄新津田沼駅付近は、かつて鉄道連隊の倉庫や資材置場があった。また戦後の一時期、千葉工業高校があった場所でもある。ここに、かつて鉄道連隊で活躍したK2型蒸気機関車の134号機が、そのイトーヨーカドー脇の津田沼一丁目公園に展示されている。機関車としては小振りで、遊園地にでもありそうな汽車である。これは、終戦後西武鉄道に払い下げられ、砂利採り線などで使用されたもので、現役でなくなってからは、ユネスコ村にあったが、1994年(平成6年)に鉄道連隊所縁の津田沼に戻された。かつて鉄道連隊では、こうした軽機関車二台を後ろ向きに連結した、双合機関車として利用された。それは、急カーブや急勾配でも強さを発揮、また車重が軽いことや揚水機をもっているという利点もあった。

<鉄道連隊で使用されたK2型蒸気機関車>



3.陸軍習志野学校

有名な毒ガス問題が新聞等で報道され、環境庁などの住民説明会も開かれた。昭和に入って騎兵第二旅団の施設が転用されるなどして開校、化学兵器の研究がされたが、真相はわからないことが多い。動物実験などが多くなされたという。現在、その記念碑などもなく、むしろ隠蔽しようという向きが多いようである。

<習志野学校の中心部分があった「ならしのの森」>


<コンクリートの基礎などが散乱しているが、一見ただの森に見える>



この習志野学校の遺構は、研究施設などの建物基礎(「ならしのの森」となっている千葉大腐食研究所跡、および隣接する住宅)、裏門跡および歩哨舎跡(泉町の民家横および民家敷地内)、車廠の床面(大久保保育所の園内)、弾薬庫跡(児童公園)などがある。陸軍習志野学校の中心施設は、鉄筋コンクリート製の実験講堂であるが、現在は建物は跡形もなく破壊され、公務員宿舎の建設時に八角形の基礎が見つかったのみである。しかし、この八角形の基礎こそ、中国東北部のハルピン郊外において「関東軍防疫給水部」の名前で細菌兵器の研究をしていた七三一部隊の『八面房』という施設の原型といわれる。
また、戦後習志野学校が保有していた毒ガスを遺棄したという証言もある弾薬庫近くは、現在住宅地となり、弾薬庫跡はなぜか児童公園になっている。
裏門跡の北側は、練兵場であったが、現在は住宅地になっている。わずかに、「陸軍用地」と書いた御影石の境界標石が残る。

<終戦直後〜近くに毒ガスを遺棄したという証言のある弾薬庫跡>


<裏門跡の北側に残る境界標石>


詳しくは、
筆者の「千葉県の戦争遺跡」HPの「陸軍習志野学校」の頁を参照方。
コメント   トラックバック (1)
この記事をはてなブックマークに追加