千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
(無断転載を禁じます)

市川市の戦争遺跡1(陸軍教導団と野砲兵部隊、旅団坂と弾薬庫跡)

2006-05-12 | 市川市の戦争遺跡
1.陸軍教導団と野砲兵部隊がおかれた国府台

余り知られていないが、市川市の国府台には、明治時代に大学をつくろうという構想があった。用地買収など、ある程度具体的な動きになっていたのだが、それは、通勤、通学の便などの理由から中止となった。
そこで、その用地に目をつけた陸軍が、当時東京市内に分散していた陸軍教導団(明治期の陸軍下士官養成機関)を国府台に移し、病院を併設したのである。1885年(明治18年)から翌年9月のことで、1885年(明治18年)5月、歩兵大隊が配備されたのを皮切りに、兵舎などの施設も建設されていった。そして、教導団病室も真間山弘法寺内に仮設され、同じ年、教導団病院が現在の里見公園内に建設されるが、その教導団病院は現在の国立精神・神経センター国府台病院である。

国立精神・神経センター国府台病院のHP(http://www.ncnpkohnodai.go.jp/kohnodai.html)によれば、

「明治5年3月  東京教導団兵学寮病室として創設
 明治32年10月 国府台衛戊病院と改称
 昭和11年11月 国府台陸軍病院と改称
 昭和20年12月 厚生省に移管、国立国府台病院として発足
 昭和28年8月  附属高等看護学院を設置 昭和34年6月 市川市立伝染病棟を併設
 昭和62年4月  昭和61年10月1日に設立された、国立精神・神経センターと統合」
             となっている。

<一時教導団病院のあった里見公園>

 
1886年(明治19年)に入ると相次いで兵営が完成した。前記の歩兵大隊に続き、砲兵大隊、工兵中隊、騎兵中隊、教導団本部の順で移って来た。江戸川沿いに国府台の台地を上がった、現在の和洋女子大や東京歯科大などがある場所に兵舎が建てられ、里見公園の東側のスポーツセンターと、国立国府台病院を合わせた場所には錬兵場が造られて、教練が行われた。こうして教導団は多くの優秀な下士官を養成し、国府台の名前はそれに伴って、よく知られるようになった。1869年(明治32年)に下士制度が改正されたのに伴い、その年の11月に教導団は廃止され、教導団病院は国府台衛戊病院と改称される。

<真間山弘法寺境内にある「国府台砲兵之碑」>


教導団が廃止になった後、跡地に野砲兵第十六連隊が開設された。この連隊は、1904~1905年(明治37~38年)の日露戦争に出陣し、旅順の要塞攻撃や奉天大会戦に参加して目覚ましい活躍を行った。さらに、1908年(明治41年)に野砲兵第十五連隊が国府台に置かれた。1919年(大正8年)には野砲兵第十四連隊も世田谷から国府台に移された。野砲兵第二旅団司令部も設けられ、国府台一帯は、まさに「砲兵の街」となった。のちに、砲兵隊の機械化に伴い、野砲兵から野戦重砲兵と改編される部隊が出てくるが、日露戦争時の独立野戦重砲兵連隊が、旅順、奉天会戦に参加後改編され、1918年(大正7年)初めて野戦重砲兵第一連隊と称し、1922年(大正11年)国府台に駐営するなど、大正期の終わりから昭和にかけて国府台には野戦重砲兵第一・第七連隊、高射砲第二連隊が配備された。
これだけ、多くの陸軍部隊が配備されながら、実際に残っている遺構はわずかである。松戸街道から里見公園方面へ向う道路は、通称「裏門通り」と呼ばれ、野砲兵第十六連隊(後に野戦重砲兵第七連隊が同じ場所に入った)の裏門があった。その裏門跡に、わずかに裏門関連の遺構と考えられるレンガ塀の一部が残っているが、旧軍関係の施設、設備の残欠で残っているのは、旧千葉県血清研究所となった武器庫の建物を除けば、それくらいか。

日清、日露両戦役とその後の権益獲得は、日本帝国主義のアジア侵略の大きな布石となったが、その武力発動の一つの基地に、国府台はなっていたわけである。真間山弘法寺には伏姫桜という大きな枝垂れ桜の木があるが、その根元に近い場所に、「国府台砲兵之碑」が建っている。
一方、国府台にあった国府や古墳群、国府台城などの遺跡は、戦後の学校建設や住宅開発などによる影響もあるが、明治期から陸軍が駐留してきて、兵舎などの施設の建設、錬兵場の整備などで、土地が掘り返されたために、かなり破壊されている。特に国府台城の土塁、空堀といった地表面にある遺構は、明治期からの陸軍教導団、野砲兵連隊の駐留、戦時中の高射砲陣地敷設等による改変を受け、江戸期に書かれた絵図と比較しても、原形を留めていない部分が多々ある。

明治期以来、陸軍の下士官養成を行ってきた教導団の廃止とそのあとを受けた陸軍野砲兵連隊の開設、1919年(大正8年)以降も変遷があったが、1945年(昭和20年)の敗戦になるまで、国府台界隈の松戸街道沿いは「軍隊の町」として栄えていた。

<野砲兵連隊、野戦重砲兵連隊の裏門関連遺構か>



2.旅団坂と弾薬庫跡

市川駅方面から松戸街道を国府台に向かって進むと、大きな切通しの坂道となる。これは多くの囚人を動員して山を削って作った軍用道路である。その坂の途中、国府神社の道路の向い側に分岐するかなり急勾配の坂道があり、これを通称「旅団坂」という。なぜ、「旅団坂」というかといえば、坂をあがった途中に野砲兵第二旅団司令部があったからである。司令部の近く、旅団坂の坂下には衛兵所があった。

<衛兵所跡付近に残る陸軍境界標柱>


実は、この旅団坂の先の道は今でこそ、学校敷地で行き止まりとなっているが、昔は総寧寺(今の里見公園)の門前まで続いていた表参道であった。この総寧寺門前からの道が左手に法皇塚古墳を見て、やがて市川津方面へ下る坂(のちの「旅団坂」)はまた、「法皇坂」(あるいは「鳳凰坂」)とも呼ばれたようであるが、それが法皇塚古墳からくるものか、国府神社の鴻伝説から来るものかは定かではない。そして、その道は弘法寺方面に続いていたようである。いずれにせよ、現在の松戸街道の切通しは、明治に入って多くの囚人たちに作らせた道であることは間違いない。

<旅団坂を坂の途中から見下ろしたところ>


この野砲兵第二旅団司令部跡には現在殆ど何も残っておらず、坂の途中にある平坦な公園となっている。大きな丸いコンクリート製の蓋が載った防火水槽があるが、これは戦前からあるとされ、軍の貯水槽か何か付属設備であろうことは容易に推定できる。

<野砲兵旅団司令部跡>


<旧軍の貯水槽か>


この旅団坂を上りきったところに里見公園の分園がある。実はこの公園には、砲兵隊の弾薬庫があった。小生がこの場所を訪ねたとき、近隣の学生らしき若者たちが劇の練習をこの公園でしていたが、弾薬庫を取り巻いていたと想定される土塁の痕跡がわずかに残っていた。弾薬庫跡だけに、公園には「火気注意」の立て札もある。またこの公園の裏手には江戸川へ下りる通路があり、川で荷物の積み降ろしを行う際に使用したのであろう。

<弾薬庫跡~若者たちの背後に土塁の痕跡が見える>




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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
煉瓦の門跡 (ゆきたんく)
2007-11-12 22:51:30
野戦重砲兵第七連隊の施設の裏門跡になるそうです。
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ゆきたんく様 (森兵男)
2007-11-17 19:35:52
煉瓦の門跡、ずっと気になって市川市の学芸員さんにも聞きましたが、やはりそうですか。
どうも、ご教示ありがとうございます。
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Unknown (kappa)
2011-04-25 05:45:37
私、この地で20年暮らしていたものです。
市川市の記録にもありますが、実はこの地で、その東京帝国大学のために用地接収された農家・・・そのために大体用地に移された農家(当時は大変なお金だったと思う)をよく知っています。というより、その家族の一員でした・・。
帝国大学が結果的に誘致できなかったのは(本郷の東大ではなく、国府台の東大にならなかったのは)教授たちがいちいち江戸川を渡し舟で通うのがどうにも不都合だったためといわれていますね。橋がなかったのですね・・・

あまりに懐かしい写真に感激しました・・・。
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