千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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鎌ヶ谷市の戦争遺跡1(鉄道連隊軍用線の橋脚跡、航空官補慰霊碑)

2006-05-30 | 鎌ヶ谷市の戦争遺跡
1.鉄道連隊軍用線の橋脚跡

船橋市に隣接する鎌ヶ谷市にも、戦争遺跡は存在する。
現在新京成線は、新津田沼~松戸間を走っているが、その前身がかつての鉄道連隊が敷設した軍用線であることは、習志野市の戦争遺跡のところでも述べた通りである。そのなかで、鎌ヶ谷大仏駅からほど近い、鎌ヶ谷市南鎌ヶ谷の木下街道を北へ入った谷間にある道沿いに、その橋脚の跡が4基ある。その橋脚は、コンクリート製で高さは4m以上ある。知っての通り、かつての軍用線は、敗戦後しばらく放置されていたが、路線のうち、この部分を除く松戸~津田沼間のほとんどを京成電鉄が買いうけ、1946年(昭和21年)に新京成電鉄を設立、当路線の整備にあたった(全ての整備が終わり、新京成として営業運転をしたのは1955年(昭和30年)のこと)。現在の新京成線は、その場所の1km位東であるが、その場所に橋脚があるのは、戦後あまりに曲がりくねった路線のうち、大きく曲がった部分をショートカットしたためである。

<鎌ヶ谷市にある鉄道橋脚跡>


<谷合に残る橋脚跡>


軍用線を走る機関車は軽量だったとはいえ、急な勾配を上り下りするのが苦手であったらしく、土地の高低差のはげしい当地には橋脚をたて、鉄橋を築いて高低差を緩和したわけである。現在残っている遺構は、アカシヤ児童遊園の中にある。1930年(昭和5年)頃に鉄道連隊が演習用に造ったもので、現在も坂の上にある集合住宅のそばに「陸軍・・・」と下の文字が消えた標柱もある。

<「陸軍」の文字のある標柱>


<公園となった橋脚跡地で遊ぶ親子>


2.逓信省航空官補の墜落慰霊碑

現在、松戸市の松飛台にある自衛隊敷地は、かつて陸軍の松戸飛行場であり、その前身は逓信省中央航空機乗員養成所(松戸航空機高等乗員養成所に改称)である。

それは、1940年(昭和15年)に開設され、民間パイロットなどを養成するための場所であったが、戦局が進み、日本の敗色も濃くなってくると軍の管轄となった。そもそも、帝都防空のための「陸軍基地」である飛行場としても位置づけられ、建設時から陸軍が関与し、その所長も陸軍少将が務めていた。逓信省の養成所でありながら、ここを修業すると、予備陸軍伍長となり、その後軍人になるものも多かった。そして、太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)9月には、陸軍第10飛行師団指揮下の飛行第五十三連隊が所沢基地から移ってきた。

なお、現在の地名、松飛台は、陸軍の松戸飛行場からきている。そのほか、旧沼南町には藤ヶ谷陸軍飛行場があって、両飛行場は戦争末期「帝都防空」の任にあたった。

この逓信省中央航空機乗員養成所の訓練機が、現在の鎌ヶ谷市東中沢に墜落したことがある。時は1942年(昭和17年)9月10日である。その慰霊碑が、現在も建っているが、それは墜落地点に近い場所にもともとあったのを、少し離れた自然聖園に移したものである。

これは、小生の第一ブログ「千葉県の戦争遺跡」にコメントを寄せたNYさんから場所を教えられ、訪ねたが、近所の酒屋さんで聞くと最近別の場所に移ったとのこと。
その移転した場所を探すのに、鎌ヶ谷市郷土資料館の館長以下の方に聞いて、なんとかたどり着けた。

移転した後の場所は、鎌ヶ谷市中沢のなかであるが、元の場所より南西にいった万福寺近くの「弥生の里」という自然聖園である。

<現存する航空官補の慰霊碑>


「故 航空官補 田村弘 荻野義弘 殉職之地」とあり、鈴木竹徳陸軍少将の書によるもの。村人が墜落死した二人に同情して、事故のあった昭和17年に鎌ヶ谷村として建てたという内容が書かれていた。

その碑文は、

(表面)
故 航空官補 田村 弘 荻野 義弘 殉職之地
       
                     鈴木竹 書

(裏面)
兩氏殉職ノ記
 田村荻野兩君ハ昭和十七年九月十日愛機ニ搭乘シ特種飛行猛訓練中
 此地ニ墜落殉職セラル洵ニ痛惜ノ極ナリ田村君ハ富山縣出身第二期
 操縦生ヲ修業シ人格技倆共ニ衆ヲ抜ク名教官タリキ荻野君ハ大阪府
 出身第三期操縦生ニシテ稀ニ見ル優良生徒タリキ時將ニ大東亞戰爭
 完遂ノタメ一億國民總進軍我航空ノ使命重大ナル折感更ニ深シ此報
 傳ハルヤ村民各位ノ格別ナル同情ハ翕然トシテ集マリ此地ニ煙絶エ
 ス村長■■■■■■■ヨリ此碑ヲ建テラル誠ニ感謝深ク茲ニ愈航空
 報國ノ決意ヲ新ニシ各位御同情ヲ感謝シ兩君ノ冥福ヲ祈ル

 昭和十七年十二月
  中央(××・・・×)員養成所長 陸軍少將 從四位 勲三等 鈴木竹書
                          鎌ヶ谷村建之

  ■:判読できず ×:故意に削られた部分

とあった。字が薄くなり読みにくい(摩滅したような感じの)部分と、一部故意に削られた箇所があった。

<慰霊碑の裏面>


故意に削られた箇所とは、鈴木竹徳陸軍少将の肩書きである中央(逓信省航空機高等乗務か)員養成所長の一部である。なぜそうしたのか、よく分からないが、ひょっとしたら戦後も残っている固有名詞はあえて消したのかもしれない。

その二人が航空機による飛行訓練中に、どういう原因で墜落したのかは碑文からでは分からないが、太平洋戦争中に陸海軍を問わず搭乗員養成が急務のなか起きた不幸な事故であったことは間違いない。


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2 コメント

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お疲れ様でした (NY)
2009-06-06 14:51:37
NYです。おひさしぶりです。碑の移転場所を捜しあてられ、写真まで掲載してくださり、ありがとうございます。ブログに掲載されることで広く認知されるので、亡くなられたお二人も、悦ばれていると思います。感謝、合掌
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殉職碑 (森兵男)
2009-06-07 08:33:16
NYさん、ありがとうございます。

本件も含め、千葉には飛行機の墜落慰霊碑がいくつかあります。鎌ヶ谷のは、鈴木陸軍少将の揮毫で鎌ヶ谷村が建てたと刻まれていますが、現状霊園の入り口のところ、目につく場所にあって、きちんと管理されているようです。

つい最近記事をアップした船橋の海軍機の慰霊碑は、地元住民がお金を出し合って建てたものですが、そういう余り知られていない碑もあります。
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