■製作年:1978年
■監督:ヴェルナー・ヘルツォーク
■出演:クラウス・キンスキー、イザベル・アジャーニ、ブルーノ・ガンツ、他
古典ホラー映画の名作F・W・ムルナウによる「ノスフェラトゥ」をヴェルナー・ヘルツォーク監督がリメイクした映画です。その古典映画における吸血鬼のスタイル、頭は禿げて、耳が尖んがり、目が落ち込んで淵が黒ずんでいる、そして口は二本の牙が目立って生えている、指の爪は長く伸び、黒装束の服を着ているという、そのスタイルは踏襲されながらヘルツウォーク映画の常連にして怪演を見せるクラウス・キンスキーがノスフェラトゥ=吸血鬼を演じています。
そのクラウス・キンスキーが演じるノスフェラトゥは、まさしく怪演によってピッタリのはまり役ではないだろうかと思えてきます。何百年も死ぬことができないで無為な日々を過ごしてその苦痛に耐えている吸血鬼、よくあるパワー漲らしているバンパイアというよりもむしろ死の匂いを漂わせる病的な感じ、吸血の本能的願望とそれを抑えているような葛藤の表情、死を司る妖怪でありながら愛を渇望する吸血鬼、こんな精神的で繊細な存在感を見せる吸血鬼を演じることができる俳優はクラウス・キンスキーしかいないんだろうなと。そのノスフェラトゥは語ります。「愛の欠如は最も悲惨だ」と。
ヴェルナー・ヘルツォークは吸血鬼という題材を描いても一癖も二癖も違う吸血鬼映画を見せてくれる。なによりも画面が違います。不協和音とともに恐怖をたたみこんでいき感情を煽るホラー映画のような作りなどはしていません。むしろ険しい自然、言ってみれば何処にこんなすごい景色があるんだろうという<ヘルツォーク的な風景>とでもいうような場所を背景に人物を立たせてみせ吸血鬼自体が超自然的存在であることを間接的に暗に匂わせたりしているのです。あるいは、ヨーロッパの街の美しい、まるで絵葉書を切り取ってきたような所に無数のネズミをおいてみせ、吸血鬼が上陸したことによって環境面でも人間には計り知れないことが起こっている、つまり吸血鬼の上陸とともにペストが蔓延ししている事件性のようなものも間接的に感じさせてくれます。
映画は概ねブラム・ストーカーの原作の設定は踏襲しているとは言え、大きく違うところもあります。ノスフェラトゥの城に行ったハーカーは噛まれて吸血鬼になり破滅したノスフェラトゥの血は繋がり今度は彼が永遠を生きることになります。一方、ヴァン・ヘルシンクは吸血鬼退治に赴くのでなく超常的な現象を認めようとしません。その中で何といっても一番はルーシーです。「女の献身に夜明けを忘れ朝日にその身を滅ぼされん」と書物に書かれたことを信じ、彼女は自分の身をかけてノスフェラトゥを破滅させます。吸血鬼に血を吸わせる覚悟は、処女を捧げる時か、初めて見知らぬ男に体を開く売春婦にでも似ているのでしょうか?ルーシーの胸に手をあてながら、一心不乱に血を啜る吸血鬼の様子はすこぶる性的な行為のようなものをダブらせます。
「ノスフェラトゥ」はヴェルナー・ヘルツォーク監督の作品の中で一番好きなものです。