音次郎の夏炉冬扇

思ふこと考えること感じることを、徒然なるままに綴ります。

『障害者の経済学』で考えさせられたこと

2006-02-16 06:42:11 | 本・雑誌
たまたま書評というか本の話題が続くが、今日も1冊の本を紹介したい。
ホテル東横インの不正改造は、今もなお、各種メディアやブログでの論評が続いている。私もこの件が発覚した際に、こちらこちら、2つのエントリーを立てたこともあり、その後もこの問題については関心を持って見ている。
今週発売の『AERA』2/20号にも、“「史上最悪の会見」詳録 東横イン西田社長”と題して、社長のアップ写真付きの見開き記事が出ていたので読んでいたら、むむむ・・・。左片の袖にタテ3分の1頁で大谷大学のシリーズ広告が掲載されている。その内容が何と《障害者スポーツを見に行こう》というコピーで、京都で開催予定の車椅子駅伝を紹介する記事広告である。同大は、いまだに障害者スポーツが多くの健常者に伝わっていない状況の中で、その理解と普及を目的として実技・演習・講義を行う講座を開講しているそうだが、全編にわたり、障害者スポーツに直接触れる体験の素晴らしさを説いている。これは、たまたま偶然なのか、AERA編集部の皮肉なメッセージなのか。間違いなく後者だろう。緊急性の高くないネタで、モノクロページにこんな割付けするのは恣意的である。思わずうーんと唸ってしまった。

西田社長の発言は、不適切の誹りを免れないものではあったが、「障害者と社会の関わり」とでもいうべき、多くの人々が無意識に避けてきた、いささか重いテーマを白日の下に引きずり出したという功績だけは評価していいかもしれない。なぜなら、東横インの障害者差別の論点については、多くの言説が「モラル」という点からの断罪に終始して、いささか底が浅かったり、私も含めてだが、今ひとつ歯切れが悪かった。

何か参考になる良いテキストがないかなと探していたところに、ちょうどタイムリーな新刊が出ていた。題して『障害者の経済学』という。これが読んでみると、非常に示唆に富む良書だったので、紹介したくなった。

刊行までに時間がかかる書籍という形態なので、旬の話題に便乗して出版された企画モノでは勿論ない。昨年12月には脱稿しているようだ。書いたのは中島隆信氏という慶応大学商学部の先生である。「テキストブック入門経済学」などの著書がある気鋭の経済学者というと、それだけで難しい本だと思ってしまう向きもあるかもしれないが、決してそうではない。中島氏は他に、『大相撲の経済学』『お寺の経済学』という近著でスマッシュヒットを飛ばしており、経済学の持つ中立性や合理性をツールにして、身近なテーマをわかりやすく掘り下げることに長けている。昨年大ベストセラーとなった、公認会計士山田真哉氏の『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』をイメージしてもらった方が近いかもしれない。活字も大きく、ソフトカバーで200頁程度のボリュームも読みやすい。

著者は序章で、この本を書いた動機を説明すべく、これまで数多世に出ている障害者を扱った本を、大まかに4つのカテゴリーに分類している。

障害者本人またはその親が自らの経験談を綴った自伝のようなもの(自伝タイプ)、障害者の法制度について批判的な検討を加えたもの(制度論タイプ)、障害者本人またはその関係者が新たな障害者観について語るもの(観念論タイプ)、そして障害者の知られざる一面を描いたもの(意外性タイプ)である。

このうち、はじめの3つに属する本は、多くが福祉や障害者を専門に扱う出版社から出されている「専門書」であり、関連の方々以外に読んでもらう機会がほとんど無きに等しい。最後の意外性タイプのみが、健常者にも読んでもらえるものの、「へえ~」という読後感を残すにとどまり、幅広い議論に発展することが少ないと著者は考察している。

それに対して同書は、障害者をめぐる様々な問題を経済学という分析道具で串刺しにして、わかりやすく解説しようという試みであることを、まず序章で宣言している。これまで日本の経済学者が微妙に避けてきた障害者問題に果敢に切り込もうというわけだ。

著者はまず、障害者問題が一般にわかりにくくなっている理由を、健常者が障害者に接する機会が極めて少ないからだと説明している。全国に850万人存在するといわれるにもかかわらず、我々が日常的に障害者に遭遇することはほとんどない。「転ばぬ先の杖」という理屈で、障害者は事実上隔離されているのだという。

戦後の高度経済成長の進捗とともに、少しづつ実現してきた「福祉の充実」により、福祉・教育関係者が、弱者の手助けをするということで特別視され、法にも守られているうちに、向上心を失ってしまった。それだけでなく手厚い保護のもと、親と本人も甘やかされて、結果的に、真の自立を難しくしている。そのような現状を、行政、親子関係、差別、施設のあり方、障害者の労働・暮らしという点から、多面的にレポートし、持論を展開している。

ところが、私は途中まで読んで、「ん」と止まってしまった。いかにヒットを連発する気鋭の学者であっても、このテーマでよくここまで取材できたなあと思ったのと、ある意味で当事者にとっては耳の痛くなるような厳しいことを、ここまで書いたことに感心し、ふと「あとがき」のページをめくってみたところ、思わず虚を衝かれてしまったのである。

正直なところ、障害者をテーマとすることにはかなりの迷いがあった。なぜなら私自身がある意味では当事者だからである。(中略)脳性マヒの子供の親になって20年目を迎えようとしている。その間、このテーマは経済学者として一度は取り組まなければならないとずっと考えていた。しかし、障害者サークルという狭い業界の中で決まった人たちとつきあっていると、いつの間にか障害者を弱者という視点でしか見ることができなくなっていた。気がつかないうちに自分にも弱者の親としての甘えが生まれていたのかもしれない。

他人の想像を絶する長年の葛藤があっただろうと推察するが、ある時点で著者は精神的に吹っ切ったのだという。このことにより筆致がエモーショナルになるわけでなく、淡々と書かれているのが印象的だが、通常は警戒され壁は高いであろうこの種の取材に、当事者の親であるというアドバンテージをフルに活用できたということも正直に告白している。

そして読み進めるうちに、ある感覚に襲われるようになる。既視感とでもいったらよいのか、障害者問題とあることの類似性を強く感じるようになるはずだ。

終章のタイトルはズバリ「障害者は社会を映す鏡」。

核家族化の進行と地域コミュニティーの喪失による母子密着-過度に保護しようとする親とそれに安住する本人との親子関係、迷走する学校教育、行政支援の矛盾・・・。現代は健常者も、ほとんど同じ歪みを内包しているのである。知的・身体的障害を持たなくても、対人コミュニケーション能力の欠如や過度の肥満を理由に就労することなく家に引きこもっている人たちがいる。そうニート問題である。

従来、人と接し向き合うのがあまり得意でない人たちには、対人関係がさほど要求されない製造現場という居場所があった。だがその場は、企業が安価な労働力を求めて、いっせいに海外に生産拠点を移したことで失われた。残った国内の労働需要は、主にサービス業で、これがまた厄介である。現代は高度な接客技術を求められるのと同時に、ストレス社会ゆえに、一般消費者の中には、日頃のうっぷんのはけ口として、それを業者や店員に向ける輩も増えているため、勝ち組礼賛の陰で、弱者はますます追いつめられることになる。

20年以上前に読んだ、阿刀田高の『詭弁の話術』という本で、働かない公務員の是非について「公務員は社会の必要悪なのである。民間で使いモノにならないような人でも、給料と仕事を与えることで、社会の治安と消費活動を保証しているから」というようなことを暴論・詭弁の例として提示していたのを思い出す。今や、それこそ行政改革で公務員を削減し、特殊法人をつぶしていこうという時代である。かつて、あまり人と競争せずにのんびりやりたいと願う人を抱える余裕が、公にも企業にもあった。リストラで損益分岐点を上げることには成功した企業も、それと引き替えに、そういう人たちの居場所を奪ってしまったという面がある。その結果、この国はこれから、どういう社会になっていくのだろうか? 

本書は、障害者問題を多面的に論じ、国内外の豊富な取材により、机上の論理でない説得力を備えているのに加えて、現代社会の病巣にも言及している点で、秀逸な1冊なのである。



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8 コメント

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TBさせていただきました (takeyan)
2006-02-17 01:23:44
元同僚が作っている本ですし、まだ読んでいないのでなかなか論評しにくいのですが、障害者問題の最大のキーは親が死んだあと、この子はどうなってしまうんだろう、という重いテーマです。

そこを打開したいという親としての思いがこの本を書かせたのではないかと感じています。

TBさせていただいた記事はやはり、そういう思いの親が卓越したビジネス感覚でこれまでの障害者の作業所とはかけ離れた作業所を立ち上げ、躍進しているという話です。

福祉の世界だけで内向きに閉じこもるのではなく、社会と関係性を構築していきたいんだけれど、社会の受け入れ体制はどうなんだろう、というメッセージを感じます。

一方で、障害者は社会との接触の困難性を取り払えば素晴らしい社会資源なんだよ、という視点で活躍している方もいます。

社会の形に働きかけ、関係性の構築に資するという責務のある政治に携わる者として、日々感じていること相互間の密接な関係を感じさせられました。
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障害者の甘え (VEM)
2006-02-17 11:05:59
障害者が持っているという甘えが本当にあるのか?非常に狭い体験ですが、障害者の方から甘えられたという経験は記憶にありません。そのあたりのことを自分も少し書いて見ました。よろしかったらご覧下さい。

障害者の経済学を拝読しようと思います。
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Unknown (ケイジ)
2006-02-17 15:41:26
ボクの従姉も20年ほど前に交通事故により障害者になりました。

面倒をみている親が死んだら・・

このことが一番不安なことのようです。



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コメント・TBありがとうございます。 (音次郎)
2006-02-18 01:55:41
>takeyanさん、TB先の記事、以前もタイトルだけは目にした記憶があるのですが、流してしまっていましたが、あらためて、2部作熟読しました。



圧倒されました。すごいです。



施設の理事長の「バリアフリーで数年生活したら、人間の感覚はだめになるよ」という言葉、考えさせられました。
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コメントありがとうございます。 (音次郎)
2006-02-18 02:20:35
>VEMさん、ご指摘ありがとうございました。

ちょっと私の言葉足らずの部分もあったかもしれませんが、思うに自らタクシーに乗るようなアクティブな方ではなく、軽度の障害でも外に出て来ずにこもっている方、付加価値の低い福祉就労から一般就労に踏み出せない方の存在を念頭に置いているのだと思います。



一連のエントリーも拝読しましたが、私などよりも遙かに日頃の問題意識が高く、福祉問題について発信しているVEMさん、是非同書を読んで、レビューを書いてください。期待しています。今後ともよろしくお願いいたします。
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コメントありがとうございます。 (音次郎)
2006-02-18 02:24:12
>ケイジさん、そうだったんですか、知りませんでした。

障害者の方と同列に論じることはできませんが、ニートは親はいつか死ぬという現実から目をそむけているような気がします。
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障害者とは・・・ (TETSU)
2006-02-28 11:11:27
はじめまして。

私は3年前に交通事故に巻き込まれ、右腕不随となってしまいました。「障害者」この言葉のカテゴリーは非常に難しいと思います。私は、右腕は全不随ですが腕はついています。そうすると第3者からは障害者として認知されないことが多く苦労することが多々あります。障害者とは車いすにのったり、介護の手を借りないと駄目な人というのが世間のカテゴリー分けでしょう。

現在私は2年の休職後、片腕のまま元の会社に戻り、リハビリを続けながら仕事をしてますが、いずれはこの体験を元に障害者福祉分野にも出て行ければと思っています。

一度この本を拝読し参考とさせていただきます。

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コメントありがとうございます。 (音次郎)
2006-03-01 03:56:08
>TETSUさん

ご訪問いただき、ありがとうございます。

重い体験談、ずしりときました。

健常者からはわからないことがたくさんあります。TETSUさんのような方がオピニオンリーダーになって、発信してくださったら、理解がもっと深まるような気がします。本のレビューも是非拝読したいです。よろしくお願いいたします。
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