音次郎の夏炉冬扇

思ふこと考えること感じることを、徒然なるままに綴ります。

丸山眞男はひっぱたけない

2008-10-11 11:30:49 | 時事問題
「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。
今はなき『論座』2007年1月号に掲載された赤木智弘氏による論考が、大きな反響を巻き起こしたのは1年以上も前の話です。当時私はそれをスルーしていたのですが、最近戦争の関連の本を読んでいるうちにふと思い出したのです。

赤木氏の叫びにも似た訴えは、同じような境遇で砂を噛むように暮らしている人たちの琴線に触れたのでしょう。でもこれこれが発表されてから後に、実際に世の中に起こったことは戦争でも革命でもなく、駅前や繁華街はては個室ビデオ店を舞台にした無差別大量殺人という名のテロでした。

戦後日本が希求してきた二大テーマは平和と平等だといって差し支えないと思いますが、「戦争」と「平等」を望むという組み合わせは意外性があったのか、特に年配の人たちの目をひん剥かせるのに成功しました。赤木氏はコピーライターの才には恵まれているみたいです。よく読めば彼が「戦争」をレトリックというか釣りとして使っていて、決して好戦的な思想の持ち主でないことはわかるのですが、彼の求める「平等」というのが、犠牲の平等であることが気になります。なぜならこの思想は、自らの不遇に絶望して「誰でも良かった」と無差別に人を殺す行動と通底しているように思うからです。

赤木論文は考えさせられるものが多いので、今後いくつかのエントリーに分けて思うところを書いていく予定ですが、犠牲の平等ということでいえば、赤木氏は戦争を希望する理由を「戦争が起きれば社会は流動化する」からだとしています。混乱は起きても根本的な流動化はしないというのが私の考えなのですが、「流動化」のケーススタディーとして挙げているのが、すっかり有名になった以下の一節です。


苅部直氏の『丸山眞男――リベラリストの肖像』に興味深い記述がある。1944年3月、当時30歳の丸山眞男に召集令状が届く。かつて思想犯としての逮捕歴があった丸山は、陸軍二等兵として平壌へと送られた。そこで丸山は中学にも進んでいないであろう一等兵に執拗にイジメ抜かれたのだという。
戦争による徴兵は丸山にとってみれば、確かに不幸なことではあっただろう。しかし、それとは逆にその中学にも進んでいない一等兵にとっては、東大のエリートをイジメることができる機会など、戦争が起こらない限りはありえなかった。
丸山は「陸軍は海軍に比べ『擬似デモクラティック』だった」として、兵士の階級のみが序列を決めていたと述べているが、それは我々が暮らしている現状も同様ではないか。
社会に出た時期が人間の序列を決める擬似デモクラティックな社会の中で、一方的にイジメ抜かれる私たちにとっての戦争とは、現状をひっくり返して、「丸山眞男」の横っ面をひっぱたける立場にたてるかもしれないという、まさに希望の光なのだ。



東大法学部教授陣で徴兵されたのは丸山眞男だけであり、有名大学の助教授が二等兵として入営するというのは欧米にも見られない極めてレアなケースですから、これは明らかに思想犯としての逮捕歴を理由にした懲罰徴兵でしょう。それに大卒者は召集後でも幹部候補生に志願すれば将校になる道が開かれていたのに、「軍隊に加わったのは自己の意思ではない」と、丸山眞男が自らのポリシーによって二等兵のまま朝鮮半島の平壌へ送られたという事情なので、本来は「丸山眞男」二等兵を軍隊で苛めることはできないのです。

私の父方の祖父は1913年生まれですから、1914年3月生まれの丸山眞男とはタメ年であり、ナンバースクールを出て東京帝国大学に進んだのも同じです。戦後まで母校の旧制高校の教壇に立っていたはずですから、当時似たようなポジションにいました。にもかかわらず祖父の方は兵役の経験はありません。上背はないものの、ボート部で鍛えていたから頑健で、特に疾患もなかったはずです。事実90歳で死ぬまでかくしゃくとしていましたから、決して虚弱ではなく丈夫な人でした。それでも徴兵検査で第三乙種にも引っかからないというのは、高学歴者の特別待遇の存在を窺わせます。

祖父は学問命の人なので、戦争なんて馬鹿馬鹿しくてやってらんないと思っていたんでしょう。丙種合格の報せを受け、お国の役に立てないなんてと涙ながらに帽子を床に叩きつけて悔しがる同僚を横目に、廊下に出てからこっそりガッツポーズをしたらしいです。でも祖父は兵役を免れたのはいいとして、空襲の時に妻子を置いて自分だけスタコラと逃走したのはいただけません。これで家族の大顰蹙を買い、そのエゴイストぶりが後々まで語り草になったのです。でも日頃から私のことを「自己優先型人間」と評する妻は、このエピソードを聞いて「恐るべき隔世遺伝!」と妙な感心をしていました。

最近読んだ本で面白かったのは、高田里惠子著『学歴・階級・軍隊-高学歴兵士たちの憂鬱な日常』(中公新書)です。学徒兵世代の声を丹念に拾った労作ですが、そもそも、丸山眞男問題然り、映画『きけ、わだつみの声』などでのインテリ兵士の悲哀に触れるたび、著者は微妙な違和感を感じたそうです。「だいたいわれわれは、夏目漱石や島崎藤村や芥川龍之介や宮沢賢治などの有名作家について、徴兵がどうの兵役がどうのという話を聞いたことがないではないか」と。明治維新以来、いくつかの戦争がありましたが、よく考えるとインテリが本格的に兵営に叩き込まれたのは、特定の時代のみであったということです。

旧制中学以上の学校に通う者の在学徴集延期措置があったので、戦争があんなに長引かなければ、従来は高学歴者が徴兵されずにすんでいたわけです。それが廃止され、いよいよ学徒出陣が始まるのが1943年の12月です。これを機に理系・技術系と教員養成系学生以外は、皆戦争に行かなくてはならなくなりました。末期で敗色濃厚、兵士が足りないから徴兵されるわけで、少し前の世代のように訓練だけでは済まずに戦地まで赴くことになります。東大生でさえ10%近く戦死したといわれますから、世が世であれば人一倍自由を謳歌できたはずの俊英たちが、たくさん命を落としたり重いダメージを受けたのです。つまり、戦中派と呼ばれる人たちの中でも、とりわけ1920年代前半(大正10年代)生まれの学徒兵世代が、正真正銘のロストジェネレーションなのです。

でも本当にこの世代が貧乏くじ世代だったかというと、そうともいえません。学徒出陣経験者からは、竹下登、宇野宗佑、村山富市という3人の首相が出ていますし、サバイバルした学徒兵世代は戦後に指導的な役割を果たしました。戦前の旧制高校~帝国大学はリベラルなエリートたちの楽園であり、学生たちは少数の特権階級でした。しかし軍隊生活で彼らはどんなことを感じたのかを前掲の著の中からピックアップしてみます。いずれも1920年代前半生まれで在学中に学徒兵になった人たちです。

多田道太郎(三高~東大仏文科)
〈前略〉ぼくは平等社会の中での珍種であり、社会的復讐の的にされたんですね。〈後略〉~「戦争をどう通ったか」

梅原猛(八高~京大哲学科)
〈前略〉戦争は私の人生観を大きくゆすぶった。私はそこで多くの事、人間がどんなに簡単に死んでいくものであるか、或は人間は追いつめられたとき、どんなに卑劣なことを平気でするか、なかんずく、労働者や小作農たちが、学生よって象徴される特権階級出身者である私達にどんなに反感を抱いているかを学んだ。〈後略〉~「京都学派との交渉私史」

森嶋通夫(浪速高校~京大経済学部)
帝国大学に正式に進学できるのは、〔旧制〕高校卒業生に限られるから、高校こそはエリートの牙城であり、同時に一般庶民の怨嗟の的であった。~「血にコクリコの花咲けば」

色川大吉(二高~東大国史科)
私たちを迎えたのはまず内務班での鉄拳の嵐であった。かねがね娑婆での特権に反発していた古参兵たちが復讐するかのように、このか弱い新兵たちに襲いかかった。「学徒出陣」組の大半はこの痛烈な思想的洗礼を受けている。これは下層民衆のルサンチマンの意味を考える好機でもあった。~「わが身に滲みる歴史の痛み」

まあ、一般庶民とか下層民衆とかすごい物言いをしていますが、色川大吉が「洗礼」と書いているように、エリートが「底なし沼のような人民ニヒリズムの怒気に触れ」た貴重な体験として述懐しているわけです。つまり学のない一等兵は短い期間に大学生を殴って溜飲を下げたかもしれませんが、いってみればそれだけの話であり、エリートはこの体験を糧にして元の場所に戻って行ったのです。丸山眞男も軍隊体験が彼の思想に凄みを与え、あれだけの影響力を持つオピニオンリーダーになっていったともいえます。

海軍は学歴がものをいうといわれましたし、平等を売り物にしてきた陸軍も、それがプロバカンダだった部分もあります。つまり戦争で「丸山眞男」はひっぱたけないし、社会は流動化しないということです。


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1 コメント

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高学歴者の徴兵に関して (通りすがり)
2019-04-21 03:31:59
>徴兵検査で第三乙種にも引っかからないというのは、高学歴者の特別待遇の存在を窺わせます。

ここら辺について、祖父から詳しい事情を聴いていましたか?

戸籍係の役人に賄賂を渡すとか、徴兵検査の軍医に「丙種合格」にするよう頼むとか・・・

なお、京都大学出身の生物学者である可児藤吉という人物は、1943年に徴兵されてサイパンで玉砕しています。

http://reference.morisita.or.jp/kani.html

どういう人が、どのような手段で兵役を回避可能だったのかについて関心があり、調べています。

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