音次郎の夏炉冬扇

思ふこと考えること感じることを、徒然なるままに綴ります。

愛だけでは飯は食えません

2010-08-05 21:38:03 | 事件
前記事へいただいたコメントに返信していたら長くなりそうだったので、新たにエントリーを立てました。

この事件は殺人ではないのですか (タカ派の麻酔科医)
2010-08-05 08:55:28
 ガムテープで目張りまでして、殺意がないのでしょうか?報道されている限りの情報では、最初の子供から子育てを自力ではできないままだったようです。なぜ引き取ったのでしょうか?20歳を過ぎれば成人として扱われますし、結婚をすれば、16歳からでも成人として扱われるのです。自分の行動の責任をとらないでいいわけはありません。
 この件を殺人ではなく、遺棄なのだとか、社会システムのやさしさが足りないとかいう扱いをすれば、まともな判断ができない人間でも、社会規範や法律は守らなければならないというメッセージを社会が送れなくなります。
 実際には、母子手帳などには、育児の悩みなどを相談する窓口や、地域の子育てサークルなどの情報などが記載されています。窓口もないし、情報提供もないということはありません。聞く耳もなければ、読む気もないということでしかないのです。
 おとなのふりして、自由を謳歌するならば、行動に責任を持つのが当たり前です。結婚をするということ、子供をつくるということ、ともに責任を取れる人間しかしてはいけないことです。その責任は、ただ、忍耐と根気だけあればよく、人を愛する気持ちだけでなんとかなることなのです。人を愛することができない人間が結婚することはありえないことですし、子供を作ることもありえないことです。



>タカ派の麻酔科医さん、コメントありがとうございます。

ご存知だと思いますが、日本の刑法における殺人罪は「殺意」が要件となっています。容疑者は殺意を否認することが多いですが、もちろん包丁で刺しておいて「殺意はなかった」で済むわけではなく、その行為が重大な結果をもたらすことを認識していたかが争点となります。本件も粘着テープの目張りが悪質とされ、傍証となる可能性は否定できません。しかし、本人が認めるなら別ですが、近所迷惑を回避するためとかなんとか主張されれば、殺意の存在を証明するのは難しいでしょう。容疑者も勿論「ヤバイなあ」と自覚はしていたと思いますが、殺意があったか問えるかどうか。なぜなら、最近ではこの福岡の事件でさえ、検察は殺人罪での起訴を断念しているのです。まるで江戸時代の拷問かと思えるような残忍な所業をはたらいた母親も、「殺意」を否認したからです。

頂戴したコメントの中段は理性的で納得できる部分もあるのですが、一転して後段はすごく情緒的なのは何故なんでしょう。小柳ルミ子の歌った「瀬戸の花嫁」で、

「愛があるから大丈夫なの~♪」

というフレーズがありましたが、これは一種の詭弁であると作家の阿刀田高は昔のエッセイに書いています。

「金があるから大丈夫なの」「土地があるから大丈夫なの」「国家資格があるから大丈夫なの」というのなら判るのですが、「愛」なんて最も不確かで抽象的なものなのに、それがあれば全てオッケーというのはロマンチストすぎるのではないかと。

「愛」があるから結婚するとは限りませんよ。世の大抵のカップルなんて、サークルでたまたま同期だったとか、職場の席が隣で毎日一緒に残業飯を食べてたから結婚したとか、そんなもんでしょう。子どもが先に出来るケースも沢山あるし。愛がなければ結婚できない、子ども作っちゃいけないとなれば、日本の生涯未婚率は4割くらいに跳ね上がり、出生率は5割を切るかもしれません。「衣食足りて礼節を知る」といいますが、「まともな判断ができない人間」に「社会規範や法律を守」るのは無理があります。必要なのは「愛」の有無を問うことや、全てを当事者の自己責任に帰すことではでなく、現実的な対応だと思います。

成熟した理性的な人間も、環境や状況次第で我を失うことはあるのですから、やはりセーフティネットの構築は必須のはずです。


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愛を言い訳にしてるのは (タカ派の麻酔科医)
2010-08-06 08:17:47
 若者たちの結婚の時の言い訳だからですが、普遍的に人には誰かを愛する気持ちがあると信じたいからです。
 単に性的欲求を満たしたいだけで、結婚して子供をつくることまでを肯定するのですか?その結果の不都合は社会に丸投げですか?
 社会自体は、昭和40年代に比べれば、豊かになっています。衣食住の最低限は保証されるシステムはあるのです。しかし、社会を構成するのが、一人ひとりの人間であり、労働の対価としての税金が、社会を動かしているという認識のない個人が多すぎます。セーフティネットと言われますが、本来は、家族の責任の部分までを社会に責任転嫁するならば、身を削って労働している人間はやってられません。法のもとの平等は、結果の平等を保証するものだというのでしょうか。予習復習する子供にも、まったく何もしない子供にも同じ知識と問題解決能力を与える機会は与えられても、結果は保証できませんよね。経済的なことだけ、結果の平等というのは、欺瞞です。憲法が保証しているのは、最低限の健康で文化的な生活ですから。
愛かセーフティネットかではなくて (meici)
2010-08-06 19:12:53
私も、児童虐待は、どうしてこんなに罪が軽いのだろう、といつも思っています。尊属殺人がまだあった時代は、子供の命はもっと軽かったようですね。育てられないから、体面が悪いから、躾のため、という理由に、皆「もっともだ」と思っていたんですね。
ネグレクトも、昔から沢山あって、永山則夫死刑囚の手記も、物凄くショックでした。
今でも量刑が軽いのは、昔からの判例があるからなんでしょうか・・。

昔の人は沢山子供を産んで育てて、本当に大変だったと思います。愛でしょう。
でも、愛だけではない、と私は思います。

昔は、親は子供を自由に出来た。子供は稼いでくるから投資でもあり、いざとなったら「売れる」資産でもあった。家族は生産単位として厳然と存在したから。

じゃあ、今はどうかというと、生産単位としての家族は、ごく一部の同族会社と代議士の家にしかなくなっていて、家の存続がどう、というより、「法人」が存続していって、社会を支えています。
法人は、いつも健康であり、産休や育休も取らず、介護の必要のない労働者で構成されています。マクロ経済ではそういうことです。そこを生活の糧にする生身の人間が、子育ては損である、と考え始めるのは、仕方のないことなのではないか、と私は思います。

今、子供が必要だ、と声を枯らして言っているのは、個々の家族ではなく社会です。ならば、子育てに困っているシングルマザーとその子供を助けてあげればいいじゃないですか。養育補助と公的口出しをセットにして。

人間、そんなに思ったとおりに生きられない。結果責任というけれど、自分が子供を産むとき(もう30はとっくに過ぎていましたが)、あらゆる不測の事態に備えていたとは言えません。子供が重度の障害を持っていたら、働けたでしょうか。

イギリスの子供手当は、確か月額6万円(一人)だったような。(イギリス国籍の場合のみですよ)イギリスでは、歴史的に、子供は親のものではないのです。
その昔は16歳で必ず親元を離れます。エエとこの子は8歳から寄宿生活。あんまり子供好きじゃない?って疑ってしまうくらい、子供を切り離しています。子育てを社会が負担してくれるんですね。これも極端ですが。
いくらなんでも (passenger)
2010-08-10 14:47:21
>単に性的欲求を満たしたいだけで、結婚して子供をつくることまでを肯定するのですか?その結果の不都合は社会に丸投げですか?
これは言い過ぎというか、誇張というか…。若者ってそんなもんだという価値観ですか?
コメントありがとうございます (音次郎)
2010-08-14 23:39:42
>タカ派の麻酔科医さま、meiciさま、passengerさま、示唆に富むコメントありがとうございます。

思うところは多々ありますが、おいおいこのブログに書いていこうと思います。

先日の内田先生のエントリー
http://blog.tatsuru.com/2010/08/06_1028.php

「ふつうの人たちが等身大の自尊感情を持って暮らせる社会を確保することの方が先決ではないかと思うのである」

に大いに共感しました。

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