二つ星の空

(旧「風からの返信」-11.21.09/「モーニングコール」/「夢見る灯台」/「海岸線物語」)

Paul Simonと宵の風

2020-05-24 00:11:53 | 馬場俊英
崖っぷちにも少しぬるい風。
ビール片手に、曇天の夜空を見上げる。
雲、きれいだな。


相変わらず、週末になると馬場俊英の「鴨川」をリピートしつつ(病的かよ、、、(汗))、ふと思いついて、馬場俊英ニュース(メルマガ)を読んだ。

おお、馬場さん、今晩ライブだったんか!?

残念ながら、ちょうど終わったところのようですが(爆)、これから26日まで有料配信するとのことなので、馬場俊英ファンは、ぜひチェックしてください。
(というか、その前にオイラがちゃんとチェックできていないという、へたれ具合である、、、)

馬場さん、頑張っとるな。

そんで、久々に見た馬場さんの公式ホームページに、いろんな曲が動画配信されていたのだが、その中に、ポール・サイモンの「American Tune」のカバーを見つけてしまって、、、
馬場さん、やはり、S&G好きだったんだな。嬉しい。オレも骨の髄までS&Gだ。
ああ、そうか。馬場さんの声の軽やかだけど哀愁ある陰影は、S&Gを思い出させるんだ。

そんなことをつらつらと考えている内に、、、気づいたら、ポールサイモンとS&Gをスマホにダウンロードしてしまった、、、

ほんと、携帯音楽って、恐ろしいぐらい手軽だよな。
S&Gとかポール・サイモンって、CDどころかLP!しか持ってないから、今まではレコード聴く環境がなくて、脳内再生で済ませてたんだ。
何十年ぶりだろう、、、耳から聞くポール・サイモンの声と音楽、、、

ちなみに、American Tune「アメリカの歌」は、知る人ぞ知る鬱歌で、でも、妙に耳にも脳にもなじむ神曲なため、おいらは、中学から高校にかけて、一人の時は随分と口ずさんだものでした。
ポールの声が、鬱々してなくて、むしろ爽やかで力が抜けているので、何か、歌っても聞いても爽快だったんだよな。
(これに匹敵する鬱歌は、ギルバート・オ・サリバンの「Alone Againアロンアゲイン」だと思う。曲調だけだと何か癒やし系みたいな擬態しとるが、歌詞は鳥肌が立つほど悲しい、、、)

鬱歌ばっかり紹介しちゃったので、明るい歌も御紹介。

The Only Living Boy in New York「ニューヨークの少年」
Hearts and Bones「ハーツ・アンド・ボーンズ」
Something So Right「何かがうまく」

全部、ポール・サイモン。たまには、こんな曲聴くのもいいんじゃない?と、崖っぷちから、提案します。

夜更けの風に。おやすみ。
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「鴨川」を渡ること ~ブラタモリ「清水寺」と馬場俊英~

2020-05-16 23:08:15 | 馬場俊英
ども。崖っぷちで伸びてます。

夜風の湿気と土の冷気をじわじわと感じながら、曇り空を見上げている。今日の酒は「萬寿鏡(ますかがみ)」。久々だ。

世の中のあれやこれや、おいらも庶民の一人として、それなりに翻弄されております。
(これについては、発言自粛。)

諸々あって、ブラタモリ見てた次第。
2017年4月の再放送。おお、近江アナ、かわいい、、、歴代ブラタモリアナの中でも、近江アナが一番好きなんだよなぁ。いつまでも初々しく清楚な彼女の持ち味を生かして、どうか頑張ってほしい。

閑話休題。

ブラタモリ「清水寺」回でした。ブラタモリは何回見てもいいなぁ。この回もみてたとは思うけど、録画してないから、新鮮に楽しめました。
それで、鴨川を渡りながら、案内人さんが説明した言葉に、ひっかかったことがあった。

「昔は、鴨川を渡ることは、この世からあの世に渡る意味もあったんです。」(正確な聞き取りではありません。大意ね。)
何でも、鴨川を渡った先にある六道珍皇寺(ご本尊は閻魔王)が、あの世の入り口だとか。(閻魔様も小野篁様もすごい迫力だった、、、あれが平安時代の作品かよ、、、)

おいらは、京都に行ったのは数えるほどなので、本当の京都人さんが知っている京都のことはわからない。(さすがに清水寺は行ったことあるけど、所詮、短時間の観光だ。)

でも、ブラタモリを見ていて、「橋を渡る」ことの象徴的意味に思いをはせている内に、馬場俊英の「鴨川」を思い出したり、鳥辺野が取り上げられていたところからは、さだまさしの「鳥辺野」が突然脳内で鳴り響いたりして、京都、鳥辺野、鴨川の雰囲気を、(勘違いも多いだろうが)妄想的に味わうことができた。

ああ、そうなんだなぁ。(何がだよ・・・>自分)

京都ってすごいなぁ。今まで以上に、「このゴタゴタが終わったら、いつか京都に行きたいなぁ」と強く思った。
今まで、旅行に情熱を感じることはあまりなかったんだけど、「人という営みを、歴史も込みで感じる」ってことなら、何だか楽しそうだ。

そんでもって、馬場俊英の「鴨川」のことなんだけど。
おいら、以前も割としつこく、この歌のことを好きだと連呼していたと思うのだが、ちゃんと説明してなかったような気がするので、ここで、告白しようと思う。(暇なことしてすんません。)

なお、この記事を書く前に、とりあえず検索をかけてみたが、「鴨川」に対するインターネット上の感想としては「泣ける」「不倫の歌」「駆け落ち」「悲しい」「終わった恋の歌」というキーワードが見受けられた。

おいらは、いつも、この歌聞くと、「橋を越えた」って聴いたところから、「日常を超えた」イメージが膨らんでしまって、(無理)心中を含めた、ありとあらゆる愛の行く末、を連想しちゃうんだ。(不穏なので、気分悪くなりたくない人は、以下は読まんといてね。)



「鴨川」は、不思議な歌だ。

歌詞も曲想も優しい。どこまでも純粋に、愛しい人を思う気持ちが、情熱的に、しかし、穏やかなメロディと歌声で綴られていく。
ストーリーの表層は甘く官能的な情景を描出し、やがて、この恋の「終わり」へと向かっていく。

一方で、歌詞に含まれる数々のことばが、様々な文学的な暗喩を連想させるため、聞くうちに、表のストーリーとは異なる不穏な気配が増してくるように感じるのだ。

愛しさと同じ分量の絶望。
添い遂げたいはずの二人の、刹那的で切羽詰まった日常。
登場人物は、真面目すぎるほど真面目な二人にも見えるが、「夜の街」に暗喩されるようにも見える。
そして、二人の間の信頼が壊れていくことが控えめに描写されていく中で、後戻りできない崖っぷち感は募っていく。

「橋を渡ろう」と何度も歌われる。彼ら、いや、彼は、橋のどちら側に行こうとしているのか。
「真夏の水辺に行こう」と歌う彼の季節は、今、いつなのか。

冒頭で、楽器の奥に、水の音が聞こえる。
それは、二人で見た川のせせらぎの音なのかもしれないが、他の連想もさせる。

プリズムのように、万華鏡のように、恋人達の「あったかもしれない場面(様々な世界線)」がめくるめくイメージの奔流となって、聴く者の目の前を流れていく。

最後に、切なく「好きだよ」と、くりかえし語る、「僕」。
「頑張ったよね」と、穏やかに語りかけるように歌う馬場俊英の声はどこまでも切なく、むしろ、「取り返しはつかないが、それでも、頑張ったんだ」と力なく抗弁するような、狂気さえも、ほんのりと感じさせるのだ。(ごめん、馬場さんがそんなこと意図していないのは百も承知だ。これは、受け取る側の問題なのだ。)
頻出する「~しよう」「~したい」という表現が、「~できない」「~できなかった」ことの裏返しのように、聞こえるせいかもしれない。

矛盾が矛盾を呼ぶ、心象風景だけを描いたこの曲を聴くと、
「意識の流れ」を受信している、というよりは、(あれは、流れ自体は自由だが、綴られる内容は結構即物的、というか、明示的だと思う)、瞬間瞬間の記憶にともなう感情の揺れ動きだけを受信しているような、、、
そう、例えば、映画「ベルリン 天使の歌」の中、深夜誰もいない部屋で、心の中で悔恨を語る男の、その声を聴いてしまったかのような、何とも後ろめたい、というか、ざわついた気分になるのだ。


ああ、AIって、こういうことも分析するのかな。おいらのこの感覚も、きっと何らかの説明がつくことなんだろう。自分で言語化できないのがもどかしいが。

そして、書いていて、自分が音楽聴いたときの反応が、全くもって文系だぁ、ということを痛感している。

長文の割に、論旨が謎のままですが、とりあえず、馬場俊英の「ふんわりした曖昧な語り口」は、おいらのような、「魚座的ズボラセンサー」には、非常に相性が良い、というか、親和性がある、ということなんだろう。(もちろん、馬場氏も魚座(笑))

そして、最後に。色々な非道い妄想をしながら、それら全てが妄想に過ぎず、この歌は、ただ、思いがすれ違って、別れた恋人のことを思い出している、平凡で優しい男の歌なのだ、と思うことで、おいらはようやくほっとできるのだ。(自分の一部猟奇的な妄想を捨てられるからね。)

真っ暗な夜の懺悔。おいら、他の曲では、こんなこと連想しないのになぁ。馬場氏、名曲で変な妄想してすまんです。

「鴨川」・・・聴くと、何か、文学作品を読んだような気分になる、おいらでした。

みんな、こんなこと聴かんかったことにしてな。かんにんやで。おやすみ。
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