マイコー雑記

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万引きした6歳女の子の事例、「良心」からの「心理的感情的メッセージ」に気づくよう導くことで「内在化した律=モラル」が育つ

2017年02月25日 | 思慮あるしつけ(discipline)

先週こちらの記事にて、

米国ベストセラー著書にみる「思慮あるしつけ」の日常実践例 & 実生活での実感

 

"「良心」とはリミットが内在化したものなのか? 

それとも、本来元々備わるものなのか? 

それは分かりませんが、

「コネクト」して気持ちを落ち着けるにつれ

自ずと、この「良心」が表れる場合があるとも感じています。

すると「教え・学ぶ」とする必要もそれほどなく、子供自ら動き始めます。"

 

と書きました。

 

この「自ずと良心が表れる場合がある」について、

『No Drama Discipline』by Daniel J. Siegel, M.D. and Tina Payne Bryson, Ph.D.

に紹介されている事例を意訳します。

こうして日常の「文脈」の流れでみると、理解しやすいですね

 

 

 

 

p. 141-144より

ーーーー意訳始まりーーーー

6歳の娘ちゃんとお母さんが、学校で必要な文房具のショッピングへ出かけます。

 

娘ちゃんは、ある特定のクレヨンセットをとても気に入ります。

お母さんは結局買わなかったのですが、後日、娘ちゃんの部屋を掃除していた時に、

そのクレヨンセットを見つけます。

娘ちゃんがお店でそっとポケットに入れて、持ち買ってきてしまったのです。

 

お母さんは、直接聞いてみることにします。

 

お母さんが手にするクレヨンセットと、

お母さんの混乱した表情を見、

娘ちゃんは、恐れと罪の意識で両目を大きく開けます。

 

さて、ここでどう接するか?

 

これほど悪いことをしたんだから、

しっかり痛い目にあわせておかないとと、

叫び、(体)罰を与え、部屋へ送り、

楽しみにしていたイベントへの参加を取りやめるなどして思い知らせるか?


このお母さんは、

「思い知らせる」よりも、「教え・学ぶ」ことにフォーカスしました。

 

しばらく静かに隣に座り、

娘ちゃんが感じている「不快な気持ち」に気づくひと時を与えます。

 

お母さんは娘ちゃんの目線の高さに合わせ膝まづき、

愛情を込めて会話を続けます。

 

最初はクレヨンセットを取ったことを否定し、

次に「覚えていない」と言います。

お母さんが忍耐強く待つ中、

とうとう「お母さんが心配することは何もないの、

だって、あの“大きな髪”をした店員さんが見ていない時まで待ってから、

ポケットに入れたもの」と。

 

そこで、お母さんは、質問を始めます。

 

「他の人のモノを持ってきてしまうことを何ていうか知っている?」

「“盗むこと”は法に反することかな?」

「あの“大きな髪“の女性は、このクレヨンをお店に並べるために、

彼女自身のお金を費やしたのが分かる?」

 

娘ちゃんはうなだれ、下唇を少し突き出します。

大きな涙の粒がぽたりぽたりと落ち始めます。

 

お母さんは静かに泣き続ける娘ちゃんを抱き寄せ、

「既に自ずと起こっていること」を妨げることも止めることもせず、

その過程に参加します。

 

「してしまったことについて、悪かったと感じているのね」

 

娘ちゃんはうなずき、涙が止まりません。

 

お母さんが何もせず何も言わずとも、

自然に起こり続ける「しつけ」の過程に、

お母さんはただ、娘ちゃんを慰め、共にいてやります。

 

お母さんは娘ちゃんを抱き、

娘ちゃんが感じ、泣くままにさせます。

しばらくして、涙をふくのを手伝い、深呼吸をするよう励まします。

 

そして、簡潔に会話を続けます。

正直さ、他者の持ち物を尊重すること、

たとえ難しくても「正しい」選択をすることについて。

 

 

 

お母さんは、即座に思い知らせ打ちのめすよりも、

娘ちゃんのアテンションを、

娘ちゃんが既に感じていた内面の「罪の意識」に向けさせました。

 

与えられた罰に対する恐れや怒りへと感情をシフトさせるよりも、

子ども自身の内面的な体験を中心に据えることで、

自身の行為が他者にどんな影響を与えたのか考え、

倫理やモラルの基本について学ぶことができ

お母さんは、娘ちゃんの「脳の階上(考える部分)」を活性化することができたのです。

 

 

特に私たちが怒り、衝動的に罰を与えたり思い知らせたりすることは、

逆効果になり得ます。

なぜなら、それは子供たちを、自身の「良心」からの

「心理的感情的なメッセージ」に気づかなくしてしまうからです。

 

―――意訳終わりーーー

 

その後、お母さんと娘ちゃんは、お店にクレヨンセットを一緒に返しに行き、謝ったそうです。

 

 

即座に怒鳴り、(体)罰を与えと、

外から「痛み」や「恐れ」を与えるよりも、

子ども自身が既に感じている「不快感」や「罪の意識」に

気づくよう導いてやる。

 

そうして体験する「痛み」に寄り添い、

「教え・学ぶ」ことのできる状態を整えていく。

すると、こちらが大して「教えず」とも、自ら学んでいくこともあるというんですね。

 

私自身、試行錯誤を繰り返してきた中で、

とても納得できます。

 

特に「敏感な子」は、

早い時期から「周りのルールを内在化しやすい」ともされますが、

間違ったことしてしまった時の、

「罪の意識」も強烈なものだったりします。

 

ですから、こちらは、

その子が自らの内面に向き合うサポートをしつつ、

その痛みに寄り添うことをしていくだけで、

自ら「学んで」いくこともあるんですね。

 

 

 

 

同時に、子供の性質やその時のその子の内面の動きによって、

「ここぞ」というときは、

こちらが本気で怒ったり悲しんだりするところを示し、

感情の嵐を共に体験しつつ、ようやく落ち着いたところで、

上記の会話のような「教え学ぶ」ことをしていくのもありかなと

私自身は、思っています。

こうなると『No Drama Discipline(ドラマのないしつけ)』ではなくなるわけですが。

 

「あの時ママは(先生は)、本気で怒った、本気で悲しんでいた」と

鮮明に思い出し続けるような体験。

心の底で通じ合うような体験。

 

「教え学ぶ」とセットになることで、

その子に「内在化した律=モラル」として生きていくんじゃないかなと感じています。

 

とはいえ、普段から『No Drama Discipline(ドラマのないしつけ)』を心がけ、

ほとんどの場合、「穏やか」に「対応」するからこそ、

こうした「ここぞという体験」も生きてくるのでしょうね。

 

 

 

いずれにしても、

まずは、目の前の子供の様子を観ること。

その子の内面の動きに思いを向け、どうしたら最もこの子が学べるのかと、

こちらの対応を調節していきたいです!

 

 

 

 

 

メモ:

結局思春期の反抗も、

それまでどれほど「させられている」と感じてきたかが大きいように思います。

 

思春期とは、親から離れ自立していく準備のためにも、

「させられている」と感じることは、

ひとまず全てとっぱらいたくなる時期ともいえるかもしれません。

 

「させられている」ではなく「自分がしている!」と感じたい。

 

ですから、

「言われるから」「怒られるから」と積み重ねられる「律」よりも、

自身が納得し「内に築いてきた律=モラル」って、

思春期の反抗期からみても、大切だなと思うんです。

 

 

思春期の反抗期がそれほどみられない場合というのは、

2通りあるのかもしれません:

 

1.それまでも「自分がしている」という気持ちが強い子

「させられている」と背負い込んできたものがそれほどない。

 

2.「させられている」まま大きくなっていく

強力に抑えられ、結局「自分がない」まま成長していく。

 

 

普段から子供の内面を尊重し

「1」のように育てることは可能なのだろうと、

周りの様々な事例をみても、思っています。

 

 

 

 

さて、怒涛の週末です!

みなさん、春の日差し、お楽しみください!


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