音の向こうの景色

つらつらと思い出話をしながら、おすすめの名曲をご紹介

R.シュトラウス オーボエ協奏曲

2009-07-05 02:46:20 | 協奏曲
 何かを知りたかったら、とりあえず専門家に聞けばよい。恥ずかしげもなく無知を晒して、ほいほいと人に訊ねる私の癖は、おそらく母の教育のおかげである。小学校に入ったときに、「ママは勉強を教えてあげられないからね、わからないことがあったら、なんでも学校の先生に聞いてくるのよ」と言われた。だから学校の先生の知識というのは、搾り取れるだけ活用すべきものだと、いつも思っていた。いまだにそう思っている。
 先日、日本のゲーム界を担う優秀なプログラマのHくんをつかまえて、「トランジスタのしくみ」について、教えてもらった。デニーズのパエリア1皿の教授料で2時間、申し訳ないと思いつつも、話の面白さに引きずり込まれて、次々と質問をしてしまった。私は「オームの法則」がギリギリ思い出せる程度で、はんだづけも一度もやったことがない。私の知識レベルの低さにしばしば驚愕しつつも、Hくんは丁寧に教えてくれた。
 彼は小さなノートを取り出して、さらさらと回路図を描く。まるでひらがなを書くように。彼にとってその図は、ありありとした実感を伴った実在であり、豆電球から、ハードディスクまで、概念の流れが連続しているのだ。彼は自宅の庭の草木でも紹介するように話す。私には初耳の専門用語ばかりだったが、それがまぎれもなく素晴らしいものだということは、伝わってきた。
 専門家というものは、専門外の人から見るとまったくわからない世界を、はっきりと感じながら生きている。ある生命科学の先生は、「DNAを、目で見て、手に触れるように感じる」という。宇宙論の先生はビッグバンを体験したかのように語るし、中世史の先生はまるでその時代に生きているかのように話す。指揮者には、オーケストラの総譜の点や線が、生き生きとした音として聞こえるに違いない。彼らにとっては、それが手ざわりのある世界なのだ。だからこそ、専門家の話は面白い。
 自分がどこで曲を覚えたか考えてみると、演奏会で出会ったものより、自分で調べたものよりも、人から教わった曲のほうがずっと多い。特にオペラについては、まわりの音楽家から「え、知らないの? いい曲だよー」と言われて知ったものが、ほとんどだ。専門家が何らかの理由で薦めてくれた作品だから、どれもそれなりに見所がある。大学時代にお世話になった先生には、どれだけ沢山のアリアを教えてもらったことだろう。
 ある朝、先生の家に行くと、ピアノの譜面台に、めずらしく「歌詞のない」楽譜が置いてあった。よく歌の伴奏をしている先生だったので、何の曲だろうと思ってのぞくと、「Mさんの練習ピアノを頼まれてね。」先生はソロ・パートの旋律を歌いながら、1楽章を弾き始めた。リヒャルト・シュトラウスのオーボエ協奏曲だった。
 なんというのびやかな旋律。なんという美しい世界。どこにも無理がなく、素直で、やさしい。まるで風が抜けていくようだ。低音部のささやきが耳をくすぐり、気持ちよく上へ上へと旋律が広がっていく。明るい和音に、私は目をキラキラさせた。その日以来、私にとってクラシックの作品中、最も好きな曲の一つである。
 オケの編成も比較的小さめで、絢爛なリヒャルト・シュトラウスの作品の中では「素朴な曲」の部類に入ると思うが、考えてみると、こんな斬新な始まり方の曲もない。レミレミ・・レミレミ・・というひそやかなチェロの誘いに、いきなりふわっとオーボエのソロが乗る。旋律はどこまで行っても、いたって「自然」である。穏やかな2楽章も、さらさらと流れる3楽章も。ところが、この「自然さ」を美しく表現するのが、きっと難しいのだ。
 その日先生は、リズムの持つ緊張感の話をしてくれた。三連符には三連符の緊張感があって、十六分音符4つにはまた別の緊張感がある。だから単に割り算としてのリズムを正確に表すだけでは足りない。さらりと流す三連符もあれば、ちょっとのんびりする三連符もある。どんな風にそのリズムの緊張感を作るかが、結局その人の音楽の作り方なのだという話だった。このオーボエ協奏曲は、随所に現われる三連符が決め手になると私は勝手に思っている。そこには「自然さ」と「色気」の微妙なバランスが要求されているのではないだろうか。
 この曲を聞くと、先生の部屋を抜けていく風と、カフェオレのグラスに氷が当たる音を思い出す。思い切り息を吸い込みたくなる。裸足で草原を駆けるような自由な気持ちと、何か美しいものに触れたいという気持ちが湧いてくる。そして、未知の場所へとまた足を踏み入れたくなるのだ。子供のように素直に、まだ見ぬ世界への扉を開けてみたくなる。もちろん、専門家という案内人を、うまいこと頼りながら、である。

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