音の向こうの景色

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木下牧子 Enfance finie ~過ぎ去りし少年時代~

2013-06-28 13:14:10 | オペラ・声楽
 親しい人から聞いた話を、まるで自分が体験したかのように覚えていることがある。たとえば、学生時代の友人たちの恋の話。劇的なドラマなどではなく、告白前の些細な出来事や、ときめいた瞬間のシーン。どきどきしながら聞いたそれらの断片が、私の記憶の底に溜まっていて、あるときふと思い出したりする。一度も会ったこともない人なのに、「あの人、その後どうしているかな」と想像したりする。特に6月、紫陽花の季節になると。
 くちなしの甘い香りが街に漂い出すと、大学の学部時代を思い出す。1学期末の試験がある6月は、筑波にいる時間が多かった。キャンパスに緑のエネルギーがみなぎる季節だ。湿気た草っ原には赤いポピーが群れて揺れ、タイサンボクやユリノキが大きな花を咲かす。大教室のある棟の裏にあったオニグルミは、ふさふさと雄花を垂らしていた。昼休みは、池のほとりの桂の木陰で本を読みながら、ゴハンを食べたりした。
 午後の実験が終わると、たまに仲間と学食で「ごほうび」の夕張メロンソフトクリーム。青い空に、梢を抜ける風、レンガの校舎。ベンチに座って、お互いに「好きな人」の話をする。日が差して、気持ちのいい時間が流れる。何か、切り取って、とっておきたいような気がして、八重のくちなしを一輪摘んで帰り、アパートのコタツの上に飾った。
 甘い香りが広がった畳の部屋で、夜になると東京の友達と次々電話をした。例によって「恋の話」だ。友人たちは皆、臨場感たっぷりに、微に入り細にわたって話す。「そのとき、私はドアの内側に立ってたんだけど、突然○○さんが廊下から入ってきて…」といった具合だ。こちらは最大限に想像力を使って聞く。どきどきした気持ちを共有する。いつの間にかそれが、自分の体験した出来事のように、心のどこかに残ってしまった。
 当時、10歳近く年上の仲良しが、ひとつのカセット・テープを貸してくれた。木下牧子の男声合唱組曲「Enfance finie ~過ぎ去りし少年時代~」。三好達治の詩につけられた4曲。「切ない」という言葉しか浮かんでこない歌。私は初めて聞く男声合唱の豊かな響きに魅せられ、筑波の部屋の小さなラジカセで繰り返し繰り返し聞いた。テープを貸してくれた友人が大学時代に所属していた、グリークラブの定期演奏会の録音だった。
 友人は「この歌を聞くと、大学時代の思い出がよみがえるんだ」と言って、問わず語りに話をしてくれた。好きな人が下宿の階段を上ってくる足音、お昼休みに食べに行った蕎麦屋のおばちゃんのこと、卒業前に恋人と離れることになったときの会話、二度とかえらないキラキラした青春の日々…。それがなぜか私の心にじーんと沁み込んで、この合唱組曲の言いようのない切なさと、つながってしまった。
 「ああそれらの日ももうかへつては來なくなつた……」もう戻らない少年時代の透明な感覚を、遠く思い出すように綴られた詩。三好達治の言葉のひとつひとつを、手ですくいたくなる。その世界が、見事に音楽になっている。得も言われぬさびしい気持ちに襲われる。いくら振り返っても、もうそこにない過去。
 特に4曲目の「乳母車」の詩は、私にとっては鮮烈だった。「母よ―/淡くかなしきもののふるなり/紫陽花いろのもののふるなり…(中略)…母よ/私の乳母車を押せ/泣きぬれる夕陽にむかって/轔々と私の乳母車を押せ」合唱はやさしく「母よ」と繰り返し、呼応する。友人は「この詩は男にしかわからない」ときっぱり言った。母親と男の子の関係は特別なのだ、だからこれは男声合唱なんだ、と。私は理由もなく納得した。そしてこの組曲は、さらにもう一歩私の「手の届かない」領域で輝き続けることになった。
 結局、人間は自分の人生しか体験できない。それでも誰かの体験を横糸にそっと織り込みながら生きている。たとえ完全に理解することはできなくても、文学や舞台芸術を通して、他人の生を少しなぞる。友人に共感して、彼らの生をほんのひとかけら取り込む。それが知らず知らずのうちに、自分のものになる。三好達治の詩も、友人たちの恋の話も、私の大切な一部なのだ。
 今では、少女時代も、大学時代も、遠くにかすむ「かへつて來なくなつた」日々になった。学生時代とは、また違う切なさを感じながら、友人にもらった録音を聴く。紫陽花の色と、くちなしの香りと共に、記憶の澱をそっとのぞいてみる。そこには、実際に体験したことのない数々の「思い出」が、ゆらめいている。
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